聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★良き羊飼いなるキリストの愛

2005-11-10 | 「キリストの愛」

                 

●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。

 北海道では、今日初雪が降り、朝目覚めた時には、家々の屋根も畑も白一色になっており、いよいよ寒い冬の季節の到来です。
さて、前回にも記しましたが、ここに書きましたのは、イエス様が語られた三つの例え話の中の最初の話ですが、神の愛、キリストの愛を分かりやすく教えている箇所です。素直な心で読むならば、決して難しい話ではありません。百匹の羊を持っている羊飼いがいました。この羊飼いは、雇われた人ではなく、これらの百匹の羊の一匹一匹をかけがえのない羊として心から愛していました。ある日、数えてみると、一匹がいなくなっていることに気づいたのです。この「羊飼いの愛」はどのような愛であったのかを考えてみましょう。

[ 1 ] 《かけがえのない愛》
 この羊飼いの愛は、いなくなった一匹の羊を捜す「かけがえのない愛」であります。この一匹を他の羊で代用することはできないのです。この羊飼いは、このいなくなった一匹を愛していました。それと同様に、イエス・キリスト(神)は、人類を十把一絡げにして愛するのではなく、私たち一人一人を個人的に愛しておられるのです。神とキリストの愛は、私たち一人一人の人格を愛する愛なのであります。物であれば、他の物で代用できますが神の愛は親がわが子を愛するように他の人で代用できるものではありません。

[ 2 ] 《打算のない愛》
 この羊飼いの愛は、「打算のない愛」であります。計算しない愛であります。この羊飼いは、99匹の羊を野原(荒野)に残して、迷い出た一匹の羊を捜しに出かけました。実際的なこととして、一匹を捜しに出かけて行っているうちに、野原に残した99匹の何匹かは、狼などの野獣に襲われて食べられてしまうかもしれないのです。でも、この羊飼いはそのような計算をして、捜しに出かけたのではありませんでした。その失った一匹を愛していたからです。人間の愛の中にも、母親がわが子を愛するように、全く打算のない純粋な愛もあります。成長したわが子に、「あなたを育てるのに、これまで(      )円かかったから、その分のお金を払いなさい。」という親はいないでしょう。しかし、一般的には人間の愛は打算的で、自分の利益にならなければ、愛することを止めてしまうような安っぽいものもあるのであります。キリストの愛も、まったく打算のない無償の愛であります。

[ 3 ] 《忍耐深い愛》
 この羊飼いは、「いなくなった一匹を見つけるまで捜す」という「忍耐深い愛」であります。真の愛は途中で、諦めることをしないのです。この羊飼いは、歩き疲れたからといって、捜すのを止めることをしなかったのです。捜すのが困難だからと言って止めることをしませんでした。もし、わが子が行方不明になった場合、親は決して諦めずに来る日も来る日も血眼になって必死に捜し続けるのではないでしょうか。それが、親のわが子に対する愛というものであります。「眠くなったから‥‥」と言って寝てしまわないのです。中学生の時に、某国に拉致された娘さんの帰りを数十年も待ち続け、現在も捜し続け、そのために運動しているご両親の話は感動的であります。イエス・キリストの愛は、それよりもはるかに「忍耐深い愛」であります。真の羊飼いなるキリストは、今日もあなたを捜しておられることをご存じでしょうか。

[ 4 ] 《優しい愛》
 この羊飼いの愛は、傷ついた羊をいたわる「優しい愛」であります。羊飼いは、「羊をかついで」帰って来ました。弱っている羊の首に縄をつけて無理やりに引っ張ってきたのではありませんでした。この羊飼いには、傷つき、疲れ果てていた迷子の羊に対する思いやりといたわり、同情心がありました。彼は優しい羊飼いであったのです。「優しい」という字は、「人を憂う」と書きますね。他人のことを真心から心配するのが本当の優しさであり、愛であります。キリストの愛も同様であります。

[ 5 ] 《喜びを分かち合う愛》
 この羊飼いは、迷子の羊を見つけた時、大喜びでその羊をかついで帰って来て、友達や隣近所の人たちを呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言ったのであります。「喜び」というのは、分かち合うからこそ、喜びなのです。分かち合うからこそ幸せなのであります。何か嬉しいこと、楽しいことがあってもその喜びを分かち合う人がいなければ、それは本当の喜びと言えるでしょうか。嬉しいときに、自分の部屋でただ一人で、喜んでも少しも楽しくないのではないでしょうか。「喜び」の本質は、それを分かち合うところにあるように思えるのですがいかがでしょうか。イエス・キリストは、失われ迷子になった羊のような私たちを、このような大きな愛で愛してくださっているのです。罪人である私たちが、悔い改めて神に立ち返るときに、天においては、大きな喜びが湧き起こるのです。

[ 6 ] 《いのちを捨てる愛》
 イエス・キリストは、ご自身で「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書10:11)と言われました。羊よりも羊飼いの方に価値があることは明らかであります。しかし、その羊飼いが羊のためにいのちを捨てるのです。これは、理屈に合わない矛盾した話です。しかし、これよりもはるかに大きな愛があるのです。創造者である神の御子が、神から迷い出てしまった罪人である私たちのために十字架にかかってご自分のいのちを捨ててくださったのです。何という驚くべき愛でしょうか。

●「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロの手紙2:24,25)。

●「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23:1)。
  
 キリストを救い主と信じて、キリストを羊飼いとして生きる者の幸いがここに記されています。私たちの真の牧者であるキリストのもとには、真の憩いと平安があります。神から迷い出た人間にとって、神の懐に帰る以外に決して平安を得る道はないことを、是非、お知りになってください。


   

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