今日は思いもよらない電話がありました。
以前母が入院していた病院の主治医からで
解剖の結果を見て改めて調べたところ
世界初の症例なので、論文にしたいとのことでした。
ちょっと複雑な気持ちが混ざっていますが
快諾しました。これで良いと思います、今後の医療の発展のために少しでも
お役に立てれば母も喜ぶんじゃないでしょうか。
もうあれから1年8カ月たちました。
時が経つのはあっという間ですね。
今日は思いもよらない電話がありました。
以前母が入院していた病院の主治医からで
解剖の結果を見て改めて調べたところ
世界初の症例なので、論文にしたいとのことでした。
ちょっと複雑な気持ちが混ざっていますが
快諾しました。これで良いと思います、今後の医療の発展のために少しでも
お役に立てれば母も喜ぶんじゃないでしょうか。
もうあれから1年8カ月たちました。
時が経つのはあっという間ですね。
6月25日僕はこの日のことを生涯忘れることはないでしょう。
午前8:50くらいだったと思います。会社へ向かう電車内で
母の病院から電話がありました。
主治医が言うには
酸素が少なくなっていて、二酸化炭素が体内に多くなっている。
酸素マスクを着けている状態。
もしかしたら、今日亡くなってしまう可能性があるとのこと。
心の準備はしていましたが、まさかこんなに早くこの時が来るとは。
実際にこのような状態になると言葉が出ませんでした。
電車とタクシーで1時間半の道中色々なことを考えました。
普段思い出さない家族の懐かしい思い出とか、闘病生活だとか、
人生とはいったい何なんでしょうか。
罪人が長生き? 罪のない人間がこんなに早く、こんなにひどい病気に。
正直普通の病気ではありません。
人間が人間ではなくなる、そんな病気です。
僕が病室に着いたときすでに意識はありませんでしたが、まだ呼吸はありました。
その呼吸も時間の経過とともに段々と弱くなっていきました。
涙が止まらなく止まらなくて、精神的におかしくなるんじゃないかと言うくらい悲しみでいっぱいでした。
看護師が耳は聞こえているので話しかけてあげてくださいと言っていましたが
何を言ったら良いかわかりませんでした。それでも僕は何とか言葉を出そうとして
言えたのが、「兄夫婦がもう少しで来るから、来るまで頑張って 」それだけでした。」
11:40ぐらいだったと思いますが、兄夫婦が来て、3人で母の傍にいました。だんだん呼吸が小さくなり、
身体の動きが無くなっているのがわかったので、もう長くないと思いました。
こういう状況になり、初めて自分はまだ親孝行ができていなかったなとわかりました。
今思うともう少し優しくしてあげたら良かったと思います。
しばらくして動かなくなりました。12時半ぐらいだったでしょうか。短い生涯でした。
聞こえていたかどうかわかりませんが、「生んでくれてありがとう」と言うことができました。
感謝の気持ちしかありません。
もっと多くの感謝の気持ちを生前伝えられればどんなに良かったことかって今でも良く思います。
2018年の1月か2月だったか、大学病院へお見舞いに行った時のことです。
2年半前の話なのでちょっとうろ覚えですが。
この時点でもう先は長くないとわかっていたので、母が亡くなったあとのことを少しづつ僕に託し始めた時です。
こんな話をされると涙が出るじゃないですか。
こういう話はしないでよ、と言ったんですが
やっぱり後のことはちゃんとしたいようで色々とお願いされました、
あと、親戚のこと家族のこと、思い出話とか友人のことを聞きながら
僕は言いました。
「もっと色々なところへ連れて行ってあげたかったね。美味しいものだってもっとたくさん食べさせてあげたかった。ちょっと後悔してる。」
そしたら、母は、「ううん、もうたくさん色んなところへ行ったし、美味しいものもたくさん食べたから、お母さん満足だよ」と言いました。
普通の言葉のように感じるかもしれませんが、すごく重く心に残る言葉でした。
この時のこのやり取りは何年経っても僕は忘れないと思います。
僕は親孝行できてたかな?と今でも聞いてみたいです。
いつのことか忘れましたが、たぶん今年の1月くらい。リチャードクレイダーマンの曲が流れて来ました。
どこで聴いたのか、レディースクリニック、それかどこか別の病院だったと思います。
なんか懐かしかったです。両親がたぶん好きで子供のころリチャードクレイダーマンの曲をよく流してて
僕は幼少時すぐに眠っていたとかだったかな。
その日の夕食後YouTubeで検索して改めて聴きました。なんか泣きそうになりました。
両親を思い出すと、やっぱり切なくなりますね。
ちょうど一年ほど前のことでしょうか。
母の病名がわかり、これから病気と戦っていく時の話です。
まだまだ全然受け入れられない自分がそこにいましたが
とりあえず会いたい人には会わせてあげたいと思いました。
このタイミングで母から母の古い友人を紹介してもらいました。
多分自分が死んだ後も仲良くしてほしいという意味で紹介したんでしょう。
僕は母方の兄弟姉妹、親戚に連絡しました。台湾に住んでいますが、
会える時に会わないと、もういつ会えるかわからないので再会を祈っていました。
2018年の3月上旬くらいでは、歩行はもちろん左右の手も言うことを聞かなくなってきた状態でしたので
こんな病気になってしまったことを神様を恨みました。いや、神様なんて偶像なものだけで
そもそも神様というなんというか概念自体があることが可笑しな話なのかもしれません。
親戚は言いました。これは運命なんだと。運命ならただ受け入れるしかないと。
「運命」という言葉だけで片付けたくないですが、確かに治療方法が何もないので
ただ受け入れるしかないんです。1日1日を大切にし、楽しいことを考える。できる限り多く笑う。それで良いんだと思います。
足が動かないし、手も動かなくなってきて、そして呂律も回らなくなっている。
厳しい現実でした。
足が動かないというのは、健常者からすると想像できませんが、歩行、走行が不可能以外に、足腰が弱っているので
トイレも一人でできない。
手の場合は、最初は箸を使えていたのに対して、徐々に箸が使えなくなり、そのうちスプーン、フォークが使えなくなりました。
見ていられない状況で、毎日涙があふれ出てきました。
確か2018年の2月中旬だったと思います。
この日は確か午後半休を取り、病院に向かった日です。
医師から血液検査、皮膚検査などを含め色々と難しそうな検査をやったみたいで
その報告をするとのことなので緊張しながら病室へ向かいました。
母は筋萎縮性側索硬化症という病気で別名ALSと言います。
簡単に言うと運動神経が無くなる病気です。
治療方法はまだ見つかっていない、日本全国でも9,000人弱しかいない難病です。
進行性の病気で、最初は手足が不自由になり、徐々に口がきけなくなり、最終的には呼吸ができなくなり死亡するという
大変恐ろしい病気です。平均寿命は発症後2年~5年と言っていました。
治療方法がないので、病気が治ることはありません。死の宣告と同じでした。
もしかしたら助からないかもしれないと少しは予想していましたが、実際に医師から告げられると
もう何と言っていいのかわからない喪失感、絶望感が溢れていました。これと同時に病院を出た後、
どうやって面倒見れば良いのかとそのことで頭がいっぱいになりました。
その時です。母は医師に一つのお願いをしました。「安楽死」をさせて欲しいと。
助からないとわかっているなら、病気と闘う意味がないと思ったのです。
でも実際は幸運なのか不運なのかわかりませんが、日本の法律でそれは禁止されているので
安楽死はできないというのが医師の答えです。
難病を受け入れて戦うしか道はありませんでした。
2018年になり世間はあけましておめでとうムードでしたが
僕の心は全然新年を祝う気分ではありませんでした。
母はこれからどうなるんだろう?とこのことばかり考えていました。
パンを買って見舞いに行ったある日のことです。真剣な話をしました。
「もし亡くなったら」と。正直こんなことは考えたくなかったですが
考えないわけにもいかないのが現実です。
実家をどうするかが一番のポイントで、やはりずっと守っていってくれと頼まれました。
実家は母の宝であり、意志です。父が亡くなってから15年の長い月日を一人で頑張って守ってきたんです。
色々なことを考えました。僕は今まであんまり親孝行ができなかったので母に「もっと色々なところへ連れて行ってあげたかった。
ベトナムとかヨーロッパとかさ、あと美味しいものもたくさん食べさせてあげたかったよ」と言いました。
それから母は「ううん、良いのよ。今まで色々なところへ行ったし、美味しいものもたくさん食べた。もうこれで十分。
みんな良い子だし、あなたたちがいて本当に良かった」と。
この言葉を聞いた瞬間、涙が溢れ出てきました。そんな僕を見て母も泣いていました。
僕はこの日のことを一生忘れないと思います。
正確な日にちは覚えていませんが、年末です。
この日は珍しく兄夫婦と私たち夫婦が見舞いに来ていて
5人そろいました、一人部屋を与えられていたので割とのびのびと過ごせていたと思いますが
ちょっと日当たりが良くないかなという病室です。
生活に必要なものを整理したころ、母は言いました。「みんなで写真撮ろうよ」と。
以前からみんなで写真を撮ろうと思っていましたが、
2016年と2017年のお盆も惜しくも忘れてしまい、皮肉にも病院での写真が最初の写真となりました。
この写真は本当に良い写真で一生の宝物にしたいと思います。
大学病院へ転院する日がやってきました。
ここで問題なのが、車です。僕は車を持ってないので
病院から病院へ移動するのはタクシーしかありません。
ただ車で40分の距離で経済的に非常に厳しい状況です。
あまり友人には頼みたくないですが、小学校からの友人に車を出してもらいました。
今思うと本当に感謝しています。持つべきものは友達ですね。
この時すでに歩行ができないので、車に乗せる時は苦労しました。
介護士の友人がやってもなかなか上手く乗せられなくて、母の上半身を抱え込んで持ち上げるんですが
痛いみたいです。道中運悪く渋滞していましたが、無事に転院先の病院に着き、
やっと一呼吸付きました。
入院の手続きをし、担当看護師さんに会いました。妹と同じくらいの年で一生懸命で、非常に好感を持てる方でした。
手続きに結構時間かかりそうだなと、母は悟ったんでしょう。「出張に行く」と嘘をついて早く会社に行きなさいと。
母のことが気がかりでしたが、その日は病院をあとにし、一日でも早く良くなるようにと祈りながら会社へ行きました。
救急車で運ばれ、そのまま入院してましたが
ようやく大学病院での受診ができるとのことで
確か12/18くらいだったと思いますが、兄と母の3人で大学病院へ行きました。
医師は色々母に聞いていました。飲酒、喫煙の有無、大麻、覚せい剤の摂取などまでです。
そんなものやるわけないだろと思いましたが、これもしょうがないのでしょう。
握力を測ったり、関節が動くかどうか、手足の押す力なども見ていました。
30分ほど受診したあと、結局何の病気かわかりませんでしたが
嫌な予感はしていましたが、前向きに、前向きにと考えました。
そこは大きな病院で待ち時間も長く、結局その日は5時間くらい病院にいたと思います。
長い一日でした。自宅に帰っても面倒見れないので、1週間ほど田舎の病院に戻すことにしました。
クリスマス前後で大学病院に検査入院です。