ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

富田林は大阪じゃない?!(笑) 金毘羅一代記

2005年10月21日 | 読書
 今日は仕事を休んで家でのんびり……なんてことはありえねーっわけで、今日は病院3件、息子の学校2件、と用事が立て込んでいるのである。しかし、忙中閑あり。合間を縫ってブログを更新してしまうわたしってエライ。おほほほ

さて、わたしとほぼ同い年の作家笙野頼子のけったいな小説『金毘羅』に、こんなくだりがある。

《母方の祖母は都会に生まれ育った女でした。通天閣の見えない場所に住む人間を全て差別していた。通天閣を見ない人間は「ど百姓」であり「田舎者」である。富田林を大阪だと言った人間を彼女は許さない。》

 これには苦笑。今でこそ富田林市民になってしまったが、6年前にここに引っ越してくる前はまさか自分がそんな辺境の地に住むことになるとは思っていなかった。子どものころから、富田林といえばPLランド(今はない)とPLの花火の場所、というイメージしかなく、それは遠足で出かけるような田舎だったのだ。
 で、この小説を読んでこんなあけすけな富田林差別を見て笑ってしまったわけ。

 さて、そもそもこの小説に興味を持ったのは、黒猫房主さんの『評論誌「カルチャー・レビュー」blog版』に掲載された村田豪さんの書評http://kujronekob.exblog.jp/1685869を読んだからだ。村田さんの大絶賛書評を最後まで読まずとも『金毘羅』に興味津々。
 ここでわたしがなんやかんやと書くよりも、村田さんの褒めちぎりを読んでいただいたほうがいいと思うので、ではみなさん、↑をクリック。

 というのもなんなんので、ちょいとだけ書いておくと、じつはわたしは途中で飽きてしまったのだ、この小説に。だって文体が美しくないんだもの。

 最初こそあっけにとられて読み始めたけれど、途中でなんだか「長すぎるよな、こんなに書かなくてもいいんじゃないかい」と思い始めたのだ。それに話が難しすぎる。今まで人間だと思って生きてきたけれど47歳になって急に自分が金毘羅であることを思い出してしまった金毘羅一代記、その金毘羅が語ることは神話の世界、土俗の宗教と国家と反権力のカウンター宗教、という非常に大きなテーマなのだ。わたしはこういう話に明るくないので、「ほんまかいな」と思うようなことも多々あり、ついつい疑いの目で読んでしまう。でもおもしろいんですよ、言っときますけど。

 神様の話よりも、わたしはこの金毘羅の苦しみに共感してしまった。すごく痛々しくて、「ほんとうは男なのに女として育ってしまった金毘羅」という、人間世界でもっとも疎外された人生を生きてきた47歳の女性に激しく同情してしまったのだ。家族と折り合えず、家族を苦しめ、学校になじめず、道化のように生きてきた金毘羅の人生。ジェンダーの齟齬に苦しむ人生。肉体的にはトランスジェンダーというわけでもなさそうだけど、「ほんとうは男なのに女として生きる」という感覚、わたしにはすごくわかる。
 「この子は母親のお腹のなかで(オチ×○ンを)落としてきたんだ」とわたしもよく言われた。男勝りでお転婆で、女友達より男の子とのほうが違和感なく遊べた子ども時代を思い出す。

 ちなみに、金毘羅というのはもちろん四国は香川県にある、あの「こんぴらさん」のことだ。現在では琴平神社というらしいが、なんだかよくわからない。だって、金毘羅って、神仏習合のカミさんだから、ほんとは仏なのか神なのかよくわからない。詳しいことは村田豪さんの解説その他をよんでほしい。わたしは小説一冊読了したのに、さっぱりわけがわからなかったわ。とほほ

 わたしは神とか運命とかけっこう信じているほうなので(でも風水は信じないし、占いも信じないし、特定の宗派への信仰心もない)、国家に回収されない宗教的な心情というものには共感するのだ。

 こんな奇妙な文体の奇妙な小説があったというだけでも驚きだけれど、内容はとても深いので、実は癖になるかも、と思っている。次は『水晶内制度』を読むつもり。

<書誌情報>

金毘羅 / 笙野頼子著. -- 集英社, 2004