梅雨空の巣ごもり下で、軍歌「勇敢なる水兵」を聴いた。
軍歌「勇敢なる水兵」に謳われているのは、黄海海戦で戦死した三浦虎次郎3等水兵の逸話である。
三浦水兵は、1875(明治8)年に佐賀県佐賀郡東与賀村(現在の佐賀市)に生まれ、明治25年(17歳)に佐世保海兵団に入隊(5等水兵)、1894(明治27)年7月に始まった日清戦争には3等水兵(19歳)として連合艦隊旗艦「松島」に乗り組み、戦闘配置は下甲板前部弾庫員であった。
三浦水兵が戦死した黄海海戦は、明治27年9月17日、連合艦隊が鴨緑江河口付近の黄海で清国の北洋艦隊を捕捉、激戦の末にこれを撃破した戦闘であるが、彼我の主力艦は次の通りであった。
北洋艦隊はアジア地域では最大の戦艦とされた「定遠」「鎮遠」(排水量7,220t、主砲30.5cm連装砲を2基4門、舷側装甲305mm)を基幹とする最強の艦隊と称されていたが、連合艦隊は定遠級戦艦に対抗するために32cm単装砲1門を装備した装甲巡洋艦「三景艦(松島、厳島、橋立):4300t」を主力としたものの、主砲の操作性等が著しく劣っていたために連合艦隊の劣勢は明らかで、全国民が両海軍の帰趨に固唾を飲んでいた。
三浦水兵は「鎮遠」から発射されたとされる主砲弾が「松島」に命中した際に重傷を負ったが、通りかかった副長の向山慎吉少佐に『まだ定遠は沈みませんか』と訊ね『心配するな。「定遠」は戦闘不能に陥ったと』いう副長の答えを聞いて微笑んで息を引き取ったとされている。
軍歌「勇敢なる水兵(佐々木信綱作詞、奥好義作曲)」は黄海海戦の翌年の1895(明治28)年に発表されたが、逸話を新聞報道で知った佐々木信綱は感動して10節(昭和4年に現在の8節に改詞)の詞を一夜で書き上げたとされている。なお、初めて知ったことであるが、新潟県立新発田高等学校では現在もこの曲を校歌として採用しており、栃木県立烏山高等学校、兵庫県立兵庫高等学校の旧校歌もこの曲であったそうである。
コロナ感染者数は再び大きな波を迎えようとしているが、後期高齢者に対するワクチン接種が加速したこともあって感染者は40代以下が大半を占めるようになった。一般的には、感染増の原因は緊急事態宣言解除や助蔓延防止基準の不備等の行政の不手際とされるが、本当の所は国民の「堪え性の無さ」「自己犠牲の欠如」であると思う。
些か牽強付会であろうが、死生の如何よりも国の行く末を案じ・重んじた三浦3等水兵の千分の一・万分の一の気概を国民が持っていれば、歓楽街や観光地に出没する人は激減するであろうし、飲食業者は歯を食いしばってでも掟破りに走ることを自戒するであろう。