聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★罪なき者まづ石を擲て 

2005-12-07 | 「キリストの愛」
 
     

●「‥‥すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』‥‥」(ヨハネの福音書8:3~7) 

 聖書をお持ちの方は是非、新約聖書のこの箇所を開いてご覧ください。この所には、人間の罪深さ、醜さが浮き彫りにされていると同時に、それと対比されて主イエス様の愛と恵み、そして神の御子としての知恵と威厳が十分に表されています。何よりも主イエス様が罪人の救い主となられるためにこの世に来られた比類のない愛の御方であることがはっきりと示されています。また、人は自分の罪や欠点を悟るのには鈍感で疎いものですが、他人の罪は素早く発見し、また厳しく断罪するものであることをも教えれるのです。

 イエス様はある朝、エルサレムの宮の庭で人々に教えておられました。ところが、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられた一人の婦人を宮で教えておられたイエス様のところへ引っ立てて来て、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と彼女を訴えたのであります。律法によれば、姦淫の罪を犯した場合は男女とも罰せられるべきであったのですが(申22:22)、律法学者たちは、弱い立場にある女性だけを連れて来たのは奇妙な話です。しかし、彼らの心の中には何かの魂胆と悪意があったことは確かなことです。その魂胆というのは、6節にありますように、イエス様を試して、イエス様の答えの中から何か告発する理由を得るためであったのです。最初から主イエス様を陥れる目的で、彼らが仕組んでおいた所にはまった婦人を餌にして、彼女を引っ立てて来たのが真相ではないかと思います。

 しかし、イエス・キリストは律法学者たちの質問に動じることもなく冷静沈着に神の御子としての権威と知恵をもってお答えになられました。もしも、イエス様がモーセの律法の命じる通り石打ちの刑を執行するように命じれば、ローマの主権を犯す越権行為(反逆罪)になるわけです。なぜなら、当時ローマの管轄下にあるユダヤ人が同胞を勝手に死刑にする権限は与えられていなかったからです。そして、もしもイエス様が「赦してやりなさい」と言えば、イエスはモーセの律法に背く者という理由で告発しようとしていたのです。いずれにしても、彼らは主イエス様を罠にはめて陥れようとしていたことは明確な事実です。しかし、この彼らの訴えに対して主イエス様はご自身の知恵をもって見事にお答えになられたのです。

 イエス・キリストは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(文語訳:「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て」)とお答えになられたのです。このような答えは、律法学者たちも全く予想もしていなかったことであろうと思います。今や、イエス様を告発する理由を得ようとしていた学者たちが告発される側に立たされたのです。これは、だれも予想しなかった展開です。一瞬のうちに立場が逆転してしまいました。ここにイエス・キリストの驚くべき知恵があります。イエス様の所へいかなる難問を持って来たとしても、主イエス様は、それに対して動揺したり、お答えに窮するというような場面は、聖書のどこにも見当たりません。

 律法学者やパリサイ人たちは、自らを義として他人をさばく者たちであります。彼らは、律法によって人を罰することばかり考えて、この女性に対しても一片の憐れみの心も示そうとしなかったのです。彼らは、聖書を読みながら、そのみことばをもって自らをさばくことをせず、人をさばくことだけを考えていたのです。人間というものは(自分も含めて)、人をさばくことにおいては、自分が一度も罪を犯したことがないかのように厳しくさばくものです。しかし、自らの本当の弱さ、罪深さ、心の醜さを知るときに、だれ一人として他人をさばくことなどできなくなるのではないでしょうか。実際、人を表面的にしか見ることのできない不完全な人間が人を裁くなどということは絶対にできないことです。人を裁くことは、あくまでも神ご自身のものであり、神ご自身の主権によることなのです。

 しかし、イエス・キリストの「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」とのことばは、彼女を訴える律法学者たちの心を突き刺す両刃の剣のようなことばであったと思います。イエス様は神の御子ですから、その語ることばには、両刃の剣のように鋭く人の心を刺す権威があったのです。他人の罪を責めることには鋭敏であっても、自分の罪を知ることには鈍感であった律法学者たちにも、この主のおことばには鋭く心が刺し貫かれたに違いありません。彼らは、だれ一人自分には罪がなく完全な者であると主張できる者はありませんでした。ところで、あなたは罪のない者として彼女に石を投げつけることができるでしょうか?

 また、宮の中には、イエス様の話を聞きに来た群衆がおりましたが、彼らはみな傍観者であり、この気の毒な女性に同情したり、憐れみの心を持ったりする人はだれひとりいませんでした。民衆はみな「私には関係ないことだ。」と考えていたのです。だれひとり、罪に関して自分自身の問題として考えようとはしませんでした。しかし、イエス様の威厳に満ちたこのことばによって、自らの罪が示され、だれひとり傍観者でいることはできないことを知ったのです。「彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き‥‥」(9)とあります。主イエス様の鋭いことばの光に打たれた時、彼らの良心が責められて、老人を初め、若者に至るまで一人一人みなその場から去ってしまったのです。

 さて、この姦淫の罪を犯した女性は、ユダヤの律法学者たちに訴えられた女性でした。この女性は自分が罪人であることが分かっていました。彼女は罪人としてイエス様のところへ引かれて来たのです。そしてこの汚らわしい悪習慣から何とかして解放されたいとの思いがあったのではないでしょうか。人はだれでも、自らを罪人の立場に置く時、はじめて神の愛に触れることが出来るのです。そのとき、キリストの愛と救いがはっきりと見えて来るのです。そして、彼女は主イエス様の愛に触れることができたのです。彼女が顔を上げた時には、そこにはただイエス様おひとりだけがおられることに気づきました。そして、その主イエス様こそ、彼女にとって最も必要としていたお方であったのです。

 イエス様は、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われましたが、罪のない御方はイエス・キリストだけであります。罪を示され、良心を刺された罪人たちはみな出て行き、イエス様だけがひとり残されました。比類なく聖く正しい御方はイエス様だけであります。ですから、イエス・キリストだけが彼女に石を投げる資格と権威がある御方なのであります。しかし、イエス様は彼女に石を投げるために来られたのではなく、彼女を救うために来られた御方なのです。主イエス様だけが彼女の理解者であり、彼女に心から同情できる愛の御方であり、彼女を救うことのできる救い主として来られた御方であったのです。

 唯一彼女に石を投げる資格のある罪なき御方イエス・キリストが、何と彼女のために身代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。彼女だけではなく、世界中のすべての罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。この箇所には、罪人の友として、罪人を救うために世に来られたイエス・キリストの福音が余すところなく表されています。神は、ご自身の身をかがめるようにして罪人のところまで来られ、罪人の立場に立ってくださったのであります。神の御子イエス様は、薄暗く汚い家畜小屋の中で誕生せられ、貧しく聖よいご生涯を送られた後、十字架に架けられて死なれ、三日後に復活されたのであります。どうぞ、あなたもご自分の罪をお認めになられて、イエス・キリストの福音を信じて救われてください。
 
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◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」
  


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