江戸時代の「鎖国」という言葉が、近年見直されているらしいことを知った。
中学校社会科のレベルで進化を停止した自分の知識では、1609(慶長14)年の大船建造禁止令や1639(寛永16)年の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854(嘉永7)年の日米和親条約締結までの期間は鎖国であるが、近年の教科書ではこの期間を「いわゆる鎖国」若しくは「鎖国」と表記されているらしい。これは、近年の歴史学者が「この期間にあっても幕府(中央政府機関)が管理する通商路があったことから、完全に国を閉ざしてはいない」とすることに依っているとされている。ウィキペディアでは幕府公認の通商路には、近年の命名であるが松前口(対清露)、長崎口(対蘭清)、対馬口(対朝鮮)、薩摩口(対琉球)の4路があったが、これ以外にも浜田藩の「抜荷」摘発や薩摩藩の対清貿易が討幕財源とされたように密貿易は各藩で行われていたらしい。また、鎖国を歴史用語と認めたくないのは、為政者(幕府)が使用していないことも理由の一つと思われるが、”鎖国”という言葉は11代将軍家斉時代の1801(享和元)年に蘭学者の志筑忠雄が自著「鎖国論」で初めて使用したもので、数年後には幕閣・知識階層に普及したものの一般に使用されるのは明治中期以降とされているので、江戸幕府が公式に使用しないのは当然である。
また、同時期の東南アジアでも日本と同様の通商管理(制限)が行われており、これを「海禁政策」と呼ぶことから、日本の鎖国も「海禁」と呼ぶ論も学会にあるらしいが、陸にも国境を持つ国の通商管理と日本のそれを同一に捉えるのは如何なものであろうか。
645(大化元)年に中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した事件を「大化の改新」と教育されてきたが、近年では大化の改新は一連の政治改革を示すもので暗殺事件そのものは「乙巳の変」とされたが「乙巳」自体が645年をピンポイントに示さないことの不条理を以前にも書いた。
歴史教育は日本人としてのアイデンティティ涵養が本分と考えるので、初中等教育に於いては歴史を線として教えることが重要で、徒に点の呼称や文字資料の有無に拘る必要は無いように思える。大化の改新は摂関政治~天皇親政~武家政治に至る一連で捉えることができたら十分で、暗殺事件を「乙巳の変」として点描することには何の意味も無いように思える。
鎖国についても同様で、外国からの情報・科学技術を制限した時代を鎖国と呼ぶことで、以後の開国による明治維新と欧風化の対比が鮮明となるように思える。
乙巳の変、海禁などは、本格的に日本史を勉強する大学生・研究者の机上にあれば十分で、学者のミクロ視点から為される改変は「木を見て森を見ない」空疎な努力で、ミクロ点描を一般国民に敷衍する歴史教育は、教育に値しいようにも思える。
チャーチルは、人的往来や情報を遮断したソ連を「鉄のカーテン」と呼び、我々も僅かの国としか外交・通商関係を持たず、情報遮断しているクメール・ルージュや北朝鮮をマクロ目線で鎖国状態と呼んで違和感を覚えない。このことを考えれば”鎖国”は諸事情は違えど孤立を選ぶ国を指すのに相応しい用語と思えるが。