真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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ミシェル・マリの『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』~~時代を紐解き、目から鱗を落とす語りの力

2014-12-09 | 映画の本
   

 ヌーヴェル・ヴァーグ――その内実を理解するより先に口にしてきたし、されてもきた言葉である。それはすでに50年以上も前の歴史であり、しかも世代と強く関わるため、後追い世代が、その「全体像」を把握することが困難なのは、時の薬になめされて細部が整理されてしまうからである。

 個人的にそれは「両親世代」に属する「文化現象」としてある。たとえば、母親は『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール/1960年日本公開)を17歳の頃に「映画館」で観て、「こんな映画を待っていたんだ」と感じたという。ここには世代ならではの感慨と興奮があるが、劇場内の様相はそれとまた異なるものだった。閑散として中年男ばかりなのが奇妙だったが、突然、映画の上映前に「本物のストリップ・ショウ」が始まったのである。母親と友人は、行き先を間違えたのだと思い、そのまま固まって動けなくなったが、「ショウ」が終わると無事に「映画」が始まったのであった。勿論、日本でのお話であり、いまなら到底考えがたい環境であり状況ではあるが、映画もまた人と同じく環境の生き物なのであり、ことに街と結びついていた時代の映画は、そうした環境とともに脈打ち、その鼓動で観る者をも揺さぶり、ときに「時代の象徴」になることもあった。
 ヌーヴェル・ヴァーグという映画運動体もまた、個々の作品や作家に対してという以上に、ひとつの時代を指した言葉であり、象徴なのである。仮にDVDなどのソフト環境の整備が、すでに映画を「時の枷」から解き放っているとしても、映画=映像というものがそもそも備える記録的な資質が変わることはない。

 そこで本書『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』(矢橋透訳/水声社)の登場である。著者ミシェル・マリは1945年生まれ。やはり思春期にその洗礼を受けた世代に間違いない。ミシェルは約半世紀の「全体像」を捉え返す試みとしての本書の性格を、次のように位置づけている。「経済的技術的背景の分析を優先し、テーマ的文体的要素にはより限定された場しか与えなかった」「ここではむしろ、ひとつの運動の長所と弱点を含みこんだ全体的総括が提示されようとしている」のだと。当然、項目は多岐にわたり、個々の作家、海外への影響、現代への継承なども視野に収められる。

 詳しい人には知った内容かも知れないが、ミシェルは「経済的技術的」な「語りの力」で読む者の目から鱗を落としてくれる。とかく「テーマ的文体的」に偏りがちな「ヌーヴェル・ヴァーグ」観を心地よく裏切る、その感触は、多くの理論書や評論本の類いよりもむしろ「ヌーヴェル・ヴァーグ映画」そのものに近い。あの『勝手にしやがれ』や『大人は判ってくれない』のようにリアルで、軽やかなスピード感があり、簡潔かつ具体的で、コクがあり、情熱もたっぷり。水玉模様の装丁、280ページほどのコンパクトな本だが、その中身は驚くほど濃いのである。

(「キネマ旬報」2014年5月下旬号/渡部幻)

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