真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

草森紳一『絶対の宣伝/宣伝的人間の研究 ヒットラー』の復刊と1978年の『スターウォーズ』

2015-11-28 | 作家


 草森紳一の「絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ」の第2巻目『宣伝的人間の研究 ヒットラー』が12月7日に発売されることが決まった。
 版元はサブカルチャー本に強い文遊社。もうだいぶ前になるけど初めて企画を持ち込んだ日が懐かしい。
 単純に「復刊」と言っても、その作業にはさまざまな困難がともなった。テクニカルな面だけでなく、昨今の時代状況も少なからず影響したからだ。しかし念願叶って、順調に刊行されている事実が嬉しい。
 新たな装いで再登場した全四巻を早く揃いで本棚に並べて眺めてみたいものだ。

 冒頭にある画像が今回の「絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ」(文遊社)の第一巻『宣伝的人間の研究 ゲッベルス」と第二巻『宣伝的人間の研究 ヒットラー』のカバーデザイン。全四巻が揃うとひとつながりのデザインになるはずなのだ。

 ちなみに[目次]は次のような内容。
◎民衆の孤独を撃つ ◎ヒットラーの柔らかい髪 
◎ヒットラーの妖眼 ◎ヒットラー青少年団 
◎平和(ピンフ)の倦怠(アンニュイ) ◎アドルフおじさん 
◎陳列効果と象徴 木村恒久・草森紳一 
◎附録Ⅰ ヒットラーとレーニンの煽動術 ◎附録Ⅱ ムッソリーニのスキンシップ 
◎跋章 知識と官能の無力


今回の復刊にあたり[解説]を書いてくださったのはなんと池内紀さん。
ちょうどいま、池内さん翻訳のホフマン『砂男』を読んでいたところで、これが最高に面白いのだ。

  

 このブログは映画が中心なので、本書の[跋章]から「映画ネタ」の部分を抜粋する。
 2015年の年末は『スターウォーズ』の新作が公開で、街のあちこちで宣伝が盛んだが、本書の初版はジョージ・ルーカスが監督した最初の『スターウォーズ』の日本公開と同じ1978年の刊行であり、当時は現代とでは比較にならないほどド派手な「絶対の宣伝」が繰り広げられているように見えた。そのことからはじめる視点が草森らしく、同時にそれは「70年代後半という時代」を思い起こさせるものでもあり、37年後の新作がまさにこれから公開されようとしている21世紀のいまと比較すると、ちょっと考えさせられるものがあって面白い。

 以下、引用。

 『スターウォーズ』という前宣伝の華々しかった映画を見た、超満員かと思って入ったが、案外、空席が目立った。現代人は、宣伝には、相当にすれっからしになっているな、と思った。理屈抜きに面白いという前評判がたっていた。この「理屈抜き」は、宣伝の決まり文句のようでいて、すこし綾がある。それは、ひところのあの騒がしかった理屈時代の反動の言葉で、他愛なく楽しがることを好む風潮に乗じていたからである。(略)
 『未知との遭遇』には、戦慄があった。『スターウォーズ』は、他愛なく楽しむものでよいにしても、あまりにも玩具的であった。現代人は、他愛ない中に、もうすこし現実感がほしかったのではないか。
(略)
 日常のファシズムが、資本主義社会に進行しているというのは、常識になっているが、これだけしたたかであれば十分、と安心することはできない。
 『スターウォーズ』は、私に言わせれば、理屈をつけて見なければ、どうにもならぬ映画に思えたからである。
 このスペースオペラの道具立ては、すべてパロディになっている。パロディは、前承知で動くシビアな世界だから、なんのパロディかがわからなければ、その楽しさは減じる。パロディは記号の美学だから、その発せられた信号を傍受できなかったら、なにがなにやらわからないということになる。『スターウォーズ』は、このパロディ記号の集積でできあがったモザイクであり、わかった分だけ喜びは増えるが、わからなくても、まあ楽しめるような作りになっている。他愛ないといっても、きわめてソフィスティケートな映画であったとも言えるのだ。ソフィスティケーションは、日本人のもっとも苦手とするところであり、満員になるはずもない。(略)
 『スターウォーズ』の宣伝口車にのらなかった大衆を思う時、(もっとも興行収入は本年度第一位だそうだが)かえってその危険性を私は感じる。インテリたちの理屈と知識は、無力であり、理屈を語っているだけヒットラーの言う通り、どうしようもない滑稽な存在だが、「理屈抜き」の感性主義もまた泣きを見やすい精神状況である。しかし現代人の官能は、どうしようもなく渇いていることだけは、確実なのである。


( 草森紳一『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ2 宣伝的人間の研究 ヒットラー』の「跋章」より抜粋)

渡部幻


〈僕もこの光景を記憶している。ここと渋谷東宝で観た。http://wearenocturnalnyc.tumblr.com/より〉

常盤新平『ニューヨーク紳士録』と無関係に広げた連想

2014-05-27 | 作家
常盤新平~『ニューヨーク紳士録』より~

「ジャーナリストにとって最高の名誉であるコロンビア・ジャーナリズム賞を得た『ザ・ライト・スタッフ』は宇宙飛行士たちの仕事と私生活の記録であるが、この「ライト・スタッフ」はいまやアメリカ語として定着している。ウルフは言葉の創始者でもある。
 たとえば「ラディカル・シック」――これは一九七〇年代、レナード・バーンスタインがブラック・パンサーのためにパーティを開いたとき、その模様を描いたウルフの作品のタイトルである。一九七六年には、「ミー・ディケード」をウルフは流行させた。
 アメリカとつきあうには若さが必要ではないかと思う。もともと私は時代遅れの人間だが、年齢をとって、いっそう時代遅れになった。しかし、アメリカの古いものばかり追いかける書き手が一人くらいいてもいいだろう。 」
(一九九一年七月。常盤新平『ニューヨーク紳士録』の「文庫版あとがき」より)

 常盤さんがこれを書いた頃の僕はまだ21歳である。
 そこから考えてみて、僕もそうだがアメリカもまた、ずいぶん年を食った感じがする。しかしそれでも、いまだアメリカについていくには、「若さ」が必要であるような気がする。
 アメリカと比較したときヨーロッパは成熟していると言われる。歴史を思えば、確かにそうだろうが、だが例えばいまのヨーロッパ映画の、個々ではなく漠然と俯瞰的に作品群を眺め、往年と比較したとき、そこにはもはや「成熟」の時期などとうに通り越した、別の「何か」を感じてしまうこともある。
 うまく言えないのだが、僕の生活実感には突き刺さらない、どことなくこじんまりとしてローカルな印象を抱いてしまう。むかしからヨーロッパ映画の名作はローカルな作品が多く、そのこと自体とても面白く、ゆえに映像表現が個性的かつ芸術的なのだが、そのさまがあまりにも「純粋」にすぎ、作者が自らの「作品」に触りすぎている様子を感じてしまうとちょっと白けてしまうことがあるのだ。

 生活は社会性と個人性のしがらみでありその格闘である。だから映画の成立ちからも、そうした「しがらみ」や「格闘」の感覚を受けとりたいのである。
 アメリカ映画は商業主義が強いゆえに、作品の表皮をひっぺがすと、会社と作者のしがらみや格闘が浮かびあがる。その多くは個人または作者の負け戦であるかもしれない。そこに僕はリアルな共感を覚えているなのようなのである。
 だが、それは「若さ」である。若さのしがらみであり格闘なのだ。
 若さと老いの違いはエネルギーの違いでもある。少なくともかつてのアメリカ映画の魅力は、イキイキと火花散らすエネルギー量にあったのかもしれない。
 ゆえに、もはや44歳を過ぎた僕も次第についていけなくなる可能性はあるが、今のところアメリカそのものが年を食ってきて、映画もある種のシンドさをにじませる作品が多くなってきているから、調度いい塩梅ではある。

 日本は、というか日本映画はどうだろうか。がっかりする確立が高いので、恐れをなしてあまり見なくなってしまった(ヨーロッパ映画やその他の国の作品を観る頻度も減ってしまったけど)。
 これはよくない。よくないのだが、僕の人生時間のうち、映画に与えることのできる残りの機会(時間、お金、そして縁も含む)は限られているから、漫然と対するようり、ギュッと絞り込まざるを得ないのであった。

 現在、映画、文学、音楽、美術、漫画、雑誌など、もろもろの歴史に触れる機会は減っているのか増えているのかわからない。情報の氾濫は行き着くところまでいって、自分が何を見るべきなのか、何が好きなのかも分からなくなると、つまり「自己」の基盤が緩くなってくる。
 一回の鑑賞または読書が人に与える経験密度はどうだろう。例えば一本の映画が、一回の鑑賞で、一人の観客に残すインパクトは、1950年代と2010年代では比較にならないほどに軽いものになっていると思える。80もしくは90年代と今を比較しても与えられる喜びも痛みははるかに弱まっているように思えるのだがどうだろう。両親世代の映画への思い入れはいまと比較にならないと感じたことがある。80年代に2000席近いキャパの有楽座と日比谷映画で40~50年代の名作を再上映したとき、老人を含む白髪の観客で超満員で立ち見まで出ていた。そして終了後に耳が割れんばかりの拍手が沸き起こった。当時で40年ほど前の映画を想い続けて駆けつけた年老いた人々の熱気で場内は暑かった。映画がそんな熱狂を引き起こすことはもう起こりえないだろう。映画をめぐる状況の形が変わったからだが、ではそれでも熱狂したい人の想いはどう処理すればいいのか。
 日毎、年毎に、いわゆる「必見作品」が蓄積していき、録画したDVDやブルーレイが見れないまま放置されてゆく。個人アーカイブが充実すればするほど、見なければならぬ、知らなければならぬという強迫観念ばかりがいや増していく。人によってはパンクしてしまうだろうが、それをこなしえる少数者はよりマニアックにより閉じざるを得ない。娯楽たる映画から大衆性が失われれば、個々はまるで違う作品を見ている孤独の人にならざるを得ないわけだ。たとえば、YouTubeで映像を見ているときにたまに思うことは、この映像をたったいま見ているのは世界で僕だけだろう、という孤立の感覚である。
 80年代にビデオが普及したりウォークマンが普及したときは、その感覚に特権的な快感を覚えたものである。ビデオやウォークマン、もしくはパーソナル・コンピューターは、ウルフの言う「ミー・ディケード」もしくは「ミーイズム」の機械的な結晶であり、だから爆発的に求められた。つまり、その孤独の振る舞いのなか
に、自由と、かけがえのない「ミー(自己)の確立」を錯覚していたような気配がある。そのときの気配を、若さゆえの誤診と考えることもできるが、最近たまに思うのは、あのころに始まり、いま徹底的に先鋭化しようとしている、この錯覚の装置が、まるで不治の病ごとく拡がりつつ僕も蝕んでいるということだ。
 とはいえ、こうしたシステム状況は大衆が求めたものであり、ぼく自身その例に漏れないのであった。これがもたらす「自由」の獲得は、人の本来が、どうしようもなく孤独な個々の生き物として、魂の入れ物たる肉体を浮遊させているだけの存在に過ぎない、という事実をあらためて暴いていくれた。僕はいま、この厳しい認識に戸惑っているのかもしれないが、その戸惑いは「進化」「成長」の過程で感じる過渡期的な兆候に過ぎずないような気もする。それは生命体としてのひとつの適応かたちであるが、それには見合うだけのエネルギーが必要であるだろう。適応のエネルギーが不足してれば、ただ滅んでいくだけなのだ。滅びもまた、ひとつの運命であり適応のかたちではあるのだろうが。
  
(5月26日のツイートより)
 
 

北沢夏音の『getback SUB!』のカバーが想わせた、さまざまなこと

2011-10-30 | 作家




北沢夏音さんによる70年代マガジンカルチャーへのオマージュは、
ピーター・ボグダノヴィッチとラリー・マクマートリーの
名作映画『ラスト・ショー』(71)とも通ずるような本なのだろうか。
実はまだ僕の手元にはないのだが、この表紙は、さわやかで、しかし同時に、どこか寂しい。

誰もがすぐザ・ビートルズのポール・マッカートニーの歌を連想するだろうタイトル。
その語感に込められているのは、
もう戻ることはないであろう友に、呼びかけた声の、あの少し気弱で切実な響きだろうか。

浅井慎平さんにょる、あの潮風の匂いがするような、
しかもそれが、〝カリフォルニアのそれ〟であるかのような、
心地よく、適度に、センチメンタルな海の写真。

ありふれた海のようにも見える。
いや、特に海に思い入れがない僕にとって、ほとんどの海は、
ただ水と空があるだけの、
底なしの孤独のなかへと引きづりこまれそうな、美しい不安でしかないのだが。

あのころ観た海と空が出てくる印象的な映画たちは、みな僕にそう感じさせた。
古くは『太陽がいっぱい』『冒険者たち』『気狂いピエロ』……
違う、それらよりも、やはり『ロンググッドバイ』の海だろう。
あの映画に登場する、老いて孤独な小説家が、暮らしていた白い家の向こうに拡がっていた、あの海と空。
または、『さすらいのカウボーイ』。
いまだ海を見たことがなく、目の前の川の流れをみつめながら、きっといつか海を見たいと、
そうつぶやきながら、しかし殺されてしまった、あの青年が夢想していたであろう海と空。

それは僕などが想像するより、もっともっと晴れやかな海のイメージであったかも知れないけど、
映画のなかに、その海の拡がりは、ついに最後まで登場してこなかった。

これらの映画を、撮影したのは、ヴィルモス・ジグモンドである。
浅井慎平さんの写真は、ジグモンドが撮影した映像と少し似た雰囲気がある。

白のさわやかさや、そのまぶしさ、潔癖さ……。
僕にとってそれは、現実を忘れてしまいたいと願う者の、夢の反映に思われる。

青は、この世で一番美しく、そして恐ろしい色である。
白と青は、僕には、底なしの色彩であり、
その底のなさに「さわやかさ」などゆうに越えた、深い哀しいばかりを感じとってしまうのである。

青や白は、最期のときにこそ相応しい色彩である。
死の哀しみの色……ホットではなく、クールな色彩なのである。

七〇年代の幕開け……その時間……それは「はじまり」ではなかった。
「長いお別れ」の「はじまり」であり、「終わり」の「はじまり」だったのではなかろうか。

過ぎ去りゆく時との、「別れ」を惜しみ、去りゆく友の靴音に耳をすます……。
やがてその音はいつか、幻想の音となって、ふとかかとを返し、徐々に近づく音を、耳のうちに響かせる。
戻ってくる、そう錯覚する。
しかし、いくら待てども、戻ってはこない。
もう二度とは戻らない。そうだ、あれは、頭のなかで響いただけの幻想の靴音に過ぎないのだ。

「長いお別れ」は、我に返るまでの、あの短くて「長い瞬間」を差している。
現実と幻想が混濁した、あの〝夢の流れ〟……。

僕にとって、忘れようともけっして忘れられない幻のような人物が、跋文のなかにいる。

この本の表紙は、著者たちの込めた想い以上に、うら寂しい。
その寂しさに抗うことはできない。
寂しさを受け入れた、その先にのみ、この書籍が夢想するであろう「未来」も、あるのだと思える。

繰り返すが、僕はまだ、「この本」を手にしてはいない。
大幅な加筆を加えられたとされる文章も、当然、読んではいない。

にも関わらず、
なにか得体の知れない感慨を沸き起こさずににおられない、そんなカバーデザインなのである。
その現物を何回か目にしたことのあるだけの「季刊SUB」という伝説の雑誌。
これもまた、同様の雰囲気を持ったデザインが、施されていたような、そんな記憶がある。
曖昧な記憶が……。

いまここに書いているのは、夢、幻に似た、ただの決め付け、思い込み、そんな感想文にすぎない。
つまり、僕のたったいまの気分、たったそれだけのことの、反映にすぎない。

本、そして映画、音楽のみならず、すべての物という物は、
人と似て、中身あるもの、外観と一体のものである。

読むごと、眺めるごとに、異なった顔を見せる、そんな生き物ようで生き物にあらずの、
そんな、奇妙な存在、想いのかたまりなのであり、
外見が、その中身を反映して、同時に―ーここが肝心なのだが――つねに裏切られる。

ときに豊かで、ときに退屈で、気ままな友人のような存在。
ただ、そこにどこかに居てくれればいい。
僕のあまえた願望や妄執、そのすべてを、ありのまま反映してくれる。
反映の反映、反映の、そのまた反映の……
それは、永遠に鳴り続くかと思われた、
あの幻の靴音のように、長いお別れのときを、僕に告げてくれているのである。



   
   

ひそかに…今月は「草森紳一」月間~『記憶のちぎれ雲』『勝海舟の真実---剣、誠、書 』が発売!

2011-08-17 | 作家


若き草森紳一が出逢った、真鍋博、古山高麗雄、田中小実昌、中原淳一、伊丹十三、の記憶。
とある人物の記憶を辿ることで、若き日の自らを語る「草森流」の「自伝のようなもの」。
とっつきにくいので有名な草森本だが、これは初期の文章や、最近では『本が崩れる』や『食客風雲録』『本の読み方』以来の、実に読みやすく面白い新しい文体を持った本である。

装丁とイラストは和田誠さん。
かつて「キネマ旬報」(昭和55年)に掲載された「和田誠×草森紳一の映画対談」を読んで以来、
僕はずっと、和田誠流に描かれた草森紳一の肖像が見てみたかったので感激もひとしおである。





「金坂健二」のアングラ・フィルムと映画文化批評と写真の臨場感

2009-03-28 | 作家
 北沢夏音さんに誘われて、60年代に金坂健二が撮ったアングラ・フィルムを特別に見せてもらった。内容に触れることはできないが、久々フィルムの色香を味わうことができた。なんというか「フィルムの流れ」を観ているだけで飽きることがないのである。
 
 しかし「金坂健二」と言ってみたところで分からない人が多いに違いないのは、彼が忘れられた人物だからである。60年代に映画評論家・映画作家として前衛活動を展開。アメリカでカウンターカルチャーを至近距離で目撃し、それを迫力ある写真に収めつつ「キネマ旬報」などで現地からの実況報告を書き続け、70年代にはジャーナリスティックで尖がった映画評論家として人気を博した。

    

 僕が金坂健二を知ったのは小学校の5年生頃だった。80年代初頭に恵比寿の駅前に「シネプラザ」という店があって通っていた。店内に「スペース50」という自主映画上映スペースを併設していて、大学の映研だろうか、よく賑わっていたが、僕の眼目は映画の前売り券や様々なグッズにあり、ここで始めて購入した映画雑誌が「キネマ旬報」と「スターログ」だったのである。
 当時の「キネ旬」には「シナリオ採録」が掲載されていて、ビデオのない時代に映画のシーンやセリフを確認するのに重宝していた。主な映画のバックナンバーを揃えたくなり、同じ恵比寿の「パテ書房」というサブカルチャーに強い古本屋にも通いだして小遣いのほとんどはそれとゲームセンターにつぎ込んだ。

 雑誌というものは熟読するうちに何となく気になる執筆者が現れてくるものである。81年ごろの話だから古本で買ったバックナンバーのほとんどは70年代のものだ。当時の「キネ旬」は実に豪華で、ざっと挙げると――
和田誠、山田宏一、佐藤重臣、小野耕世、筈見有弘、品田雄吉、石上三登志、今野雄二、田山力哉、荻昌弘、河野基比古、白井佳夫、淀川長治、双葉十三郎、佐藤忠男、南部圭之助、飯島正、川本三郎、渡辺祥子、宇田川幸洋、河原晶子、日野康一、赤瀬川源平、南俊子、小林信彦、永六輔、水野晴夫、斉藤正治、渡辺武信、紀田順一郎、小林信彦、片岡義男、永六輔、矢崎泰久らが、常連もしくは連載を持っていた。

 いまからすればそうそうたる布陣で、ひとつに矢崎泰久と和田誠の『話の特集』的なサブカルチャーの横断性が参考にされていると思われるが、当時は当たり前のこととしてあった。
映画専門家の見識と、必ずしも映画専門でない書き手の見識が、映画の見方を豊かにしていたが、このなかでひと際硬派かつ長文で、読みづらいが、興味深々の文章で目を引いたのが「金坂健二」だったのである。これも「いまからすれば」不思議だが、僕のような遅れた子供の目にも刺激的で目立つ存在だった。映画とアメリカの歴史を独断と偏見で紐解き、アートフィルムやアンダーグラウンドのみならず、メジャー映画への造詣も深かいところが好きだった(多くはいずれかに偏るものだ)。
 金坂が書いていたのは、「映画の表面」の「裏側」にある禍々しく得体のしれない世界の蠢きである。それはアングラの教祖的なケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』などにも影響されたかも知れないが、彼自身は60~70年代の「燃えるアメリカ」を「異邦人の眼」から眺め、その中へ身を投じながら、同時に「日本人」としてのわが身を引き裂きもがいているようなところがあるのだ。
 当時「アングラ映画」など見たこともなかったが、金坂のつんのめるような文章を通じて、映画という騙し絵の奥に隠れた「もう一つの世界」を垣間見る思いがした。子供心にその「危ない世界」にスリルを感じていたのだと思う。金坂はインタビューも得意で、ヤコペッティ、ミロス・フォアマン、ジャック・ニコルソン、ウイリアム・ピーター・ブラッディ、リー・ストラスバーグ、マーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロ、ローレンス・カスダン、ジョン・ウォーターズなどに取材していた。「プレイボーイ」誌でのフランシス・フォード・コッポラ・インタビューが読み応えで一番だが、『コンボイ』当時サム・ペキンパーの恋人で秘書だったケイティ・ペイパーなど多種多様だったが、アメリカ現地ではニューヨークを中心とするアンダーグラウンド・シーンに出入りしていたようだから、貴重な「言葉」を多く聞いていたのに違いない。

 だが、金坂健二という人は60~70年代の申し子のようなところがあって、80年代に時代の空気が変わるとあまり目にしなくなった。たまに目にしても生気がなくなっていた。金坂が気に入り筆が走るような映画が少なくなっただけでなく、時代そのものが変質していくなかで、独特の難解な批評も読まれなくなっていったのである。

   

 70年代に映画はただの娯楽をこえるものになろうとしていた。観客を挑発する表現となり、作者たちと批評家は創造的な火花を散らした。こうした現象は50年代には基本見られなかったことで、映画表現は芸術であり発言の場としての可能性を斬り開いていったのである。「新しい観客」もまた「新しい映画」の挑発と勢いに乗り、だからこそ、ヌーヴェル・ヴァーグやアメリカン・ニューシネマの先鋭的で難解な映像を受け入れ、「イージー・ライダー」「真夜中のカーボーイ」「M★A★S★H」「チャイナタウン」「タクシードライバー」「ディアハンター」「地獄の黙示録」などの一筋縄ではいかぬ異色作群がヒットして「時代の顔」に成り得たのだ。

   

 70年代のそれは、これに先駆ける50~60年代の実験映画、アンダーグラウンド映画、インディペンデント映画、もしくはB級C級のジャンル映画の持つ荒々しさや禍々しさをメジャー展開させたもので、初めは良かったが、やがて「大商業化」する運命から逃れなかった。しかし彼ら当時の新しい作者たちが切り拓き、評論家たちが紹介した、意識の在り方や世界観を新たにさせる映像は、当時の子供たちの目にも触れて大いに触発したのだった。ポルノ映画やそのポスター、暴力と精液にまみれたエロ劇画誌などもそうだが、80年代くらいまではそのへんにいくらでも転がっているものであった。映画なら大きなスクリーンで展開するそうした暴力的でエロティックな世界は、やがて大人になるだろう子供たちの無意識を覚醒させる劇薬の役割を果たした。難解で実験的かつ政治的な映画が雪崩をうって子供のもとにまで押し寄せてくるさまは、いま思い出すと圧巻の光景だろう。
 金坂健二もまた映画評論家としてアメリカ体験の実感とともにそうした世界を世に広めようとしていたのである。

 アメリカ映画におけるこうした動きを止めるきっかけとなったのは、80年にマイケル・チミノが発表した超大作「天国の門」の公開である。「作家の映画」は無惨にも興行的失敗を喫して、監督主体の映画の老舗ユナイテッド・アーティスツ社を倒産に追い込むこととなった。この「怪物」は作者たるチミノのみならず、ロバート・アルトマンなど多くの「ハリウッドの映画作家」たちを業界から弾き飛ばしてしまった。そしてはじまる80年代のハリウッドは保守化の波にさらされていくが、新しい才能たち――80年デビューのジム・ジャームッシュなど――は初めから「ハリウッド・メジャー」をしりぞけ「インディペンデント」の立場から自らを発信する「映画作家」としての頭角を現すこととなる。

   

(『天国の門』が公開された80年(日本では81年)あたりにはまだ「作家の映画」が存在していたが、彼らのつくるいわゆる「野心作」や「問題作」に観客たちの多くはついていけなくなっていた。ウィリアム・フリードキンの「クルージング」、アルトマンの「ポパイ」、スピルバーグの「1941」、コッポラの「ワン・フロム・ザ・ハート」などの興行的な失敗はそのことを実感させたが、個人的には非常に面白く、特に81年は当時思われていたより重要な作品が多いのだ)

   

 80年代の保守的なハリウッドでは、一度は手にしたクリエイティブの実権が「映画作家」から「製作者」に引き戻される。つまり、実権を監督たちが握るためには製作者としても名を連る必要があった(この先駆けがユナイテッド・アーティスツのビリー・ワイルダーやノーマン・ジュイソン作品に見られる)。しかし製作者でもあれば余計に興行的な責任が生じ、作品をヒットさせる必要性がより重くなるのは必然である。クリエイティヴとプロデュースの両立は簡単なことではない。時代の流行を先取りし、もしくは仕掛ける才能を持っていたのはスティーヴン・スピルバーグだった。彼の一連の大ヒット作のなかで「E.T.」は時代全体の方向性をかえるだけの力を発揮していた。彼は以後ファンタジー映画の大御所として「グレムリン」「グーニーズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などを「プロデュース」したが、実は同時期に自身でつくったファンタジー映画はほとんどない。スピルバーグには「映画作家」としての野心があり、その野心と情熱をむしろ「カラーパープル」や「太陽の帝国」などの歴史映画に向けていたが、それらを実現させるために「流行作をプロデュ-ス」して、それで儲けることをいとわなかったし、実際にそういう映画も嫌いではなかったのだ。彼のこうした資質は、実際問題、誰もが持てるものではないから、フリードキンやボブ・ラフェルソンのように半端な「転向」を余儀なくされるか、アルトマンやペキンパー、ハル・アシュビーら反逆児たちは干される運命にあったのである。

   

 金坂健二という評論家が歩んだのは、もちろん後者の道であった。アメリカのアンダーグラウンドやカウンターカルチャーの精神を日本にも広めようとしたこの無頼漢もまた、居場所を見失って苦悩したに違いない。人には筋というものがあり、仮に、転向や転進の必要性を感じているからといって、そう器用に変わり身を遂げられるわけでもない。金坂はそれがうまくできなかったが、先に書いたインディペンデントの動向は多少なりとも接点を見つけられるものであった。ただ新世代作家たちの「個性」を掴むにはすでに「旧世代」に属していた。「新世代」は革命になど見向きもしない「革新児」たちだったのである。
 
 ただ80年代の日本にはビデオレンタルとミニシアター時代が到来していて、インディペンデント映画や、60~70年代の日本では未公開に終わったカルト映画群が相次いで公開されるようになった。アレハンドロ・ホドロフスキーの「エル・トポ」やジョン・ウォーターズの「ピンク・フラミンゴ」、ロバート・アルトマンの「三人の女」、テレンス・マリックの「天国の日々」、ホッパーの「ラストムービー」などは、本国公開時にまっさきに金坂が「キネ旬」誌上で紹介していたものだったから、そうした作品の原稿を頼まれたときには「力量」を発揮していた。
 しかし70年代の当時、その「過激さ」によって注目を集めたゲリラ的なカルト・ムービー群も、日本の大企業の手にかかればファッション化してしまう。金坂健二の居場所はいよいよなくなっていったのである。

  

 しかしこうした歴史自体がもはや遠いもので、いまあらためて「金坂健二」を読むとやはりたいそう刺激的で滅法おもしろいのだった。僕の個人的な少年時代の映画風景には、一方に淀川長治的なるものと金坂健二的なるものの両極があったと思える(もっとも中間に、上に列挙した評論家たちがいたわけだが)。

 金坂健二の興味は当時のアメリカ社会とその文化的坩堝を捉える表現としての映画に向かっており、翻って日本人と日本の映画表現はどうだろうと、しつこいくらい問いかけ、ときに挑発しようとしているところがあった。単行本で読むとかなり難解だが、「キネ旬」では難解になるぎりぎりで抑えながら読み物としておもしろく読ませるものが多い。

 個人的には「アングラ」が漂わせるムードが苦手だが、不思議なことに金坂健二は嫌いではない。文章が意外に「ポップ」だからである。アンディ・ウォーホルは当然、アメリカン・ニューシネマ、僕の好きなロバート・アルトマンにしてもポップなのである。「ポップ」のイメージは移り気で軽薄だが、過去を抱え、すねに傷を隠している。映画はそもそもの性質が「過去を内に抱え込む」ことで成り立つ表現であり、ゆえに「ポップ」なのだ。金坂健二はそういう映画の熱気のなかに死臭を嗅ぎ取り、それを反転させてエネルギーに変えようとする力みがあった。「映画評論家」のみならず「写真家」であり「実験映画作家」としての顔も持っていたことを後で知ったが、「クリエイター」としてどれほど評価されていたのかは分からない。ただひとつ言えるのは、写真も映画も文章と同様、受け手を巻き込まんとする「つんのめった迫力」があるということだ。時代に殉じたゆえの美点と欠点があるからこそ後続世代にとっての発見も多いと思うが、どうだろう。もう少し注目されてもいい書き手だと思うし、彼の撮ったアメリカ写真はかなり荒っぽいが、だからこそ、時代精神を写し取っていまに伝える臨場感がある。ある種の「捨て身の姿勢」には「退屈な00年代」を照射する魅力があると思うし、あれほど活躍していた人が、ここまで記憶の彼方に葬りさられてきた事実がちょっと不思議なくらいだ。

     

 近ごろの日本映画は退屈な流行が目立つが、すっかり客が入らなくなったアメリカ映画は娯楽的・芸術的な洗練を極めつつあるものが出てきている。アン・リーの「ブロークバック・マウンテン」、コーエン兄弟の「ノーカントリー」、リドリー・スコットの「アメリカン・ギャングスター」、クリント・イーストウッドの「チェンジリング」、トッド・ヘインズの「アイム・ノット・ゼア」、ポール・トーマス・アンダーソンの「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」、ガス・ヴァン・サントの「ミルク」、ブライアン・デ・パルマの「リダクテッド」、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」、サム・メンデスの「レボリューショナリー・ロード」、ザック・スナイダーの「ウォッチメン」、スティーヴン・ソダーバーグの「チェ二部作」、ロン・ハワードの「フロスト×ニクソン」など、ざっと挙げてみても力作揃いだと思える。極めてアメリカ映画的な正当性――性と暴力の氾濫、社会と政治への批評性、娯楽と芸術の折衷――が「現代的」な状況や人間の諸相を掴みとることに成功しているのである。

いま「町山智浩」が大ブレイク中だが、淀川長治の人懐っこさと金坂健二の過激さをミックスしてかき混ぜたようなジャーナリスティックな視点を持つ「映画の語り部」として実におもしろい。その異様な熱気が特有のユーモアを伴い加速していく様は圧巻で、アメリカ在住の強みを活かした現地リポートなどインターネットにも精通していて、非常に現代的でかついま最も求められている「映画解説」の有り様を体現している人なのだ。



ところで「金坂健二写真展」なる企画が開催されると聞いて驚いている。雑誌「スペクテーター」でも特集が組まれると言うし、ビックリである。「スペクテーター」は個人的な金坂健二の印象から意外なようでいて実は合っているのかもしれない。かつて「鶴本正三」特集も組んでいたし、何より金坂は60年代のヒッピー・カルチャーやカウンターカルチャーを目撃してきた人物なのだから。