聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★愛がなければ‥。

2004-12-09 | 「聖書と人生」
  
               

 みなさん、お元気でお過ごしでしょうか。あわただしい日々が続く師走の季節ですが、今日はみなさんと共に「愛」のテーマで考えてみましょう。

明治文豪のひとり、徳富蘆花が残した言葉に「人は愛せずして生きるあたわず、人は愛されずして生きるあたわず」というのがあります。確かに特別な例外を除いて人はまったく愛を失った時に、生きる望みを失い、死を考えるのです。動物は与えられた本能に従って、生きるだけで満足していますから、愛のゆえに悩んで、自殺したりすることはありませんが、人間にとってこれは深刻な問題です。

人間は何ものをも愛することなしに生きては行けない存在なのです。人の一生から「愛」というものを取り除いてしまったら、ただ意味のない空白が残るだけではないでしょうか。しかし、現実には、世界中の多くの人々がみな真実な愛に渇き、愛を求めて生きていますが、それを得ることが出来ずに、ただ空虚と悲哀の感情が残るばかりです。

親と子の間で、夫と妻の間で、また社会の中で信頼と愛の絆が失われ行く今の時代の中で、多くの人々は失望し、深い孤独を味わっているという現実があります。誰からも愛されず、まただれをも愛することが出来ないとき、人間は本当に孤独であります。

ある詩人は、「孤独は山にはなく、街の中にある」と言いました。街には人があふれています。人は人との人間関係の中で、他人に愛を求めるのです。しかし、愛に対する期待が裏切られた時、人間は絶望し、やっぱり自分はひとりぼっちなんだと考えます。しかし、私たちは他人に愛を求める前に、「私には愛があるだろうか?」と、問うてみるべきではないでしょうか。

人間とは、とかく他人の欠点、弱点はすぐ見つけることができますが、自分の欠点や罪を見出すのには疎いのではないでしょうか。聖書は、人間は自己中心であり、みな罪人であると語っています。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とは聖書の教えですが、罪人である人間には、これは不可能なことなのです。

しかし、真の神様は、このような自己中心で人を愛したり赦したりすることのできない弱い罪人である私たちを愛してくださっていることを聖書は教えているのです。聖書には、次のような幸いなみことばがあります。

●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。 

●「‥‥愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。‥‥神はそのひとり子(キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙4:7~10)

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 
イエス・キリストは、私たち罪人のために十字架で死んでくださり、死後も天国に入ることのできる道を開いてくださいました。これが、聖書の中心の主題であるイエス・キリストの福音なのです。