気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その47 川根両国駅で下車

2024年06月15日 | ゆるキャン△

 13時50分、川根小山駅に停車しましたが、停車時間が長かったので、下り列車とすれ違うのかなと思って時刻表を見ましたが、その通りでした。

 

 ただ、向こうが1分遅れで来たようでした。時刻表通りならば、向こうが先に駅に着いてこちらを待っているはずでした。接岨峡温泉駅までの列車でした。

 

 あれ、初めてみるデザインのヘッドマークを付けているな・・・。全国登山鉄道パーミル会・・・なるほど・・・。

 全国登山鉄道パーミル会とは、鉄道事業者のうち「観光地が沿線にあり、かつ登山鉄道としての性格を有している」という条件を満たす6社が、山岳鉄道路線の魅力をお伝えすることを目的として、南海電鉄が発起人になって2009年9月に結成した会です。現在は南海電鉄、叡山電車、神戸電鉄、箱根登山電車、富士山麓電鉄、アルピコ交通、そして大井川鐡道の7社が参加しています。

 これらのうち、私が乗った事が無いのは富士山麓電鉄だけですね・・・。

 全国登山鉄道パーミル会の公式サイトはこちら

 

 この列車の客車の中に旧型のスハフ1形客車が含まれていました。なかなか走ってる姿を見かけませんから思わず撮ってしまいました。昭和の井川線の雰囲気を伝えるレアな車輌ですので、一度乗ってみたいですね。

 

 最後尾のDD20形機関車はトーマスファミリーのトビー号仕様でした。

 

 川根小山駅を出てからは、集落の車道沿いに進みましたが、その車道も奥の高台へと消えていきました。

 

 13時57分、土本駅に着きました。この駅も周辺に民家が少ししかなく、乗降客は皆無でした。

 

 土本駅の待合小屋。「土本」と書かれた習字の貼り紙が印象的でした。

 

 土本駅を出た直後に右手に見えた鉄橋、土本橋。土本駅へ通じる唯一のルートだそうです。

 

 14時2分、澤間駅に着きました。この駅は、昭和六年(1931)の開業で、もとは千頭森林鉄道の前身であった寸又川専用軌道の停車場でした。四年後の昭和十年に井川線の前身である大井川専用軌道(後の中部電力専用鉄道)が開業して沢間停車場と同位置に沢間駅が開業し、これに寸又川専用軌道が乗り入れていました。

 この寸又川専用軌道の後身が千頭森林鉄道で、いまの寸又峡温泉へと連絡していました。いま観光歩道となってゆるキャンの聖地ルートにもなっている夢の吊橋までの道も、その千頭森林鉄道の軌道跡なのですが、ゆるキャンの原作コミックやアニメではそのことに全く触れていないため、多くの巡礼ファンが軌道跡であるとは知らずに夢の吊橋を渡り、さらに飛龍橋を渡っているわけです。

 千頭森林鉄道は昭和四十四年(1969)に廃止されましたが、いまも駅の内外にその遺構が残っており、廃線マニアの聖地にもなっています。

 

 澤間駅の千頭側の端に、上図のコンクリート造のホッパーが見えましたが、これもかつての千頭森林鉄道の遺構であるそうです。ホッパーとは、生コンクリートや土砂などを一時的に仮受けし、それを下を通る貨車などに流して落とすための施設です。

 

 14時9分、時刻表通りに目的地の川根両国駅に着きました。ここで下車しました。

 

 井川駅から乗ってきたクハ603客車の運転台を記念に撮りました。

 

 ホームから踏切を渡って向かい側のホームに移り、ここで列車を見送ることにしました。列車はこのあと終点の千頭駅へ向かいますが、私自身はここから歩いて、列車に乗ったままだと見られない幾つかのスポットを回りながら千頭駅へ向かう予定でした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その46 川根小山駅まで

2024年06月14日 | ゆるキャン△

 接岨峡温泉駅を12時57分に出て、奥大井湖上駅に13時5分に着きました。ここでかなりの人数が乗り込んできて、それまで私だけで独占していたクハ603客車の車内にも6人が座りました。

 上図は、奥大井湖上駅での停車中に見た、旧線跡の橋梁です。長島ダムの建設に伴ってアプト式区間が設けられる前の井川線の線路がそのまま残されていて、接岨峡の湖面が上がると水没し、下がると姿を現します。

 

 13時9分、ひらんだ駅に停車しました。

 

 ひらんだ駅を出たあと、長いトンネルをくぐりました。

 

 トンネルを出たところが長島ダム駅でした。13時13分に着き、「ブッピガン」ことアプト式電気機関車の連結作業のために5分停車し、13時18分に発車して急勾配のアプト式区間を下りました。

 

 急勾配のアプト式区間を下りきった直後の様子です。このあと左に大きくカーブして鉄橋を渡りました。

 

 その鉄橋から見た大井川の渓谷です。長島ダムが放水状態であったため、下流の流量もそれなりにありました。

 

 13時28分、アプトいちしろ駅に着きました。ここでアプト式電気機関車を切り離す作業があり、大勢の乗客が降りて見物に行っていました。

 私は席から動かずに窓から上図の光景をぼんやりと眺めつつ、いま切り離し作業中のアプト式電気機関車つまりED90形のNゲージ模型がどうして無いんだろう、と考えていました。

 ED90形はいまの日本では唯一の現役のアプト式電気機関車として有名で、大井川鐡道井川線でしか見られない貴重な車輛で人気もあるのですが、なぜかNゲージではカトー、トミックス、グリーンマックス、マイクロエースの4大メーカーですら模型化していません。それ以前に井川線の車輌全てがこの4大メーカーから出ていないのですが、それはどうしてだろう、と思いました。

 一説では、井川線の軌間がJRと同じ狭軌であるにもかかわらず、車輌が小型であるために線路の軌間も小さいものだという思い込みが蔓延していて、そのためにNゲージの9ミリ幅の線路より小さいZゲージクラスでないと模型化出来ない、という誤った認識が広まってしまっている、とされています。ネット上でもそれに似た意見をよく見かけますので、4大メーカーの担当者も同じような思い込みに囚われてしまっている可能性がある、ということです。

 ですが、実際には井川線もJRと同じ狭軌ですから、Nゲージでも9ミリ幅の線路のままで良く、車輛のサイズだけを小さくすれば事足ります。現にアルモデルさんはそれを正しく理解しているから、井川線ふうの車輛の金属キットを出しているのでしょうが、そのアルモデルさんもED90形タイプの金属キットは出していません。出していただけないかなあ、といつも思います。

 

 13時31分にアブトいちしろ駅を発して、その南のトンネルを抜けて鉄橋を渡りました。上図は鉄橋を渡った際に見た大井川の景色です。行きにも見た左岸の大規模な崩落跡が目立っていました。

 

 13時40分、奥泉駅に着きました。

 

 ここで3人が降りて1人が乗りました。奥泉駅は割と大きな集落の中に位置していますから、地元住民の利用もあるのでしょう。また寸又峡温泉行きのバス路線と連絡していますので、ここからバスに乗り換える登山客や観光客も少なくないそうです。

 聞くところによると、この奥泉駅の駅舎内に大井川鐡道の昔の写真を展示するフォトギャラリーみたいなコーナーがあって、いまは廃線となっている堂平駅までの区間や堂平駅の在りし日の写真が掲示されているそうです。機会があれば奥泉駅に一度おりて、その写真展示コーナーを見てみたいと思います。

 

 奥泉駅を13時40分に発して、民家や茶畑が広がる中の段差平坦面をゆるやかに下っていきました。まだ14時になっていないのに、日差しは西にかなり傾いていて、なにか夕方に近いような雰囲気でした。

 

 13時49分、前方が開けて駅の敷地スペースが右側に広がりました。

 

 13時50分、川根小山駅に入りました。ゆるキャン聖地のひとつ小山吊橋の最寄り駅で、小山集落の外れに位置して道の行き止まりに駅広場があります。

 以前にテレビの何かのバラエティ番組で、この駅を利用する唯一の常連客である老婦人が紹介されていました。それで、小山集落の大多数の住人は移動手段が車であって大井川鐡道を一切使わないのだ、ということを知って愕然とした記憶があります。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖グロリアーナ女学院 マチルダⅡ(3輌目)を作りました

2024年06月13日 | ガルパン模型制作記

 昔、東京のガルパンファンのフォロワーさんよりAFVのキット十数点を譲り受けたことがあり、そのなかに幾つかのガルパン車輛適応キットが含まれていました。
 そのうちの1つが上図のマチルダⅡでした。タミヤのミリタリーミニチュアシリーズのNo.300のキットでした。以前に聖グロリアーナ女学院チームの所属車を劇場版仕様のルクリリ車で製作して2号車としたのと同じキットです。

 それで、上図のキットも活かして、聖グロリアーナ女学院チームの3号車として劇場版仕様で作ろうと思い立ちました。最終章の車輛も仕様は変わっていないようなので、同時に最終章仕様としても楽しめるわけです。

 

 キット自体は製作途中で中断した状態で、車体はほぼ出来上がった状態でした。そのため、私が手掛けたのは砲塔と細部と足回りの組み立てぐらいで、あとは塗装して組み上げるだけでしたから、製作日数は3日で済みました。

 

 仕上がった状態です。以前に作ったルクリリ車とほぼ同じに作りましたので、2輌を並べてみると、製作した本人でも見分けがつきません。

 

 かくして、私の手元の聖グロリアーナ女学院チームのマチルダⅡは3輌になりました。1号車はタミヤの旧キットを用いてテレビシリーズの仕様で作っていますが、それも一緒に並べたら、外観のフォルムは共通していますので、細部をしっかり観察しないと見分けがつきません。

 

 以上で、聖グロリアーナ女学院チームのマチルダⅡの3号車が劇場版仕様にて完成しました。製作期間は2022年12月5日から12月8日までの4日でした。組み立てに2日、塗装および塗装後の組み立てとデカール貼り付けに1日かかりました。

 これでマチルダⅡがもう1輌あったら、テレビシリーズの最初の対戦試合の初登場シーンが再現出来ますね・・・。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く39 その5  富士川楽座の大垣千明

2024年06月12日 | ゆるキャン△

 三保松原のバス停に戻って10時36分のバスに乗り、11時6分に上図の清水駅北口に戻りました。

 

 清水駅を11時24分発の普通列車で出て、上図の富士川駅に11時44分に着きました。この駅もゆるキャンの聖地のひとつであることはよく知られています。

 

 各務原なでしこが初めてのソロキャンプに出掛けた際に、この駅までJR線を利用しています。それから徒歩で西の山の上にある野田山健康緑地公園富士川キャンプ場へ向かっています。私自身はこの駅に来るのは二度目ですが、野田山健康緑地公園富士川キャンプ場のほうへはまだ行く機会を得ていません。

 

 富士川駅からはバスに乗り換えます。目的地は富士川楽座です。前にも一度利用しましたので、行き方は分かっていました。

 

 バス停の時刻表を見ました。富士川楽座に行くには右側の「大北・富士宮駅方面」行きに乗ります。この日は日曜日で、富士川駅に着いたのが11時44分なので、次のバスは12時7分でした。富士川楽座で昼食もとるので、ちょうどいい時間だな、と思いました。

 

 12時7分発のバスに乗って、7分後の12時14分に富士川楽座のバス停で降りました。上図は下車直後に撮った、山梨交通の路線バスです。

 

 富士川楽座のバス停です。富士川楽座の一階出入口のすぐ横にあります。

 

 次に乗るバスの時刻を確認しました。富士川楽座で昼食休憩を含めて二時間ほど滞在する予定でしたので、次に乗るバスを14時21分発の「富士宮駅」行きに決めました。
 富士宮駅へは、時間的には富士川駅まで戻ってJR線で移動するほうが早いのですが、次の目的地が富士宮駅からは少し離れていて、このバスの路線沿いにあるため、バス移動の方が楽です。

 

 バス停の横の出入口を入って、最初に目についた上図のかぐや姫のイラスト。富士市のマスコットキャラクターか何かでしょうか。

 

 エレベーターで4階へ上がりました。前回の訪問で見たゆるキャンコーナーは健在で、アニメ2期までの本栖高校の五人のキャラクターパネルも置いてありましたが、パネルのほうは写真を撮り忘れました。前回訪問時のレポート記事に同じキャラクターパネルの画像があります。

 

 ゆるキャンコーナーの横から展望ラウンジに行きました。

 

 展望ラウンジの奥の壁際に、二人目のキャラクターパネルが置いてありました。大垣千秋です。

 

 確かに大垣千秋・・・ですな。こちらも2期とはかなり雰囲気が変わりましたね・・・。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦車道連盟 M29ウィーゼル 作ります !!  その5

2024年06月11日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11では左右の側面板を組み立てます。TP5は不要です。ステップ12では無線機を作ります。いずれもガイドの指示通りに組み立てます。

 

 ステップ11で組み立てる左右の側面板のパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ12で組み立てる無線機およびラックです。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ13では、先に組み立てた左右の側面板などを車体に組み付けます。TP16は不要です。
 ステップ14では背面部、排気管カバーなどを組み立てます。

 

 ステップ13で組み立てるパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ14で組み立てる背面部、排気管カバーなどのパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 背面部は、劇中車のワンシーンでは見えない範囲にあたります。劇中車における上図のシャベル、斧の有無は分かりませんので、ここは実車準拠で指示通りに付けることにしました。

 

 次のステップ15に移る前に、ガルパン仕様への改造をひとつ行います。上図の車体前面の天板のパーツC18においてです。

 

 劇中車の該当パーツの形状を赤枠内に見ますと、中央の穴の囲いの四隅が角ばった方形状になっていて、囲いの後ろの板が斜めになっているのが分かります。それで側面の板も後ろが斜めになっています。この状態に合わせます。

 また、黄円内に示すように、前端右隅にライトが付きます。これのパーツはキットにありませんので、ジャンクパーツから適当なものを調達しました。

 

 囲いをプラ板で作りました。

 

 ステップ15の工程を前倒しして、上図の各パーツを仮組みしてみることにしました。

 

 うまく組み合わさったようでした。前端右隅のライトも、黄円内のように取り付けました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その45 接岨峡温泉駅まで

2024年06月10日 | ゆるキャン△

 閑蔵駅を出た後は、左側の座席に移動して左手に広がる大井川渓谷の雄大な地形と自然を眺めました。

 

 そして関の沢鉄橋を渡りました。高所恐怖症の私がなぜか恐怖心を覚えずに下も覗き込める、不思議な日本一高い鉄道鉄橋です。

 

 よく見ると沢の川の両岸の崖面の各所に崩落跡がありました。南アルプス山系の地質は脆くて崩れやすく、崩落や崖崩れが多発しています。梅雨や台風などの時期は要注意です。落石はしょっちゅうで、それによって井川線が不通になってしまうこともしばしばでした。

 

 関の沢鉄橋を渡った後は、周辺の地形から険しさが無くなって、山々の姿も丸くなって線路沿いの地形も次第に開けてまいります。この変化だけでも、眺めていて楽しいものでした。

 

 大きなカーブで先頭のDD20形機関車が「ボーン」と警笛を長めに鳴らしましたので、時刻表を見て、予定通りに次の尾盛駅に着くな、と気付きました。閑蔵駅での約1分の遅れは、いつの間にか取り戻したようでした。

 

 12時48分、尾盛駅に着きました。左側のホームは短くて狭くて薄い板のようなので、よく見ないと分かりにくいです。上図は、そのホームに先頭のDD20形機関車が入ろうとする瞬間です。

 

 右側の座席に移りました。

 

 尾盛駅のかつての貨物扱い用ホームです。

 

 かつての貨物扱い用ホームのほぼ中央にある小屋は、クマに出会った時の避難用小屋を兼ねているそうですが、実際にクマに出会って避難したケースは年に何度あるのでしょうか・・・。

 

 12時49分に尾盛駅を出て、うねうねとカーブの連続を走るアプト式列車。

 

 12時57分、接岨峡温泉駅に着きました。ここで一気に秘境から下界へと戻ってきた気分になりました。

 

 接岨峡温泉駅の駅舎です。昭和三十四年(1959)8月に川根長島駅として開業して以来の建物がいまも使用されています。川根長島駅は、平成二年(1990)10月の長島ダム建設に伴うアプト式区間を含む新線の開通と同時に、接岨峡温泉駅に改称して現在に至っています。

 

 駅舎の南側に、上図の車庫があります。以前の井川線は一日に7、8便が運行されていて、最終便はここ接岨峡温泉駅止まりとなったため、機関車はこの駅に夜間滞泊となって上図の車庫に格納されていたそうです。

 その車庫の横の車道からのアングルが接岨峡温泉駅の撮影ポイントであるそうで、この時も撮り鉄らしいのが二人見えました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その44 閑蔵駅にて

2024年06月09日 | ゆるキャン△

 12時20分、時刻表通りに井川駅を発車しました。カタンと揺れてゆるゆると動き出すディーゼル機関車DD20形特有の駆動に引かれて5輌の客車がカーブの上を動き始めました。最後尾のクハ603客車に乗ったことで、その前の5輌の動きがよく見えました。

 

 井川駅内の二つの側線への分岐を通りました。一番西側の、使われていない側線も、ポイントの辺りでは落ち葉が無くてレールが見えました。保線の関係上からか、中央の側線に繋がるポイントあたりは綺麗に掃除されているようでした。

 

 後ろを振り返って、二つの側線を見ました。今も使用されている中央の側線と、全然使われずに落ち葉に埋もれている西側の側線との対照的な有様が印象的でした。

 こういう景色をNゲージジオラマで再現すると面白いかもな、と考えましたが、仮に模型の再現時期を現在でなく昭和か平成の頃に設定した場合、西側の側線も使われていたそうなので、いまとは違う状態に再現して作ることになります。

 昔の井川線の写真はネット上でも豊富に見られますので、例えば観光客が多かった昭和期の、全盛期の井川駅の光景などを見ますと、現在の閑散とした情況とは全然違って、登山客や井川ダム湖遊覧の観光客が大勢行き来して賑わい、売店も営業していて活気に溢れている様子がうかがえます。

 

 井川駅横の61番トンネルに列車が入っていきました。さようなら井川駅。次に来るときは嫁さんも一緒だろうと思います。

 

 井川線で最も長い区間である、閑蔵駅までのルートをゆっくりと、僅かに下り気味に走るアプト式列車。

 

 最後尾のクハ603客車に乗ったのは正解でした。車内は私だけでまたもや独占貸し切り状態でした。そして窓から前を見るとカーブの度に前の機関車や客車がうねうねと動くのが見えて楽しめました。

 サイズが小さな車輛だけに、雄大な大自然のなかで見ていると、模型みたいに、ジオラマの中の模型列車みたいに見えてくるのでした。その感覚が、Nゲージジオラマでの再現製作にて大変参考になる、と思いました。

 

 眼下に大井川。その後、奥泉ダムも見えました。

 

 斜面に広がる杉林の下を走るアプト式列車。時折、DD20形機関車が「ボーン」と独特の警笛を鳴らしていましたが、踏切が一切無い区間でしたから、野生動物が線路に入ったりするのを防ぐためだったのでしょうか。

 

 崖上にどこまでも続く杉林。木漏れ日がチラチラと差して、アプト式列車の赤い車体を白っぽく染めたり。カーブの連続で徐行し、時々増速、減速を繰り返していました。「井川線サウンド」と呼ばれる独特のキイキイという摩擦音も間断なく響いていました。

 

 そして閑蔵駅の手前のトンネルへ。

 

 トンネルを抜けて閑蔵駅へ。

 

 12時39分、閑蔵駅に停車しました。3人ほどの客が乗り込んできました。その後もしばらく停車していたので、下り列車が来るのだな、と気付きました。

 

 12時40分、1分遅れでその下り列車がやってきて停まりました。この日の井川行きの最終便でした。

 

 けっこう乗客が乗っていますね・・・。これが井川で折り返して千頭駅に戻るのは15時45分ですから、金谷駅まで戻る頃には夜になっているわけです。

 

 最後尾のDD20形機関車は4号車の204番、ヘッドマークは寸又峡温泉の「すまた」でした。絵も温泉でした。上図右奥に駅前広場が見えますが、車や観光客の姿も見えました。

 

 遠ざかっていく井川行きの最終列車を見送りました。その後にこちらも発車し、1分遅れで閑蔵駅を後にしました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 完成です!!

2024年06月08日 | ガルパン模型制作記

 塗装にとりかかりました。車体は青味の強いブルーグレー系なので、ミスターカラー72番のミディアムブルーに74番のエアスペリオリティブルーと37番のRLMグレーバイオレットを3:1:1の割合で混ぜ合わせた色で吹き付け塗装しました。車輪は19番のサンディブラウンで塗り、ベルト式履帯は28番の黒鉄色で塗りました。

 

 転輪のタイヤゴム部分はポスカの黒で塗りました。

 

 転輪を車体に取り付けて・・・。

 

 ベルト式履帯をはめました。イタレリ製のパーツはやや長めで上図のようにユルユルでしたので、スカートに隠れる上部の履帯を短くしてホッチキス留めして調整しました。

 

 スカートを取り付けました。

 

 校章マークは砲塔左右側面と後部エンジンフード上にあります。モデルカステンの「MGデカール ガールズ&パンツァー デカールVol.4」より同じサイズの3枚をとって貼りました。上図は後部エンジンフード上の校章マークです。

 

 僚車のマチルダⅡのように、車体側面にも校章マークが付きそうなものですが、クルセイダーの場合は車体側面のスペースが殆ど無く、スカートにもリブが三条に通っていてデコボコしているため、むしろ無いほうが模型でのデカール貼りに苦労しなくて済みます。

 

 追加工作で追加していたバックランプを、ポスカの赤で塗りました。

 

 ついでに砲塔前面右側の三本の照準器でしたか、棒状の部品もポスカの赤で塗りました。このボーダーモデル製品での1号車はローズヒップの搭乗車として作ったからです。
 その後、同軸機銃を28番の黒鉄色で塗りました。

 

 砲塔左右側面の校章マークを貼りました。この校章マークのために、劇中車では砲塔右側の前照灯の位置が実車よりも後ろ寄りになっています。
 砲塔の前照灯のレンズのパーツは、劇中車の雰囲気に近づけるために、ウェーブのアイズのクリアパーツに交換しました。

 

 アンテナの短いほうを取り付けました。後ろに長いほうのアンテナが付きますが、それは収納時に邪魔になるのであえて取り付けませんでした。

 

 最後につや消しクリアーを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 完成後の姿です。これまでの掲載画像において、撮影時の光の角度、カメラのアングルによって車体カラーが青っぽく写ったりしていますが、上図の車体カラーが実際のそれにほぼ同じです。青味の強いブルーグレーというか、そういう色調です。

 

 クルセイダーを3輌連続で製作したうちの1号車、ローズヒップの搭乗車ですが、キット自体はプラッツの公式キットにもなっていますので、公式キットを用いても同じ状態で仕上がると思います。
 ただ、履帯は本来は連結式パーツですが、細かい上に組み立てが煩雑なタイプであるため、たまたま入手出来たイタレリのパーツセットに入っていた余りのベルト式履帯に交換しています。

 

 以上で、聖グロリアーナ女学院チームのクルセイダー(ローズヒップ車)が劇場版および最終章仕様にて完成しました。製作期間は2023年5月10日から5月19日までと5月30日で、組み立てに7日、塗装に1日、塗装後の組み立てとデカール貼り付けに1日かかりました。

 キットはプラッツの公式キットの元製品であるボーダーモデルの品を使用しました。タミヤやイタレリの品と比べて劇中車にほぼ一致するキットなので、ガルパン仕様への改修や追加工作も最低限で済みました。が、砲塔のベンチレーターの位置変更、砲塔の前照灯の位置変更、後部のボックスのハッチの向き変更、の三つは、タミヤやイタレリの品と共通の改修ポイントとして必須でした。

 今回の製作は、ボーダーモデル、タミヤ、イタレリの3つのキットを比較検証のために連続で製作したうちの最初にあたり、劇中車仕様に可能な限り近づけることを目的としてボーダーモデルのキットを組みました。
 続くタミヤ品は目立つ箇所のみ劇中車に合わせる方針で作り、イタレリ品はキットをストレート組みしましたので、3輌それぞれの細部が異なっていて見分けがつきますが、なかでも今回のボーダーモデル品が最近の発売で新しいこともあって、出来栄えが最も綺麗に見えました。

 キットの組み立ては比較的スムーズに進みましたが、タミヤやイタレリの品と比べるとやや難度が高いほうに属します。特に履帯パーツの難しさは折り紙付きらしく、今回の製作ではベルト式パーツに代えたためにタッチしていませんが、公式キットを買って作る方はもれなく履帯に悩まされるだろうと思います。それでも頑張るぞ、という積極的な方は、チャレンジしてみることをお勧めします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く39 その4  三保松原の羽衣ノ松

2024年06月07日 | ゆるキャン△

 静岡市三保松原文化創造センター「みほしるべ」の見学を終えて松原の上へと戻りました。バス停から「みほしるべ」へ繋がる直接の道は無く、松原の園路を経由するのが唯一のルートだったからです。

 戻る途中で、上図の看板を読みました。能楽や謡曲などで取り上げられてきた「羽衣伝説」の概要で、子供の頃に昔話で読んで知っていた日本古来の伝承の一つです。

 この「羽衣伝説」は、全国各地に似たような話が伝わっています。既に八世紀、天平時代には成立して流布していたようで、和銅六年(716)に編纂が命じられた各国の「風土記」にそれぞれの地域の「羽衣伝説」が記載されています。現存しているのは近江国と丹後国の分ですが、それぞれ内容がちょっと異なります。

 近江国風土記の記載では、天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残すが、ある日、羽衣を見つけて天上へ戻る、となっており、私が昔話で読んだのもこのストーリーでした。

 ところが丹後国風土記の記載では、天に帰れなくなった天女は、老夫婦の子として引き取られ、酒造りにたけて老夫婦を裕福にするが、老夫婦は自分の子ではないと言って追い出してしまい、天女は別の地に留まる、となっています。世子相続制が強固に続いた山陰地方の習俗をよく反映している内容です。

 これらに対して、ここ駿河国の三保松原の「羽衣伝説」は、上図の案内文にあるように、天に帰れなくなった天女は、男に舞を見せる条件で羽衣を返してもらい舞いながら天上へ戻る、というシンプルなストーリーになっています。天女に優しい内容であり、これを駿河地方の穏やかで温厚な気質の現れとみる説もあるようです。

 

 バス停へ連絡する園路は御神体の松の横を通っていますので、再度老松を眺める成り行きになりました。

 

 松の傍らにある「羽衣伝説」の石碑です。この駿河国の羽衣伝説も、近江や丹後と同じく和銅六年(716)の風土記編纂時には既に成立していたもののようですが、残念ながら駿河国の風土記は今に伝わっていません。

 ただ、その逸文とされる条文がわずかながら幾つかの他書に引用されており、それらをまとめて「駿河国風土記逸文」と呼んでいますが、そのなかに三保松原の「羽衣伝説」の項もあります。江戸期の有名な儒学者であった林羅山がその著書「本朝神社考」五巻にて「風土記を案ずるに」として引用していますが、不思議なことにストーリーが上図の石碑にも紹介されている内容とはちょっと違います。
 要約すると、天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残すが、ある日、羽衣を見つけて天上へ戻る、そして男も仙人となって天に昇る、という内容です。

 これは駿河国の「羽衣伝説」の本来のストーリーなのか、それとも別伝なのかは分かりませんが、先に紹介した近江国風土記の記載によく似ています。それが現在、ここ三保松原では、舞を見せる条件で羽衣を返してもらい舞いながら天上へ戻る、というストーリーになっていますから、伝説の変化があったことは間違いないようです。

 ですが、なぜストーリーが変わったのかについては全く分かっていないようで、各資料を色々探してもそれらしい記述が見つかりませんでした。

 

 ともあれ、「羽衣伝説」の本家本元のように言われているここ三保松原の伝承地です。国指定の名勝にもなっていて、その石碑も建てられています。

 

 しかし、立派な松です。大きく太い幹が海に向かって斜めに伸び、それが枝分かれして枝葉が空を覆うように広がっています。

 

 枝が伸びる方向には駿河湾の海原と広い砂浜が見えました。

 

 これで見るべきものは見た、と考えて時計を見ましたが、帰りのバスの時刻までまだ20分ほどありました。

 

 そこで、松原の中を南へ向かって少し散歩しました。バス停も南側にあるので、すぐに戻れます。松葉の香りと落ち葉の乾いた香りとが混ざって、林を吹き抜ける風にのって広がってくるのが、なぜか心地よかったです。聞いた話では、松葉には一種のセラピー効果があるといいます。

 そういえば、松葉は昔は薬草の一種であったと聞きます。古代の中国では仙人の主食とされ、不老長寿の妙薬ともいわれたそうです。
 日本でも、古代から各地に、松葉を煎じて飲んだり、松を擦った粉を傷口に塗布したり、といった民間療法が伝えられていますが、近年の医学でも松葉の効能が明らかにされ、脳梗塞や癌の治療や予防などに効果があるとされています。松葉を原料とした茶やジュースも販売されていると聞きます。

 

 三保松原、なかなか楽しく興味深いところでした。機会があれば、富士山がくっきりと綺麗に見える日にまた松原の下を歩き、砂浜を歩いてみたいと思います。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦車道連盟 M29ウィーゼル 作ります !!  その4

2024年06月06日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7およびステップ8では、操縦席周りを組み立てます。ステップ7にてガルパン仕様への改造が追加されます。

 

 ステップ7で組み立てるパーツ類です。画像がピンボケになってしまいました。操縦席の背後の仕切り板にあたります。

 

 いったん指示通りに組み立てました。ここからガルパン仕様への改造に移ります。

 

 パーツE42の上端にならぶ4つの赤円内のハンドル状の部品が、劇中車にはありません。

 

 御覧のように黄色の矢印で示した範囲がパーツE42の上端ですが、ハンドル状の部品が無いのが分かります。だから武部沙織が腰かけているわけです。

 

 ハンドル状の部品をカットしました。したがってTP14、TP17も不要です。

 

 続いてステップ8に進みました。

 

 組み上がりました。操縦席の右側のボックス内にエンジンが配置されているのでしょう。

 

 斜め後ろから見ました。

 

 ステップ9では座席や操縦席の操作機器類を組み付けます。ステップ10では上下の車体を組み合わせます。いずれもガイドの指示通りに組み立てます。

 

 ステップ9で組み付ける座席と操縦席の操作機器類のパーツです。

 

 後部の座席3つを取り付けました。左より西住みほ、秋山優花里、冷泉麻子の座位置です。それで五十鈴華は無線機に、武部沙織は前の仕切り板に腰かけていたわけです。

 

 操縦席が組み上がりました。タコムのインテリアキットは細かいと言われるそうですが、確かに細かいな、と実感しました。

 

 組み上がった状態を上から見ました。

 

 横から見ました。上図では操縦席の操作機器類がよく見えますが、次の工程で外板を張りまわすので、その後は見えなくなります。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その43 帰りの列車へ

2024年06月05日 | ゆるキャン△

 12時10分、井川駅の改札口を通って、2番線ホームに待機中のアプト式列車に近づきました。行きに千頭駅から乗ってきた列車です。折り返して12時20分に千頭行きとして発車する予定でした。行きは後尾について推進していた上図のDD20形機関車が今度は先頭車として列車を牽引します。

 

 ヘッドマークは川根茶でした。車体前面の色々な部品が日にあたってよく見えるので、写真も撮っておきました。
 井川線は、時々運休したり一部区間が不通になったりしますので、いつでも乗れる列車ではありません。井川駅までの全線を普通に往復出来る機会もなかなかありませんから、見られるものは見る、撮れるものは撮る、というスタンスでこの日は過ごしていました。

 

 他の乗客が十数人、いつの間にかホームに入ってきて、機関車を撮っている私の横を通って客車の方向へ歩いていきました。駅舎の待合室に居る時は私一人だったのに、いつの間にか、どこからか他の乗客がふっと現れてくるのが井川駅の不思議の一つです。

 

 その時に撮っていた、DD20形機関車の運転席です。車両が小さいので窓の位置も低く、ホームから窓越しに車内がよく見えます。

 

 行きに乗っていた客車スロニ202です。帰りもこれに乗ろうか、別の客車に乗ろうか、と少し迷いました。

 

 まだ撮っていなかったホームの屋根の後ろのスペース。中部電力の井川展示館の看板がありました。

 

 ホームから下の車道を見下ろしたところです。かなりの傾斜がある坂道ですので、20メートルぐらいで駅ホームと同じ高さになってホームの脇に車が出入り出来たりします。

 

 帰りの列車は6輌編成でしたから客車は5輌でした。スロフ302に乗ろうか、後尾のクハ603に乗ろうか、しばらく迷いましたが、クハ603に乗る事にしました。帰りは川根両国駅で下車する予定で、そのホームの出入口は井川側にありますので、後尾の客車に乗ったほうが、すぐに駅ホームからも出られるからです。

 

 とりあえず、この辺りまではNゲージジオラマの中心範囲に含めておこうか、と考えて上図のアングルをしばらく眺めて記憶に刻み込みました。

 

 時計を見ると12時17分でした。あと3分か、と考えながらクハ603に近づきました。

 

  クハ603の前面観です。運転席付きの客車で、これが先頭になる場合はその運転席から後尾のDD20形機関車を遠隔操作して推進せしめるわけです。井川線ならばでの独自の運行形態であるようです。

 

 クハ603の前面右下にある、日本車輛製造の銘板。平成二年当時、父は日本車輛製造の豊川工場で車輛の設計を統括していましたから、その頃までの名古屋鉄道の車輛はだいたい父も関与していたそうで、その名鉄が大井川鐡道の親会社だった頃ですから、当時の井川線の車輌もほとんど日本車輛製造が担当していたそうです。

 父の遺品の設計図資料は大半が名鉄車輛ですが、国鉄やJRの車輛も幾つかあり、「大鉄」のファイルにはDD20形機関車やクハ600形の青図(原図を専用の印画紙に焼付けた際、青い線で表われる図、ブループリント)があります。いずれも原案図で細部はまだ描かれず、実際の車輛とはあちこちが異なっています。

 

 クハ603の先に伸びる線路を再び眺めました。この辺りはNゲージジオラマの計画範囲からはみ出すので、モジュールのベースを追加して繋げば作れると思いますが、いまの家の空間スペースではちょっと無理です。
 いずれ広い家を探して引っ越す計画ですので、その後に六畳間一つをレイアウトルームにあてることが出来れば、この井川駅も全域をジオラマ再現出来るかな、と思いました。

 

 二番線ホームの線路の先と、その右の側線の先にポイントがあって、いずれも一番左の、今は埋もれている側線に合流しています。一番左の埋もれている側線の端は奥の石垣の窪んだ部分まで続いていますが、機関車1両分の長さしかないように見えます。

 アプト式区間が設けられる前の井川線では、常に機関車が列車の先頭に在って牽引していたそうですので、ここ井川駅に停まると、先頭の機関車を切り離して列車の反対側に繋ぎ直していたわけです。一番左の埋もれている側線は、機関車の位置を入れ替える際の移動線として使われていたのだろう、と推測します。

 上図の線路を見ていてびっくりしたのは、中央の側線の左脇の白いステップ上に寝転がってスマホを見ている人が居たことでした。あんな場所に寝転がって大丈夫なのか、駅員さんに注意されたりしないのか、と思いました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その42 井川駅の施設

2024年06月04日 | ゆるキャン△

 井川駅のホームと線路の様子を色々撮影し、メモを取るところは全て書き込んで、それから駅舎のほうへ移動しました。上図の景色がいちばん井川駅らしいな、と思いましたので、この角度と範囲はNゲージジオラマで作るときの中心部分にしよう、と決めました。

 

 改札口の手前まで来ました。廃線の線路と踏切と1番線ホーム跡が上図のように見えます。昔は廃線の線路に沿った上図の低いスペースも1番線ホームとして使われていたので、向こうにその名残の白線が少しだけ残っています。

 かつて堂平駅まで貨物列車が走っていた頃に、井川駅の改札口に面したこの1番線ホームに停まっていたそうですが、ホームが短いので貨車で5輌分しかホームに入れなかったそうです。
 なので、現在アプト式列車が停まっている、カーブしているホームは、かつては2番線ホームであったわけです。

 

 同じ位置で反対側を見るとトンネルが見えます。1番線ホームがトンネルの脇までついているのが分かります。トンネルの右側に61番の札がついていますので、井川線の61番目のトンネルだと分かります。

 

 トンネルの横、駅舎の西側には上図のガレージのような、シャッターが閉じられた建物があります。かつての売店の建物だったそうです。

 

 井川駅の改札口です。右側の駅名の看板に「大井川鐡道」ではなくて「大井川鉄道」と墨書されたままなので、平成12年10月1日以前に付けられたものと分かります。

 もとは「大井川鉄道」と表記していましたが、平成12年10月1日に子会社の大鉄技術サービスを存続会社とする形で合併し、翌2日に「大井川鐵道」と商号を改称したので、現在は「大井川鐡道」と書くわけです。

 

 改札口の向こうが事務所、その向こうの壁が出っ張っている部分が付属施設でしょうか。

 

 Nゲージジオラマ製作の参考資料として撮った図です。駅舎、売店、トンネル、線路の位置関係が分かります。

 

 駅舎の外に出て外観を撮りました。昭和34年(1959)8月1日開業当時からの建物がいまも現役です。令和4年に駅舎の一部が改修されていますが、主に待合室の内装関係であったそうです。

 

 駅舎の東側にはお手洗いがあります。井川地区のゆるキャン聖地巡礼で利用出来るお手洗いは、ここと井川ダム展示館のほかは、井川ビジターセンターしかありませんので、前回の聖地巡礼時には井川ダム展示館のお手洗いを利用しました。

 

 お手洗いの横にはポストがあります。その脇に「南アルプス表登山口」の道標があり、ここ井川駅が南アルプス山系への登山口にあたっていることが分かります。ここから井川地区のコミュニティバスを利用して終点の白樺荘まで行き、そこから南アルプスの赤石岳や聖岳などに登っていく登山客が多いそうです。

 

 Nゲージジオラマ製作の参考資料として撮った図です。駅舎、売店、お手洗いの位置関係が分かります。三角形の高台の敷地のうえに上図のように建ち並んでいます。

 

 売店跡の左にも簡易小屋が続いていて、何かを販売していた痕跡がありました。

 

 Nゲージジオラマ製作の基本案では、売店跡までが範囲になる感じですので、左側の簡易小屋は再現製作するかどうか、まだ分かりませんでした。とりあえず写真を撮り、メモに平面図を記録しておきました。

 

 同じ位置から反対側を向くと、下の車道に連絡する階段があります。井川地区のコミュニティバスのバス停も下にあります。階段を降りたら車道脇のスペースに出ますが、そこから車道を歩いて5分ほどで井川ダムに行けます。

 

 階段の横には休憩スペースがあってテーブルとベンチがあります。今回はここでお昼の弁当を食べました。周囲に売店もコンビニも無い秘境の駅ですから、朝に宿を出て藤枝駅から列車に乗る前に駅横のコンビニで弁当や飲料などを買っておいたわけでした。

 とにかく井川線を全線乗って楽しむ場合、弁当持参は必須となります。車やバイクで行けば、付近の食事処へサッと行けそうですが、井川地区には食事処すら殆どありませんから、遠く離れた井川本村のビジターセンターまで行かないといけません。

 

 昼食弁当を食べてしばらくのんびりした後、駅舎内に戻りました。令和4年に改修されて綺麗になった待合室の様子を撮りました。受付窓口が改修され、その横に以前は無かったショーウインドーが設けられていました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴァイキング水産高校 M24チャーフィー軽戦車 完成です!!

2024年06月03日 | ガルパン模型制作記

 ラストのステップ29では、砲塔の小部品や操縦席のバイザーなどを組み付け、砲塔を車体にセットします。

 

 ステップ29で組み付けるパーツ類です。

 

 組み上がりました。機銃架の上端の穴には、劇中車では蓋がされていますので、後で適当な丸板をこさえて取り付けました。

 

 バイザーのH9はクリアパーツなので塗装後に組み付けることにして、ここでは仮組みして位置を確かめました。

 

 以上で、塗装前の組み立てが全て完了しました。AFVクラブのキットの常で、砲塔は車体にチョンと載せるという感じで、かぎ型のフックをはめて固定して回すタイプではないので、少し傾けるだけで外れたりします。
 接着が前提なのかもしれませんが、戦車の旋回砲塔を接着固定してしまうことにはやっぱり抵抗がありますので、接着せずに載せるだけにしています。その代わり、棚から出したり移動させたりする際にうっかり傾けて砲塔がポロッと落ちたりしないように注意しなければなりません。

 

 塗装に進みました。劇中車は御覧のように雪原での試合にて足回りや車体下部に雪がまとわりついており、車体にも白の迷彩を施しているように見えがちです。ですが、白い部分は足回りや車体下部に集中しています。車体上部がほぼグリーン系のカラーであるのに迷彩というのも妙です。白いのは粉雪とみたほうが良さそうです。

 ですが、粉雪を塗装で表すというのは違和感がありますので、私の製作では既に作った同チームのフラッグ車のノイバウファールツォイクやⅢ号戦車J型のように粉雪をまとっていない状態に仕上げることに決めていました。

 それで、今回のチャーフィーも、Ⅲ号戦車J型を製作したときと同じグリーン系のカラーでまとめることにしました。

 

 ミスターカラーの364番エアクラフトグリーンに366番インターミディエートブルーを混ぜて青味を加えたカラーを車体色として、それのみで吹き付け塗装しました。
 なお、モデルグラフィックス2019年9月号の17ページの塗装記事ではさらに352番のクロメイトイエロープライマーを少量加えていますが、そこまでしなくても充分に劇中車のカラーになっていると思います。

 

 転輪のタイヤゴム部分はポスカの黒で塗りました。

 

 前照灯は、劇中車のそれが透明感のあるガラスの色で表されているのに合わせて、ウェーブのアイズのクリアパーツを追加して上図のように仕上げました。クリアパーツの裏面をあらかじめポスカの銀で塗っておいて、それを前照灯のレンズ部として貼り付けました。
 前部の車載機銃および砲塔の同軸機銃は28番の黒鉄色で塗りました。

 

 バイザーも枠を塗ってから取り付けました。こういう外付け式のバイザーはガルパンの戦車ではあまり見たことがなく、覚えている限りでは他にセンチュリオンしかなかったような気がします。

 

 車輪とベルト式履帯パーツを組み付けました。

 

 モデルカステンの「MGデカール ガールズ&パンツァー Vol.2」より校章マークの一番大きなサイズのを1枚とって、車体前面のエンジン点検ハッチ上に貼りました。

 

 砲塔左右側面には、二番目に大きなサイズのを2枚とって左右対称の位置に貼りました。

 

 最後につや消しクリアーを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 いかにも戦車、という典型的なスタイルです。米軍の戦車のなかでは最も戦車らしい姿だな、と個人的には思います。ドイツ軍でいうとⅢ号戦車のフォルムに近い気がします。
 チャーフィーは、戦後は自衛隊にも供与されて使われていましたから、日本人にとっては割と馴染みのある車輛だろうと思います。

 

 以上で、ヴァイキング水産高校チームのM24チャーフィー軽戦車が最終章仕様にて完成しました。製作期間は、2022年12月9日から12月19日まででした。組み立てに8日、塗装と塗装後の組み立てに1日かかりました。

 劇中車は粉雪をまとっていて冬季迷彩のようにも見えますが、フラッグ車のノイバウファールツォイクが粉雪をまとっていない姿であるのに合わせて、粉雪の表現を除外しました。それによって車体は僚車のⅢ号戦車J型と同じく、単色での塗装となりました。

 キットは劇中車にほぼ一致するとされるAFVクラブの製品を利用しました。それでタミヤ製品で作る場合に生じる数々の修正や追加工作が殆ど要りませんでした。劇中車は車外装備品が一切無いので、キットにあるエッチングパーツ類も殆ど不要でしたから、比較的に楽に組み立てる事が出来ました。その意味では、初心者クラスにもおすすめできるキットかと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く39 その3  みほしるべの志摩リン

2024年06月02日 | ゆるキャン△

 三保松原の砂浜の上をしばらく歩きながら、周囲の景色を楽しみました。そのうちに、ある事に気づきました。砂浜へは松林内の園路から他の観光客と同じように降りて出たのですが、私の進んでいた方向が違っていたのか、他の人々は一様に左手つまり北側へ歩いていくのでした。

 

 そして右手つまり南側の砂浜にはまったく人影がありませんでした。あれ、こちらは立ち入り禁止区域なのかな、まさかな、と考えたりしました。立ち止まって周囲を見回し、他の人々の動きを注視しましたら、皆が一様に向こうを見たり指さしたりしているのが見えました。向こうに何かあるのか、とその方角を見たら・・・。

 

 富士山の、大部分は雲に隠れていましたが、白いてっぺんだけが見えました。なるほど、富士山が見えるから、みんなそちらへ向かったのか、と納得しました。雲が無かったら、富士山の姿もくっきり見えて綺麗な景色が撮れたでしょう。

 

 10分ほど砂浜を歩き回ったのち、松林の園路へと引き返しました。

 

 このような、時代劇に出てくるような景色が幾らでもありました。確か、暴れん坊将軍のオープニングのロケ地もここ三保松原だったと聞きました。

 

 砂浜から3分ほど歩いて、松原の土手を越えて反対側に降りると、御穂神社の参道があり、その右手に売店などが並ぶ広場がありました。広場の奥に、上図の新しいガラス張りの建物がありました。たぶん、あれだろう、と考えて入口に向かいました。

 

 思った通り、「みほしるべ」の建物でした。2019年に完成したばかりで、正式には静岡市三保松原文化創造センターといい、その愛称が「みほしるべ」であるようです。三保松原の道しるべを意味し、三保松原のガイダンス施設にあたります。一階には三保松原の紹介コーナーと地元の特産品販売コーナーがあります。

 三保松原の紹介コーナーを一通り見ました。三保松原の成立、駿河国三宮御穂神社の鎮守の杜としての歴史、近世以降の観光地としての経緯、舞踏家エレーヌ・ジュグラリスの紹介と遺品展示、万葉集や「羽衣伝説」の紹介、などのパネルが並び、初めて来た身にもよく分かる、見やすくて楽しめる構成になっていました。

 

 続いて二階へあがりました。多目的ルームや体験コーナーがありました。その一角にキャラクターパネルが見えました。

 

 え?これですか?これが志摩リン・・・ですか?・・・雰囲気が違うし、長髪なので他のアニメのキャラクターかと一瞬思いました。

 

 初めて見るアニメ3期のデザインで、2期までとは顔も髪型も違いました。まだアニメ3期の放送前でしたから、2期までの志摩リンのイメージしかなかったのですが、とにかく変わったなあ、原作コミックのタッチに近くなったかな、と思いました。

 やっぱりアニメ制作会社が変わると、絵柄も変わりますね。私自身は原作コミックからのファンですので、この原作の雰囲気に近くなっている新しい志摩リンの雰囲気もいいんじゃないか、と思いました。

 

 これがスタンプラリーのポイントですか・・・。スマホでQRコードを読み取って電子スタンプをゲットするのだそうですが、私はスマホを持たないので、こういった企画とは無縁なままです。だから今回のように、パネルの設置場所だけをのんびりと回るコースが楽しめるわけでした。

 

 このスタンプラリー企画の懸賞商品の案内チラシです。ファンの多くはこれらの賞品が欲しくて、富士山の周囲の多数のスタンプポイントを回るという、全然ゆるくないハードなスタンプラリーに挑むわけです。
 私自身はこういったアニメグッズに関する物欲がほとんど無くなっているので、あまり興味が向きませんでした。聖地巡礼に行って買うものと言えば、その土地の特産品か、嫁さんがリクエストしたご当地食材、などです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦車道連盟 M29ウィーゼル 作ります !!  その3

2024年06月01日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3およびステップ4では、左右の履帯を組み立てます。今回のキットの履帯パーツは連結式ですが、直線部分はワンパーツとして成形されているため、起動輪および誘導輪に巻き付ける部分のみを1個ずつ繋いで作るだけになります。
 ここ二、三年のうちに発売された各メーカーのキットの履帯パーツがこのような傾向になってきているのは、要望が多かったからなのか、メーカーの都合なのかは分かりませんが、作る側としては作業が楽になって有り難いです。

 

 小型車でサイズが一般的な戦車の半分ぐらいということもあり、履帯パーツは上図の12個で全てです。

 

 足回りが華奢で強度に不安があったため、今回は履帯も組み立ててしっかりと接着し、足回り全体の固定強化を図りました。

 

 なんとか組み上がりました。雪上車だけあって履帯が幅広になっています。接地面を広く取ることで雪中に沈みこまないようになるわけです。

 

 ひっくり返して上から見ました。たった12個の履帯パーツでこのように仕上がりました。いかにサイズが小さいかが改めて分かります。

 

 ステップ5では床面を組み立てます。ステップ6ではエンジンボックスを組み立てます。いずれもガルパン仕様への追加工作を伴います。

 

 ステップ5で組み立てる床面のパーツです。

 

 組み合わせました。

 

 ガルパン仕様への追加工作を、パーツC21の上図の赤枠内の部分に行います。後部に3つ並ぶ座席の、右側の座席のステップ部分です。

 

 劇中車では西住みほが座っている位置ですが、その足元の床面に茶色の踏板が張られているのが確認出来ます。キットに該当のパーツが含まれないため、プラ板で自作します。

 

 プラ板を貼り付けました。

 

 ラインチゼルで線をケガいて入れました。これで追加工作は完了です。

 

 ステップ6に進みました。エンジンボックスのパーツ類です。E18は劇中車にありませんので不要です。

 

 それで、C5にある、E18をはめ込む方形穴を埋めることになります。上図の赤円内です。

 

 劇中車では該当の位置に何もありません。これに合わせます。

 

 C5にある方形穴を埋めました。

 

 組み上がって、ステップ6の工程が完了しました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする