武漢ウィルスに伴う巣ごもりの(閉塞感)のなせる業であろうか、明智光秀の再評価と本能寺の変の黒幕特定が喧しい。
最新の光秀再評価は、「主殺し」「謀反人」とされてきた光秀が、実は天皇親政実現のために「本能寺の変」というクーデターを起こしたのではないかというもので、論拠とするところは、光秀が「信長旗下の武将では類を見ない教養人であったために通じていたであろう記紀の政体を正統とした」「領地での善政」とする点であるように思える。本能寺の変の黒幕については、これまで足利義昭説、公家説、秀吉のヤラセ説・・・と百花繚乱であったが、冒頭の光秀再評価では、本能寺の変は誰の使嗾も受けない光秀本人の選択であったとするものである。真実は不明なことから光秀と本能寺の変の謎解きは勝手であるので、本日は自分流の「光秀・本能寺の変」の解釈である。本能寺の変当時、既に光秀は信長から破格の待遇を受けており、謀反の一因とされる「格下の秀吉が担当する備中攻略の支援作戦」という些か面目を失う任務も、信長軍団では稀有の恩賞(占領地を領地とする)を約束されていることから、戦国武将として謀反に奔るものでは無い。本能寺の変から天王山の戦いで秀吉に討たれるまで、対秀吉(対織田軍団)のための軍備や調略の動きが極めて少ない。以上のことから、本能寺の変は光秀の器量の限界であったと思っている。光秀は武人としては類を見ない学識を持ち、預けられた領地では善政を敷く人格をも持っていたのは間違いないと思うが、知識人に共通の「現状の不備は指摘できるが、改善策は立てられない」「他人の助言を受け容れない」という致命的な欠陥を持っていたものと思う。下剋上の世相下にあっても「主殺しという人倫に悖る行為」に奔った背景には、信長の天下布武の思想と行動に抱いた不信・疑問があることは間違いのないところと思うが、信長排除後の政体・軍事については、確たるデザインを持っていなかったものと思える。光秀にとっては、不信の根源である信長を討つことで思考と行動は完結してしまい、謂わば「燃え尽き症候群」状態に陥ったものと思える。当初は足利幕府という権威を再興することで、次いで比叡山焼き討ちというような非情なまでの任務を忠実に遂行して信長の権威を高めることで自分の存在を確かめてきたが、さて自分が身を寄せる大樹・権威がいなくなった時、将に茫然自失の状態に陥ったものと思う。この時になって始めて光秀は、自分の評価はあくまで織田家臣としてのものであり、能力的にもトップに立てるものでは無いことを自覚したものと思う。秀吉に黒田官兵衛というグランドデザイナーがいたように、トップに立つ者には偉大な№2が存在し、彼等の進言・計画を聞き容れた者のみが偉業を成し遂げている。光秀の側近にも冷徹に情勢を分析できる秀満や斉藤利三がいたとされるが、自分の識見が唯一と考える光秀には彼等の助言を聞き容れる意志は無かったものと考える。こう考えれると、光秀は単なる頭でっかちの学者で、本能寺の変は現実よりも空論を重んじる学者の暴走と観るのが正鵠を得ていると思っている。
以上、明智光秀を肴にしたが、現在でも光秀的唯我独尊政治家には事欠かない。自民党政権打倒のためにのみ「大きな塊」を目指す枝野幸男新党々首は、その筆頭であるように思える。政治に限らず「ビルド&スクラップ」は鉄則であると思うが、枝野新党からはスクラップの話は聞こえてくるものの、代替となるビルドの話は一向に聞こえてこない。新党参加者も民主党の垢と誤謬を纏った人物が多く枝野氏に並び立つ人物(小沢氏、野田氏、岡田氏、菅氏は論外)や偉大な№2になり得るデザイナーも見当たらない。維新の松井代表が新党を「帰ってきた民主党」と評したが、正義は我にありと唯我独尊の枝野氏に国政を預けて良いものだろうか。