大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

日本史5 龍馬編

2005-02-25 21:50:37 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
写真 近代日本の国父 坂本龍馬青年




 本編に登場する若き革命児……勝海舟 坂本龍馬 西郷隆盛 桂小五郎 後藤象二郎



 坂本龍馬は、吉田松陰に遅れること5年、土佐藩の、身分は低いが裕福な郷士の末っ子として生まれた。
 幼いころは気の小さい甘えん坊で、8歳を過ぎても、寝小便の癖が治らなかった。物心ついたころから英才教育を受けていた松陰とは対照的に、かなり自由気ままな少年時代を過ごしたようだ。

 10歳からようやく私塾に通い始めるが、読み書きは苦手、質問されればトンチンカンな答えを返すという具合で、いつも塾生たちから馬鹿にされ、嘲笑われていた。松陰とは全く対照的な鈍才だった。

 あるとき、いつものように、龍馬少年は塾生からいじめられていた。髷を引っ張られていたらしいが、このとき、初めて龍馬少年は怒りを爆発させ、塾生を突き飛ばした。体は大きかったから、この塾生は為す術もなく吹っ飛んだ。
 笑い物にされたこの塾生は治まらず、脇差しを抜くという騒動になってしまった。この騒ぎの責任を取らされ、龍馬少年は退塾させられる。


 学問の道を閉ざされた龍馬少年は、家族の強い勧めで、剣術の道場に入門する。12歳のときだった。
 もともと体格のいい彼は、めきめき腕を上げ、たちまち先輩にも負けない実力者になった。それと同時に、引っ込み思案な性格も豪快になっていた。

 龍馬は、わずか16歳で目録を取った。そのころには、身長は180センチ近くというから当時としてはかなり大きく、剛毛が胸だけではなく、背中にまではえていた。
 それから間もなく、剣客として名高い大石進が土佐を訪れ、藩内でも指折りの剣士たちを次々と手玉に取る様子を見て、龍馬は大きな衝撃を受ける。さらに、江戸には大石よりさらに強い剣客がいると聞き、龍馬は江戸遊学を決意する。

 翌年、龍馬は歩いて江戸に向かい、北辰一刀流千葉道場に入門した。それから間もなく、黒船が浦賀に来航。龍馬も召集されて、品川の警備に就いている。しかし、当時の彼の興味は剣一筋に向けられていて、「戦争になったら異人の首を討ってやろう」というくらいにしか考えていなかった。

 龍馬は、熱心に修業を積んだ。ある柔術家と立ち合ったときなど、何度締め落とされても立ち向かっていくので、しまいには相手の方が根負けしてしまったという。稽古の甲斐あって腕を上げた龍馬は、他流試合も多くこなし、江戸の剣客の中でも、かなりの注目を集める存在となっていた。
 そして、数え年の24、満22歳の正月に、龍馬は念願の北辰一刀流免許皆伝となる。


 しかし、土佐に帰郷した龍馬は、剣の道を離れ、砲術やオランダ語を勉強し始めた。さすがに、ひとつの技芸を極めただけあって、これからは剣の時代ではないと直感していたらしい。17歳のときに見た巨大な黒船が、龍馬の潜在意識に残っていたことは、間違いないだろう。

 オランダ語については、龍馬はひとつひとつの単語を暗記するのは苦手だったが、文章の大意を把握する能力は卓越していたらしい。先生の間違いを指摘し、調べてみると、彼のいう通りだった、というエピソードが残っている。

 龍馬は洋学だけでなく、『老子』『史記』『資治通鑑』など、東洋の古典も猛烈に学び始めた。こちらもやはり、細かい間違いには気にも止めないで、文章の意味さえ分かればいいという、彼らしい豪快な読み方だった。

 また、江戸で見聞を広めてきたのがかわれていた彼は、郷土の青年たちと、活発に政治を論じ合うようになっていた。奇しくも、吉田松陰が志半ばで世を去ったのと、同時期のことだった。もっとも、この時点では、龍馬は無党派だった。
 やがて土佐勤王党が結成されると、龍馬はいち早く加盟している。ここで初めて、龍馬は尊王攘夷の志士として立った。25歳のときだった。

 ところが、勤王党に加盟してすぐ、半年近くに渡って全国を廻り、薩長の先達に接触すると、龍馬の考えはだいぶ変わっていた。勤王党は、あくまでも土佐藩の存続を念頭に置いていたが、龍馬は、土佐藩の存亡より、まず日本だという思いだった。
 今でいうなら、日本より世界だという発想だろう。時代を先取り過ぎていた龍馬の視点は、同志には理解できなかった。松陰と同じく、彼もまた、先駆者の悲哀を味わったのだった。

 思い悩んだ末、まもなく龍馬は脱藩する。先祖代々禄を受けてきた、大恩ある藩を抜けることは、当時としては、死罪にも当たる重罪だった。しかし、今のままでは、志を果たすことはできない。龍馬は、あえて死罪人の汚名を背負い、志士の道に飛び込んでいく。思えば、この覚悟こそ、彼の怒濤の行動力の原点だったのかも知れない。


 しばらく九州を放浪すると、龍馬は江戸に出て、旧知の千葉道場に転がりこんだ。目的は、アメリカ帰りの若き幕臣で、幕府の中にありながら開国を唱えている異色の人物、勝海舟に会うことだった。

 勝は、もともと龍馬と同じく剣客で、20歳で小野派一刀流免許皆伝の腕前。その後、蘭学を学ぶなど、龍馬とそっくりの生い立ちをたどっている。
 27歳のときに私塾を開き、蘭学や西洋兵学を教えた。ペリーが来航したときには31歳で、幕府に海防の意見書を提出し、若き軍学者として、一躍重用されることになる。その後、日本人として初めて太平洋を横断・渡米し、帰国後は軍艦奉行に抜擢され、多忙な日々を送っていた。

 倒幕の志士である龍馬は、一説によると、幕臣である勝を斬るつもりだったらしい。しかし、いざ面会してみれば、勝の明晰な理論に、龍馬はすっかり魅せられる。
 勝の持論とは、

「現状で欧米列強と戦っても勝ち目はないが、開国すれば通商によって国力を増し、軍事力も充実するから、列強に譲歩を迫られても、はねつけることができるようになる」

 というものだった。龍馬はただちに勝に弟子入りする。こうして、新たな時代を開くことになる、39歳と26歳の若き師弟が誕生したのだった。


 勝と龍馬の最初の狙いは、海軍を創設することだった。全国を駆け巡り、片っ端から在野の人材を勧誘して廻った。勝はもちろん龍馬も、倒幕派から命を狙われていた。しかし、この2人にとっては、倒幕派も幕府の人間も関係なかった。海軍の創設に協力してくれる者は、全て同志として歓迎した。奔走の甲斐あって、半年後には、幕府から海軍操練所設置の許可が下りる。

 龍馬は、勝の海軍人要請のための私塾の塾頭を任され、27歳の若さにして、血気盛んな200名余りの塾生を監督することになった。お互いが若いだけに、塾生から決闘を申し込まれ、腕に覚えのある龍馬もただちにこれを受けて立ち、勝があわてて仲裁に入るという一幕もあった。

 また、龍馬には、北海道の開拓というビジョンもあった。幕藩体制からあぶれ、暴徒化している浪人たちを北海道に連れていって、有り余るエネルギーを、アメリカ風の公選政府を建設するのに、向けさせようというのだった。
 実際、龍馬は勝も気付かない間に、わずか数ヶ月で200名もの浪人を結集し、もう少しで開拓実現という所まで話を進めている。まだ28歳の龍馬だったが、青年たちの心をつかみ、組織化する能力には、勝でさえ及ばないものがあった。あるいは、剣客としてその名を轟かせていたことが、血気盛んな青年をまとめる上で、プラスになったのかも知れない。


 翌年、勝は幕臣でありながら幕府に批判的な発言を繰り返していることをとがめられ、軍艦奉行を解任される。海軍操練所も、1年足らずで閉鎖されてしまった。勝と龍馬は、薩摩の西郷隆盛を頼った。

 西郷は当時、少壮気鋭の37歳。彼もまた、勝の持論に共鳴するひとりだった。勝と龍馬が、最先端の航海術を身に付けていたこともあって、西郷は快く彼らの身柄を引き取った。それからまもなく、西郷は活躍をかわれて大番頭に昇進し、藩政の中でも重要な地位を占めるに至った。

 龍馬は、長崎に日本初の会社「亀山社中」を創業し、倒幕を志す諸藩、特に薩長のために、武器の輸入を始める。倒幕のためには、犬猿の仲である薩摩と長州が和解し、手を結ぶことが必要不可欠と、龍馬は考えていた。

 翌年には、薩摩の西郷と長州の桂小五郎を、京都で面会させることに成功。桂は松下村塾の出身で、前年に高杉晋作と共に藩の実権を握ったばかり。時代の鍵を握る若者のひとりだった。




 ところが、西郷も桂も、藩の体面が先に立って、お互い一向に話を切り出せない。膠着状態が、2週間も続いた。そこへ、刺客の目を盗み、病を推し、命懸けで龍馬が駆けつける。が、話が1歩も進んでいないと知るや、凄まじい剣幕で西郷を怒鳴りつけたという。

 しかし、そこからはスムーズに話が進み、薩長連合はようやく成立した。時に、薩摩の西郷38歳、長州の桂32歳、土佐の龍馬30歳。この、三国を代表する3人の若者の決断が、日本の運命を大きく転換することになる。

 だが、連合成立の翌々日、龍馬は、宿で幕府の役人20人ばかりから急襲を受けた。高杉晋作から贈られた、最新式の6連発のピストルで応戦し、どうにか危機を脱したが、多勢に無勢、病み上がりで本調子ではなかったこともあり、右手の指を切り落とされている。活躍すればするほど、彼はますます危険な立場に立たされていた。

 龍馬は指の傷と病が癒えると、いよいよ、手塩にかけて育てた海軍を率いて、第2次長州戦争に参戦。幕府軍有利だった戦況を奇襲で逆転させ、高杉の上陸をアシストしている。以前から、龍馬が長州に海外の最新兵器を流していたこともあり、高杉は、見事に幕府軍を撃退した。


 翌年、龍馬は後藤象二郎と会見している。後藤は、若くして板垣退助らと共に土佐藩の大監察に任命され、参政に昇進、27歳で開成館の総裁となっていた。龍馬と会ったときは、彼より3つ下の28歳だった。




 後藤の持論は、「これからは貿易に力を入れなければ国は滅びる」というもので、龍馬と志を同じくしていた。龍馬は、「後藤こそ第一の同志」と賞讃している。後藤もまた、龍馬の影響を受けて、倒幕を志すようになる。

 後藤の尽力により、龍馬は脱藩の罪を許され、後藤や土佐藩のバックアップの元に、亀山社中を「海援隊」として再建する。龍馬自身は倒幕派だが、隊員は思想を問わずに集められ、西日本全域で商取引を展開した。

 実業家として多忙な日々を送る一方で、龍馬は政治活動も並行して進めていた。長崎から京都に向かう船の中で、彼は新政府の構想を練っていた。これがいわゆる『船中八策』である。これは、

1.幕府は政権を朝廷に返還する
2.上下院を置き、議会を開く
3.身分に関係なく人材を登用し、不要な役職を廃止する
4.国民の議論に従って外国と条約を結ぶ
5.従来の法令を再検討し、新たな憲法を創る
6.海軍を拡張する
7.政府軍を組織し、首都を防衛する
8.海外の物価とバランスをとる

 という8項目からなっていて、実際、明治政府の基本方針は、ほとんどここから生まれた。自由民権思想のルーツすら、ここに求めることができる。

 龍馬は、平和裏に幕府が政権を返還することを望んだが、そうでない場合のための準備は怠らなかった。銃を揃え、キリスト教を広めて農民を煽動することまで考えていた。
 しかし、幕府の武力では、もはや龍馬の流した最新兵器を揃えている薩長に勝ち目はなく、将軍慶喜は、戦わずして龍馬の提案した大政奉還を受け入れた。龍馬が勝の元に弟子入りしてから、わずか5年目での完全結着だった。

 龍馬は早速、新政府の閣僚名簿を作成する。しかし、そこには西郷、桂、後藤らの名はあったものの、龍馬自身の名はどこにもなかった。不審がる西郷に、龍馬は、

「僕は、役人は性に合わないから。世界の海援隊を、やります」

 そう、答えたという。いかにも、龍馬らしい台詞だった。そしてそれが、龍馬が残す、最後のメッセージとなった。

 大政奉還からわずか1月後、龍馬は、宿にいるところを刺客に襲われ、この世を去る。奇しくもその日は、彼の満32歳の誕生日だった。刺客の正体は、今もなお謎に包まれている。



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完本 坂本龍馬日記
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 しかしもはや、龍馬の興した怒濤を止めることは、誰にもできなかった。志を同じくする若者たちが、なお駆け続けていた。その中心に、松下村塾の門下生たちがいた。





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