真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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デヴィッド・ロバート・ミッチェル『イット・フォローズ』のインスパイリングな「新しさ」と「物足りなさ」

2016-01-06 | 試写
   

 デヴィッド・ロバート・ミッチェル『イット・フォローズ』はユニークなホラー映画である。個人的にはまるで怖くないのだが、それは筆者の感受性の問題である。ホラーにも色々あり、『エクソシスト』などは大好きだが、『リング』にはなにも感じないというところがある。ホラーは好きだが「怖い」から好きなわけではないし、多分その方面の感性すれっからしになってる。本作は「青春ホラー」だが、個人的にはこのジャンルに思い入れがないし、若者がいくら脅えていても(大げさに言えば)なんとも思わないようなところがあるのだ。ただ、非常にインスパイアリングな作品であり、奇妙に尾を引くところがある。その感触からホラー好きなら『ハロウィン』などの初期ジョン・カーペンター作品を連想するだろう。いっけん二番煎じみたいだが、それで終わらないひらめきを感じさせる。高評価もうなずける異色作なのだ。

 映画は視覚・聴覚の感覚表現である。本作はひと目でその映像感覚に目をみはらされる。映画は総合表現なので一口に感覚と言っても、撮影、被写体、編集、それとも全部の総合を指しているのかわからない。どれを指しているのかで受け取り方も変わってくる。『イット・フォローズ』で僕が感心したのは撮影である。シネマスコープを活かした構図の陰影が深く、しかも「ほぼ動かない」。それゆえ観る者は動かないロングショットのワイドな構図のなかを観察し、目玉を動かす。ホラーだからその「目の動き」は脅えにもとずき、「恐怖の対象」を探しているのである。アングルの「固定」は、ここで劇場の椅子に固定された観客の視線と結びついている。冒頭で椅子に縛られた少女を見せるが、それはスクリーンの鏡に映った観客の似姿なのである。

 映画の画面は「世の映し鏡」である。スクリーンは鏡であり、その反映としての世界を眺める行為が映画鑑賞なのである。映画の鏡の世界は多彩である。「写実的なもの」から「奇妙に歪んだもの」まで色々だが、観客はスクリーンを覗き込んで、そのなかに自らの似姿を見出す。観客はその似姿=登場人物に共感したり嫌悪したりするが、作者はその心理を利用してドラマを様々な方向へ転がしていく。娯楽映画の多くは、極力、大衆の要望に合わせ理想化された人物を描くことが多いが、しかしホラーの場合は、必ずしも理想的な人物像である必要はない。こと青春ホラーではむしろ欠陥を持つ普通の人物がひどい目に合わされることが多いかもしれない。

 

 「鏡」を始終覗き込んでいるような人がいるが、あれはどうしてだろうか。自分の顔をそんなに眺めるとは、極端に神経質な人か、もしくはナルシスト、それともマゾヒストだろうか? 「ホラーの鏡」の場合どうだろう。映画は鏡だと書いたが、自らの似姿=分身たる登場人物を通じて恐怖に脅えてみたいなどとというのはどちらかといえばマゾヒスト的ではないか? ホラー映画ファンにかぎらず映画ファンなどという存在は多少なり歪なところを持っているものだと、自らを省みて思うのだが、しかしホラー映画に描かれる恐怖のつるべ打ちを観て喜んでいるとはどういう風の吹き回しからくるのだろうか。この世にはびこる者どもが痛めつけられるのをみて喜んでいるのか。それとも自らを鞭打っているのだろうか?? よくよく考えると奇妙に思えるものだが、ファンはそれを糧として生きているし、ホラー中毒者はあとを絶たない。
 ホラーファンにもいくつかあり、被害者の立場に身を置くマゾヒスト型の人物と、加害者の立場に身を置くサディスト型の人物とがいる。言い換えれば被害者の立場に身を置くのは普通のファン。加害者側に身を置くのはマニアックなファンである。マニアックなファンは作者たる監督の側に身を置こうとする癖がある。つまり脅かす側に身を置くため、脅される一方となるお化け屋敷には腹を立てる傾向がある。しかし『イット・フォローズ』の場合、ほとんどサディスト型の立場に身を置くことはむずかしいのではないか。本作には具体的な加害者が存在しない。もっぱら被害者側の心理状況を追体験させられ、恐怖の正体と理由を、観る者に自ら「考えさせる」ようつくられている。僕が怖くなかったのはここが理由だった。おもしろいのだがホラーとしてみれば適者生存の本能を直撃する恐怖感を煽ってほしいのだが、本作のつくりは「知的」に過ぎるように思えたのである。

   

 『イット・フォローズ』の主人公は青春盛りのティーンたちだが、彼らに襲いかかる「それ」は「レザーフェイス」や「ブギーマン」のように「具体的」かつ「特定的」な怪物ではない。たしかに「人の形」をしたゾンビのごとき存在が登場する。「それ」はただ歩きながら近づいてくる。単にそれだけなのだが、それらは「死」の象徴であり、その要因は「セックス」にあるのだ。ポイントは「死という観念」である。「死」を思わせるなにかが、ただ「こちらに近づいてくる」のが怖いという映画なのだが、言葉で説明するのは難しい。それは悪夢の感触に似て、目覚めたあと他人に話しても、まったく伝えられないのと似ている。相手の表情に「恐怖」が浮かんでいないのである。「ああなって、こうなって」というようなストーリーラインはここであまり関係はない。悪夢のなかの「あの雰囲気」。それが真に迫って「恐ろしかった」のだが。『イット・フォローズ』はあえて言えば「そういう」雰囲気を持つホラー映画なのである。「恐怖感」というより「不安感」といったほうニュアンスが近いかもしれないが、この映像は若者に特有の漠とした孤立感をよく捉えている。自らがいまだ不確かな存在でしかないことからくる孤立感。これに押しつぶされて人生を終えてしまうことも稀なことではない。

   

 ジョン・アーヴィングに『ガープの世界』という小説がある。ホラーではないが「死」が蔓延する世界が描かれる。登場人物たちに襲い掛かる「死」は、質、量ともに『イット・フォローズ』をはるかに超え、子供だましに見せる。この本で人々を死に追いやる要因は「暴力」「事故」そして「病い」である。ホラーでなくむしろユーモラスなの小説だが、そのことがかえって強力なリアリティを生む。次々に不条理な死が描かれていき、死が山積みの状態になるが、この状況を生き延び、ついに心の平和を得たころには「老い」という名の病いに襲われ、あっけなく死んでしまう。アーヴィング的な人生観。主人公のひとりに型破りな看護婦が登場し、彼女が言うように、人間はみな漏れなく「死という病」を患っている。世に生まれ落ちた瞬間に作動を始めた時限爆弾を抱えながら右往左往し、そして死んでいく。かように「生きる」とはイコールで「死に向かう」ことと同義なのだ。
 主人公ガープは、第二次大戦中に死にかけた兵士を犯して孕んだ看護婦が生んだ子供である。この本には死と同じくらい多様な性とセックスが描かれるのだが、性と死は分かちがたく結びついている。
 人はその成長過程で擬似的な「死」をいくつか経験するが、そのひとつは「眠り」である。誰もが一度くらい「眠ったまま二度と起きなかったとしたら」と考えてみる。日々の眠りは死の予行演習であり、明日よりよく生きるべく「眠る=死ぬる」のである。次に「病い」がある。風邪で高熱を出して意識が遠のくと肉体から魂が遊離していくような感覚にとらわれることがある。病いもまた死の予行演習であり、病いが完治すると毒素が抜けて以前にも増してサッパリするのもそのためである(ときに失敗するとそのまま死ぬ)。さらに「セックス」がある。セックスの目的のひとつは生殖だが、そこにはセックスでしか得られない快楽が伴うため、それだけを目的として人はその行為を求める。性的快楽の絶頂が死を思わせる感覚を呼び起こすことは大人なら身を持って経験している。絶頂で死に近づき解き放たれる快感を知った者たちは、繰り返しそれを求めるようになるが、快楽重視のセックスに付きまとう不安と危険がある。妊娠し、もしも産むつもりがなければ堕胎しかない。それは命の死を意味するから避妊を考えるが、しかし避妊も突き詰めれば命の種の死を伴うものである。男性はマスターベーションで精子を殺すことに慣れているよるようなところがあるが、それもまた「死の予行演習」のひとつだろう。人の肉体は日々さまざまな生と死の繰り返しのなかにあり、子供のときの「肝試し」や「探検」、「いじめ」や「殴り合い」、「大怪我」それに「近親者の死」など、さまざまなかたちで「死の擬似的体験」もしくは「死に至るための通過儀礼」が、人生のそここには用意されているのだ。そして「恐怖小説」を読んだり「ホラー映画」を観ることもまたそんな「死のレッスン」のひとつなのである。言い換えてみれば「死に至る通過儀礼」なのである。

   

 ホラー映画『イット・フォローズ』で若者たちのもとへ「死」を運んでくるのは「セックス」だ。思春期の若者が感じる孤独と不安がセックスを求め、そのまま「死」へと直結してしまう恐怖の底には罪の意識がある。いまだ大人の保護下にあり、監視されている彼らにとって、セックスは「大人からの解放」と結びついている。彼らはいまだ真の「恍惚」は知らないかもしれないが、そこに「死」の匂いを嗅ぎ取るからこそ、いわれのない罪の意識を感じる。ここから恐怖が生まれるのだが、気になるのは本作の背景にある宗教観である。しかしそこには踏み込まない。映画は宗教を超えているし、宗教もまた突き詰めれば普遍的な性格を帯びるものだからだ。
 子供と大人を対立軸に置いたセックスはある種の背徳性を帯びる。セックスが大人の保護からの開放を錯覚させ、その開放感がセックスをより求めさせる。人間は、普段、他者の裸体に触れる機会を持たないものである。「触れない」ということは「触れられない」ということでもあり、それ自体が存在の孤立なのである。多くの人は、どこかの誰かに恋愛感情を抱き、それを伝え、了解を得ることで相手の裸体に触れる禁を破ることが許される。他者との肉体的な結びつきがひととき孤独を忘れさせるが、普段、誰にも触れることなく触れられることもない「皮膚」は敏感であり、触れ合うことで強い喜びを覚える。その喜びは「生きている」実感であり陶酔感につながるが、やがて快感が絶頂に至ると「死に近づくことの」の恍惚へと変わる。しかし、絶頂の瞬間はやはり孤独である。死ぬときは誰も一人ぼっちでなのだ。脳がしびれ、純粋に肉体的な存在になると、すべてが溶け出し、消えていくような感覚に陥る。「死の予行演習」である。

 

 セックスの喜びを知ったばかりの若者は――通常どのくらいか知らないが――15から19年近く孤立してきた肉体を他者と結びつけ、生きる実感を得ることに夢中になる。『イット・フォローズ』は「セックス」がイコールで「死」と結びつく恐怖を描いている。セックスは「生死の分別」から解き放つ麻薬だが、ここでは無防備な若者の他者を求める心が「死」を撒き散らすことになるのだが、別に性病のメタファーというわけでもないだろう。『ハロウィン』などと異なるのは主人公が処女でない点である。主人公の少女は性的に開放されているが、ことさら潔癖でも奔放でもなく、セックスが先行し、恋や愛の感情があとから付いてくる状態であるかもしれない。彼女らが性的に潔癖でないぶん「それ」が「うつる」可能性が高くなるが、不潔さはなく、むしろ清潔なのは、その根に他者との触れあいを求める気持ちが感じられるからだ。セックスの描写に扇情性がなく、会話や食事もしくは睡眠の延長のようにスケッチされるのが新鮮だが、映画の仕掛けどころもここにある。カジュアルなセックスが「死」を「うつし合う」状況を誘発し、恐怖に怯え肩を寄せ合い助け合えば合うほどセックスの機会が増えてしまう。また、舞台となるデトロイトの町並みがシネマスコープの画面に印象的に描かれ、若者の心身を包囲して蝕んでいる。ここでは、町そのものが「死」の象徴なのであり、若者たちを孤立させる装置ともなっている。また大人の気配がなく、それが映画全体に「夢の性格」を付与している。若者らは無気力であり、熱情を伴わぬセックスの氾濫が、彼らをより弱い存在にしているともいえる。彼らはセックスによって生死の境をさまようことになるが、生か死のいずれかを選ぶことはできない。両側をまたぎ死とともに生きていくほかはないのだ。

 

 劇中に何度か登場するプールは、彼らがいまだ羊水に浸かる子供であることを示唆するが、いずれ出なければならないが、彼らを取り囲む死に体のボストンから抜け出すこともできない。受け入れなければ死ぬ。浜辺で死んだ少女のように。もっとも『イット・フォローズ』はホラーだから『スターウォーズ』のごとく「愛と連帯」が「悪と弱気」に打ち勝つ可能性は低い。純粋が死に追われ、敗北の危機に瀕してこそホラーだ。これは「セックス」を通じて「死」と出会ってしまった現代アメリカの若者たちの通過儀礼でありサバイバルのドラマなのである。
 『イット・フォローズ』は「死」を「克服されるべきもの」でも「克服できないもの」でもなく「受け入れるべきもの」として描いているように思える。それは正論であり、非常に教育的だと思うが、映画は正論や理知でおもしろくなるわけでもない。『イット・フォローズ』でユニークなのはホラーにしては身体性に欠けている点である。観念的かつ知的に構成されている本作はまるで肝心要の「本能」をどこかへ置き忘れているかのようだ。黒沢清の『回路』に描かれた「死の蔓延」と「愛と友情」を思わせなくもないが、あちらのほうがスケールが大きかったし、死の観念にもより膨らみがあったように思える。が、視覚的には『イット・フォローズ』のほうがはるかに好みなのである。

   

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ファティ・アキン『消えた声が、その名を呼ぶ』の壮大な地獄巡りと映画の美

2015-12-03 | 試写
 

 ファティ・アキンの『消えた声が、その名を呼ぶ』を試写で。
 近頃、試写で観た映画を書いておくよう心がけることにしているが、いつまで続くだろうか。

 第一時大戦中の1915年、オスマン・トルコから始まる。鍛冶職人のナザレットには愛する妻と双子の娘がいる。アルメニア人でありキリスト教徒であるがゆえにある日突然連行され、家族から引き離され、重労働を課せられたのちに他のアルメニア人とともにのどを裂かれて処刑されるが、奇跡的に生き残る。ここまでは容赦ない描写の連続で現実とは思えないような大量殺戮の歴史が映像化される。「復活」したナザレットは声を失うが、ここから壮大なる旅の物語がはじまり、途中、娘が生きているとの情報を得るとアメリカ・ノースダコタへと向かい、ついに辿り着く。

 20世紀前半オスマン・トルコのアルメニア人親子を襲った凄絶な受難劇である。西部劇を思わせる旅の物語で、果てはアメリカにまで辿り着く壮大なる移民の物語でもあるが、こういう、すれっからしではない「映画らしい映画の映像」を観たのも久しぶりな気がする。
 現在あまり見られなくなった類のエピックドラマとして、(内容は違うが)たとえば『アラビアのロレンス』『ドクトルジバゴ』(デヴィッド・リーン)、[『人間の条件』(小林正樹)『戦争と人間』『ウエスタン』(セルジオ・レオーネ)『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー)『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー)『ガリポリ』(ピーター・ウィアー)『アメリカ アメリカ』(エリア・カザン)『ゴッドファーザーPART�』(フランシス・フォード・コッポラ)『ラグタイム』(ミロス・フォアマン)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(レオーネ)『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン)などと通ずる「魂の叙事詩」としての面白さがある(時代的な一致を含む)。「面白い」とは言っても、ここに描かれるのは、時代の大きなうねりに翻弄された個人が体験する地獄めぐりであり、そのなかで人間が、なおも行動――つまり「生きる」ということ――を起こし、生き残らんとするとき、彼や彼女を突き動かすだろう「動機」には普遍的かつ根源的な感動があるのである。

 
(ゴッドファーザーPART�より)

 「壮大なるエピックドラマ」というと、昨今は『スターウォーズ』もしくは『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのように「ファンタジーの衣」をかぶせないとなかなか大衆に届かなくなっているようだが、『消えた声が、その名を呼ぶ』は、より生々しい内容を持つ大作であり、実際、それらにも負けないようなドラマチックな面白さを持っている。
 アキン監督は民族の悲劇を克明に捉え、その映像はリアリズムを土台にしながら、ときに現実の枷を外して超現実的な領域に踏み込んでいく。その点でこれはマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』や『クンドゥン』に近い宗教的体験としてのインナートリップ・ムービーだと言えるが、ここに描かれる「トリップ」とは、見知らぬ世界への地理的・物理的・時間的な肉体の移動が精神を揺り動かし、その先にもたらされるだろう魂の浄化としての「旅」であり、その様を描いた体験としての物語である。

 

 アキンには監督としての新鮮な目、驚きに見開けれた目があり、それは自らの歴史を遡る者に不可欠の目でもあるが、同時に、現代的かつ理性的な「距離の眼差し」を保ち、恐るべき悲劇を描きながら決して情に溺れさせない。シネマスコープの撮影は見事。ことに美術造形は圧倒的で、ドラマの後半に広がる20世紀前半のアメリカの景観は一種幻想的ですらあった(セルジオ・レオーネの『ウエスタン』やイーストウッドの『荒野のストレンジャー』を彷彿とさせる)。音楽も特筆される。ナザレットの破裂寸前の鼓動に同期して早鐘を打つ音楽の効果は鮮烈。思わず身を乗りださせる。
 そんな本作の映像美を堪能するのには巨大スクリーンが相応しいと想像(試写室は小さい)するのだが、さすがに無理だろうか。タランティーノが新作西部劇を「70ミリ」で公開するらしいが、多分こうした動きは、ネットでの映像環境に対抗する「劇場向け映画づくり」として「3D」に次ぐ有効な方法論として検討されているのであろう。ファティ・アキンにはそんな「時代の要請」に応えられるだけの技量がある。少なくとも日本の映画状況のなかで今後先決となるのは、彼が描くような「内容」を受け止めることの出来る観客を育てていくことだろう。
 ちなみに、マーティン・スコセッシの盟友であり、『ミーン・ストリート』を彼と共に書いたアルメニア系アメリカ人のマーディック・マーティンが本作の脚本に参加している。苦悩する魂と暴力の相克を描くエピックドラマを好むスコセッシが絶賛したのにも納得。当然そうだろうと思わせる力作である。
(渡部幻)

   

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奇才カルロス・ベルムトが『マジカル・ガール』で披露した「映画の魔法」

2015-12-01 | 試写
 

 カルロス・ベルムト監督のスペイン映画「マジカル・ガール」を試写で。創意溢るるとはこのこと。いつかどこかで見たことのあるようなないような摩訶不思議な夢の感触を持った映画だ。
 白血病を患い余命短い娘のために奔走する父親の愛をきっかけに、薬漬けの不安定な美人女性とその夫、前科者の老人らの過去と現在が絡み合い、予想外の方向へ転がっていく。公開が先なので詳しくは書けない。しかしその不条理とも言える錯綜した展開は、ファンタジックなタイトルから想像もつかないものだが、これはたしかにフィルムノワール的なのである。「黒い」それでなく「白い」それであり、ここにまず、才人ベルムトの新鮮な着眼をうかがうことができる。映画ファンなら一度この怪昧に触れておいていい傑作だと思うが、それ以上にヒットすべき作品というか、させなければ勿体ないと思わせるものがある。もしかすると、この作品を観ることで初めて映画の世界にはまる人が出てくるかも知れない、そういう可能性を秘めている気がするのである


   

 ベルムトにはイラスト的な視覚センスがあり、そのセンスにはまった役者たちの目鼻立ちと体つきが、まず素晴らしい。男優の二人は揃って知的なマスクをしている。ホセ・サクリスタンの額と背中、ルイス・ベルメホの奇妙に短い二の腕とがに股が、どこか哀れかつ滑稽で、瞼に焼きつくが、女優ではことバルバラ・レニーの存在感がセンセーショナルで、主演女優賞を総なめにしたというのも「当然」と頷かせられる。彼女の薄幸な美貌と容姿(停滞した体つきとファッション、ヘアスタイル)が時折、ゾッとさせるほど魅惑的で、このスペイン製ノワールに似合うが、しかしここで最大の「運命の女」は、美少年とも身紛わせる12歳の病身の美少女(ルシア・ポシャン)なのだ。物語は彼女の願いを叶えたいと願う父親の行動を起点に人々の過去を呼び寄せていくが、しかし本作は、「美少女幻想」もしくは「女性幻想」に寄りかかり甘えている作品ではない。むしろここには「女性(または美少女)」を「男性」がどのように愛し、扱っているかについての批評的な考察があり、そこが深みともなっている。とくにインテリ男性の弱点というか愚行を突いた部分については、同じ性を生きるものとして思わずゾッとさせられる瞬間が幾度かあった。

 
 
 もっとも、ベルムト演出は知的かつ抑制的にコントロールされたもので不必要な煽りや安易な決め付けを感じさせない。彼は劇中で「日本のカルチャー〈アニメやアイドル〉」を重要な要素として登場させるのだが、その映像の肌合いも、少年(男性)マンガ的というより女性マンガ的であり、白を活かした空間のなかに禁欲的かつ触覚的な情念を横溢させている。深い考えなしに魚喃キリコの視覚的なセンスを想起したが、勿論、内容はまるで異なる。しかし、その「語りすぎない話法」は同様に鮮やかでで、各人物が抱え込んだ「事情」の数々から生じたあらゆる「謎」の解釈は、観る者に固有の感応に委ねられている。ゆえに、さまざまな人の意見を聞いてみたくなるような、これはそういう極めてユニークな映画であり、だからより多くの観客のもとへ広まり、ヒットして欲しいと思ったのである。

(渡部幻)

   

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ピータ・ボグダノヴィッチの新作『マイ・ファニィ・レディ』の自伝的な「突き抜け方」。

2015-11-17 | 試写
   

 ピーター・ボクダノヴィッチの『マイ・ファニー・レディ』が嬉しくなる出来栄えで、ちょっとビックリさせられる。『ラスト・ショー』『ペーパームーン』のボグダノヴィッチが、かのウディ・アレンの向こうを張り、ほとんど自虐的ともいえるユーモアを横溢させた――しかしアレンには不可能と思える――「スクリューボール」ならぬ「トルネード」コメディをつくりだした。

 

 彼のコメディ志向はむかしからのことで、『おかしなおかしな大追跡』や『ニッケルオデオン』などがあったが、『マイ・ファニー・レディ』はよりアンモラルかつエキセントリック。すっかりピカピカに元気なのである。今回ボグダノヴィッチを奮い立たせたのはイモージェン・プーツに違いない。彼女扮するチャーミングなコールガールを軸にもつれにもつれていく男女関係が愉快に実感を込めて描かれるが、ここで想起するのがボクダノヴィッチの女性関係。最初の妻で製作者のポリー・プラット、美人女優のシビル・シェパード、そして『プレイボーイ』誌のスター、プレイメイトのドロシー・ストラットンとの関係はことに有名だ。

 

 ドロシーはボグダノヴィッチに『ニューヨークの恋人たち』に出演(ベン・ギャザラ、オードリー・ヘップバーン共演)。しかし彼女の成功に嫉妬した狂気の夫に殺されてしまい、ボクダノヴィッチもまたスランプに陥ってしまった。その顛末はボブ・フォッシーの『スター80』に描かれているが、あれから30年以上のときを越えて彼はついに突き抜けたのだ。なんと本作の共同脚本はそのドロシーの妹で、ボクダノヴィッチの元妻のルイーズ・ストラットン。さらに彼の代表作『ラスト・ショー』の撮影時にポリー・プラットから彼を奪った主演女優シビル・シェパードも出ている。プラットはすでにこの世になく、出てこないのが寂しいけれど、生きていればきっと出ていただろう。近ごろ映画のドキュメンタリーで語る姿しか見かけなかったボグダノヴィッチだが、ここまで居直られてしまうと思わずこちらまで笑ってしまう。

  

 ボグダノヴィッチは60年代に「エスクァイア」誌のマニアックな映画ライターとして注目され、そのシネフィルは有名である。ゆえにファンを喜ばせる名作ネタが溢れ返る作品だが、僕にはそれよりもボグダノヴィッチの男女観、人生観が透けて見えるのがおもしろかった。
 「過去は捨てなければ、未来が乱れてしまう」というようなセリフが後半に出てくるが、この感慨のなかに、本作を貫く「居直りの哲学」がある。紆余曲折の映画人生を生きてきた「回顧派」の急先鋒ボグダノヴィッチのこれは「自伝的なセリフ」に違いない。(渡部幻)


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『キャノンフィルムズ爆走風雲録』と2度と吹かないだろう「時代の風」

2015-11-07 | 試写
 

 『キャノンフィルムズ爆走風雲録』は、イスラエルからハリウッドに向かいアメリカンドリームの実現を求めたムービー・ギャング二人組メナハム・ゴーランとヨーラム・グローバスの栄達と凋落を描いた秀作である。
 彼らの夢の物語は、例えば『スカーフェイス』(84、ブライアン・デ・パルマ)『グッドフェローズ』(90、マーティン・スコセッシ)などのギャング映画を思わせる勢いとハチャメチャさで、そのあまりにも映画的でフィクション的とも言える人生物語が滅法おもしろい作品に仕上がっているのだ。

 彼らが最も活躍したのは1980年代。チャック・ノリスの『地獄のヒーロー』や『デルタフォース』、シルヴェスター・スタローンの『オーバー・ザ・トップ』、ジョージ・P・コスマトス×スタローンの『コブラ』、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』などを何故か観に行ったし、いまも印象に残るが、同時に彼らは、映画祭で話題になるような芸術家肌の監督たちの作品にも出資。アンドレイ・コンチャロフスキーの『暴走機関車』、ジャン=リュック・ゴダール×シェイクスピアの『ゴーダルのリア王』、ジョン・カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』、バーベット・シュローダー×チャールズ・ブコウスキーの『バーフライ』、ロバート・アルトマン×サム・シェパードの『フール・フォア・ラブ』、リリアーナ・カバーニ×谷崎潤一郎の『卍 ベルリン・アフェア』、ノーマン・メイラー監督・原作の『タフガイは踊らない』などを製作したのだった。これらは必ずしも彼らの代表作とはいえないが、ちょっと驚くような顔ぶれなのである。

 そしてこのラインナップが象徴するのは、この時代の映画好きの若者にとって映画を観るということが、C級、B級からアートフィルムに至るまで――間違って「観てしまう」こともしばしばだったが――何でもむさぼり観ることであったという特有の時代状況だ。ビデオレンタルの隆盛、テレビの洋画劇場、ロードショー館とミニシアターと名画座、映画を楽しみ方が最も混乱し、多彩を極めた時代であり、いま思われているほどの分裂にはまだまだ到ってなかったと思える。このことは、さらに昔の映画人やファンにとっても同様で、例えば60年代にB級映画の帝王ロジャー・コーマンは、安物の娯楽映画と同時にイングマール・ベルイマンのアートフィルムをアメリカに輸入していた。ファンにしても国内外の、A~C級の娯楽映画、芸術映画、個人映画、実験映画、テレビ映画を、ごちゃまぜに観ていた人は多い。

『キャノンフィルムズ爆走風雲録』は、「映画」という娯楽であり芸術が、階級やジャンルの垣根をこえた刺激物としてかなり乱暴に観る者の前に投げ出され得た「最後の時代の記録」である。そしてその時代を駆け抜けた「最後の映画冒険家たち」の友情物語として感動的だ。「もう二度と戻らないだろう時代の風」に乗って彼らが製作した数々の映画は――控え目に言って――いわゆる「本物の傑作」はあまりない。いまとなっては知られていない作品のほうが多いだろうが、このドキュメンタリーに関して言うなら、「知らない」「興味ない」「観たが覚えていない」のいずれもに関係なくおもしろい。上出来のバディ・ムービーなのだ。


 一度は業界のトップに躍り出たこともある独立系二人組の友情と華々しき成功の物語も、しかしそう長くは続かない。それはままならぬこの世の摂理なのだ。キャリアが下降し、やがて悲しい決裂の時を迎えることになるのだが、このドキュメンタリー製作者たちは、あざといまでのラストシークエンスを仕掛ける。誰もが身に覚えあるだろう「過ぎ去った時の記憶」を「現在(いま)」に甦らせる映画の魔法が突如として立ち現れてくる。その予想外な展開のビタースウィートな感慨が、例えば『ニューシネマ・パラダイス』などよりよほど感動的で、思わずしみじみと人生を感じさせられるのだ。

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