ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

精神科医の小説分析

2005年01月03日 | 読書
 映画だけじゃなくて、漫画だけじゃなくて、小説も精神分析の俎上に乗せてしまう多才な斎藤さん、本書で取り上げた作家は23名。その顔ぶれも多彩で、わたしなんか全然知らない作家が何人も登場する。『文學界』での連載をまとめたものだ。最後の一章は書き下ろし。

 で、この人の文体の特長なのか、文脈をどうたどればいいのか少々わかりにくいところがあって、だからわたしが読んでいない作品や知らない作家についての言及部分はいっそうわかりにくい分析になっている。引用文が少ないのがその一因だ。とりわけ前半がそうだ。後になるほど引用が増えてわかりやすくなっているから、きっと連載の途中で編集者か読者から指摘があったんだろう。

 というわけで、とりわけ最初の赤坂真理とか舞城王太郎とかの章はわかりにくい。それに比べ、読んでいておもしろいのは、わたしに馴染みのある作家の分析だ。
 その中でももっともおもしろかったのが島田雅彦と保坂和志の章だ。大江健三郎もおもしろかったけど、大江の『取り替え子』の分析は加藤典洋のほうが鋭かったね(『小説の未来』だったか、『テクストを遠く離れて』か、どっちかに掲載)。
 島田雅彦の「天皇萌え」なんていう言葉には驚いてしまった。そうか、やっぱり島田雅彦って天皇が好きなんだ。いや待てよ、そうかな。

 島田は単一主義を回避し続ける作家だそうだ。陣野俊史(誰?(^^;))が島田のことを「『左翼』に対して『サヨク』、『本物』にたいして『模造』…」を対置していると評するのに対して、斎藤環は

 たしかにこれは、島田にあっては顕著な特質だろう。しかし…[中略]…単一主義に対して、それをずらしたり複数化したりという戦略は、単一主義の強靱さを結果的に際だたせてしまう。デリダやドゥルーズの試みが、けっしてラカンの「否定神学」を衰弱させえなかったこと、時には「ラカン」を強化してしまったことを想起されたい。それは魂のヒステリー的な双生児なのだ。(p165)

 と言う。

 陣野の記述は、必ずしも正確ではない。島田は二項対立ではなく、第三項を持ち出して対立そのものを脱臼させようとするのだ。だから正確には、「左翼」対「右翼」の間に「サヨク」を、「本物」対「贋物」の間に「模造」を、「都市」対「田舎」の間に「郊外」を、そして「帝国」対「独立国」の間に「植民地」を挿入する、と言わなければならない。その身振りには、デリダが「サンポリック」対「イマジネール」の間に「エクリチュール」を持ち出し、「生」対「死」の間に「生き延びること」を持ち出し、「去勢」対「去勢否認」の間に「割礼」を持ち出す身振りを思い起こさせる。なるほど、彼らはまさに、隠喩的対立を換喩的に脱臼させる、という手法においては共通している。(p165-166)

 それにしても島田雅彦のことを「島田は細心の注意を払って下手な小説を書き続ける」と評価するとは(笑)。これを読んで島田は喜ぶのか怒るのか、どっちだろう。

 島田の天皇萌えは、天皇制の本質を考える大きなヒントになるという。

 天皇を支える磁場は、多重構造になっている。それは、必ずしも空虚な中心がひとつある、というものではない。単純な批判やフェク化の戦略がことごとく通用しないのは、批判やフェイクがすべて「君側の奸」として天皇をとりまく人や制度に吸収され、決して中心には及ばない仕組みになっているからだ。…[中略]…中心が空虚であるかどうかは知らない。ただはっきりしていることは、さまざまな「良きもの」を投影するうえでは、空虚なスクリーンほど都合がいい、ということだ。おそらく天皇は、構造的な欠如という機能は持たない。そこにあるのは「空虚なスクリーン」という虚構的イメージだけだ。(p169-170)

という論から始まって、島田の天皇萌えが皇太子への執着というかたちで現れるという分析へと繋がるのだ。
 おもしろかったわあ、これ。


 映画分析の時と同じに、やはり斎藤さんは「真実は一つしかない」と言い切るし、自分は正しい読みしかしていない、と断言する。すごい。多様な読みがあるなどというヤワなことを言わないのだ、この人は。なんかミヤダイにも似てるね。

 斎藤さんは自分と同年代の言論人に親しみを覚え、彼らの作品を評価するという。その斎藤さんが挙げた名前が、宮台真司、大澤真幸、大塚英志、いとうせいこう、宮崎哲弥だ。彼らの合い言葉は「絶望から出発しよう」なんだそうな。

 奇妙なことに、この世代には一つの分裂がある。それが「シニシズムとコミットメントとの分裂」だ。舞台裏を知り尽くしながら、それでも彼らは、いや私たちは、「世界」に関わろうとする。批評家でありながら活動家。(p161-162)

 なるほどね、わたしもこの世代なんだけど。そうなのかな? 自己分析は不可能です。

<書誌情報>

 文学の徴候 斎藤環著 文藝春秋 2004