真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

ネッド・ベンソンの恋愛ドラマ『ラブストーリーズ/2部作』をDVDで観る。

2015-10-17 | DVD
   

 ネッド・ベンソンの『ラブストーリーズ』2部作は拾いものの恋愛映画だ。現代のニューヨークを舞台に、若い夫婦の別れからはじまる物語を、夫と妻それぞれの視点からなる「2本の映画」に仕立てている。いわばイーストウッドの『硫黄島』2部作みたいな感じなのだ。
 立場の異なる者の争いを視点を変えて描くというのは、公平さや平等への意識が高まる「いま」らしい着想であり、これから流行るかも知れない。しかし今後もそれが面白い展開を見せるかは微妙なところだが、とりあえず現状では新鮮である(表現から独断と偏見を奪うのは危険だ)。人と人のすれ違いや諍い、ことに男女のそれは「解決のないミステリー」のようなものだから、つねに闘争を描く映画という表現にはピッタリだ。
 1部「コナーの涙」がジェームズ・マカヴォイ、2部「エリナーの愛情」がジェシカ・チャステインという構成で、個人的には2部目のほうがよいと思うが、当初は1部目のみだったところを監督の友人のチャステインが「女性編」をつくるよう進言したらしい。1部目だけなら大したことはないからチャステインの功績は大きい。

 

 ちなみこの映画、どちらから観てもいいとは思わない。1部目で分からなかった妻の心理が、2部目で見えてくるという構成であり、逆にしてしまうとそういう構成にならず、効果は半減する。DVDの特典に「1本の映画」にまとめたものが入っており、これも観たが、やはり「2部作版」のほうがはるかにいいのだ。
 ジェームズ・マカヴォイはいつもながらの好演だが、くせがなさすぎてサラサラしてしまっている。ジェシカ・チャステインの心理表現のほうに見応えがあり、近作の『アメリカン・ドリーマー』でもそうだったが、彼女は目元と口元、そしてアゴの動かし方ひとつで役の心理状況を伝えてしまう。若き日のメリル・ストリープやジェシカ・ラングを思わせる実力派女優として将来が期待されるひとりだろう。二人の両親役で出ているウィリアム・ハート、イザベラ・ユペール、キーラン・ハインズの芝居もしっとりと落ち着いていて悪くない。

 

 『ラブストーリーズ』は『(500)日のサマー』みたいなコメディではないし、『ブルーバレンタイン』のように鈍痛に襲われるヘヴィな作品でもない。包み込む優しさが身上で、その意味で古典的とも言えるが、そこは「2部作」の利点を発揮して観る人の経験で解釈を変えるであろうおもしろさがある。もしこれをカップルで観て「意見が一致」したとすればそれは赤信号である。本作が描くようにそんなわけはないのだから。しかし「恋愛映画」とはそもそもがそういうものなのであり、だとすると、このつくり方は少々「お澄ましに過ぎる」かもしれない。
 ニューヨークをとらえた撮影がなかなか綺麗そうだったが、劇場でなくDVD鑑賞だったので、ぼんやり画面を頭のなかで修正しつつ観なければならなかった。とはいえ、「★★★」という感じのこうした作品を、たまに観るのもいいものだと思った。
(渡部幻)

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ポップに錆び疲れたアメリカをダブルフィーチャー  フランケンハイマーとマリガンのDVD

2011-12-09 | DVD




ジョン・フランケンハイマーとロバート・マリガン。両者ともに好きな監督である。
フランケンハイマーは『グランプリ』『ブラックサンデー』、
マリガンは『アラバマ物語』『おもいでの夏』(ジェニファー・オニールがとてもきれいだった)で興味を持った。

これらは映画史に残る名作。一方で、マイナーだが出色に異色作を残している。
フランケンハイマーなら『セコンド』、マリガンなら『悪を呼ぶ少年』や『レッドムーン』。
それぞれ怖い映画である。

上の二枚のポスターは、
順に、フランケンハイマーの『殺し屋ハリー/華麗なる挑戦』と、マリガンの『秘密組織/非情の掟』。

この二本が二本立てで収録されたDVDで海外で発売されている。『殺し屋ハリー』の方は、もうすぐスティングレイから日本からもDVDが出るが、しかし『秘密組織/非情の掟』の方は出そうにないだろう。

ポスターを見ての通り、渋く、うらぶれた色気を発散した映画である。いかにも70年代的なアメリカ映画であり、場末の映画、つまり出来不出来をこえて「これが映画だ」という「雰囲気」を持ったアメリカ映画である。

大統領の暗殺、ベトナム戦争、国内で頻発する暴動、この時代のアメリカは疲れきっている。
そして、「疲れたアメリカ」はとても魅力的なのである。
そもそもアメリカはハードボイルドの国であり、ハードボイルドの魅力のひとつは「タフ」と「疲弊」の混濁である。疲れきって非情になるのは、残酷だからでも冷酷だからでもなく、そう「なるしかない」という切なさである。
その切なさのなかから「渋さ」が滲みだしてくるのだ。

『秘密組織』の映像にはそんな空気感が充満している。
夜中のテレビで放送しているのを偶然に見つけて、ぼんやり朝まで観てしまいたいような映画である。

映画には「これが映画だ」というものと「映画っぽい」ものとがある。
例えば、この映画の脚本家はエリック・ロス。
『フォレスト・ガンプ』の人だが、個人的にはこの大作は後者に属する。
映画であること以上の「何か」になることを望んでおり、そういう物欲し気さがよくない。

一方『秘密組織/非情の掟』は「ただの映画」である。つまり前者である。
どこまでも映画でしかなく、それ以上でも、以下でもない。
そこから「映画」の「魂」が屹然と立ち上がってくる。

マリガンは映画史に残る名作『アラバマ物語』で有名である。
しかし『秘密組織』のような作品も残しているところに、「映画監督」として信用に足る「何か」大切な「肝」が潜んでいるのかも知れない。
映画は華やかなものと思われているが、観客にとっての本質、決して華やかなじゃないはずだ。
それは「華やかに生きることのできない大衆」が観る安価の娯楽である(日本は結構高いが)。

かつて、映画を観ることで「華やかさを仮想体験」した時代があった。
その最盛期は大恐慌時代。ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』に描かれた通り。
もしくは、その夢から生まれた悲劇を描いた、シドニー・ポラックの『ひとりぼっちの青春』に描かれた通り。

だが、七〇年代になるとちょっと事情が違う。
映画はいなおっている。いなおって着飾ることをやめ、素っ裸になってる。
それはケネディ大統領やキング牧師が暗殺され、ベトナムが泥沼化し、
カウンターカルチャーの敗北色が濃厚になった時代の、「なるしかない」といういなおりだったかもしれない。
その裸は、ちょっとみっともない。きれいではない。そこがいい。
それを見せる心意気にしびれる。その覚悟の美しさが泣かせるのだ。
そういうところが、「さすがにそこまでは出来ない」という、半いなおりの観客の魂に染みてくる。

僕が一番映画を観たのは、一人でいたいことの多い時期だった。
七〇年代に多く作られた寂れたような映画や映画館は、そんな半端者に力を与えてくれたのだろう。
これらの「映画」は、「意味にとらわれた言葉」を使わずに、人生の何たるかを無言のうちに語っていたのである。
この精神性。その色気。これが七〇年代に作られた多くの映画を神話的な存在にしている。







主演のジェイソン・ミラーは『エクソシスト』でカラス神父を演じたあの名優。
あの深い哀しみをたたえたような、忘れがたい眉から眼の表情。あの背中。素晴らしい。
共演は、ボー・ホプキンス。サム・ペキンパー一家の若手、
『アメリカン・グラフィティ』のファラオ団のあのリーダー。
女優はリンダ・ヘイズ。『コフィー』や『ローリング・サンダー』のあのB級な雰囲気が印象に残るひと。
映画本編を観ていただければ分かるが、実にカメラが素晴らしい。
撮影はジョーダン・クローネンウェス。
あの『ブレードランナー』『ストップ・メイキング・センス』の光を生みだしたカメラマン。







なぞの眼鏡が、とてもよく似合うリチャード・ハリスは、僕がはじめて好きになった俳優。
その作品は、七六年の『カサンドラ・クロス』。『マッドボンバー』のチャック・コナーズも顔を見せる。
スチルではまるで分からないが、映画はポスターが示すごとくポップアートのようにカラフルである。
キッチュな笑いとバイオレンスが融合して、なんともしれない怪昧を醸しだす。



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“60sアメリカ”に残してきた落書きの美・・・『アメリカン・グラフィティ』の光と影の表現

2011-06-08 | DVD
























『アメリカン・グラフィティ』ジョージ・ルーカス監督 ハスケル・ウェクスラー撮影
リチャード・ドレイファス、ポール・ラ・マット、ロン・ハワード、チャールズ・マーティン・スミス主演。

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『エイリアン』『ブレードランナー』…リドリー・スコットの映像美学を再現するブルーレイディスク

2011-03-26 | DVD
















1979年製作のリドリー・スコットの長編第二作目にあたる『エイリアン』の映像の美学は、いまもって美しくおぞましいものがある。のちのシリーズもそれぞれに面白いが、「映像の芸術性」においては、やはりスコットは抜きんでたものがある(デザインに画家のギーガーを採用した功績は凄まじく大きい)。
デビュー作の『デュエリスト』(78)、三作目の『ブレードランナー』(82)までの映像の喚起力は特に素晴らしいものがあり、内容的にも充実している。
この頃のスコットは「未来の映画」を作っているように見えた。
























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クライテリオン・コレクションの映画の内容を掴み取ったパッケージデザインの、相変わらずの美しさ!

2011-01-21 | DVD
 
『シン・レッド・ライン』テレンス・マリック/『楽園をください』アン・リー
 
『アンチ・クライスト』ラース・フォン・トリアー/『ヤンヤン夏の思い出』エドワード・ヤン
 
フィッシュ・タンク ミア、15歳の物語』アンドレア・アーノルド/『夏時間の庭』オリヴィエ・アサヤス
 
『突撃』スタンリー・キューブリック/『魔術師』イングマル・ベルイマン
 
『女と男のいる舗道』ジャン・リュック・ゴダール/『狩人の夜』チャールズ・ロートン
 
『裸の幼年時代』モーリス・ピアラ/『蛇皮の服を着た男』シドニー・ルメット
 
『赤い靴』マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー/『黒水仙』マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー
 
『赤い砂漠』ミケランジェロ・アントニオーニ/『ウォークアバウト/美しき冒険旅行』ニコラス・ローグ
 
『クローズ・アップ』アッバス・キアロスタミ/『スタン・ブラッケージ作品集』スタン・ブラッケージ
 
『トプシー・ダーヴィー』マイク・リー/『ダージリン急行』ウェス・アンダーソン
 
『裸のキッス』サミュエル・フラー/『ショック集団』サミュエル・フラー
 
ミカド(1934 Victor Schertzinger)/『ミステリー・トレイン』ジム・ジャームッシュ



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『Drive He Said』 幻のJ・ニコルソン監督デビュー作、クライテリオン社からDVD化

2011-01-02 | DVD









『drive he said』主演ウィリアム・テッパー、ブルース・ダーン、カレン・ブラック

『America Lost And Found: The BBS Story: Criterion Collection』が発売になった。60年代後半から重要な足跡を残したBBC制作映画のBOXセット。ボブ・ラフェルソンの『ヘッド』(68)『ファイブ・イージー・ピーセス』(70)『キング・オブ・マーヴィンガーデン』(72)がまず収録されているが、彼は日本での評価がいまひとつながら同時代の最重要作家のひとりである。あとはデニス・ホッパーの『イージー・ライダー』(69)、ピーター・ボグダノヴィッチの『ラスト・ショー』(71)、ここまでは日本でもDVDが出ている。 目玉は、ジャック・ニコルソンの監督デビュー作『Drive, He Said』(70)とヘンリー・ジャグロムの『A Safe Place』(71)も収録されている。最後の二本は「幻のニューシネマ」のひとつなのである(ちなみにジャグロムは、デニス・ホッパー主演のベトナム戦争後遺症映画『トラックス』を撮っている監督。この映画はかなり異様な作品だった)。

70年代初頭を代表する「悪童」たちの顔がずらりと並んでいるが、クライテリオンだからインタビューなど特典映像も充実している模様。60~70年代のアメリカ映画の「新しい波」を箱に収めた画期的な企画である。
DVDBeaver.COMによれば、画質はこの時代ならではの美観を伝えてくれているようだ。










『a safe place』主演チューズデイ・ウェルド、ジャック・ニコルソン、オーソン・ウェルズ

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『I-knew_it_was_you_john_cazale』 ジョン・カザールの顔は映画の顔

2010-12-30 | DVD




ジョン・カザールは僕の大のお気に入りだ。生涯にたった5本の映画にしか出てないし、しかも全部脇役だが、それでもカザールの顔が観たくて出演作のDVDを観ることがあるほどだ。

『ゴッドファーザー』(72、フランシス・フォード・コッポラ)『ゴッドファーザーPART2』(74、コッポラ)『カンバセーション…盗聴…』(74、コッポラ)『狼たちの午後』(75、シドニー・ルメット)『ディアハンター』(78、マイケル・チミノ)……どれもがアクターズ・スタジオ流演技の集大成的な名作である。一般的には、アル・パチーノ、ジーン・ハックマン、ロバート・デ・ニーロらの名演技で知られてる有名だが、その彼らが愛したジョン・カザールのことも忘れることはできない。

『ゴッドファーザー』とその『PART2] における次男フレドー役、『狼たちの午後』のサル役と聞けば、思いだす人もいるだろう。
あの、マイケルの兄のフレドー。可哀相なフレドー。やさしいだけが取り柄のフレドー。兄を殺したアル・パチーノ扮する弟のマイケルは、その罪から生涯逃れられない……当然である。フレドーはマフィア一家の人間としては駄目な兄に違いない。しかしマイケルはなぜ庇ってやれなかったのか。
『PARTⅠ』で、ドンであり父のビト(マーロン・ブランド)が果物屋に買い物に行く時、お供することになったフレドー。運転係の裏切りを見抜けずに代わり引き受け、敵対組織の銃撃の雨にさらされる父を守ることもままならかった。あわてて銃を手に取り、車から飛び出したまではいい。しかしマフィアの守り神たる拳銃も、フレドーの震える手にかかれば、両の手の平の中でくるくる綿毛のごとく舞っているしかなかった。
結局、弾の一発も撃つことのできぬまま刺客を捕り逃がし、戦後ニューヨークの薄汚れたコンクリートに横たわり上物のコートから血を流す父の傍らに膝をつき、頭を掻きむしりながら泣きべそをかいて、思わず「パパ!!」と呼びかけるしかないフレドー。『PARTⅡ』における母の葬儀の場面。冷血の瞳に無言の口元をたたえた弟のマイケルは、窓際のソファーに沈み込むように横たわる愚かなる裏切り者の兄フレドーを見すえる。フレドーは視線に耐えかね「なんで俺を尊敬してくれないんだ!! 俺はこれでも兄なんだぞ!」とヒステリーを起こす。あの惨めさ。完璧から程遠い人間の愛しさ。

出番が少なく役柄としてもいいところのないフレドー役だからこそ、その人格を深く理解して演じることのできる役者が演じなければならない。でなければ、この約はただのその他大勢に成り下がってしまう。
なによりフレドー役はドラマの軸となる「コルレオーネ兄弟」の一人なのだ。マイケルは組織を拡大しマフィア組織をアメリカン・コーポレートの大企業にまで押し上げた。しかしそれでも、マイケルはあのフレドーを殺した大罪を背負い続けねばならない。哀れな裏切り者の兄だろうが、自らの手を血縁の血で汚した過去を忘れることなどできるはずもないのだ。フレドーはシリーズの底を流れる魂であり、だからこそ、その「人間」を観る者のまぶたに焼き付けることのできる役者でなければ勤まらない。カザールという役者の、いまだかつて見たことのないような容姿(それ自体が人間性の発露だと言える)と類稀なる演技力がなければ、このフレードー役は屹立し得なかったに違いない。

僕はカザールの出身や下積み時代の経歴も知らない。舞台経験のある人なのだろうが、いわゆるアクターズ・スタジオ風でもないように見える。カザールのたたずまいは、パチーノやデ・ニーロら「いわゆるアクターズ・スタジオ式」の仰々しさとは、まるで無縁なのである。あくまで自然体。カザールは常に日陰の存在だが、どの作品においても確かな印象を残すことで、ドラマを支えてきた。彼こそ名脇役。類稀なる真の名脇役だといえる。

『狼たちの午後』のベトナム戦争帰りの素人銀行強盗の相棒役、広いおでこに真ん中分けの油っぽく長髪で印象に残った。『カンバセーション』では盗聴家業の技師役でメガネをかけて登場、野心家のオタク的ムードをさりげなく出した。『ディアハンター』でも気が小さいくせにいつも粋がっている普通にみれば「嫌な男」を人間くさく演じて見事だった(後半のヒゲ姿がいい)。このようにカザールは、役柄に容姿を合わせた役作りの名手である。しかしその「顔」がそれらメークの類を凌駕するのは、あのただごとでない異貌、その眼と額の造形の個性に、「ジョン・カザールここにあり」を思わせる役者魂を宿らせた。

70年代を代表する名作群を撮りあげた優れた映画作家たちとのコラボレーション。彼らは「ジョン・カザールの異貌」をまず必要とし、その造形のなかに類稀なる「人間性」を認めたのに違いない。監督たちはカザールを必要とし、彼の常人と異なる「弱さ」や「優しさ」のニュアンスを掬い上げることによって「男の繊細」を表現し得たのである。
70年代は映画の革新時代である。マフィア、銀行強盗、ベトナムの戦場などいっけん男くさい世界で、それを表現し得たことは、それ自体ひとつの偉業だった。時の記録たる集団表現としての「映画」は先鋭化し、リアルな人間を見つめることで、その芸術的な可能性を開花させていった。そのなかで、着実に、確実に生きてみせた一人がジョン・カザールであり、その「地に足のついた演技」は他に比すもののない存在感を示している。彼はその異貌によって普遍的な人間像を打ち立てて見せたのである。





残されたたった5本のフィルム。いまDVDでそれらを順に見ることができる。それらはジョン・カザールという役者、ジョン・カザールという人間の生きた足跡であり、死に至る道のりへの記録である。
そもそも映画というものはあらゆる生と死を捉えるものであり、なにもカザールだけを大げさに言いたいわけではない。わざわざすでに有名な役者たちの偉業をあらためて讃えたいとは思わないが、ややもすればカザールは日陰の花として見落とされがちだから、あえて書きたいと思ったのである。
大体、カザールに大袈裟な形容は似合わない。ささやかかつさりげない役者であり、だからこその人間性をフィルムに焼きつけるが出来たのが「ジョン・カザールという名優」なのだ。

ザ・ドアーズのジム・モリソンの詩集に「君は映画になるような人生を送っているかい?」というような内容のものがあったが、カザールの演じた人間の人生は「映画になるような人生」ではなかった。主役の脇に佇むその他大勢であり、その切迫した感情であった。70年代の映画はそうした人間像を頻繁に描いた。いまあらためて振り返ると、多くの役者が「いかにも70年代的な人物像」として終わってるなか(それはそれで素晴らしいのだが)、カザールの場合それとも違ってその表現が古びることがない。その理由の分析はできない。カザールは名声に興味はあったか? それも分からない。彼はただ「役者」に見えるのである。その作品群のなかに居るのは「ジョン・カザール」と「彼の演じる人物」だけだった。役のなかの人生を無心に生きることで彼は逆説的に「ジョン・カザール」を生きていた。観る者は彼の体温を肌身に感じることができるだろう。

そうしてジョン・カザールは見事な作品群に参加し、アメリカ映画史の一部となり、その足跡を残すこととなった。名優たちが火花散らす名作のなかで、ただ役を生きたカザールは、美しくも格好良くもなかったが、ドキュメンタリー映画がつくられた。『I knew it was you john cazale』という作品。メリル・ストリープ、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、フランシス・フォード・コッポラやシドニー・ルメットらが語るという。
是非観たいものだが、日本ではどうだろう。




渡部幻

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DVDの60・70年代作品発売ラッシュをみていて思った喜びと回想。

2009-05-30 | DVD


60-70年代もの映画のDVD化が加速しているようだ。メーカーはブルーレイにシフトしたいところだろうから、旧作DVDのソフト化もいよいよ大詰めなのだろう。廃盤になって高値がついていた旧作の再発も増えている。
LDが無くなる頃にもこんな感じで「70MMノートリミング・シリーズ」と銘打ち60年代大作の発売が多かったものだが、世代がひとめぐりして購買層が70年代のカルトものに移ってきているのだろう。とにかく、70年代映画のソフト化を諦めかけていたので、個性的な作品が続々と発売されていることは単純に喜ばしい。

ラインナップには「ジョンとメリー」「グリニッチヴィレッジの青春」「ハリーとトント」「白い肌の異常な夜」「スローターハウス5」「東京暗黒街 竹の家」「ヘンリー」「北国の帝王」「ホットロック」「唇からナイフ」「砂丘」「愛のそよ風」「ソルジャーブルー」「地球爆破作戦」「大陸横断超特急」「ダーリング」「イルカの日」「ハマー・プロ作品」などが並ぶ。再発ものでは「イレイザーヘッド」「フランソワ・トリュフォー作品」「クンドゥン」「赤い影」「サブウェイパニック」「ザ・クレイジース」「俺たちに明日はない」「脱出」「チャンス」「暴力脱獄」「ジャン・ピエール・メルヴィル」の作品群や「アラン・ドロン」の作品群もある。

こと20世紀フォックスとキング・レコードの健闘に目を瞠らされるが、紀伊国屋レーベルだって相変わらず豪華だ。「ビクトル・エリセ」や「ファスビンダー」「ブニュエル」「大島渚」らのBOXシリーズの連打。ルネ・クレマンの「狼は天使の匂い」まで出てくる有様さ。



メジャーの大ヒット作でないものが多く含まれている。が、民法でのテレビ放送が活発だった時代にはお馴染みだった「実は有名な作品」も多い。ほとんどが30年ほど前の作品になるが、今もそれなりのニーズを持つ作品だということだろうか。だとすれば、そういう映画が数多く制作されていた時代だったということに感銘を受けるところだ。時が経たいまも「思い入れ」を持ち続けているファンがいるということであり、これらを見ていた世代は純粋な「映画世代」としては最後の世代ということになるのではないか。今はまだかろうじてそういう人がメーカー側にも購買側にもいるわけで、だから発売もあるが、そのうち難しくなるだろう。

70年代にはジャンル映画がバラエティ豊かに存在している。刑事アクション、カーアクション、ハードボイルド、バイオレンス、マフィア、ギャング、カンフー、ホラー、オカルト、パニック、青春、恋愛、コメディ、西部劇、SF、ファンタジー、ミステリー。社会派、ロードムービー、ドキュメンタリー、アンダーグラウンド、ポルノなどを「ジャンル映画」とは言わないだろうが、ジャンルであることに変わりはなく、それぞれに客がついていた。
また70年代映画の面白さのひとつはその殆どが「ジャンルのルール」から逸脱していたことであり、ある作品は「確信犯的」に、ある作品は「結果」として逸脱していたのである。逸脱こそが当たり前なので、実際は逸脱ですらなかったのかもしれない。とにかく観客はその「はみ出し方」を愛した。ある種の「不良性感度」を楽しんでいたのである。

こうした仇花的な映画群には妙に引っ掛かる後味があって一部の人々の記憶に残り続けたが、次第に消えていった。80年代にはビデオ屋がその市場になりからうじて残っていたが、いまやノスタルジーの中にしか存在しないだろう。個性剥き出しの作品で映画を知ってしまった「幸福な観客」にしてみると、現在の映画は綺麗に交通整理されすぎであり、「逸脱」すらも計算のうちになっていることが退屈なのである。勿論、現代の映画にも名作や傑作があるわけだが、そうした名作・傑作以外の「周辺」に面白い映画が足りていないのだ。映画鑑賞の魅力は「周辺」のこそ宿るのである。

最初にあげた作品は必ずしもその時代時代の中心的な存在だった訳ではない。名作・大ヒット作の周辺に散らばる多くの一本に過ぎなかったのである。名画座やテレビ、もしくはビデオがそうした雑映画を拾い上げていたわけで、言い換えれば散らばるほど「傑作の量」が多かったということにもなる。この事実を知っている人々は、今も観ないではいられない。そしてそんな人々はいまも「結構いる」のである。

例えば「白い肌の異常な夜」は公開当時ゲテモノ扱いされた映画である。本作は今をときめくクリント・イーストウッド主演作であり、監督は彼の師匠才人ドン・シーゲルだ。シーゲルが腕によりをかけた心理ドラマの傑作中の傑作であり、テレビでは何度やったのかも分からないほど繰り返し放送された。禍々しい雰囲気の映画だが、繰り返し観られているうちに語り草の作品となった。とにかく強烈な映画だからいまももっと観られていい。
「脱出」は以前も書いたジョン・ブアマンの異色作。同様の道筋で人に知れ渡っていったカルトである。「サブウェイパニック」は公開当時はタイトルの通り「パニック」ものとして扱われていたが、実際はニューヨーク犯罪映画の傑作である。思わず釣り込まれるストーリー展開とウィットの効いたセリフと芸達者たちの好演。加えてデヴィッド・シャイアによる切れのいいビッグバンド・ジャズのサントラも格好いい。リメイクもあるが比べ物にならない「知る人ぞ知る名作」である。原題の意味は「ぺラム123号の乗取り」。ぺラムは地下鉄の名前だ。



これらが今も観た人々の心に残り続けているのは「昔の観客」がウブだったためか? いやウブどころか逆に刺激過剰とも言いえる時代環境だったはずだ。今は少なくなったテレビの映画劇場や名画座、街頭のポスターや看板等の過剰さも、いまから思えばただごとではなかった。とにかくそこらじゅうにバイオレンスとセックスが溢れかえっていたのだ。こうした風景も80年代の中盤には整理されて尻すぼみ状態にあったが、まだテレビでは毎日のように21時からの映画放送があったし、有名評論家の解説までついて親切なことこの上なく、民法放送ゆえ誰もが「同じ環境」で「同じ時間帯」に観ていたわけだ(80年代にはビデオの予約録画がはじまり時間帯はバラバラになった。いまならもっとバラバラであり、そのことが新しい映画の観方を生み出していく)。
名画座はその名の通り古い映画を2・3本立てで上映する、街のおやじやおばさんが経営する庶民的な安い映画館のことだ。僕がよく行ったのは、三鷹オスカー、高田馬場パール座、大塚名画座、目黒シネマ、五反田東映シネマ、新宿ロマンなど。最も印象に強い好カードといえば「デ・パルマ三本立て/キャリー、フューリー、殺しのドレス」「カーペンター三本立て/ハロウィン、ザ・フォッグ、ニューヨーク1997」「犯罪映画三本立て/サブウェイ・パニック、ホットロック、ザ・クラッカー」「ファイブ・イージー・ピーセス、さらば冬のかもめ/二本立て」「コッポラ三本立て/ゴッドファーザー1&2、地獄の黙示録」「キューブリック二本立て/時計じかけのオレンジ、博士の異常な愛情」「タクシードライバー、狼たちの午後の二本立て」「ゴダール二本立て/勝手にしやがれ、気狂いピエロ」「ホーボー二本立て/スケアクロウ、北国の帝王」あたりか。「ダン・オバノン二本立て/エイリアン、バタリアン」も忘れがたい。いずれも“館長のこだわり企画”だったのだろう。

上映期間中は、それぞれの街の駅や商店街にポスターが貼られて楽しく、映画館には看板が掲げられる。上映開始を告げる「ジリリリリ!」という荒れたブザー音が外まで響いて、「興行」の匂いが街の通りにも広がっていく。「映画が街に来ている」という実感に溢れていて、いまのツタヤとは大違いだが、いつかそのツタヤすらもなくなる日がくるだろう。
大きな街のロードショー館の看板なんてそれは大きなものである。街行く人々に対する主張力は強力だった。金曜の夕方になれば明日の土曜に始まる新作の看板に取り替えている。その大掛かりな作業を日常的によく目撃したが、これがなかなかいい思い出の風景になっている。それを観ているとその映画が観たくなってくるのだが、それは興行ランキングやネットの口コミ評判に左右されない内奥から沸き起こる衝動のようなものだった。ジャンルは問わなかったし、話題作、芸術作、ゲテモノから文芸作品まで単純に「映画そのもの」に対する関心のなせるわざであったのだ。



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