真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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「Drパルナサスの鏡」と「アバター」視覚表現が与えてくれる自由と楽しさ。そして苦さ。

2010-02-02 | ロードショー
  

近頃、心の中が騒がしい。なにやら落ち着かない気分だ。
文章を書こうと思ってもモヤモヤするだけ、人の文章もちゃんと読めない。
文字はもういい、視覚的なものが欲しいと飢えている。絵を描いたり写真を見たり映画を見たりすることのほうが遥かに楽しい。もっと直接に肉体と繋がっているような感覚が欲しいのだ。
という訳で、最近見に行った映画は、ジェームズ・キャメロンの「アバター」とテリー・ギリアムの「Drパルナサスの鏡」である。両者とも映像の天才。だが遠く離れた質感を持つ。



「アバター」は3Dが話題になっている。
それは映画の歴史がひっくり返るのではないかと思えるほど凄かった。まさに体験する映画という感じで、見逃した人、見る気がない人には悪いが、この体験を見逃すことは一生の不覚というものだ。この3D、飛び出してくるというより奥行きを表現する。それは映画制作のうえで現実の動きを抑制するどころか数倍に拡大している。そのことによって眼球の運動量は飛躍的に高まり疲れるが、しばらくすると慣れてしまう。
予告編で気になっていた映像の過剰な明るさは、3Dメガネをかけてみることで解消されるように出来ていた。おかげで画面は重厚ですらあった。



戦争映画にこだわるキャメロンらしい凄まじいばかりの戦争ファンタジー映画である。
「地獄の黙示録」の神の視線からみたナパーム弾の狂気や、「プラトーン」のゲリラ戦の恐怖、「プライベート・ライアン」の臨場感、「シン・レッド・ライン」の自然と暴力の対比、「七人の侍」の合戦、「もののけ姫」のエコロジー、「ゴースト・イン・ザ・シェル」、「アキラ」、「マトリックス」のSF要素、「ダンス・ウィズ・ウルヴス」や「ニューワールド」の物語。
キャメロン自身の特に「エイリアン2」を思い起こさせる大スペクタクル、フェミニズム、すべてのキャメロン好みを彼自身の両の手の平に乗せ、ミキサーにかけた一大通俗エンターテイメント。アメリカン・モダン・アートとしての3D映画。
美しく、残酷で、迫力。キャメロン・エネルギーの物凄さを改めて思い知る思い。
説明なんて野暮。理屈もいらない。キャメロンはとにかく俺の3Dを観ろ!といっているかのようだ。

  


一方、「Drパルナサスの鏡」は、毒気に満ちた想像力の大博覧会である。「アバター」とは別の意味で、あきれ返るほど変なイメージの連続である。
本作は「未来世紀ブラジル」を作ったギリアムらしく“現実と想像力の闘争”の物語。
誰もが知るように“現実”という怪物は、いつだって“個人の想像力=夢を見る力“を破壊する。それは全ての人が必ず経験する痛みだ。だからギリアムのファンタジーは苦い。それは哀しみと痛恨の苦味である。
本作は夢と現実を行き来する物語だが、それは次第に相互浸食しあい、悪夢の様相を呈し始める。夢だけに酔わせることはない、突然冷たい汚水を浴びせられる感覚を繰り返し味あわせられる。その夢は、現実を奇妙にデフォルメしたグロテスクで恐ろしく、同時に愉快なことこの上ないものだ。愉快に感じるためには自らを笑いとばす感性がなければならないが…。

「アバター」が最新鋭のミキサーにかけた最新濃縮ジュースの一気飲み体験なら、「パルナサス」は魅力的なレトロ・ミキサーに入って一緒にかき回されるような体験が出来る。
出来上がったジュースは世にも珍しい怪味がする。うまいもまずいもない、理屈など吹っ飛んでいる。

若く美しい女性に恋をした老人パルナサスは、悪魔に魂を売ってその恋を成就させた。その条件は、娘が産まれ、17歳になったら悪魔に引き渡すこと。いま、娘は17歳になろうとしている。勿論彼女に話してはいない。パルナサスと仲間は一種のマジックショーを巡業する小さな一座をしている。客は少ない。悪魔は客を5人用意出来れば見逃してやろうと持ちかけてくる。そんなある日、首をつって死にかけていた青年を救う。彼は記憶喪失になったが魅力的だ。彼なら客を呼べるかもしれない・・・。



こんな風に展開する物語は、ロンドンの薄汚い場所ばかりでロケしており、色彩もダークである。「アバター」のハイテク機器による旅とは違って、幻想への旅の入り口はペナペナの鏡だ。しかし、幻想の世界に(その仕掛けは書かないが)入ると、そこは人の願望や夢想を再現するビザールな原色世界。このコントラストは、いかにもギリアムらしいインパクトだ。
毒気のあるダークファンタジーといえばティム・バートンも高名。だが、彼と比べてギリアムはより知的に屈折していて、その毒も致死量寸前のものである。パルナサスの夢と現実の闘いは、実はギリアム自身のものであり、必ずしも全てが叶うハッピーな世界ではない。
彼が生み出す夢の映像は、すでに“現実の魔”に犯されていて純粋さを保てないでいる。グロテスクに変形した悪夢だ。そんな彼の作品が切実さを持っているのは、それでもギリアムが夢を見る力を手放そうとはしないことである。ここが彼の素敵なところだ。その意思は狂気的である。だが、その狂気は、鏡に反映させると正気の顔をしているのである。その聡明な繊細さとやさしさ。それは、美しい幻想を錆びついたナイフで切り裂かれた痛みを経験している人だけが持つものだ。

テリー・ギリアムは70歳。だが反骨精神は鈍ることを知らない。
彼の作品はスイートなものではないが、勇気をくれる。
君はそれでも夢を見るかい?と彼は問いかけてくる。しっかりと君自身のための夢を見ているのかい?と。
人に与えられた夢でなく、自分の力で自分だけの夢を見たいという人にテリー・ギリアムは最高に滑稽な“悪夢”を用意してくれる。僕はこんな夢を見たよ。それは悪夢のようだった。でも、悪夢だって“かけがえのない”僕の一部なのさと。

キャメロンの理想と夢も確かに面白いが、やはりギリアムのそんな提言こそ素敵だ。
言葉と視覚、現実と幻想、現在を軸にした誕生以前と未来、若者と老人、甘さと苦さ。
ギリアムは傷だらけになりながら、バカバカしく奔放な想像力で描く。



キャメロンの、映像メディア自体を変革しようという壮大な夢と実現の目ざましい成果。
ギリアムの、夢の実現のための闘い。それはギリアム流の私的ドキュメンタリーともいえる作品だった。個人的に応援したくなるのは、勿論後者である。
とにかく、この二本の対照的な作品を続けて見て満足した。
澱んだ頭は、ほんのしばらくだが“真っ白”になった。一度白くなった頭はスッキリして、また色々と考えたり感じたりできるようになるものである。
そう信じて、今日はこれからマリオ・バーバの「白い肌に狂う鞭」を見よう。
その後、落書きをしてから、ギイ・ブルダンの写真集をみて寝よう。

 


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