東日本大震災の映像がテレビで流されるのを見るにつけ、ボランティアに駆けつけたいと思っていたが、自分の浮沈がかかっている統一地方選挙があって、どうにも動きが取れなかった。やっと選挙の事後処理が一段落したので、5月14日(土)、民主党本部が主催するボランティア事業に参加して宮城県・気仙沼市で働いてきた。
金曜日の午後11時に国会近くから大型バスで出発し、土曜日に朝から現地で活動し、また夕方にはバスに乗って日曜日の早朝に帰ってくるという強行軍だが、多忙な議会関係者はまとまった休みは取りにくいのでやむを得ない日程だ。私が参加したのは、民主党の7回目の派遣事業になる。
作業をしたのは、気仙沼市内からはかなり離れた小田浜漁港の周辺で、湾内の奥まった入り江にある船着き場だった。この日は天候に恵まれたため、海は青く澄んで湾内は風光明媚そのものだったが、沖合には灰色の軍艦が停泊し、海上では自衛隊のヘリが捜索作業を行っていた。
作業は、まさに人海戦術そのもので、みんなで海岸に打ち上げられた木材や漁具などの片付けを行った。木材は、大船渡などの被災地から流れてきたもので、住宅の部材らしく釘がたくさん付いていた。プラスティックや金属の破片も少なくなかったが、分類して一カ所に積み上げた。
漁網類も大量に漂着していたが、浜辺は海岸からすぐ岸壁になっているため、狭い海岸や岸壁の草むらから漁網を引きはがして一カ所に集めた。集めた木材や漁具は、後で地元の人達が始末するわけだが、「自分たちだけでは無理なので、ボランティアに来てくれて助かる」と、地元の人達から口々に感謝された。
休憩時間に、地元のおじさん達がお茶やお菓子を差し入れてくれて、お茶を飲みながら災害の様子を詳しく聞くことができた。私たちの作業した小さな漁港は、海岸に平地が少なくて住居は高台にあり、浸水は数件で済むなど被害は小さかったものの、じっさいの体験談は生々しかった。
ボランティアの作業は、木材や漁網を集めて運ぶといった単純なものだったが、それでも決して楽ではなかった。軽いスニーカーでは危険なので、重い長靴や安全靴を履いて足場の悪い砂利道を往復して資材を運ぶ作業のため、足取りはいやでもゆっくりと重くなる。
現地のボランティアセンターの決まりで休み時間をきっちり取り、作業は午後3時までと定められていていたが、肉体労働に慣れていない都会のボランティアにはちょうど良い時間配分だったろう。人海戦術の効果で、漁港一帯の漂着物はすべて片付き、その日に予定されていた作業は完了した。
帰路、バスで気仙沼市内を通過したが、その惨状には改めて驚いた。見渡す限り、おそらく市内全体が爆撃されたみたいに建物が壊れ、街中に大型の漁船が打ち上げられている。がれきの山、また山の連続だ。大きな都市全体の膨大ながれきの処理をどうするのだろうか。一部で重機が動いていたが、素人の私はただ呆然とするばかりだった。
実働6時間程度の駆け足のボランティア作業だったが、行きも帰りも車中泊という強行軍はさすがに疲れた。できれば1週間程度は滞在したいが、議員という仕事は次々と公務が入ってくるし、6月になると議会が始まる。たとえ車中泊での強行軍でも良いから、できればまたボランティアに出かけたいと思っている。
金曜日の午後11時に国会近くから大型バスで出発し、土曜日に朝から現地で活動し、また夕方にはバスに乗って日曜日の早朝に帰ってくるという強行軍だが、多忙な議会関係者はまとまった休みは取りにくいのでやむを得ない日程だ。私が参加したのは、民主党の7回目の派遣事業になる。
作業をしたのは、気仙沼市内からはかなり離れた小田浜漁港の周辺で、湾内の奥まった入り江にある船着き場だった。この日は天候に恵まれたため、海は青く澄んで湾内は風光明媚そのものだったが、沖合には灰色の軍艦が停泊し、海上では自衛隊のヘリが捜索作業を行っていた。
作業は、まさに人海戦術そのもので、みんなで海岸に打ち上げられた木材や漁具などの片付けを行った。木材は、大船渡などの被災地から流れてきたもので、住宅の部材らしく釘がたくさん付いていた。プラスティックや金属の破片も少なくなかったが、分類して一カ所に積み上げた。
漁網類も大量に漂着していたが、浜辺は海岸からすぐ岸壁になっているため、狭い海岸や岸壁の草むらから漁網を引きはがして一カ所に集めた。集めた木材や漁具は、後で地元の人達が始末するわけだが、「自分たちだけでは無理なので、ボランティアに来てくれて助かる」と、地元の人達から口々に感謝された。
休憩時間に、地元のおじさん達がお茶やお菓子を差し入れてくれて、お茶を飲みながら災害の様子を詳しく聞くことができた。私たちの作業した小さな漁港は、海岸に平地が少なくて住居は高台にあり、浸水は数件で済むなど被害は小さかったものの、じっさいの体験談は生々しかった。
ボランティアの作業は、木材や漁網を集めて運ぶといった単純なものだったが、それでも決して楽ではなかった。軽いスニーカーでは危険なので、重い長靴や安全靴を履いて足場の悪い砂利道を往復して資材を運ぶ作業のため、足取りはいやでもゆっくりと重くなる。
現地のボランティアセンターの決まりで休み時間をきっちり取り、作業は午後3時までと定められていていたが、肉体労働に慣れていない都会のボランティアにはちょうど良い時間配分だったろう。人海戦術の効果で、漁港一帯の漂着物はすべて片付き、その日に予定されていた作業は完了した。
帰路、バスで気仙沼市内を通過したが、その惨状には改めて驚いた。見渡す限り、おそらく市内全体が爆撃されたみたいに建物が壊れ、街中に大型の漁船が打ち上げられている。がれきの山、また山の連続だ。大きな都市全体の膨大ながれきの処理をどうするのだろうか。一部で重機が動いていたが、素人の私はただ呆然とするばかりだった。
実働6時間程度の駆け足のボランティア作業だったが、行きも帰りも車中泊という強行軍はさすがに疲れた。できれば1週間程度は滞在したいが、議員という仕事は次々と公務が入ってくるし、6月になると議会が始まる。たとえ車中泊での強行軍でも良いから、できればまたボランティアに出かけたいと思っている。