真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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塚本晋也の『野火』 「1000ミリ望遠の目」で描いた戦場の異常

2015-08-24 | ロードショー
   

 塚本晋也の『野火』は想像したとおり飛び抜けた日本映画だった。戦争を描いて怖さのない作品など信用は出来ない。感傷過多、英雄譚などお話にもならない。そんな昨今の日本の戦争映画にへきえきしていた。しかし『野火』は恐ろしい。とにもかくにも恐ろしいのである。塚本演出は主観的かつ触覚的である。透徹し、生々しく、しかも美しい。「塚本作品」として観れば正当だが、昨今の日本映画としては超異端。しかしあえて言えばこれは久しぶりに観た「正当な戦場映画」なのだ。

 この『野火』を観て改めて思い知らされるのは塚本監督の人の「瞳」を映しだす才能である。「目は心の鏡」と言うが、肉体の変容が精神を揺さぶり、未踏のステージへと押し上げていく過程を、塚本は人=俳優の瞳を通じて描き切ってしまう。その意味で塚本はやはり、マーティン・スコセッシやデヴィッド・クローネンバーグと直系でつながる「俳優演出の天才」である。
 俳優とはつねに自らの「器官」や「触覚」に敏感な生き物であるだろうが、塚本は彼らにその五官を極限まで研ぎ澄ますことを要求し、その濃密な成果が集約的に本作に出た。三人の主演者――塚本晋也自身、リリー・フランキー、中村達也――がともに見事に恐ろしい。彼らの眼光に宿る異常はただごとでないが、それを捉えた撮影の力も大きい。スタンリー・キューブリックの戦場映画『フルメタル・ジャケット』のなかで、いきがって武勇伝を語る兵士の嘘を見抜いた兵士が次のような会話を交わす。

 「やつに実戦の経験はねえよ。第一、あの目つきがねえ」
 「目つき?」
 「1000ミリ望遠の目つき。長くクソ地獄にハマったときの――マジに――あの世まで見通す目さ」


 ここで三人の目に宿るのはまさしくそういう「目つき」である。目玉という、ぬるぬるとして、しかも弾力があり、意外にも頑丈な物質が、がい骨の穴の中にはめ込まれている。それがやはり奇妙な形をした耳と、二つ並んだ鼻の穴とで、脳に与える影響は計り知れない。嗅覚はともかく塚本の映画ほど目と耳を直撃し、全身に回る劇薬はない。三人のニッポン男児たちが、禁断の領域に堕ちていくさまを『野火』は描破する。古今東西、人は苦痛を前に目と耳をふさぐものだが、『野火』はその目耳を直撃してしかも片時もふさがせない。こうした演出姿勢もしくは演技姿勢は、元来、基本中の基本であるのかもしれない。50~60年代の日本映画にはそんな役者たちの瞳や映像がたくさんあった。しかし現時点において『野火』は稀に見る日本の戦争映画として屹立している。