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ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「見たくない思想的現実を見る」ノート

2004年05月04日 | 読書
■第1章 沖縄

 大澤真幸は金子勝と共に沖縄に行き、30代前半の女性活動家と話をするうち、彼女の逆鱗に触れ、激しく怒りを向けられる。
 先進国知識人がみせる、後進国のサバルタンへの同情と共感のまなざしのうさんくささを厳しく指摘されたのだ。

「絶対に安全な場所に立って、犠牲者=サバルタンの苦難に同情する者の能天気な気楽さを見ないわけにはいかない。」27頁


■第2章 高齢者医療

 「なぜ老人を殺してはいけないのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」

 レイプはなぜ悪いのか。売春はなぜ悪いのか。

「性行為において、われわれは、相手が、まさに<他者>であることを――私の透明な意志に服しきることがない者であることを――欲しているのである。」

「レイプの悪の理由を、通念とはまったく逆に考えるべきではないか。人は、ある意味で、自身の身体が「暴力」的に扱われることを望んでいる。だからこそ、その欲望を文字通り実現するレイプは悪なのである。殺人についても同様である。」p76

「つまり、<私>は、<他者>の自分自身への能動的な働きかけを――言い換えれば(<他者>)の受動的対象となることを――欲望しているのだ。だが、これは、単純に、<私>が、「物」のような対象性へと転ずることを意味してはいない。<私>は、同時に、<私>の<他者>への受動的従属自身が、この<私>の能動的な思考を前提にし、それに支持されていることを欲望しているのである。つまり、<私>は自ら、<他者>の<私>への能動的な働きかけ――<私>の受動性――を、能動的に引き起こそうとするのだ。レイプや殺人が悪であるのは、この後者の能動性が契機が――つまり<他者>の<私>への能動性自身を支える<私>の側の能動性が欠けているからである。同じ欲望を<他者>の側にも仮定するならば、受動性/能動性をめぐる<私>のこうした錯綜した欲望は、実際に満たされると考えることができる。<他者>の方もまた、<私>のその<他者>への能動性を欲望しているのだ。言い換えれば、<他者>は、<私>のその<他者>への能動的な志向に触発されて、自らの<私>への能動的な働きかけが引き起こされることを望んでいる、と考えることができるのだ」p77

■第3章 過疎地の想像力

 秋田県鷹巣町(たかのすちょう)の老人福祉「ケアタウンたかのす」の実践報告

 岩川町長の「徹底民主主義」
  →ワーキング・グループの活用

「われわれの問いは、住民が喜びと誇りをもってこの知に住むことを選択しうる共同体に、鷹巣がなるりえたのはなぜなのか、ということであった。リーダーが有能だったから? 一方では、無論、その通りだが、他方では、この解答はまったく間違ってもいる。……(略)…このことを理解するには、ヘーゲルの『精神現象学』における、「主人と奴隷の弁証法」からストア主義への移行の部分を参照するのがよい。主人と奴隷の弁証法において、知は奴隷の方に属している。それは、まずは、労働のためのノウハウ、技術的な知という形態をとっている。これは、まだ真の「思想」とは言えない。「技術的な知」から「思想」への転換は、奴隷の「(個々の)労働の概念」が反転して「概念の労働」になったときにもたらされる」p108-109

■第4章 韓国を鏡に日本のナショナリズムを見る

 韓国ポストモダンの思想家は、金芝河のことを「ファシスト」呼ばわりまでしている。最近の金芝河は「万有生命論」を唱えているのだが、それが宗教がかっているというか、民族主義ナショナリズムだと『当代批評』文富軾(ムン・プシク)は批判する。

 韓国では左翼がナショナリストだったが、「97年に創刊された『当代批評』は、民族主義を積極的に斥ける、多文化主義的な左翼を標榜する」p142

「近代化は、本質的に植民地化なのかもしれない。一般に、近代化は規範の普遍化の過程、すなわち特殊な規範が支配する有機的な共同体から、普遍的な規範のもとに活動する「自由な個人」の集合よりなる社会への移行である。重要なことは、この過程で、単純に特殊性が放棄されて普遍性が採用されるわけではない、ということだ。特殊性は普遍性への通路として再編成されるのである。」p148

「植民地の権力への闘争は、常に、何らかの普遍性の名において――人権や民主主義の名において――遂行される。だが、真の普遍性は不可能なのだから、植民地の闘争を正当化するその「普遍性」もまた、何らかの特殊性に彩られている。こうして、真の平等や自由への闘争が、結局、ある種の差別や排除を不可避に伴う、特殊性への支持へと回帰してしまうのである。たとえば、光州抗争は、そしてその後の韓国での反体制運動は、それ自身、再び、「アメリカ」という特殊な文化と理念の支配を貫徹させる過程へと収斂してしまったわけだ。こうして、普遍性を希求する闘争は、挫折せざるをえない。この難局をいかにして乗り越えるのか」p150

 日韓の和解とは何か?
「和解は、われわれが共通の普遍性へと到達しえないということ、互いに徹底的に特異であるということ、そうした否定性の交換であるほかないだろう」p156

第5章 仕事がない?

 フリーター問題にふれて、金子は現在の競争社会が、「弱者同士の争い」だと看破する。「弱い者がより弱い者を叩く」

 大澤は労働の本質について考察する。若者は、労働と遊びと一致させたいと欲している。大卒後2年ほどの間に転職した若者を例に引く。

「そもそも、labor とは、「苦痛」という意味である。労働は、快楽とは独立の義務であったはずだ。それに対して、これらの若者達が転職するのは、楽しいということが労働の本質的な属性として想定されているからである」p179

 疎外されない労働を求める若者たちは、社会主義ユートピアを実現した存在か? いや、彼らは実は生の空虚にとらわれている。

「誰も自由から逃走していない」
「「生の空虚」は、自由の過剰が帰結する逆説的な閉塞である。」p185

 
■対論

 大澤の「第三者の審級」について、金子勝は批判的だ。批判点は、「第三者の審級」という概念が幅広く使われすぎているということと、「絶対的他者の存在」があって初めて究極の自由や寛容がありえる、と大澤は言うのに、結論部分では「絶対的他者(第三者の審級)という位置は空席になっている」と言ってしまうと、小泉純一郎や石原慎太郎のようなカリスマの登場を防げない。

金子「キリスト教やユダヤ教の一神教的な問題を、どこかで引きずってしまうポスト・モダン的な「第三者の審級」という議論に僕はどうしてもなじめない」

金子「大澤さんの場合、「普遍性は特殊性の結晶化」と言いながら、西洋近代=普遍性ではないと言うための文脈で、「普遍性は無である」という言い方をする。これは禅問答に近いんじゃないか」

大澤「厳密に言うと、僕は「普遍性」と<普遍性>
とを区別しているはずです」


また、金子は、大澤の「合意されたレイプ」論にも疑問を呈する。

「身体の自己所属という前提を否定した上で、それをベースにして、別のタイプの他者との関係性が抗争できるのではないか」p255

「文明の衝突という欺瞞」ノート

2004年05月02日 | 読書
書評は近々bk1に投稿するとして、今回は付箋代わりのノート。

原著は2001年9月から10月にかけて書かれた。

★文明概念の誕生

 「文明の概念が出現するのは、…(略)…最初に見出されるのは、ミラボーによる1756年の『人間の友、あるいは人口論』である。」31頁
 「ヨーロッパがうっとりと見入っているのは、自分が到達したと思い描いている状態――ヨーロッパの目からすれば、他の人類とは懸け離れた状態である。したがって、この語が暗黙に意味しているのは、ヨーロッパが自分自身について抱いている観念であると同時に、ヨーロッパ自身が抱く卓越した模範としての自己イメージでもある。」32頁

★複数の文明と「西洋」の危機意識

「19世紀の初頭には、文明という語の意味が別の方向性を持ち、しかも複数形で用いられるようになる。」
「文明という語を複数形で用いることは、ヨーロッパの思い上がりに終止符を打つことであり、それぞれの文明の特異性(そのアイデンティティや独自の発展の経路など)を認める事に繋がっていくのである。」34頁

 ヨーロッパの不安は「結局のところ、ヨーロッパが自分の優位性を疑うところから来ている。…(略)諸文明から自分を守らなければならない、という考えが出てくる。」「そこから「黄禍論」等のさまざまな脅威が語られることになる。」36頁

 ハンチントンが何度も依拠している書物は、
『西洋の没落』(オスヴァルト・シュペングラー)

★差異の本質化

 「文明は協約不可能なものであり、たがいのコミュニケーションもない。その混交は不可能であり、また混交されるべきでもない。それはアイデンティティの危機をもたらすだけである。実際、こう主張するためには、文明の隔たりが偶然や偶発的なものではなく、また可逆的でもなく、自然であり、さらには本質的であることを証明しなければならないはずである。根本的な差異を主張するには、もろもろの差異の自然化ないし本質化に訴える以外ないのである」42-43頁

★恐怖を作り出す文化、敵を作り出す文化

「われわれは…(略)…「諸文明」の互換性に確信を持つべきだろう。諸文明は一枚岩でも均質でもなければ、同一性を備えた塊として互いに対立しているわけでもない。諸文明の「アイデンティティ」は、諸文明が相互にもたらしたものによって形成されている。それは、ときに暴力を伴う場合があったとしても、はるか以前から相互交換の実践がなされてきた結果なのである。」109頁

■■付論1 法・歴史・政治(桑田禮彰)

 クレポンの平和論を読む導きの糸はカント。
クレポン自身がカントのテキスト『永遠平和のために』を出発点にしている。カントの平和論は楽観的で非現実的といわれることがあるが、そうではない。
 
 ただし、クレポンは明確にカントの態度とは異なっている。
「クレポンが、ハンチントンの言う諸文明の閉鎖性を批判し、諸文化の開放性を前面に押し出すのに対し、カントは、閉鎖性と開放性を両方とも、永遠平和実現のために利用しようとする。文明ないし文化は開放性とともに閉鎖性を持っている――これが現実であり、その両方を利用しようというのがカントの現実感覚である。端的に言えば閉鎖性は人間集団どうしを互いに分離させるが、世界帝国を阻止する力として利用できるのである」120頁

 「カントが非暴力の道を歩んでいることは、彼が「永遠平和」をめざしている以上、自明と思えるかもしれない。しかし、たとえばカントが『啓蒙とは何か』で、自律のために服従すべき自己の内なる道徳律を、啓蒙専制君主に重ね合わせようとするとき、私たちは正当に、カントの自律の哲学は、きわめて巧妙に権力者への隷属=他律を教え込むイデオロギーではないか、そして結局は非暴力とは隷属のことではないか、と疑ってみることができる。」129頁

柄谷行人は「カントとフロイト」(『文学界』2003.11月号)で興味深いカント=フロイト論を展開している。
 
「後期フロイトが超自我=文化を発見し、それを永遠平和の礎としようとしたのはカント永久平和論の「歴史哲学」の展開である、というこの柄谷論文の主張は卓見である。」136頁

 「罪悪感という文化=自律」134頁

 →※暴力をとめるのは「罪悪感」か? 「政治哲学を排除しつつ法哲学を文化哲学に還元する」(135p)ってどういう意味? 要するに罪悪感に訴えて、倫理を向上させようってことかな。 

■■付論2 文化の力の追求(出口雅俊)

 ハンチントンの文化のとらえかたは「文化本質主義」。文化の独自性や一貫性、その閉鎖性や純粋性に着目するような文化のとらえ方。
 クレポンは反本質主義的文化館を提起する。それは、文化の流動性や可変性、その開放性や雑種性(混交性)に着眼する文化のとらえ方。

「本質主義的な文化観をすべて危険なものとして退けてよいものだろうか」145頁

「「本質主義的文化観VS反本質主義的文化観」という「理論的対立」を、すぐさま善悪をともなった二つの文化観の「現実的対立」へと、性急に還元してしまうことには注意すべきではないか。」146頁

「文化観を支えとした国際平和の実現、というクレポンのある種の文化論的解決に」は疑問がある。p146

「(ハンチントンもクレポンもともに)文化の働きを重視する、というロジックに着目するならば、両者はともに文化主義的な立場を取っている。なぜなら、ハンチントンの文化主義とは、社会的葛藤を「文化論的理由」に委ねるという形で、これを批判するクレポンは、社会的葛藤を「文化論的解決」に委ねるという形で、ともに文化主義的立場にあるからである」p147

「ある考え方や物の見方が、たとえイデオロギーに満ちた嘘や幻想であることを見抜いていたとしても、それを信じるほうが自らの利害に合い、それを心地よいと思えば、人はその快い幻想を簡単には手放さないばかりか、むしろ進んで、そうした幻想に身を任せてしまう」p151(※これはジジェクの発言)

★文化の溢れる時代における文化の敗北

 今日、文化的現実が社会的現実に対して有効な抵抗の力になっていないのではないか。

 「文化という考え方の政治性とは、たとえそれが、文化を通じた支配や暴力であれ、あるいは文化を通じた抵抗や対話であれ、現代社会における文化という場の政治的な交渉可能性を語るものだ。…(略)…カルチュラル・スタディーズは、…文化という場を迂回して作用する権力の様態に直面しているとも言われている」p165

 この例として、沖縄ブームに言及する。

「沖縄文化が前景化される一方で、政治や経済の問題は構造化され背景に退くことで人びとの日常意識には上がらなくなる。端的に言って後景化したのは、沖縄に集中する米軍基地と沖縄振興に絡む利権の問題なのだが、文化の領域に人々の目が向けば向くほど、それらの問題は忘れられていくという構図になっている。(田仲康博「メディアに表象される沖縄文化」『メディア文化の権力作用』)」p167-168

「文化の肯定性を救おうとするベクトルの向きは、当然保持されるべきである。文化の脱政治化は目指されなければならない。だが、文化の脱政治化は、文化に対する私たちのまなざし自体を脱政治化することによっていは達成されない。むしろ、文化の力を否定性から肯定性へと引き上げるための「階段作り」の手だてを、私たちは模索しなければならない。」p172

「私たちは、日常生活のさまざまな場面で、文化を主体的に語り、あるいは聴きながらも、そのような行為によって主体化されてしまう「いくつもの自分」や「思わぬ自分」に気づくことができる、そういう個別性と受動性を常に持ち合わせた主体である。文化に対する政治感覚を養うためには、こうした「文を語り/聞く」自分の位置の個別性と受動性の理解に、まず心掛けることだ。日々の日常生活のなかでのそうした「文化的」営みが、文化の否定性の発現を絶えず封じ込め、文化の肯定性を絶えず発現させてゆく手立てとなるだろう。
 そして、このように、文化を文化の力として追求することが、「文明の衝突」論という水平線をこえ出て、その先にある力に満ち溢れた文化の海原へと誘う帆となり、風となるはずだ。」p175-176


■■付論3 文化と翻訳(マルク・クレポン)

 ベンヤミンの翻訳論を手掛かりに、文化の翻訳について考察する。

「移行、交換、転移の数々によって、それぞれの文化がアイデンティティを獲得すると同時に、それらに共通した性格も明確になる」p180
 
 ★文化の脱構築

 ★文化を横断する翻訳

  「文化的アイデンティティの流動性」




▲今後の参考文献(Read!)

『イデオロギーの崇高な対象』(ジジェク著、青土社 2000)
『民族誌的近代への介入――文化を語る権利は誰にあるのか』(太田好信著 人文書院、2001)
「文化という罪――『多文化主義』の問題点と人類学的知」『文化という課題』岩波書店、1998

「挑発する知」

2004年04月23日 | 読書
挑発する知 国家、思想、そして知識を考える
姜 尚中、宮台 真司著 : 双風舎 : 2003.11

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 大雑把に言ってこれまで、「姜はオーソドックスな民族主義者」、「宮台はクールでドライなリアリスト」っていうイメージがあったのだが、どうやらそれは間違っていたようだ。

 姜は思っていたほど古いタイプ(オールド・ボルシェヴィキってほどの古典派じゃないけど)の在日研究者じゃなかったし、宮台は予想ほどにはぶっとんだ意見を出しているわけでもない。

 発話者の名前を伏せて読んだら、いったいどっちの発言なのかわからなくなるぐらい、二人の意見はよく似ているし、けっこう一致点も多い。

 宮台真司が前書きで書いているように、姜尚中は国民国家の幻想性を糾弾するが、宮台は国民国家をひとまず認めた上でそれをいかに制御するかという戦略を立てる。この二人の戦略の違いが対談で顕著になるはずだったのだが、実際に読んでみると、なんだかよく似たことを言っているし、互いへの敬意が満ちあふれていて、もっぱら宮台が挑発し、姜尚中は大人の分別をみせてそれに逆らわず、うまくかわして論を立てているように見受けられる。

 だから、本書には、前代未聞のすれ違い対談集(正確には往復書簡集)『動物化する世界の中で』のようなスリルや危機感やいらだちがない。読者に安心と安全を与えてくれるよい本である。とはいえ、「安心と安全」とばかりは言っておられなくて、やっぱり宮台は挑発者であり、宮台ってコンサバだったの? なんていうイメージもふつふつと湧いてくる場面がしばしば。彼は自分が「左翼」か「右翼」かという枠で分類されることを嫌う。というか、そういう二分法を脱構築してみせる。そういう二分法はもう時代遅れなのだ。

 本書は対談なので、対談にありがちな論の彷徨や遊撃があり、論者たちのふだんの仕事に接していないとわかりにくいところやまどろっこしいところがあったりするので、やはり、もっと体系的に理解するには彼らの単著を読むべきだろう。

 遅まきながら、本書のテーマを紹介しておこう。語られるのは、ナショナリズム、国家論、知識人論。丸山真男の後継者を自認する宮台の国家論はたいへん興味深い。
 対談の最後にメディア・リテラシーが話題に上るのだが、これがなかなかおもしろい。敗戦直後のGHQによるメディア・リテラシー教育などは革命的と言えるぐらいにメディアの本質をついた内容だっだことが宮台によって語られる。

 ところで、装丁に注目。本の耳の部分に二人の顔写真が隠されている。右から左へページをずらせば宮台が、左から右へずらせば姜の顔が浮かび上がる仕組みになっていて、「ほおぉ~、凝ってるやんか」と感心した。

 本書はテーマが大きく幅広すぎるきらいがあるので、語られた一つずつのテーマについてそれぞれもう少し突っ込んで彼らの仕事に接する必要があるだろう。
 とりあえずまず入り口のとっかかりを得るには格好の書といえる。用語解説も欄外についているので、初学者にとって親切な作りになっている。



「文明の衝突」

2004年04月23日 | 読書
 これは各方面から批判を浴びるのは当然といえる書だ。ただし、現代文明の状況や政治情勢についてはなかなか勉強になった。
ハンチントンは現状を変革しようとか、何かの理想に向かおうとかいう気は全然ないみたい。現状分析についてはなかなか読ませるものがあって、それなりにおもしろかったけど。

が、最後の世界戦争シミュレーションにはぞっとしたね。

ハンチントンは20世紀にイスラム教徒が暴力的にふるまったと語っている、その原因を以下のように記述する。
「なぜイスラム教徒は、他の文明圏の人びとよりも集団間の紛争に巻き込まれることが多いのだろう?」

 第1に、イスラム教徒と非イスラム教徒が物理的にすぐ近くに住むことになった。

 第2にイスラム教は、キリスト教以上に神の絶対至上権を唱える。

 最も大きな理由は、イスラム社会には核となる国がないこと。
   (以上、401-403ページ)

また、ハンチントンによれば、人口比の差異が戦争を生むという。若年人口の増加率がたかいほど、その国(文明)は好戦的になるというのがハンチントン説だ。

ハンチントンは文明の差異ばかり強調する。それでは異文明・異文化は永遠に理解し合えないという結論しか生まれない。彼の説を演繹すれば戦争は不可避という結論しか生まれない。

 それにしても、世界八大文明のうち、日本文明が独自の文明としてカウントされているのには驚いた。一国一文明の栄誉に預かったのは、日本とインドぐらいか。あ、中国もだけど、大きさが違いすぎる。


「カンバセイション・ピース」

2004年02月26日 | 読書
カンバセイション・ピース
保坂 和志著 : 新潮社  2003.7

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 小津安二郎の「秋刀魚の味」のDVDを見た翌日から読み始めたせいか、「これって、小津映画みたいな小説やなあ」と感じ、横浜ベイスターズを応援しに球場へ通うシーンが延々描写されると、ますます「やっぱり小津やんか」と思ったのは、わたしだけではあるまい(「秋刀魚の味」の場合は大洋ホエールズだったが)。

 『書きあぐねている人のための小説入門』を読んでから本書を読むと、作者がこの小説で何がしたかったのかがとてもよくわかる。この物語は、だらだらだらと始まってだらだらだらと終わる。主人公である作家は一日中だらだらとああでもないこうでもないといろんなことを考えているのだが、そのだらだら感が好きな人にはたまらなく響いてくる作品だろう。わたしは小津より黒澤明が好きなので、あんまり性に合わないのだが、なんでこんな日常生活の漬物みたいな小説を書くのかを本人の弁を借りて言えば、「フィクションとはいえ、小説は現実と連絡をとりながら静かに離陸していくのがいい」からということらしい。

 異様に長ったらしい文を連ねたかと思うとブツブツ切ってみたり、保坂和志の文体はひょっとしてまだ定まっていないのではないかと思わせるような独特の奇妙なリズムをもっている。あるいは、この「不安定感」が保坂の「おきまりの」文体なのかもわからないが、ほかの小説を読んでいないのでなんとも言いがたい。わたしはこの作品のテーマとか主人公の思考が語っているさして目新しくもない哲学よりも、この文体や、一日中だらだらと思考しているその様子を書き連ねているということに興味を惹かれた。つまり、保坂の哲学そのものではなく、「哲学している小説家」を書くという行為にそそられたのだ。メイキング哲学小説とでも言えばいいのか、サルトルの哲学小説に比べるとはるかに読みやすい本作のほうが日常生活の中にある突起に様々に気づかせてくれるものがある。

 保坂は、『書きあぐねて…』の中で、この小説の会話文を読みにくくするため、わざと3割ほど削ったりしたというのだが、わたしはさらにそれを3行飛ばして読むという荒業で読了してしまった。隅々まで舐めるように読んだ読者には申し訳ないが、わたしは3行飛ばしや10行飛ばしをあちこちで展開しつつ、それでも楽しんで読んでしまった。

 ところで、この書評を書く前に、bk1書評子さんたちの投稿を読んでみた。なんというおもしろさ! いたく感心したので、全員の書評に「はい」ボタンをクリックした。
 オリオンさんのおかげでタイトルの意味がわかったし、驚異の多読家みーちゃんさんのいつもながらのおもしろい評を楽しませてもらったし(カバー評はそれだけで一冊の本を出せる!)、yama-yaさんの自己にひきつけた読みの深さにも共感したし、深爪さんが作品と格闘された思考の跡にも興味惹かれ、山さんの駄作宣言にはなるほどと納得してしまったし、すなねずみさんの、読者の心情がよく伝わる書評は大好きだし、佐々木昇さんの簡潔で的を射たコメントはもうちょっと長文を書いてもらえればもっといいけど、栗山光司さんの、講演会の内容と横断させるというテクストを離れた読みもおもしろい。

 わたしは8本も書評がついている本にはそれ以上投稿しないことにしているのだが、今回は書評が素晴らしかったので、ついついそれが言いたくて書いてしまった。小説そのものより、書評のほうがずっとおもしろいと思ってしまうわたしは保坂ファンとは言えないのだろうなぁ。 (bk1投稿)


「書きあぐねている人のための小説入門 」

2004年02月26日 | 読書
書きあぐねている人のための小説入門
保坂 和志著 : 草思社 : 2003.10

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 本書は実作者が教える小説の書き方という売り込みの本なのだが、なるほど大変参考になる実践的示唆に富んでいる。なによりまず、「テクニックで書くな」ということ。さらに一歩進んで、テクニックを使わずに書けという指示は大変興味深い。

 確かに、技術で小説は書けない。文章テクニックを教えるような小手先の技は、小説を書く以前の問題だ。本当に書きあぐねている人々はテクニックで躓いているわけではないだろう。というのも、出版社主催の新人賞受賞作を読んでいると、文章テクニックは驚くほど高いことに気づくからだ。文体だけで最後まで読ませてしまうような作品もある。だが、それだけのことだ。作文技術は学校で習えばよろしい。この本はそれ以上のことを、まさに原稿用紙に向かってさあ今から書くぞという意気込みだけ空回りしてうんうん唸っているような人に向けて書かれている。
 その示唆・指示は具体的だ。例えば、小説以外のことを考えよ。例えば、自己実現や自己救済のための小説を書くな。例えば、哲学書を読め。例えば、テーマを予め措定するな、風景を書き込め、ネガティブな人間を書くな、ストーリーに頼るな、云々。

 また、本書を読み進めるうちに、小説の書き方を知るという当初の目的を超えて、この本が文芸評論としても読めることに気づく。古今東西の様々な小説を引き合いに出してその解説を開陳してあるくだりは、既読の小説について新たな読みを提示してくれたし、未読の作品については大いに興味をそそられる、優れた読書指南書となっている。

 さらに、保坂自身の作品がどういう意図で書かれたのか、その執筆過程もよくわかり、楽屋裏を覗いたような楽しさがある。わたしは本書を読んだ後、初めて保坂の小説『カンバセイション・ピース』を読み、それから本書を再読してみた。なるほど、わかりやすい。これは両書、セットで読むのがベストとみた。

 本書の中でもっとも大きなヒントになったのは、「風景を書く」その書き込みの細かさについて触れた部分と、パソコンではなく手書き原稿で書けという指摘だ。パソコンで書く場合も、手書きのような試行錯誤のあとを残す書き方をすればいいのかもしれない。風景が大切だと長々と書いている割には、保坂の『カンバセイション・ピース』の風景描写はおもしろくない。その原因は、例えば樹木の固有名を連発したところにある。樹木の名前を知らない読者にはさっぱりイメージが湧かないのだ。やはり風景描写は難しい。風景描写なら埴谷雄高ですな。

 ところでこれを読んで小説が書ける気になったかというと、それがどうも心許ない。やっぱり書けないものは書けない。どうやら、小説に求めているものが保坂とわたしでは異なるようだ。などと思って『カンバセイション・ピース』を読むと、今度は書けるような気になる。
「これやったら、わたしにでも書けるやんか」と一転、楽観的な気分になった。でもきっと、誰にでも書けそうと思わせておいてやっぱり書けないっていうのが小説なんだろうな。読み手を不安にさせたり安心させたりやっぱり落胆させたり、けっこう罪な本ではある。


「百鬼園随筆」

2004年01月23日 | 読書
百鬼園随筆
内田 百間著 : 新潮社(新潮文庫) 2002.5

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 内田百間(百鬼園)のユーモアのセンスや文体は師の夏目漱石譲りだと感じるのはあながち間違いではないだろう。自分自身を嗤い、世間を嗤う、そのユーモアには漱石と同じ、偏屈者の粋が感じられる。

 随筆集だから出来不出来が確かにあって、爆笑ものあり、含蓄深いもの、ハラハラドキドキものあり、かと思うとなんということなく読み飛ばしてしまうようなものもある。が、とにかく全編これ笑いに溢れていて、その笑いの向こうに寂寞感も漂い、読者の喜怒哀楽を誘う。

 随所に名言・迷言があり、また卓抜な社会観察眼が窺えるのにはうなってしまう。借金王百鬼園先生は、借りた金は別の借金の返済のために使うという、今で言えば「サラ金地獄」にはまっているのだが、この借金を描いたくだりは白眉である。

 「金は物質ではなく、現象である。……金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。……金とは、常に受け取る前か、又はつかった後かの観念である。受取る前には、まだ受取っていないから持っていない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているのは悔恨である」

 内田百間がマルクスを読んでいたとは思えないが、貨幣の物神性をものの見事に言い当てている。しかもそれが、自らの借金生活の言い訳のために思いついた洞察というところがおもしろい。

 わたしはこの本を通勤電車の中で読んでいて、声を出して笑いそうなのをこらえるのに苦労した。「梨の腐ったのが林檎で、林檎の腐ったのがバナナ」などという噴飯ものの科白はどこから湧いて出るのだろうと可笑しくってしょうがない。
 と同時に、百間の随筆にはある不安が底付いている。ドストエフスキーの『二重人格』や『地下室の手記』を読んだときのような不安、言い換えれば、道を踏み外していきそうな不安、だ。百間本人は世の中を斜に構えて見ているのだが、そのはずし方が微妙で、「斜に構えられた世間」の目から見れば、危なっかしくてハラハラする。読者は「百間の目」と「世間の良識の目」の双方を行き来して感情移入してしまい、宙ぶらりんの不安感を味わう。
 偏屈を通そうとするにはそれなりの矜持が必要であり、百間の随筆には悲しきインテリの矜持と自嘲が垣間見える。

 新字体、新かなづかいに直された本書はたいへん読みやすく、お奨めの一冊といえよう。できれば、各随筆の初出年月を書いてほしかった。わたしは書かれた時代背景とクロスオーバーさせながら文章を読むたちなので、こういう情報があればありがたいと思う。
 そういう意味では、巻末の川上弘美の「解説」は全然解説になっていなくて、何の役にも立たない。有名作家に文庫本の解説を書かせることが流行っているのかしらないが、川上弘美の文章自体はおもしろいけど、内容は解説ではない。どうせなら作品解説、というか、「解題」を付してほしい。


「近代上海の公共性と国家」

2004年01月03日 | 読書
近代上海の公共性と国家
小浜 正子著 研文出版 2000

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 歴史研究というのは、資料の山に埋もれて宝を掘り出す労多き仕事だ。資料は山のようにある。あるが、本当に知りたいことを書いてあるものは案外、出てこない。

 それこそ、膨大な時間の無駄にうんざりしながら、それでも過去を探り当て、再構築し、現在の光に照らし出して今を生きるわたしたちに道しるべとなるものを見つけ出そうと努力する。その醍醐味は、研究者・学徒にしかわからない苦しみと喜びである。
 そんな苦労の跡と研究者魂を文面から窺うことのできる研究成果が本書だ。

 従来、歴史研究の場では政治史が偏重され、戦後はその反動で「人民史観」がもてはやされ、その後はその合間を縫うように「社会史」がクローズアップされたが、その流れからいうと本書は「社会史」と「政治史」を繋ぐ試みといえる。

 上海という大都市を研究する場合、とかく階級闘争史・抗日運動史ばかりに焦点をあてられたようだが、本書はこれまで顧みられることの少なかった「社団」(社会団体と同義)をとりあげる。著者は、国家と私領域の間にあって地域社会の公共的機能が行われる場を「公」領域と定義し、その公領域の重要な役目を担った社団の実相を明らかにしていく。
 「社団を軸として、上海の都市社会を舞台に、中国近代の地域社会の構造とそこにおける公共性の性格、国家-社会関係について明らかにすること」(325p)が本書の課題である。

 社団はいくつかに分類できるのだが、わたしはとくに慈善団体に興味をひかれた。どういった慈善団体が存在するかを見ることにより、何が1920年代上海の社会問題であったのかがわかるからだ。

 それから、社団の一つ、「救火会」(消防団)についての叙述も関心をそそられた。救火会が有事には武装団体に早変わりするところなど、その社団のもつ性格によって、「公共性」の形成も様々であることがよくわかる。

 本書の詳細な記述により、社団の役割や、それが国家権力の強弱・消長とともに柔軟に国家と私領域をつないでいったことが明らかになる。やがて国民党政府によって社団は国民統合の手段とされ、社会主義政権の成立に伴って国家権力へと吸収され、解体された。党の一元的支配は「公」領域を解体し、人民の直接的個別管理へと向かったのであった。

 確かに、社会構造の変遷のダイナミズムは本書でかなり詳細に検討されたが、それを支える/それが生み出す社会意識についての記述がなかったのが残念であった。キリスト教社会事業の倫理基盤なら比較的理解しやすいのだが、中国で富裕層が慈善事業に手を出すのはなぜなのか、そのメンタリティのよってきたるものは何なのか、わたしには理解しづらい。だが、そういったことの解明は本書の目的から外れるのだろう、ほとんど言及がなかった。中国近代史の専門家にとってはいわずもがなの事かも知れないが、わたしには少々腑に落ちない点であった。

 そして、何度も「エリート」という言葉が登場するのだが、それほど重要な「エリート」(商工ブルジョアジー)に関して説明がないのもまた不満が残る。社団を組織し指導したエリートたちの思想と行動が上海社会の公共性を育む源泉であったなら、そのエリート層はいかに形成されたのか、そこを知りたいと思う。彼らの出自は? 洋行の有無は? 学歴は? 思想的背景は? そういったことがわかりにくい。

 社会主義政権下でいったん解体された社団が、開放政策の進展に伴って復活し始めているという。本書は過去の社団の動きを追うだけではなく、これからの中国社会の未来を占う優れた視点を持つ。わたしの個人的興味にすぎないのかもしれないが、こういう地道な歴史学の成果と社会学的アプローチを横断させるような研究をこれからも続けてほしいと思う。続刊も期待したい。

「生きて帰りたい」

2003年12月25日 | 読書
 中国残留日本人孤児の存在が広く知られるようになって久しい。引揚者の悲惨も現地に残された孤児たちの悲惨も、引き上げてきた親の苦しみも、たとえば『大地の子』(山崎豊子)などで知られて、とりわけTVドラマは視聴者の感涙を呼んだそうだ(わたしはTVも原作も読んでいない)。

 「満州」からの引揚者の手記といえば真っ先に思い出すのは、藤原てい『流れる星は生きている』だ。敗戦後すぐにベストセラーとなった鬼気迫るドキュメントは、戦禍を生き延びた同時代人の胸を打ち紅涙を絞った。
 このような「名作」の誉れ高い作品が現在もなお読み継がれているときに、なぜ改めて引揚者の手記なのか、とも思うかもしれないが、子連れで引揚げてきた苦労を体験した人々の数も少なくなった今、ふつうの人々がどのように戦争を体験し、何を見、何を教訓としたか、生き証人が死に絶える前に現代を生きる者たちが知ることの大切さを改めて痛感する。

 女ばかり7人が、合計7人の子どもを引き連れての逃避行。1945年8月9日、ソ連の参戦を国境の町で知った著者は、戦火を逃れて荷物も持たずに日本を目指して逃げる。だが、彼女には生後1ヶ月の乳児がいた。同じように乳飲み子を抱えた女たちが集団で引揚げていくさまは、文字通り筆舌に尽くしがたい労苦の連続である。

 日本へ帰国できるまでの1年間、筆者たちがどのように知恵を働かせ、懸命に生きてきたかの迫真の記録は、とても57年も経ってから書かれたとは思えない息を飲む細密な描写だ。

 本書には『流れる星は生きている』と同じように、乳飲み子を連れた女の地を這う闘いが描かれているし、道中にころがる死体、もはや動かぬ母親のしなびた乳房に吸い付き泣き喚く幼児、仲間の死、「満州人」からの侮蔑の視線、といった残酷な実態が描かれているが、一方でユーモアも随所に溢れている。
 どんなに悲惨な状況でも忘れないこのユーモアと著者のバイタリティによって読者は救われた思いがする。

 とりわけ可笑しかったのは、ある金持ち「満人」のエピソードだ。日本の支配下では満州国旗と日章旗が豪邸の門にはためいていたのだが、国府軍がやって来ると「祝、戦勝、蒋介石総統閣下」という横断幕が掲げられ、ソ連軍がやってくれば「歓迎、蘇聯軍、斯太林(スターリン)大元帥閣下」に変わり、中国共産党軍が支配者になれば「歓迎、中共軍毛沢東主席閣下」と変わる。その変わり身の早さと臆面もない追従には笑ってしまう。して、その金持ちはどうなったかというと……本書を読んでのお楽しみ。

 『流れる星は生きている』は体験がまだ生々しかったときの手記であり、そういう意味では当時の日本社会の差別意識を如実に反映した描写も多々あり、また、一緒に引揚げてきた仲間への悪感情なども整理されないままに描かれているため、読者をたじろがせるものがあった。
 それに比べて本書はやはり57年の歳月があとから意味付けたであろうと思われる著者の卓見が随所に描かれていて、共感を覚える。著者は自分達の身の上をいたずらに嘆いたり恨んだりするのではなく、日本の植民地支配がこのような悲惨をもたらしたことをちゃんと見抜いていた。

 イラクへの派兵という、軍隊を外国へ堂々と派遣しようとする今、戦争が生む悲劇とは、戦場の凄絶さだけではなく、銃後の苦しみもあるということを知るべきではなかろうか。戦争とは多面的・重層的な局面を見せるものであり、たとえ今は銃を撃ちに行くのではなくても、その結果がもたらすかもしれない災厄に想像力を馳せてみる必要があると思う。劣化ウラン弾という名の核兵器を使用したために米兵が苦しむ後遺症もまたその一つだ。

 ところで、こういった手記の場合、とかく「母性愛の強さ」が言及されるが、それは必ずしも的を射ていない。なぜなら、子を持たない女性も同じように共同生活を頑張り抜いたし、「母性」に人の生きる力を還元させてしまうことは短絡的だと言える。執念ともいえるような「生」への力はどこから生まれるのだろう。現代を生きるわたしたちにこの力があれば、少々の苦しみにも耐えていけるだろうにと思ってしまう。だからといって戦争はもう絶対にごめんなのだ。
 戦争で子どもを死なせた親達の無念と慙愧は一生消えない。その過ちと悲劇を二度と繰り返さないために、ぜひ本書を読んでほしいと思う。本書はとても読みやすく、一気に読み通せるおもしろさと魅力を持っている。もうすぐ自衛隊がイラクに派兵される今こそ、お奨めしたい。

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生きて帰りたい  妻たち子たちの「満州」
 平原社 2003 森田尚著


本格小説

2003年12月23日 | 読書
 水村美苗は『続・明暗』(1990年)を書いて有名になった文学者である。夏目漱石の未完の大作の続編を、漱石そっくりな筆致で書き上げたとして一部でえらく話題になった。

 そして、次に公刊した作品が『私小説』(1995年)だ。まさに私小説であり、水村の自伝ともいえる。だが、自伝と私小説は似て非なるものであるから、当然、事実がそのまま描かれているわけではないだろう。この手の小説を書くのは随分勇気が要る。作家というのは友人を減らす因果な商売だ。自分のことを書かれたのではないかと邪推する人々が後を絶たないだろうし、確かに身近な人間をモデルにすることはあるだろう。が、あくまでも創作なのだ、そのままを書くわけがない。でもモデルにされたほうはいい気持ちがしない。水村美苗の『私小説』にも彼女の家族が中心人物として登場する。実はほとんど彼女の姉の話だといっても差し支えないくらいだ。母にせよ姉にせよ、彼女が描いた家族像は、肉親にしかわからない愛憎相半ばする複雑な感情に支えられている。

発表されたのは『私小説』『本格小説』の順なのだが、わたしが読んだ順は逆だ。

 『本格小説』、これは新たな私小説のジャンルを切り拓いた作品といえるのではなかろうか。この小説は、物語本編が始まる前に長い長い序文がついている。気の短い読者なら、もうここでいやになって読むのを止めるだろう。まずここで読者は第一段階のふるいにかけられる。
 次に、長々と語られる東京成城の上流階級の人々の生活と、それを見る下々の視線。この語り口に嫌気が差す人ももう、上巻が終る前に脱落する。

 長い長い恋愛小説。だが、主人公二人の恋愛が始まるまでで上巻が終ってしまう。この本を恋愛小説だというコピーで売るのは間違いだ。これは戦後を生き抜いた血族の華麗なる栄光と没落の歴史であり、自己の血を憎み社会を憎みただ一人の女を愛した男の上昇と喪失の物語である。

 戦後史に興味のない読者ならば、途中で放り投げてしまうだろう。だが、上巻も読み進むにつれ、どんどん物語りに引き込まれ、下巻になるともう目が離せなくなるおもしろさに満ちたこの物語を、最後まで読んだ読者は二度驚かされてしまう。ここには、物語を一人称で語った語り部の女性の問わず語りが基底にあり、次にそれを聞かされた加藤祐介という若者がその話を作者の水村美苗に語ったということになっている。
 二重にフィルターのかかった物語を私小説として書く作家水村。その水村は、最初の語り部であった女性の語りを最後になってまったく異なる読みへと変えてしまうある罠をしかけている。
 最後になって、読者はもう一度小説の最初に戻って読みを訂正しなければならない羽目に陥る。このように、物語の意味を根底から変えてしまう転換を仕掛けた作家の周到な筆には感服する。

 説明口調のように長々と続く地の文なのに、それが退屈を生まず、かえってスルスルと読み進めてしまえる巧さ、構成の巧みさ。また、台詞には当時を生きた人々の生活がそのままににじみ出る懐かしさがふんだんに盛り込まれている。これはよほど膨大な資料に当たっていなければできない仕事である。
 戦後も半世紀以上を過ぎた今の社会では、人々のしゃべりかたも語彙も随分変わってしまった。その変わる前の昔の語り口をそのまま再現させている部分には作者の博識と多読ぶりが窺える。

 上記2作品はどちらも私小説という形式をとってはいるが、作風がかなり異なる。純文学の香り高く、より感動的なのは『本格小説』のほうだが、『私小説』を先に読んだほうが理解しやすい。


「ルポ解雇 この国でいま起きていること 」

2003年12月21日 | 読書
今の日本社会では、「能力による選別は差別」とは認識されていない。「能力に応じて働く」のはよいことだとされている。公正に能力に応じているのだから、能力のない者が負け組になるのは当たり前。そうなりたくなければ努力しましょう。この論理に歯向かうのはそんなに容易くない。

 そもそも能力とは何か。能力の有無は誰が決めるのか。ほんとうに「公正な競争」が保証されているのか?
 問題は何段階にも存在する。心身に障害のある人は? 病気になったら? 家族の介護が必要になったら? 企業は常にベストコンディションでフル稼働する人材だけを求める。働く者の不安などお構いなしだ。

 わたしの常日頃感じているこのような疑問や憤りを、本書はさらに強固なものにした。

 本書で明らかになる解雇の実態は驚くべきものばかり。経営側は「会社のものを盗んだ」「密輸の罪で逮捕歴がある」等々の嘘をしゃあしゃあと捏造する。問題は、嘘を嘘と立証する責任は嘘をでっちあげられた側にあるということだ。逮捕歴だの前科だのは、それがあるならば調べればわからないでもないが(それすら困難)、「逮捕歴がない」「前科がない」といった、「ないことの証明」はほとんど不可能に近い。

 驚くべきことに、労働事件を裁く裁判官の世界にも「不当解雇」や「職場のいやがらせ」はあるのだ。元裁判官のインタビューを通じて明らかになるその実態は、民間企業で行われる上司からのいやがらせ・配転をちらつかせての締め付け・理由を明示しない解雇などとまったく同じで、しかも枚挙に暇がない。

 だから、裁判官は不当な虐めや配転の憂き目に遭わないためには、労働事件を労働者側にたって裁いてはならないのだ。そもそも最初から、労働裁判は労働者側に不利なことだらけだ。労働者の労働実態を証明する資料はすべて会社が握っているのだから。上司ににらまれてまで会社に不利な証言をしてくれる同僚を探すのも難しい。

 今、若者が正社員になれずフリーター化することが問題になっているが、本書によれば、それだけではなく、地下水脈にうごめくような「闇の労働者」が増えているという。製造業種には派遣社員を雇用することが禁止されているため、法の目をかいくぐって、「請負」という形で別会社に作業を委託するのである。別会社(事実上の派遣会社)は、委託を受けた業務につかせるため、自社の社員を派遣する。建前は請負でも、実態は派遣であり、派遣された労働者は安い時給/日給で働かされる。請負先の正規のパート・アルバイト社員よりさらに下位に位置づけられ、陰惨ないじめにあい、簡単に使い捨てられるという。その詳細な実態を読むにつけ、底なし沼のように歯止めの無いこの国の首切り地獄に暗澹たる思いと怒りが湧く。

 仕事というのは派手で目立つことばかりではない。実際には地道な仕事を黙々とこなす多くの人々が支えているのだ。だが、熟練者から順にクビを切り、経費削減だけを追い求める経営陣。そんな実態の一つ、関西航業争議団のエピソードは胸を打つ。飛行機の安全にかかわる清掃・点検作業を黙々とこなす単調な労働。寡黙な労働者たちが、労組をもっているという理由だけで解雇される。だが、一見単純な清掃作業中に彼らは航空機の安全を左右するような不具合を見つけ出してしまう。何度も航空会社から表彰されたこともあるような熟練労働者なのに、自分たちの意のままに動かないとみるや、経営陣は彼らの首を簡単に切るのだ。

 著者は、経営者側のインタビューも行っている。オリックス会長宮内義彦氏の解雇への考え方、競争社会を肯定する論理は、なるほど経営者として首尾一貫した思想に貫かれていて、それなりにわかりやすい。だが、弱者への視点がまったくない宮内氏の楽観的な見解には背筋が寒くなるものを感じる。<一部のエリートによって豊かな経済社会を成り立たせ、世界の先進国の座を守る。落ちこぼれた者は仕方がないが、最低生活ライン以下になれば生活保護などの福祉で拾いあげる>。このような社会が果たしてほんとうに豊かで心安らげる社会なのだろうか。

 2003年6月に解雇ルールを盛り込んだ改正労働基準法が成立した。施行は目前の2004年1月1日。解雇におびえ、過労死の道へ続く労働砂漠をさまようこの国の働く人々にに未来はあるのか?

 解雇された人々は、時間と金をかけても名誉のために裁判を起こす。島本氏は「あらゆる解雇裁判は「名誉のための闘争」だ」(133p)という。現状は、働くことは生きる喜びだといえる社会とはほど遠い。

ルポ解雇 この国でいま起きていること
島本慈子著. 岩波書店, 2003. (岩波新書)


「私小説」 (新潮文庫)

2003年12月18日 | 読書
私小説 From left to right
水村 美苗著 : 新潮社(新潮文庫): 1998.10

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 主人公水村美苗には二歳年上の奈苗という姉がいて、二人はそれぞれ13歳と15歳で家族とともにニューヨークに移住した。そのまま20年が過ぎ、彼女達は結局のところ、どうしてもアメリカ人になれなかった。そして30歳をすぎて結婚せず、かといってそれぞれの道で成功したわけでもない、延々と続くモラトリアム人生を無為に過ごすような毎日を送っている。そして毎日毎日数時間もの長電話が姉妹を繋いでいる。

 この小説のもっとも斬新なところは、横書きであるということ。そして、英語がふんだんに会話に登場し、日英語小説となっている点だ。英語がまったく理解できない読者には読めない小説だから、最初から読者層は限られている。とはいえ、高校生程度の英語力があれば楽に読めるような英語でもあるので、それほど恐れることはない。

 この小説を通して繰り返し何度も描かれているのは、異邦人の生きにくさだ。アメリカという国で、東洋人が生きていく辛さや屈辱感が作品のそこかしこに溢れている。日本人は自分が東洋人であることを意識しないが、アメリカへいけば日本人は韓国人とも中国人とも区別がつかない。わたしたちが黒人を識別同定できないように、アメリカ白人は東洋人を識別できない。日本人である美苗と奈苗姉妹は、自分達が韓国人と同列に扱われたことに激しい屈辱を感じるのだ。そのどうしようもない差別意識を内と外から眺めるような日々を送る彼女達は、永遠にアメリカ人にはなれず、かといってもはや日本人にも戻れない。

 揺らぎ揺らいで足を下ろす場所も身を落ち着ける場所も定めえない、彷徨の女たち。そんな美苗にも転機が訪れる。日本に帰る決意を固める日がやってきたのだ。『私小説』は、決して短い小説ではない。だが、小説の中で流れる時間はたった一日のことだ。延々と続くのは美苗の回想。20年にわたる水村家の人々のアメリカでの生活が描かれている。

 この小説に描かれたアイデンティティの揺らぎは、美苗やわたしたちの世代に特有の現象かもしれない。今の若者なら、アメリカへいっても美苗たちのように苦しむことはないだろう。作者とわたしが同世代だからか、共感を覚えたり同世代特有のノスタルジーを感じる部分が多い。
 典型的都市プチブルのお嬢様生活に慣れきった姉妹たちには異国で貪欲に生きていくガッツもなければ自分の才能へのこだわりもない。しかし上昇志向だけは身に染み付いて離れない。そのプライドと甘ったれ根性にひきかえた孤独。それを悲しい性(さが)と他人事のように嘲笑(わら)えるだけの冷静さをわたしはもてない。

「文明の内なる衝突」

2003年12月11日 | 読書
文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える
大沢 真幸著: 日本放送出版協会(NHKブックス): 2002.6

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 「9.11」から2年が過ぎ、日本国の首相は自衛隊をイラクに派兵することを決めた。9.11以降、さまざまな言説がテロをめぐって繰り広げられ、反戦も好戦も論議が入り乱れた。
「テロ」に対する有効な手立てがないままに左派は反戦を言いつづけたが、そこに漂う無力感は否定できなかった。それはなぜか。われわれは「テロ」をどのように捉えるべきなのか。この問いに答えるのが本書である。

 著者は冒頭、現在の社会哲学を三つの相互に対立する潮流に分けて整理し、それらを「社会哲学の三幅対(さんぷくつい)」と呼ぶ。簡単に言えば、前近代・近代・ポストモダンというこの三つの思想潮流は、実はいずれもが弁証法的に循環せざるをえない構造をもっているという。そして、その三つとも今回の「テロ」に有効な判断を提供できない。

 序章でこのように問題提起と整理をしたあと、大澤氏はイスラム教とキリスト教-資本主義の類似点と相違点を具体的に挙げていく。氏にいわせれば、資本主義も広義の宗教である。そして、イスラム教は実は資本主義に反するような教義を持つ宗教ではなく、むしろキリスト教の方が資本主義に反するような教義を持つ。ではなぜキリスト教が資本主義により親和的に働き、有利となったのか?

 この謎を解いていくくだりは大変興味深く、おもしろい。必然的に話は大きく抽象的になり、また一方より深く個人の内面へと降りていき、「恥」をキーワードに「他者」論を展開していく。少々茫漠とした話が繰り広げられ、それはそれでおもしろいのだが、一体どこへ着地するのだろうという不安もまた読みながら抱いてしまう。

 本書冒頭のわかりやすさが最後まで持続すればいうことなしだったが、明晰さが多少濁る部分があり(それだけ立てられた問いへの答えも答え方も難しいということだろう)、その分だけ★ひとつ減らしておくが、お奨めの書であることは間違いない。終章に大澤氏は、社会哲学の三幅対を乗り越え、イスラムと資本主義の対立を止揚する方途とその希望の道筋を語っている。亡国の首相に読ませたい。 (bk1投稿)


「論理哲学論考」

2003年11月13日 | 読書
論理哲学論考 (岩波文庫)
ウィトゲンシュタイン著 野矢 茂樹訳 : 岩波書店 : 2003.8

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友人が訳したからというだけの理由で数年前に読んだのが、『ウィトゲンシュタイン』(講談社選書メチエ)だった。これがウィトゲンシュタインとの出会いだったが、とてもわかりやすい概説書だったおかげで、次は原典(もちろん翻訳で)を読んでみたいという気持ちに駆られたものだ。

 文庫本が出たのはやっと今年になってからというのは意外だったが、さっそく飛びついて読んでみた。
 29歳の若者だからこそ書けた、まったく新しい哲学書。それは何かの論を叙述しているというよりは、独り言のようにウィトゲンシュタインがつぶやく言葉の連なりなのだ。しかも一文ずつは曖昧さがどこにもなく、明解な論旨から成り立ち、隙がない。

 論理学についてはまったく素養のないわたしが読んで内容を理解できたとは思われないのだが、数学の解説のような部分には反応しないわたしのような人間でも、本書をアフォリズムの書として読めば、実に味わい深く感じることができる。
 かの有名な「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という言葉で終わるこの哲学書は、そういう意味で、何度も繰り返し読んでこそじわじわと心に染みてくる。
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」
「死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない」
「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」

 それにしても、ウィトゲンシュタインの師バートランド・ラッセルの序文はまったく興ざめである。ウィトゲンシュタインの含蓄ある書を、論理学の等式記号だけに押し縮めてしまうような解説のしかたは許しがたい。全然文学的じゃない。
 その上、訳者野矢氏によれば、ラッセルは本書を誤読しているという。ウィトゲンシュタインの師にして論理学の大家が間違うんだから、素人はどう読んでも許されるんじゃないか、と思えてくる…。

 ウィトゲンシュタインは、論理学をつきつめれば哲学の難問のすべてを解けると、ほんとうに信じていたんだろうか。『論理哲学論考』は読めば読むほど、謎が深まるばかりだとわたしは思うのだが……。

 さて次は『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読まなくちゃ。

「空(くう)に吸はるる:小潟水脈歌集」青磁社 2003

2003年10月16日 | 読書
 ある日の仕事帰り、重い鞄に加えて買物袋をいくつもぶらさげ、荷物の重みに腕をとられながら我が家の門扉に嵌め込まれているポストを開けた。夕刊に交じって届いている封筒は青磁社という出版社からの冊子小包だった。著者の依頼による出版社直送便であることはすぐにわかったが、京都の青磁社の名は知らない。著者の小潟水脈はまったく見知らぬ名だ。そもそも何と読むのだろう? オガタ・スイミャク? いや、オガタ・ミオかな。
 そのまま封を開けずにダイニングテーブルの上に放り出したら、昼間のうちに夫が取り込んでいた葉書が目に付いた。歌集を出しました、出版社から届くと思いますのでご高覧ください、という意味のことが書かれた文字には見覚えがある。もう年賀状だけのやりとりになって久しいM子さんからの葉書だった。

 懐かしさに急かされてさっそく冊子小包の封を開けた。彼女の第二歌集だという。第一歌集は知らないから、これが初めて目にする彼女の歌だ。

 二十代のころの記憶が断片的に蘇る。彼女は京都のある女子大の学生だった。わたしより2,3歳年下の、大人しく訥々としたしゃべりかたをする、けれども理知的でいつも何事かを考え込んでいるような深い瞳をした女性だった。一度だけだがわたしの下宿に泊まってもらったことがあるし、何年もの空白の後に、子どもが産まれたばかりの拙宅に遠く大津から訪ねて来てくれたこともあった。

 わたしのことを忘れずに歌集を送ってきてくれたことがとても嬉しい。パラパラと読み進めるうちに、彼女の笑顔や少し困ったような傾げ顔、その小さな顔や声が蘇る。地元の役所に期限付き職員として採用された、とか、どこそこの労組の事務局員に雇われた、とかいう話は聞いていた。そのような仕事ぶりが窺える歌が何首もある。もうけっこうな歳だけれど、結婚せずお母様と一緒に暮らしておられることも年賀状で知っていた。そのような「パラサイト」を歌った歌もある。

 ざっと目を通したあと、お礼の電話をかけてみようと思い立ち、104番で訊ねた番号にかけると、お母様がお出になった。「大阪の谷合と申しますが…」と告げただけでわたしのことを認めてくださったのには驚いた。「娘が御宅にお邪魔させていただいたこともございますねぇ」とおっしゃる。嬉しくてついおしゃべりがはずみ、仕事で遅くなるM子さんが帰宅後に電話をかけなおしてくれることになった。
 そして久しぶりに聞いた彼女の声も話し方もちっとも変わっていないことがわかっていっそう嬉しかった。ぜひ全部きちんと読んで感想文を書かせていただきますと約束して受話器を置いたあと、少し興奮している自分に気づいた。こういう小さな喜びもあるのだなとしみじみする。何年も会わなくても、話すことすらなくても、細い細いつながりでも、つなぎ続ければいつかは心の片隅のかすかな思い出を両手でほろっと差し出す時が来る。

 さて、歌集『空(くう)に吸はるる』から心に残った歌をいくつかここに紹介したい。

いつになく試験の朝は化粧せり英英辞典に立てる手鏡

 これなど、「うんうん、わかるわかる」と思わず頷いてしまう歌。ふだん化粧しない女性がたまに顔をいじるとちょっと特別な感じがする。女には「化粧」という区切りのメルクマールがあるけれど、こういうとき、男の人はどうやってハレとケを区別するのだろう。

みづからの馴れぬ靴音耳に従く祝婚の帰路地下道長き

 普段履きなれない高いヒールのパンプスを履いたのだろう。カッカッカッと響く靴音。長い地下道といえば、梅田スカイビルへ続く地下道を思い出す。こういう場面も音とともに蘇る記憶を揺さぶる。

異性としてゆくゆく向き合ふべき人を待てる駅前いつもの石碑
肩ならべ池面に数へ見てゐしは蜻蛉の交尾 帰途に夕闇

 こういう歌が二首並んでいると、ほのかな恋心に微笑ましくも何か切なさを感じる。「蜻蛉の交尾」という言葉が、二人の関係に微妙に影響しているような、あるいは二人の関係を暗示するような艶かしさを感じさせる。

五件とも履歴書返れり石仏(いしぼとけ)庭掃除の時ずれたるゆゑか
唐突に採用通知石仏(いしぼとけ)庭掃除の時ずれたるゆゑか

 「五件とも…」の歌がページの末尾にあった。ページをめくると次に目に入ったのが「唐突に…」の歌。なんだかおかしかった。どっちにしても石仏のせいなのか。縁起かつぎなのね。くすりと笑ってしまうユーモアを感じた二首だ。

窓枠が区切る葉桜梢見る知事印五回押して顔上げ

 そして、石仏のおかげで採用通知がきて、彼女の仕事は知事印を押すこと。役所の臨時職員になったことがわかる。季節の変わり目と彼女の仕事ぶり、そのさりげない風情がよく伝わる一首。


雇用期限がヒューマニズムの賞味期限 二十二条さんら溜まる食堂
(地方公務員法第二十二条に臨時的任用職員に関する規定があることから、そのポストの者は「二十二条職員」「二十二条さん」と称されている。)

 ふーん、「二十二条さん」っていう業界用語があったのね。小潟水脈さんには仕事を通して社会へと目を向ける歌が多い。

土手に咲く雪柳見る小学生のあごゆつくりと上がつてゆける

 この歌集の中でいちばん好きな歌。情景がありありと目に浮かぶ。小学生の顎がゆっくりと上がるというゆったりとした時間と、子どもの背の小ささ、雪柳の高さを感じさせる、とてもいい歌だと思う。広々とした土手の空間、かわいい小学生、陽射しや花の色も感じ取ることができる。

居眠れる人の短き髪の上足をすりては蝿登りゆく

 ユーモラスな歌。なんかよくありありそうな一こまだけど、よく観察しているなぁと感心する。

改札口にむかひゆく背(せな)その顔の一時間後はユウちゃんの父

 会っているときは「父」であることを感じさせないその男性と歌人はどういう関係だろう。友達か、それとも…。余韻が残る歌。これも大好き。

ジーンズで出勤してきた校門に下宿斡旋ビラ渡されず

 大学職員に採用された小潟水脈さんは、ジーンズで出勤したのだけれど、学生には見えなかったらしくて、下宿斡旋のビラをもらえなかったのね。うーん、この悲哀というか苦笑というか、わかるなぁ。自分ではいつまでも若いつもりなのにねぇ。いつのまにかおばさんにしか見えない自分が悲しい。

三日越しのお好み焼きを退治して曇天の朝を出勤してゆく

 これもよくあるある、という一首。うちも何日越しの食べ物が冷蔵庫にうなっております。こういう、日常生活を切り取ってきた歌も多い。

10.21マニアックな日は知らないと三十五歳の労組役員

 これも彼女の職場の労組役員のことなのだろう。10.21国際反戦デーを知らないという労組の若い役員に時の流れを感じる一瞬。

家ごとに「とうさん」と呼ばるるひと在るを葬儀手伝ふ一日に思ふ
こんにちはと知人のごとくすれちがふ雑踏の中わが父親と

 細かい事情はしらないが、彼女のお父さんと家族は離別して長いようだ。別れた父の歌もこの歌集にはいくつかある。父に感じる距離感、長い不在が生むぎこちなさとやはり切っても切れない親子の情、その複雑な感情が伺える。


 小潟水脈さんはこれからもたくさんの歌を詠み、また第三歌集を出版されることと思う。短歌にしては固い表現がいくつか目につく歌風が、歳とともにどのように変わっていくのだろう。これからも楽しみにしたい。長い間会わずにいた彼女の生活の一端がこの歌集を通じてわたしのもとに届けられた。それは問わず語りの人生模様を読むようでもあり、懐かしい友との空白を埋めるよい機会になった。わたしにとっては小潟水脈さんではなく今までもこれからもM子さんなのだ。
 M子さん、どうもありがとう。高価な本なのに届けてくださったこと、心から嬉しく思います。ぜひまたお会いしましょう。あなたの笑顔が目に浮かびます。