聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★身代わりの死によって

2005-11-29 | 「神の愛について」


●「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。・・・・』」(創世記1:29)

 神様は、最初に人を造られた時、人に食物を備えてくださいました。神様がもしその食物を備えてくださらなかったなら、私たちの肉体は一日も生きられないのです。ところで、神様が肉体の生命を維持するために食物として人に与えたのは種を持つ草や木の実である植物であります。神様が人を生かすために何か別の方法があったかもしれませんが、そこには深い意味が隠されているように思われるのです。よくよく考えて見ますと、人間が毎日このように生きているということは、必ず他の何かのいのちが身代わりになって犠牲になっていることを意味しているのであります。

 「あるものが死ぬことによって別のものが生かされている。」という”犠牲の原則”があります。この犠牲の原則は日常生活の中に恵みとして絶えず表されているのですが、私たちは案外そのことに気づいていないことがあります。そして、この事実は神を全く認めようとしない人にも及んでいるのです。すなわち、人間の肉体は他の有機体の生命(いのち)ある動植物が殺されることによって生きているということであります。私たちが毎日口にするご飯やお惣菜もすべては、他の植物や動物が犠牲になって、その身代わりに死んだ動植物のおかげで私たちは生かされているのです(ちなみに、肉食が許されるようになったのは、ノアの大洪水の後のことです)。神様は創造の初めから身代わりの死による人類救済のご計画をお立てになっておられたことを暗示しているのではないでしょうか。

●「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)。

 神様は、人間(アダム)が罪を犯した直後にすでに人のために救いの道を用意しておられました。アダムとその妻エバは、エデンの園において自らの裸の恥を覆うためにいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰の覆いを作ったのです。しかし、愛なる神様は、彼らをあわれみ、皮の衣を作って彼らに着せてくださったのです。このみことばの背後には、神に近づく道としての身代わりの犠牲のことがすでに暗示されています。「皮の衣」を着せるためにはどうしても動物の血が流されなければなりませんでした。これは、明らかに神のあわれみによるものであります。そして、それは「身代わりによる贖い」ということであります。人間の肉体でさえ他の命の身代わりによって生かされているのであれば、神に罪を犯した人間の本体である霊的ないのち(たましい)が生かされる(贖われる)ためには、更に強力な何かの身代わりが必要であることは明らかなことではないでしょうか。

 旧約時代には、律法によって定められた多くの動物の血が流されました。民数記28、29章によると、主が定めた公的な犠牲の動物だけで、一年間に1,273頭もの動物をささげなければならなかったのです。モーセからキリストまでの約1,500年間には神が定めた公的な動物だけでも、約200万頭の動物の血が流された計算になります。しかし、これは年間行事の最低必要数であって、私的にささげられたものを合わせると、天文学的数字なります。ちなみに、ソロモンは神殿の奉献の時に一度に何と羊と牛を合わせて14万2千頭のいけにえをささげたことがありました。Ⅰ列王記8:63参照。14万2千頭もの動物が一度にささげられた場面を想像してみてください。犠牲の動物は山と積まれ、動物の血は海を赤く染めるほどであったと思います。

 さて、このような膨大な量の動物は一体、何を示すのでしょうか。それは、一つは人間の罪の大きさであり、二つ目には、キリストの身代わりの死の価値の絶大性ということであります。それほどの天文学的数字の膨大な量の犠牲がささげられましたが、それでもたった一人の人間の罪を取り除くことすらできなかったのであります。どうしても、罪のない神のひとり子イエス・キリストの十字架の身代わりの死が必要であったのです。

 物の値打ちは、それを贖う代価によって比較することができます。人間の罪を贖う代価は、どうしてもキリストのいのちでなければならなかったのです。それよりも低い代価では決して贖うことができないのであります。たとえば、ある罪人が死刑の判決を受けたとすれば、だれでもその犯した罪がどれほど大きなものであるかを判断することができます。イエス・キリストの十字架の身代わりの死が私たちにとってどれほど大きな代価であったのかを是非、真摯にお考えになってください。

●「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 」(ヘブル人への手紙10:10)。

 正しい意味において、「罪人の身代わりになる資格(必要条件)」は少なくとも三つ考えられます。
①まず第一に、「人であること」です。
当然のことですが、人の身代わりになるためには、人間でなければなりません。家畜や犬や猫ではダメなのです。猿もその外側の姿は人間に近いと言われていますが、人の身代わりになることはできません。大変次元の低い話ですが、ハイジャック事件があった場合、その人質の代わりに犬や猫を連れて行っても、犯人は人質を解放することは決してありません。
②次に、「罪が全くない正しい人であること」が必要であります。
罪のある人間は罪人の身代わりになることはできないからです。それは、溺れている人が溺れている人を救えないのと同様なことです(もちろん、罪の全くない正しい人というのはこの地球上に一人も存在したことはありません)。
③人間以上の存在、すなわち、「神であること」が必要であります。
なぜなら、もし万が一、この世界に罪のない一人の人がいたとしても、その人はただ一人の人間の身代わりにしかなれません。ですから、世界中の人類を贖うためには、人間以上の存在、すなわち、神であることがどうしても必要であります。

 そして、この三つの条件を満たすことの出来る方は、ただ一人、比類のないイエス・キリストだけであります。神の御子であられるイエス・キリストは、人の姿を取ってこの地上に誕生され、人として完全に罪のない聖よい生涯を送られました。聖よく正しい方であるイエス・キリストが私たち罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。聖書の次のみことばにある通りであります。 

●「キリストも一度(人間の)罪のために死なれました。正しい方(キリスト)が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロの手紙3:18) 。

 これは外国であった古い話ですが、ある時一人のクリスチャンの青年が路傍伝道をしていた時、群集の中から一人の男性が「あなたがたはキリストが十字架で身代わりに死んだと言われるが、私は他人の死によって恵みを受けようとは思わないね!」と嘲りました。すると、そのクリスチャンの青年は「あなたはそう言われるけれども、あなたが履いている靴は、死んだ牛の皮で作ったものですよ。あなたの被っている帽子は、死んだウサギの毛で作ったものですよ。あなたの着ている服やシャツは羊の毛から作ったものですよ。あなたの持っている鞄(かばん)は、ワニの皮で作ったものですよ。また、あなたは家で食事をするとき、牛肉や鶏肉を食べたことはありませんか?」と言いました。このことばに、その男性は無言で去って行ったそうであります。

 神様は愛なる御方であり、大変恵みに満ちた御方です。私たちの健康の維持のためにすべての必要なものを与えられる方は、同時に私たちの最大の敵である罪より解放するためにイエス・キリストをも十字架につけて全人類の贖罪とされたのであります。イエス・キリストの身代わりの死を信じる者は、だれでも罪と神のさばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのであります。そして、死後には天国に入ることができるのです。神は愛なる御方です。

    


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