ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『危険社会』

2005年10月10日 | 読書
 本書は、チェルノブイリ原発事故の衝撃の中で書かれた。環境問題は国境を越えるということがヨーロッパではいかに深刻な問題であったか。本書で扱う「危険」とは、まず第一に「環境への危険」、人体への「健康被害」という問題だ。

 しかもこの危険は、近代化が進めば進むほど構造的に増大するというやっかいなものであり、かつこの危険は知識によって感知できる種類のものなのだ。放射能や農薬の危険性は目に見えない。環境問題については知識のある者だけがその危険性を知り、恐怖におびえる。
 かつてのようにわかりやすく見えやすい「富の不平等」や「貧富の格差」といったものだけが問題となるのではなく、むしろ知識の格差のほうが「危険社会」をめぐる問題の本質だろう。

《 個人化された人生は、一方において、その構造上、自分で形づくっていかなくてはならないものなのだが、他方で外界に対して開かれててもいる。家族と職業労働、職業教育と労働、行政と交通制度、消費、医学、教育学等といった、システム論の観点からすれば分離しているように見えるものが、すべて、個人の人生のなくてはならない構成要素になる。部分システムの境界は、部分システムには適用されるが、制度に依存した個人の情況のなかにいる人間には適用できない。……人生を営むことは、このような条件下では、システムの矛盾を個々人の人生において解決していく営みとなる。
 ……脱伝統化と地球規模のメディアネットワークの設立とともに、個々人の人生は、ますますその直接的な生活圏から解き放たれる。そして、国境を越え、専門家の境界を越えて存在する抽象的な道徳に身をさらすようになる。この道徳によれば、個々人が潜在的に持続的見解をもたねばならない。同時に、個々人は一方で取るに足らない状態に格下げされるが、他方で、世界形成者という偽りの玉座に押し上げられる。政府が(依然として)国民国家の枠組みのなかで行為するのに対して、個々人の人生はすでに世界社会に対して開かれている。さらに、世界社会は個々人の人生の一部である。》(p269-270)

 近代において進行する個別化はまた、様々な受難が個人に対してふりかかっていることを表している。共同体全員が被る災難ではなく、個々人が受けとめるべき受難として現れるのだ。たとえば、昨今の職場の多くの問題もそうだろう。労働者階級が団結して資本に立ち向かうというような問題対処の方法がもはや無効になっているのだ。リストラは個別にやってくる。職場のイジメも個別具体的な個人に向けられる。チームワークよりも個々人の成果が問われる。わたしたちはこのような社会に生きている。

 最後のよりどころはどこだろうか、家庭か? もはや家庭さえても個人化しているのだ。「貫徹された近代の基本形は孤立した個人」だとベックは言う。家族解体をフェミニストは叫んだ。しかしベックは次のように言う。

 《一部の女性運動のように、まったくもって正当に、近代をうみだした諸伝統をさらに延長させ、市場適合的な男女平等を訴求し推し進める人々がいる。この人々が知らなくてはならないことがある。それは、この路の終わりに存在するものは、十中八九は、平等になった男女が和合している状態ではなく、対立するさまざまな路や状況のなかで個々人がばらばらにされた状態である》(p246)

 ベックのもってまわった言い方は独特で、はっきりと名指してはいないが、男女の不平等な現実に対する批判を述べつつも一部のフェミニズムに対する疑問・批判も忘れない。それが正鵠を射ているのかどうか、わたしには自信をもって何かを言うことができないのだが、この第2部第4章で書かれた「わたしはわたし――家族の内と外における男女関係」は興味深く、何度も読み返したくなる。

 そして、さらにおもしろかったのが第3部「自己内省的な近代化」の第7章「科学真理と啓蒙から遠く離れてしまったか――自己内省化そして科学技術発展への批判」だ。

 科学はいま、科学の発展じしんが産み出した危険に直面している。そして、専門化細分化した科学は、それぞれが競争を繰り広げる。そして外部の大衆によって批判にさらされた科学は、今度はその批判する科学を必要とするのだ。
「科学に対する反対が科学化される」(p328)


 本書に書かれている内容じたいに目新しいことはない。にもかかわらずとても興味深くおもしろく読めるのだ。文体の巧さもあるが、知識社会という近代の特徴をよく捉えているからだろう。エッセイのように修辞を凝らして書かれた文章なので、部分的に引用しづらいのが特徴だ。社会分析の著作であるけれど、表層的な社会現象を取り上げて分析しただけではない。底に流れる「近代把握/批判」の確かな視座に惹きつけられた。

 ベックの近代観には、「矛盾を生きる」という哲学があると思う。わたしたちは矛盾の中を生きざるをえない。そこから逃げる・それを断つ、ことよりも、矛盾の中を生きて矛盾と格闘すべきだと彼は述べているように思う。

<書誌情報>
 
 危険社会 : 新しい近代への道 ウルリヒ・ベック [著] ; 東廉, 伊藤美登里訳.
   法政大学出版局, 1998. (叢書・ウニベルシタス ; 609)

(注記)原著(Suhrkamp, 1986)の完訳. 二期出版(1988年刊)で省略した原著第2部を新たに訳出し,修正・加筆したもの ;