真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

ロバート・アルトマンの問題作『ポパイ』は決して「興行的」な「大失敗作」ではない。

2016-02-24 | ロバート・アルトマン


「でもスタジオはあの映画で金を失くしてはいないんでね。ただ期待したほどのヒットにはならなかったというだけのことで。いまや『ポパイ』は驚異の子守映画になっているよ」(川口敦子訳『ロバート・アルトマン/わが映画、わが人生』キネマ旬報より)

 ロバート・アルトマン自身語るように1980年の問題作『ポパイ』は巷で言われるほど客が入らなかった作品ではない。興行成績ではなくむしろ批評が悪かったのだ。「Mojo」によれば1980年のボックスオフィスで年間の12位($49,823,037)をマークしている。
 ちなみに同年の1位は『スターウォーズ帝国の逆襲』。『ポパイ』とシェリー・デュヴァルが主演したスタンリー・キューブリックの『シャイニング』14位だがから『ポパイ』のほうが上なのである。
 前年の1979年に『スーパーマン』がヒットして「アメコミの映画化」の走りの時代であり、それを受けての『ポパイ』映画化だった。ただこの作品は、撮影地に襲来したハリケーンによりセットが吹っ飛ばされ製作費がかさんだり、パラマウントの大物製作者ロバート・エヴァンズが麻薬スキャンダルを起こしたりでトラブル続きだった。会社としては『帝国の逆襲』並みに当たって欲しかったのだろうが、この数字でみるとおり善戦しているのである。



 ついでに「1980年間ボックスオフィス」から気になるタイトルを抜き出してみよう。4位にザッカー兄弟の『フライングハイ』、5位にクリント・イーストウッドの『ダーティファイター燃えよ鉄拳』、10位にジョン・ランディスの『ブルース・ブラザース』、11位にロバート・レッドフォードのアカデミー作品賞受賞作『普通の人々』、18位に『13日の金曜日』、21位にブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』、25位にデヴィッド・リンチの『エレファント・マン』、27位にマーティン・スコセッシの『レイジング・ブル』、31位にジョン・カーペンターの『ザ・フォッグ』、32位にアラン・パーカーの『フェーム』、33位にロマン・ポランスキーの『テス』、34位にケン・ラッセルの『アルタード・ステーツ』……と錚々たる作品群。このなかで低予算映画ゆえに「化けた」と言えそうなのは『フライングハイ』『13日の金曜日』『殺しのドレス』あたりだろうか。



 ちなみに25位の『エレフェント・マン』は日本では翌年に公開。なんと年間Ⅰ位の大ヒットだった。宣伝の巧妙により大化けに化けたわけだが、『ポパイ』のほうはと言えば、やはり81年の公開で年間興行チャートの40位以内にも入っていない(ゆえに何位なのかもわからない)。『シャイニング』が11位なのと比較して大コケであり、「失敗作」の烙印もこのあたりに理由がありそうだ。
 70年代後半から80年代初頭は超大作作家映画時代で、『ポパイ』のほか、コッポラの『地獄の黙示録』、そのコッポラとルーカスが出資した黒澤明の『影武者』、スピルバーグの『1941』、そして老舗ユナイテッド・アーティスツ社の屋台骨を揺るがした真の興行的大失敗作マイケル・チミノの『天国の門』などがあった。
 そんななか1982年に本国でヒットした超大作がウォーレン・ベイティの『レッズ』。この宣伝で日本に来日したベイティが、「日本は『エレファント・マン』がヒットするような国。僕の映画なんて当たらないだろう」と語っている新聞記事を読んだ記憶があるが、実際予言どおり日本ではまるで客が入らなかった。『レッズ』は1917年のロシア革命を記録したアメリカ人ジョン・リードを描いた作品で、いまもって日本ではマイナーな「ベイティ入魂の1作」である。日本では「社会派とコメディは当たらない」というジンクスがあるが、それは21世紀のいまも変わらない。近年だとスティーヴン・スピルバーグの力作『リンカーン』などはいい例だろう。
(渡部幻)

   


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アラン・ルドルフこそロバート・アルトマンの一番弟子。PTAじゃない。

2015-10-15 | ロバート・アルトマン
 

「僕は主観的現実(サブジェクティブ・リアリティ)というものがあると思っている」――アラン・ルドルフ (大久保賢一『Switch』ニューロスト・ジェネレーション あらかじめ失われた世代)

 ロバート・アルトマンの一番弟子と言えば、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)でなくて、アラン・ルドルフである。アルトマンの『ロング・グッドバイ』『ジャックポット』で第二助監督、『ナッシュビル』で助監督、『ビッグ・アメリカン』では脚本を書いた正真正銘の弟子筋。ルドルフの『ロサンゼルス/それぞれの愛』『Remember My Name』『ミセス・パーカー/ジャズエイジの華』『アフターグロウ』『Trixie』は、アルトマンがプロデュースした作品だった。
 2015年日本公開のドキュメンタリー映画『ロバート・アルトマン/ハリウッドでもっとも愛され、嫌われた男』にルドルフが登場しないのが解せなかったものだが、特にトラブルがあったわけでもなさそうである。このドキュメンタリーはアルトマンの妻キャサリンの協力のもとでつくられたが、同時期に出版された、やはりキャサリン監修による豪華書籍『Altman』には、しっかりルドルフも言葉を寄せているのだった。

「確かに僕らふたりともそれぞれの映画で、もうひとつの真実をみつめてきたといえるかもしれない。ただアプローチの仕方はものすごく対照的だと思う。ボブのはどこまでも客観的でみすえるような距離を保つ。一方、僕はもっと主観的、感情的な方法に魅了されてしまうんだ」――アラン・ルドルフ (川口敦子『落ちた恋人たち』パンフレット)

 ルドルフの名が日本の映画ファンの間で知られたのは80年代である。ミニシアターを中心とする代表作といえば、『チューズ・ミー』『トラブル・イン・マインド』、そして『モダーンズ』だろう。アーティスティックかつどこか奇妙なこれら異色作群に出演したキース・キャラダインは、70年代にアルトマンの『ギャンブラー』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』に出演して脚光を浴び、その後、リドリー・スコットの『デュエリスト/決闘者』やルイ・マルの『プリティ・ベビー』、ウォルター・ヒルの『ロング・ライダース』など曲者監督たちに愛されるようになったが、特有の二枚目だがオフビートな個性の「発見者」がアルトマンで、「発展」させたのがルドルフだったということができるだろう。80年代には、再びヒルの『サザーン・コンフォート』やアンドレイ・コンチャロフスキーの『マリアの恋人』、サミュエル・フラーの『ストリート・オブ・ノーリターン』などの異色作に連続出演。久しく見かけなかったが、近年「テキサス派」の有望株デヴィッド・ロウリーの『セインツ/約束の果て』や、ノア・ハサウェイがコーエン兄弟作品をテレビドラマ化した『FARGO/ファーゴ』で重要な脇を固め、渋い味を披露していた。

   

「アランは、ピカソが自らの作品を説明したようなやり方で世界を作り出そうとしているのだと思う。“芸術とは我々に真実をみせる嘘”とピカソは言った。アランは、そんな風に虚構の世界を組みあげる。ファンタジーといってもいい。が、嘘やファンタジーが真実をより明らかにするように、アランの映画は人間についての真実をみつけ出す。非現実性の中で現実がより明らかになっていく」――キース・キャラダイン (川口敦子『Switch』1990.07)

 ルドルフ作品中もっとも日本で評判を呼んだのは『モダーンズ』だろうか。1920年代のパリのアーティストたちの群像劇がシニカルに繰り広げられる。視線を彷徨わせるような奇妙なカメラワークは「アルトマンゆずり」で、アルトマン作品と同様「ドラマ」よりも「ムード」を重視している。ここでキースは作家アーネスト・ヘミングウェイ風のハードボイルドな贋作画家を演じ、ジョン・ローン、ジェラルディン・チャップリン、ジョヌヴィエーヴ・ヴィジョルドらが出演し、みながみな一風変わった人物を演じる。終盤で、現代ニューヨークのMOMA美術館に「贋作」のマチスが「本物」として飾られている場面に師匠譲りの皮肉が利いた作品だった。

「僕の映画に(それは誰の映画でも同じことだが)現実の似姿としてのリアリティを探そうとしても、それは見つからない。記憶の中にあるもののリアリティと同じように、映画の中のそれは現実に寄り添うものではないのだから」――アラン・ルドルフ (大久保賢一『Switch』ニューロスト・ジェネレーション あらかじめ失われた世代)

 80年代はアルトマンが無視されルドルフが注目されたが、「ルドルフ作品」には「アルトマン作品」にないロマンティシズムがあった。繊細かつ内省的で、人工的かつ都会的なセンスが、一種独特な手触りのセンチメンタリズムとないまぜとなった世界観。その心地よい哀感が人気を博したが、ひとつには彼の音楽センスが貢献していたかもしれない。『チューズ・ミー』のテディ・ベンダーグラス、『トラブル・イン・マインド』のマリアンヌ・フェイスフルが印象に残るが、もっともコンビを組んだ作曲家は『モダーンズ』『メイド・イン・ヘブン』『落ちた恋人たち』などのマーク・アイシャム。彼はのちにアルトマンの『ショートカッツ』も担当している。

   

 ルドルフ作品では「どこかに似てるようでどこにも似ていない」人工的で書割のような架空都市の片隅を、「居そうで居ない」登場人物たちが、得も言われぬ哀感と滑稽さを滲ませながら彷徨い、交錯していく。『トラブル・イン・マインド』に顕著な虚構性は、たとえばウォルター・ヒルの『ストリート・オブ・ファイヤー』と同時代性を感じさせ、そのロマンティシズムは、リドリー・スコットの『ブレードランナー』というより『誰かに見られている』に近い。マイケル・カーティスの古典「カサブランカ」とニューウェーブ的な感性の融合とも言えるが、しかし、彼の世界はヒルやスコットと異なり、いわゆる「ハリウッド調」の明快さが欠片も感じられない。重視されるのは、より微妙かつ繊細な「手触り」のようなものだ。描かれるすべてが、何かの「贋作」であり「パロディ」であるかのような特異な世界観を、文字で説明するのは難しいが、だからこそ異端児アルトマンが評価する「弟子筋」の面目躍如がある。それゆえと言うべきか、ルドルフがその類稀なる個性を、十全に発揮できる機会に恵まれてきたとは言いがたいのだ。

「映画会社のために働いた結果はいつも同じだ。ハリウッドは僕の「眼(アイ)」を好んでいるようだが(だから監督として起用するんだろうが)僕の「眼」が見たもの、つまり出来上がった結果は好みではないようだ。彼らはきまって完成した作品を変えようとする。僕がやろうとしたことを帳消しにしてね。僕が僕であろうとすることを、彼らは好まないのさ」――アラン・ルドルフ (大久保賢一『Switch』ニューロスト・ジェネレーション あらかじめ失われた世代)

 ルドルフ曰く彼の作品は、自らの感性でつくった「フィルム」と、映画会社のためにつくった「ムービー」に分けられる。前者が『チューズ・ミー』『トラブル・イン・マインド』『モダーンズ』『ミセス・パーカー』とすれば、後者は『ローディ』『真夜中の極秘実験』『藍を殺さないで』『メイド・イン・ヘブン』などだが、ルドルフは「未完成の映画作家」であり、そのあやうさがなんとも魅惑的だったが、いまや「忘れられた80年代アメリカ映画作家」の代表選手みたいになっている。理由はわかるようでわかららないが、彼の理解者は、昨今の主流たる「映画オタク」でも「シネフィル」でもなく、むしろ文学や絵画もしくは音楽のファンかもしれない。

 そんな彼のフィルモグラフィーは――師匠アルトマン以上に――傑作、秀作、佳作、そして珍作と凡作が混在している。僕個人の主観で振り分ければ「傑作」は、視覚的に優れた『ロサンゼルス/それぞれの愛』(76)『チューズ・ミー』(84)『トラブル・イン・マインド』(85)『モダーンズ』(88)『ミセス・パーカー』(94)。「秀作」は『アフターグロウ』(97)、「佳作」は『探偵より愛をこめて』(89)『堕ちた恋人たちへ』(92)、「珍作」は『悪魔の調教師』(74)『真夜中の極秘実験』(82)、そして「凡作」は『ローディ』(80)『メイド・イン・ヘブン』(87)『愛を殺さないで』(91)あたりの「ムービー」。そして「がっかり作」だったのが『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』(99)と『セックス調査団』(01)だった(いまだ『ソングライター』〈84〉を観れてない)。しかしこの振り分けも「気分」で変わってしまいそうで、そうした「曖昧さ」がまた「ルドルフ的」なのだ。ほかの人がほかの気分で選ぶとまた違ってくるだろうが、ただひとつ言えるのは、ルドルフは誰もが傑作と声を揃えられるような作品は「作らない」ということで、ここに「アルトマンの弟子」たる所以があり、決して巨匠になったポール・トーマス・アンダーソンには真似の出来ないところだ。
 
「僕の映画に対してアメリカでも多くの観客がこれはコメディなのか、ここで笑っていいのかみたいな反応を示すんだ。(中略)僕にとってあらゆるものごとはユーモラスで同時にシリアスなんだ。どちらかひとつというのは信用できない。すべての事々はオーヴァーラップしているもので二極分解なんてとてもできないというのが世界に対する僕の見方なんだと思う。(中略)いうまでもなくこの二重性の一例が知ってることと知らないことって部分にあって、西洋では前者をコントロールすることに邁進してきたわけだよね。で、わからないものにでくわすと途端に混乱してしまう。ところが僕の場合はまったく逆で、東洋的だといえるかどうかはともかく不可知の部分にこそ生は根ざしていると思えるんだ」――アラン・ルドルフ (『FLIX』アメリカン・インディーズの肖像)

   

 ちなみに70年代のアルトマン作品を考えるときにもルドルフを意識しておくと、また違った側面が見えてくる。たとえば、アルトマンの『ロング・グッドバイ』には彼の普段の作風と少しばかり趣きの異なるロマンティシズムがあり、ことにロスの夜景描写に顕著なのだが、それが、のちのルドルフ作品『トラブル・イン・マインド』『探偵より愛をこめて』の質感を予見していると感じられる。また、『ビッグ・アメリカン』の人間群像に横溢する間の抜け方や温もりにも「ルドルフ的」なるものがあるのではないか。さらに、アルトマンが一線に復帰するきっかけとなった『ザ・プレイヤー』にはルドルフが彼自身の役で出演し、彼がマーティン・スコセッシと間違われる場面があるのだが、自らをからかうこんなところにルドルフ的なパロディ精神を垣間見てしまう。ルドルフの「傑作」「秀作」を書いたので、ついでにアルトマンのそれも同様に書いてみようかと思ったが、しかし彼の場合あまりにも作品が多すぎて乱脈になるのでやめておこう。

「大半の人はアランが作家として僕の影響をうけたと考えているようだが、事実は逆だね。この私がアランに作家として影響を受けたのさ」――ロバート・アルトマン (『トラブル・イン・マインド』パンフレット)

(渡部幻)
  

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ロバート・アルトマン――「わぁ、すごく良かった!」と言いながらも、ひと言も語れない映画のために

2015-10-04 | ロバート・アルトマン


ロバート・アルトマンのドキュメンタリー映画『ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』の公開が近づき、映画ファンのあいだでひそかに盛り上がっている。これはひとつに宣伝の努力と情熱の成果だと思える。宣伝は煽りであり、こと日本ではマイナーなアルトマンのしかもドキュメンタリーをメディアがこれほど取り上げたことはなかったし、ちょっと画期的な気がする。扇動はときに対象の「伝説化」「神話化」への荷担ともなり、そうなると「アルトマン的」ではないが、とりあえずは嬉しく思うわけである。

アルトマン作品は劇映画だけで39本、しかも題材が一通りではないから、全体像を把握することが難しく、日本ではとかく忘れられがちな存在だった。映画ファンというものは「作家」よりも「題材」(俳優もそうだ)で見ることが多く、ゆえに常に前作と異なる題材を取り上げたアルトマンとその作品群の印象はどこか漠然としてしまいがちだった。一風変わったエンターテインメントからアートフィルムまで手がける彼の多彩が、興行的な仇となり、ターゲットの絞り込みを至上命題とする宣伝にとっては扱いづらい存在であり続けた(70年代の宣伝戦略は大方的を外れた)。

それはなにより,アルトマン自らが仕掛けた[扱い難さ」でもあったろう。彼の創作はジャンルからジャンルへの横断であり、加えて、映画会社から別の映画会社へと転々とする流れ者的な性格をも併せ持つものだった。人を煙に巻くことを楽しみ、余裕しゃくしゃくで、シニカルでかつ流動的な語り口は、カテゴライズ化を拒んでいる。だから例えば、ビデオレンタル店においてもてんでバラバラなカテゴライズのコーナーに置かれている。発見するのに一苦労というより、レンタルブームの80年代にはほとんど誰も探してなかったかもしれない。少なくとも日本のレンタル店における存在感はまるでなかったのであり、大抵、置いてすらいなかった。とはいえ、僕にとっては、だからこその魅力で、そんな彼の作品を追いかけることが楽しくて仕方がなかった。あまりにも乱脈なフィルモグラフィとその奇妙な語り口ゆえ、簡単に分かった気になれないが、そんなところがまたたまらなかった。もっとも、これは倒錯した楽しみ方で、あくまでも一般的じゃない。日本の映画ファンにとってのアルトマンは「聞いたこともない」か「聞いたことはあるがよく分からない」監督で、メジャーでもカルトでもない、マイナー以下の存在だったのである。批評家とて同様で、個々の作品評は出ても、全体像を捉えるような論考は(一部の試みはあっても)ほぼ出てこなかった(そもそも未公開作が多く全体を観ることが困難だった)。
映画評論家の山田宏一など『ウエディング』のあまりの客入りの悪さ(初日一回目の動員人数三人!)に苦言を呈し、「それだったら僕がガイドやろう、サンドイッチマンやった方がいいと思ったのね」と語っていたが、ともかく少なくとも日本の興行界は「ロバート・アルトマン」の異能に手を焼き、その認知を広めることに難儀してきたのだ。



そんなアルトマンのつくる映画がそれほどに難しかといえば、必ずしもそういうわけでもないのだが、にも関わらずこういうことになってきたのは、彼の作法が「売り」を明確に打ち出す「通常のハリウッド映画」は異なり、どこかポイントを外した見慣れない語り口を持っていたからである。アルトマンは映画をより抽象化することに熱心で、そのための新話法や新技術の開発もするから、仮にそれを「おもしろく」感じたとしても、未体験の人にうまく伝えることが困難で、結果うまく広まらなかった。この「困難」は今度の「ドキュメンタリー映画」にも見て取れる。劇中でかつての仲間や友人たちが「アルトマンらしさ」を尋ねられて答える。彼らに課せられた任務はアルトマンを「ひと言」に要約して語ることだが、皆、精一杯の笑顔をつくりつつもどこか表情が強張っている。少なくとも僕にはそう見えたが、そもそもアルトマンを要約するのは不可能なのだから、多少なり「強張って」もらわないことには困るというものである。「発言」は見事バラバラだが、監督のロン・マンが、彼らの「強張り」の中から「アルトマン」の核心を引き出そうとしたのだとすれば、かなりの曲者と言える。

アルトマンが生涯に発表した作品の一つ一つは、個々の世界を様々に描いて一貫性がないが、ほぼ「アメリカ」を描くことで一貫しており、その究極的な主題は「生の人間の姿」を描くことにあった。では、彼はどんな人間の姿を描いてきたのか? 「自らのイメージに翻弄されて生きる人々の姿」である。アルトマンの「映画」は「捏造されたイメージ」と「真実を映す鏡=イメージ」を一まとめにぶち込んだサラダボウルであり、それこそが「アメリカ」そのものの姿でもあるわけだ。70年代に彼は「捏造されたイメージ」の元凶を「ハリウッド映画」に定め、過去そこに描かれてきた「アメリカの文化」「アメリカの社会」「アメリカの歴史」を丸裸にすることで、他ならぬ「彼のアメリカ」を浮き彫りにしてみせた。「アメリカ・コーポレーション」が国民に売り込むありとあらゆる嘘のイメージ=プロパガンダに洗脳され、妄信する人々の悲喜劇。アメリカ文化を映し出す「鏡」としての「アルトマン映画」は、いわば硬直化した意識のマッサージだった。ことに『ナッシュビル』『ショートカッツ』などの代表作で彼は、自らの眼に映る特定の社会における固有の現象を取り上げ、それを斜めから切り裂きながら、最終的なには巨視的な視点から抱き上げることによって、いつどこの人間にも普遍の善性と悪性をまるごと浮かび上がらせることに成功。それは観る者を砂糖菓子の夢で前後不覚にする「ハリウッド映画」とは似て非なる構造を持っていた。アルトマンは生涯にわたって自らの歌を歌い続けたが、同時に映画はいまよりもずっと素晴らしい表現になり得ると考え、よく次のような言い方をした。

「偉大な映画というものは、いまだ作られていない」「ぼくは、映画のフォーマットはまだ見つかっていないと思ってる。依然として文学とか演劇なんかの模倣をしているだけでね。映画というものは、人間がしゃべってるのを写すだけのものだとは思わないんだ。映画は、うんと抽象的にも印象的にも錯綜的にもなる。映画で�ムード�を作りだしさえすれば、なによりインパクトを持つことになるだろう。問題はムードだよ」
(山田順子訳より)

「私にとって完璧な映画とは、人々が映画館から出てきて、「わぁ、すごく良かった!」と言いながらも、それについてひと言も語れないような映画のことである」

「私には人に伝えたいことは何もない。哲学も持っていない。私がしたことは絵を描いてそれを見せてあげることだ。それは砂の城に似ている。いつかは消えていくものだ」

(今野雄二訳より)



アルトマンは映画を現行を決まりきった形式の中から外へ出すためには手段を選ばず、衝突を厭わなかった。人間観察のプロフェッショナルであり、一流のアーティストだった彼は、それゆえ小市民的な守りの姿勢とは無縁で、世間並みの成功・不成功など無視して、平気な顔をして――人にはそう見える――駄作・凡作をつくることもあったが、いずれも新たな試みが見られないことはなかった。ときにそれが成功すると、映画の見方や、人間の見方、社会の見方を揺さぶり、変化をさせて、そのうちのいくつかは映画史にその名を刻むこととなった。

1975年の『ナッシュビル』は、長い下積みを経て『M★A★S★H』の成功で「寵児」となり、『バード★シット』『ギャンブラー』『イメージス』『ロング・グッドバイ』『ボウイ&キーチ』『ジャックポット』と異色作を休むことなく連打。しかし興行的な成功にいたらず、市場での価値が下がり、評価があいまいになってきたところに登場した革新的な作品であり、彼のエネルギーが頂点に達した最高作である。

「ローリングストーン」誌で記者クリス・ホーデンフォートは、当時、それ以前の「アルトマン的状況」をうまく要約しているので、ちょっと長くなるが引用する。

 アルトマンは大手の映画会社数社で仕事をしたが、会社の幹部連中は、アルトマンの作品をどのように売り出せばよいのかわからなくなると、気むずかしくなってしまった。幹部たちには、アルトマンは異才であるということしかわからなかったからだ。最近の映画は、エピソードが多くて、順を追って展開していかない。したがって、クラシックな性分ではなくて、激情的なストーリーテラーの性格が要求されている。しかもプロットは重視されない。こういう映画の作り方には、まだ名称すら与えられていない。だが、わたしとしては、たとえば新シュールリアリズムなどというような批評の仕方はしたくない。
 新聞などにおけるアルトマンの評判は二通りに分かれる。ポーリン・ケールの典型的に『ニューヨーカー』(雑誌名)調の解説では、アルトマンは、「無意識のきわで仕事をしている……なぜそうするかなどと自問するのではなく、直観を信じている……芸術家」としてのフォークナーにたとえられることになる。これに対して、レックス・リードやジョイス・ハーパーのようなコラムニストの手にかかると、アルトマンの最高に洗練された四文字言葉(一般に卑猥な言葉を指す)がほとばしる映画も、型にはまった扱いのせいで破壊されてしまうのだ


こう前置きしたあとアルトマンへのインタビューが続いて、最後をこう締めくくる。

 わたしが最近アルトマンに会ったのは、ワシントンDCでのプレミアショーでだった。ネイビーブルーのスーツ姿のアルトマンは、ジョージ・マクガバンやサージェント・シュリバー、ロン・ネルソン等と握手を交わしていた。わたしの前には、有名な一族の青年が座っていた。R・F・ケネディの息子、ミカエル・ケネディだ。髪の毛で顔が半分ぐらい隠れている。しかし、死、吐き気のする事件、ぞっとするような個人的決断の場面になると、ケネディの顔色は変わり、青ざめた。彼はすぐに姿を消した。ジョージ・マクガバンとエリノア・マクガバンは夜の闇の中を歩いて行った。彼にはつらい日であり、映画のせいで孤独な気分になったようだ。
 「意気があがったとは、とても言えないね。あの映画は悲劇と喜劇の両方だ。70年代のわれわれの生活の良いドラマと辛辣な状況とをうまく描いているよ。この国の魂をえぐりだして、しかも何の答えもないままで終わっている」

※「ジョージ・マクガバン」は、当時の大統領ニクソンの対抗馬として知られた。アルトマンは「ニクソン嫌い」で、マクガバンが選挙で敗れたことを知り、その「怒り」から『ナッシュビル』を制作した。

『ナッシュビル』はアルトマン映画の中でもことに政治色の濃厚な作品である。記者がまとめた作品を取り巻いていた時代状況を要約すれば「混乱」と「疲弊」だ。当時アメリカ社会は、ベトナム戦争や石油危機など泥沼に足を突っ込み大きな曲がり角に立っていた。新しい価値と古い価値、台頭する者と退場する者、正気と狂気、その境目が曖昧になっていった。2015年日本の社会的・個人的な状況もまったく混乱の極みにあるが、にもかかわらず時間は、怠惰に、いつもどおり進行していく。大きな時間の流れのなかで人々はあまりにも小さく、なんとかやり過ごしながら日常の問題の中に埋れて、感覚を麻痺させていく。しかし、アルトマンの「正気」は、そんな混沌とした営みの中にこそ創作のエネルギー源を見い出し、かつてない映画を生みだして頂点に到達したのである。

とはいえアルトマン映画は「時代性」にとどまるものではなく、そこに描かれる「人の営み」には普遍性があり、だからこそいまも観る者に突き刺さるのである。アルトマンは様々な時代のアメリカを描いてきたが、そこに登場する人々はいつでも愚かだったし、滑稽で、なにか大きな勘違いしているように見える。彼にとって人はいつの時代でも「同じ」なのであり、成長することのない生き物なのかもしれない。

   

ドキュメンタリー映画『ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』は、そんな彼の仕事、誇り、見識、尽きぬアイデアと大いなる家族主義を垣間見せてくれる作品である。彼のあの眼に映った世界を、彼自身のインタビューとスターたちの証言を通じて知ることの出来るような快活な仕上がりである。監督はロン・マン。50~70年代のサブカルチャーを「今」に残し伝えるドキュメンタリー作家であり、ここでは、アルトマンの妻、キャサリン夫人の協力を得て、業界きってのひねくれ者として知られた彼の軌跡とともにその大らかな素顔を紹介している。彼の父性に目を惹きつけられるが、同時期に公開される『サム・ペキンパー』のドキュメンタリー映画が、アルトマン同様、業界の異端児として暴れたペキンパーの美点と共に欠点を、痛ましいほどに伝えて、立体的な人物論になっているのに比べ、『アルトマン』は「いい人物」の「いいお話」に終始しているように見えてしまうかもしれない。しかしロン・マンは、「異端児」「変人」「問題児」のレッテルを貼られてきたアルトマンの一方の魅力だった「大らかな独立精神」をこそ、むしろ伝えるべきだと考えたのだろう。

そう理解した上であえて書いておくと、アルトマンのアーティストとしての面白さが、その「はねっ返り」と「人の悪さ」にこそあったことも事実なのだ。劇中、「アメリカの神話を破壊していると見えるようだが、私は自分に見えることを映画にしているだけ。この国を愛している」というようなことを語る場面があり、油断すると感動してしまいそうになるだが、これは、90年代の「ローリング・ストーン」誌に語った、「わたしはむしろ……破壊的だと思う。革命的ではないが、破壊的だ」「(自分が破壊しているのは)決まった考え方だ。固定したテーゼ。陳腐さ。これはこれだ、と言うもの。戒律。意見。そういう類のものだ。私が言ってるのは、そんなのは真実じゃない。それは真実だけど、そうじゃないんだ」、という発言と合わせて受け取るべき言葉であると思う。

アルトマンが――こと70年代に――「神話破壊」に勤しんでいたことは紛れもない事実であり、その「意地の悪い」な異端性が、多くの観客や批評家を戸惑わせたのだ。『M★A★S★H』では当時ベトナム戦略を進めていた軍隊機構を、『BIRD★SHT』ではアメリカの飛翔願望を、『ギャンブラー』では西部の神話を、『ロング・グッドバイ』ではハードボイルドを、『ボウイ&キーチ』では大恐慌時代のギャングを、『ナッシュビル』では南部のカントリー&ウエスタンと政治の癒着を、『ビッグ・アメリカン』ではアメリカン・ショウビジネスの源流を暴き、長らく一線から遠のいた時期があるが、『ザ・プレイヤー』ではハリウッドを通じた資本主義社会の行き着く先の精神的退廃を暴いて復帰を果たした。ゆえに「反アメリカ的作家」として説明されることが多いわけだ。しかしそう短絡してしまうと乱暴に過ぎる。アルトマンはそう単純に括れる人物ではない。お国柄の象徴を取り上げ、検証し、からかい、大いに笑いのめす、その「不遜さ」や「破壊性」は、実は彼の「愛」から生まれたもので、しかもそれが「傷つき、屈折した愛」であるという点を見逃したくないものだ。

だから「見えることを映画にしているだけ」という言葉を、アルトマンの「素直さ」のあらわれと捉えてしまうと「ズレ」てしまうし、あの多面体の屈折が一向に見えてこない(「素直なだけのアルトマン」など面白いだろうか?)。その言葉の裏には「別に見たままを描いただけだが?」というアルトマン的な居直りの態度と現実凝視な眼が光っているであり、だからこそ「はねっかえり」なのだ。

とにかく、「「わぁ、すごく良かった!」と言いながらも、ひと言も語れない映画」を目指し、一般的な意味での「素直な映画」からは程遠い「ひねくれて真っ直ぐな映画」ばかり作り続けて、80年代にはそのはねっかえりが祟って、ついにアメリカ映画業界を干され、フランスへ渡り、暗黒時代を過ごすこととなったが、何故ペキンパーと違って復帰することができたのか? 
反骨のアーティスト・アルトマンの最大の美徳たる「人の悪さ」を支えた最大の武器は自らをも笑いとばせる「ユーモア精神」。そしていまひとつの美徳が、キャサリン夫人や仲間たちがよく知るところの「家族主義」と「大いなる包容力」だったのである。

 

後者を強調して幸福感を横溢させるロン・マン監督作『ロバート・アルトマン ハリウッドにもっとも愛され、憎まれた男』は、いささか「幸福過ぎる」作品であり、楽しく、それゆえ簡単に「分かった気にさせてしまう」作品であるが、アルトマンはそう「分かりやすい人物」であるはずもないわけで、当たり前のことだがドキュメンタリーもまた真実のすべてではなく、多面体の一面、事実の一断片に過ぎないのである。

ロン・マン監督はここで、「反骨のアウトロー・アルトマン」という、これまで語られてきたステレオタイプの「伝説」に別の光を当てて解体し、誰もが理解し、愛することのできる「実像」を描き出して、あらためて「伝説化」する。では、脱神話・脱伝説の権化たるはねっ帰りアルトマンは、自らが「偶像視」され、その人生が「伝説化」していくことをどのように思うのだろうか。

60年代の偶像破壊者だったジャン=リュック・ゴダールは「ローリングストーン」誌から「あなたも、一種の、伝説になったのじゃないでしょうか」と問われ、「ほとんどの人が、ぼくのことを、ただ名前だけ知っていたり、本なんかを通じて知っているだけではないかのかな。だから、伝説、なんて見方も出て来るのだ。ぼくやトリュフォーみたいな監督は、伝説と戦うところから始めなきゃならない」と答えたことがある。そして取材者の「たいての人が、伝説になりたがるんですが」との問いに、「それはこっけいだよ。ぼくはいまだに、そいつと戦いたい。これがたぶん、他の映画作家とぼくとの違いだろう。伝説であるよりは、それと戦う方が楽しいよ。ぼくの伝説は、伝説と戦う人物、という伝説だ!」と返答した。

アルトマンならどう答えるだろう。先にも書いた記者デヴィッド・プレスキンが、アルトマンへのインタビューのなかで「では気味悪いことをやりましょう――あなたの墓碑名を書いてください。ボブ・アルトマンにふさわしい倒錯でしょう。あなたの功績は?」と尋ねるくだりがある。アルトマンの返答はこうだ。
「わからないな。なんと書かれても満足できないだろう。必ずまちがってるよ。何を言われるにしても間違っている。だけど、まあかまわんよ。たいして気にもならないし、なんにしても、たいした違いはないだろう。みんな過ぎ去ること、何ひとつとどめてはおけない」。また、「あなたはもっとも拍手を受けるものこそが真実だと思いますか?」との問いには、「いや、思わない。真実だとは思うが――だけど真実の一面に過ぎない」と返答している。

本作の後半に登場する感動的なアルトマンのアカデミー名誉賞受賞スピーチ。満場の拍手に包まれ、ついにアルトマンが「殿堂入り」を果たした瞬間――というより、これはかの反逆者が「ハリウッド伝説」の一部となることを受け入れた瞬間だった。ある種の和解が成立したわけで、素直に感動して構わないのだが、それと同時に、僕はアルトマンがかつて語ったとある発言を思い出してしまう。アルトマンは自作『ビッグ・アメリカン』で西部の英雄バッファロー・ビルの「伝説」をコテンパンに破壊したことがある。が、そんな自らをバッファロー・ビルになぞらえて次のように語っていた。
「わたしはバッファロー・ビルに似ているからだ。そしてバントラインはバッファロー・ビルを発明したんだ。だが彼はバッファロー・ビルを批判する。(筆者註:バッファーロー・ビルはバントラインのもとを離れ)出かけてったくせに、自分が何を追っているのかわからなかったからだ」「彼はたいていの悲しいキャラクターに似ている。バッファロー・ビルはとても特別だ。とても特別なんだ。わがバッファロー・ビル」
謎めいた言葉を受けてプレスキンはさらに問う。
「なぜバッファロー・ビルは悲しく、なぜあなたは悲しいのですか? これが最後の質問です」
アルトマンは続ける。
「彼は哀れな、彼は悲しい人間だ、なぜなら彼は……彼はある種……彼は作りあげられた人間で、自分の伝説を信じはじめる。真実じゃないってわかってるのに。だからそのあとは、その真実を逃してしなったから、彼はますます悪くなっていく。彼はある種悲しいキャラクターだ。だけど、それは自分で伝説に荷担するからなんだ――インタビューに答えて。そのあいだずっと、真実は知っているのに」


アルトマンは屈折している。深いところで屈折してしまった人間だけが持つ愛想の良さがある。これに比して、ロン・マンのドキュメンタリー映画は屈託がなく、率先して新たな「伝説化」の作業に荷担していると言っていい。アルトマンの「温かなプライベート」を提示することで「一匹狼」のペルソナを引き剥がし、新たなペルソナを貼り付け、「伝説化」に勤しんでいる。アルトマン的には「それは真実だとは思うが――だけど真実の一面に過ぎない」のだが、もっとも、本作はあくまで「アルトマンの死後、ロン・マン監督とアルトマンの妻キャサリンによって」作られたオマージュで、つまり彼らの手になる「アルトマンの墓碑銘」のようなものだ。
同時に、アルトマン自身がその人生のなかで歩んできた道筋、残した作品、発言、妻や友人や世間との付き合いのなかで見せたちょっとした態度にいたるすべてが「痕跡」となって――彼の肉体が消滅したいまも――「伝説に荷担」しているのだ、と見ることもできるわけで、「伝説にたる人生」「伝説にたる仕事」とはそういうものなのかもしれない。

とにかく忘れてはならないのは、本作は「アルトマンの活動と人生」を追うドキュメンタリー映画で、「アルトマンの芸術」(エンターテインメントでも構わない)やその世界観を検証すべく作られてはいないということだ。人は何故芸術をつくりたがるのだろうか。アルトマンは映画づくりにこだわり、その人生の大半をアーティストとして貫いた。自らの五感がとらえるあらゆる感情を表現したいと欲し、その為の闘いにあけくれ、躊躇することのなかった戦士は、しかし――戦士ゆえに――そう簡単に自らの正体をつかませることがなかった。ドキュメンタリーが示すあの大らかで魅力的な人物が、奥底に抱えていただろう屈折の核心=真実に迫る作業は、まだこれからなのだろう。

とにかく、あきらめかけていた本作の日本公開が実現し、時ならぬ注目を集めてることが、多少のこそばゆさとともに嬉しい。少なくとも僕にとっては、本作は「思いがけないプレゼント」だったのである。(渡部幻)

 

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『ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』 アルトマンのドキュメンタリー

2015-04-27 | ロバート・アルトマン


ロバート・アルトマンのドキュメンタリー映画が秋に公開。嬉しい。
映画ばかり見ながら過ごしてきたけど、
結局のところ、アルトマンが一番好きな映画監督なのであった。

『70年代アメリカ映画100』は、実はかなりの部分、アルトマンを軸に構成された本だったのだが、
というのも、彼こそ70年代的な態度や姿勢を体現し、貫いた監督であり作品群だったと思えたからである。

アルトマンは同時代の最も革新的なアメリカ監督であり、彼の手になるとあらゆるジャンルの、演技、脚本、撮影、編集など全ての要素が、巧みに従来の作法から「ずらされ」ていった。
彼は、アメリカの映画文化を批評的に扱いながら、アメリカとそこに暮らす人々の振る舞いを白日のもとにさらして、心からうんざりしつつも、同時に愛していたと思う。このアンビバレンツこそ信じられるものであったし、いまもなお信じられるものだと思うのである。

追記
作品評はこちら

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アルトマン『バード★シット」』のリバイバル上映 これを観ないとカルトは語れない!

2010-06-28 | ロバート・アルトマン


 ロバート・アルトマンの『バード★シット』とハル・アシュビーの『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』が新宿武蔵野館でリバイバル上映される。こんな日がいつかやって来ると信じてどれほど待ち望んだだろうか。

 『バード★シット』は異色作揃いの70年代アメリカ映画のなかでもひときわ異色なロバート・アルトマンの代表作である。知る人ぞ知るカルト・ムービーなのだ。主演はバット・コートとシェリー・デヴァル、アメリカを脱出して空を自由に飛び回ろうとする少年のブラック・コメディである。
 映画は冒頭から珍妙。変な鳥類学者(ルネ・オーベルジョノア)が登場し、生徒(観客)に向かって講義を始める。

 「鳥は空を飛び、人も空を飛ぶ。人は鳥に近く、鳥は人に近い。これがテーマだ。これから約一時間論じるつもりだが結論は出すまい。さもなくば興味は色あせ、残り少ない夢が、また一つ消えることになる。ドイツの詩人ゲーテの言葉を引こう。彼は空への憧れをこう表現した。“無限の空間に身を投げ出し奈落の上を漂いたい”。人間は最も進化した生き物だが、重力にとらわれて鳥のようには飛べない。空を飛びたいという欲求は昔から人間の中にあった。だが夢の実現は遠い。人間は本当に夢を理解しているのか。まず夢の正体をはっきりさせよう。空を飛ぶことが夢なのか。空を飛ぶことで自由を獲得することが夢なのか?

 ここでアルトマン映画の重要テーマたる「夢」について言及される。アルトマンの作品にはよく「夢」や「幻想」などが描かれる。それは大抵、人物が自らの中で飼いならしている妄執に過ぎないが、それを育ませる国家、政治もしくは文化の正体を見定め、笑殺しながら、他ならぬ彼自身の「夢や幻想」をも突き放して「異化」してしまう。『バード★シット』はオープニングでこれは「そういう」映画なのだと宣言しているわけだ。
 教授は講義を次のように締めくくる。

 「人間は深刻な環境破壊で鳥たちの生命を脅かし、鳥は糞尿によって人間を悩ませる。いずれ広大な保護施設を建設する必要があるだろう。人間と鳥の両方を守るためだ。それでも状況次第で、人間が鳥を受け入れるか排除するかは変わるだろう
 
 アルトマンはテキサス州ヒューストンにあるアストロドームの外観を映し出し、続いて、高台にのった星条旗色のドレスに身を包んだ中年女性が、黒人たちのバックバンドを前に「音程のずれた」国家を歌っている。ヒューストンは宇宙開発のメッカ、つまり人類の飛翔の夢の行き着いた場所である。主人公のブリュースター・マクロードはここのアストロドームの一室に隠れて「巨大な翼」をつくっているのだ。 

 


 僕が本作の存在を知ったのは小学5年生のころ。母に友人夫婦宅に連れられて旦那さんから教えられたのであった。映画と音楽が好きなデザイナーの旦那さんは遊びに行くといつも様々な映画のレーザーディスク(LD)やビデオ(ベータ)を見せてくれたが、この日はパンフレットのコレクションも見せてくれた。その中からひとつ取りだし指し示したのが『バード★シット』だったのだ。タイトルは古い映画雑誌で知っていたが詳しくは知らない。だが、一目見てそのビジュアルに惹かれた。パンフの表紙には丸めがねにラガーシャツの少年が羽をつけて飛んでいて、背景に女性の豊満なバストがあしらわれていた。僕の食い入るような様子に旦那さんは微笑み、こう話し出した。「“バード・シット”は“鳥の糞”という意味。鳥のように飛びたい少年が出てくる。それを邪魔する人が出てくるたびに全員殺されてしまう。するとその死体の上に鳥の糞が落っこちてくる。これがとにかく可笑しくてしょうがない」。ニコニコしながら台所にいる奥さんに向かって「なあ、そうだよな?」と声をかける。奥さんは「でも、アルトマンってちょっと怖いじゃない。頭がヘンみたい」。旦那さんは無視して僕に聞いた「これ欲しいかい?」。うなずくともったいをつけた表情で「う~ん、でもなあ、これは大切にしてるからなあ。そうだ、代わりにこれをあげるよ」と言って、なぜか、ロバート・アルドリッチの『ハッスル』をくれたのだった。

 


 それからずっと『バード★シット』が気になって仕方なかった。これを見ないと「映画ファンといえないのじゃないか?」――そう思いつめていたが、名画座にかからず、ビデオ発売もなかった。そして数年経ったある日、当時付き合っていた彼女から「あのパンフレット」をプレゼントされたのである。「作品解説」には次のように説明する。

 「これは、『マッシュ』のロバート・アルトマン監督が、もちまえの奇才ぶりを思う存分に発揮し、「最も独創的で、型破りで、しかも不思議な魅力を持ち、何よりも大いに楽しめる」と評されている作品である。ストーリーはむしろ簡単である。鳥のように自分の力で飛翔したい一心から、ヒューストンの屋内野球場の地下の一室に巣食って、翼を作り、腕の筋肉を鍛錬する一方、その目的の邪魔になる人物を次々に消してゆく話である。だが、この話の軸が回転するにつれ、人間や人間社会への諷刺、ユーモア、パロディ、皮肉、幻想的な狂気、無法、笑い、セックス、アクションなどが、まるで期間銃弾のようにバラバラバラバラはじき出される。ほんとに普通のコメディ1ダース分たっぷりの材料だ! 初めは、あまり考えすぎないように、しばらくの間は、映画に慣れるだけ、それからは自分の好きなように見るとよい。ある批評家がこう言っているが、今までに見たこともないような新しい、楽しい映画である。

   

 同様にプレゼントされた公開時のチラシには「海外での批評」が並ぶ。

 最高に創意に富み、破壊的で無法、不思議な魅力を持つ、スリリングなコメディ。――ニューズデイ
 想像力の勝利。1930年代の素晴らしい型破りのコメディ以来、最も自由で、荒々しく、こっけいな、現代社会の批判だ。――ニューズウィーク


 見たい。しかしどうすることもできない。『ザ・プレイヤー』で復活する以前のことで「アルトマン」は忘れられたも同然の存在だった。彼は80年の『ポパイ』でハリウッドから干されていて以降フランスのパリに渡り、細々と映画を作り続けていた。日本でも数本の作品が公開されているが、話題にならなかった。そもそも日本ではむかしからマイナーな監督だったからビデオ化のニーズがなかったのである(「実は」好きだったと「通たち」が騒ぎ出すのはあとのことだ)。


 1972年公開時の「映画批評」誌に評論家の由良君美氏が『バード★シット』論を寄稿している。
 ここで由良は一風変わった形式――「仮想対談形式」を採用して、本作の原題『Brewster McCloud』の意味について「仮想の生徒」に説明する。

A 原題はBrewster McCloudというのね、主人公の男の子の名前。邦題がBird★sht。
B そうだった。BrewsterというのはBrew-starの謎語だろうから、<星を醸成する者>ということかな。McCloudの<マック>というのは諷刺の常套でね……。
A あ、それでドライデンの「マック・フレクノー」なんかのことを、ひきあいにだしたのね?
B ハハ、見抜かれたか。そうなんだ。<マック>はね、<子供><息子><二世><二番煎じ><一代目に及ばざる者>の接頭語なんだ。人名によくあるが、諷刺のときにはこの意味で使って、棚おろしをやるわけさ。だから、<マック・クラウド>は<雲に及ばざる者>ということになる。とうとう鳥になれなかった男の子だから。





 僕が「ついに」見たのは90年代の中頃。アメリカでノートリミング版のLDが発売されたのだ。かつて渋谷に「ディスク&ギャラリー」という輸入レーザーディスク専門店があったのだが、そこで「発見」したときの興奮たるや忘れがたいものがある。
 家に帰ると着替える間も惜しんでデッキに挿入。それは噂に違わぬ超異色の映画だった。この作品と同じ1971年には寺山修司監督の『書を捨てよ町へ出よう』がある。これにも「人力飛行機で飛ぼうとする男」が登場し、『バード★シット』との共通に思いを馳せたが、しかし、寺山演出が「前衛演劇的」なのに比べ、アルトマンのそれは「B級映画的」でカラフルなおもちゃ箱をひっくり返したかのようなポップアートだった。LDの「画質」には不満が残ったが、欲を出してはいけない。見れただけで大した進歩なのである(「MGM/UA」のソフトはいつも画質が荒かったのだ)。
 ただ、これは劇場の大きなスクリーンで見たくなるような作品である。アメリカ国旗を想起させる原色の洪水、ロングショットを活かした構図と「外し」の美学、アルトマンのクレイジーな想像力が横溢する世界観を十分に堪能にすためには、家のテレビモニターではいかにも小さく、発色もいまひとつだったのである。


 2007年。ロバート・アルトマンが逝った。この年「ぴあフィルムフェスティヴァル」がアルトマンの「レトロスペクティブ」を開催。このとき、僕は遂に「本物」と出会ったのである。開催地は渋谷の東邦生命ビル内にある渋谷東急。ここの大きなスクリーンに展開するシネマスコープ、映像空間を乱れ飛ぶ原色、ぶつ切りのサウンドトラックとブラックユーモアが「アメリカの夢」を異化していくさまのエネルギーは圧巻である。アルトマンは「現代アメリカ」における「自由の失墜」を笑いのめし、そして嘆いていた。僕は我を忘れて食い入るように見ていたが、やがて伝説的なクライマックス――サーカス・エンディング――を迎えていく。すべてを失い孤独のなかで少年は翼を背負うとついに飛びたつ。だが、そこは屋根つきのアメリカ、あの「アストロドーム」の中でしかないのだ。
 冒頭の教授のあらぶる声が重なる。

 「人間のどん欲な心は欠陥のある体に追い立てられて洗練された機械を生み出すだろう。だが決して自由に飛ぶことはできまい。鳥は何百年もの長い年月をかけて空を飛ぶために自らの体を進化させてきたのだ!クワァー!

 やがて落下していくときの「叫び声」が耳を離れない。これはいわゆる同時代のニューシネマが描いた自由に対する明らかな当てこすりだったが、その「冷たさ」が「心地いい」のだ。アルトマン演出は冷酷かつ滑稽だが、同時に、ひどく切なくて心優しいのである。

 


 ブルースターに彼を「守護する者であるルイーズは問いかける。

ルイーズ 「考えたことない?
ブルースター 「何を?
ルイーズ 「女の子とかセックスよ
ブルースター「ホープと話したの? 彼女にも同じことを聞かれた

 ルイーズ(サリー・ケラーマン)は彼を子供のように風呂に入れてやる。彼女は鳥の化身であり、ブルースターの純粋を汚す「メス」としてのホープ(シェリー・デュヴァル)を警戒している。

ブルーター「なぜホープの話を?
ルイーズ 「あなたを巻き込んでる
ブルースター 「何に
ルイーズ 「セックス
ブルースター 「ホープが言ったの?
ルイーズ 「あの子は命令に従う。自由を知らない。可能性も考えない……セックスが一番近いの」
ブルースター 「飛ぶことに
ルイーズ 「そう飛ぶことにね
ブルースター 「飛べばいい
ルイーズ 「最初は飛びたがるわ。でも変わるのよ。どんどん地上に近づき、セックスで満足する。そして仲間を増やすのよ。誘惑されないで。あなたは仕事に集中するの
ブルースター 「君の助けが必要だ
ルイーズ 「私はつねにそばにいる。あなたが飛び立つまでね

 彼女は微笑み、そして子守唄を歌いはじめる。
 お眠り 赤ちゃん 木のてっぺんで
 風が吹けばゆりかごが揺れる
 枝が折れれば ゆりかごが落ちる
 赤ちゃんは地面にまっさかさま
 ゆりかごもろとも
 ……落ちる


(渡部幻)

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ヴィルモス・ジグモンドが撮影した1970年代のアメリカ映画

2010-02-01 | ロバート・アルトマン


「さすらいのカウボーイ」(1971)(ピーター・フォンダ監督)

「ロンググッドバイ」(1973)(ロバート・アルトマン監督)

「天国の門」(1980)(マイケル・チミノ監督)

ハンガリーからの亡命者ヴィルモス・ジグモンドは70年代アメリカ映画のルックを決定した名カメラマンだった。
ジグモンドは、淡く煙った色彩の向こう側に、遠いアメリカの現実と幻想を透かし見ていた。
それは、物哀しい夢の映像であり、どこまでも儚く、優しいものだった。


「スケアクロウ」(1973)(ジェリー・シャッツバーグ監督)

「ギャンブラー」(1971)(ロバート・アルトマン監督)

「未知との遭遇」(1977)(スティーブン・スピルバーグ監督)

「脱出」(1972)(ジョン・ブアマン監督)

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アルトマンが見た「三人の女」の白昼夢

2010-01-23 | ロバート・アルトマン




ある日、ロバート・アルトマンが見た“夢”は、映画「三人の女」(77)になった。
魅惑的な曖昧さを放つ本作は、このうえもなく不安定で、美しく、覚醒したまま陶酔させる稀有な映画だ。
アルトマンは、人間の振る舞いとそこから生まれる関係の奇妙を、パステル調の色彩の砂漠にさまよう三人の女たちの心理の揺らぎの中に観察する。そこに拡がるのは、遠い夏の思いでのように儚く、かさかさに乾きった終末的な御伽噺である。




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(その一)ロバート・アルトマンの平らな街の猫と犬 傑作『ロング・グッドバイ』

2009-08-25 | ロバート・アルトマン
 

(その一)


僕の今のところ一番好きなロバート・アルトマン作品は『ロング・グッドバイ』である。アルトマンの個性が非常によくあらわれていて、愉快でかつとても哀しい作品である。娯楽的であると同時に実験的で、ハードボイルドなのに柔らかく温もりがあり、しかし奥に70年代のアメリカ状況に対する鋭い棘を隠している。つまりアルトマン節に満ち満ちた傑作なのである。

初見は80何年かのテレビ放映だった。たるい雰囲気に酔いながら、しかし――とくに難解とも思えないのに――なにか漠然とした印象を持ったことも事実で、「本当の良さ」を一つ実感仕切れないでいたことも確かだ。かなりカットされたトリミング版の放送だったし、そもそも子供だったせいもあるだろうが、それはともかく奇妙な味を残す映画だったのである。

それから大分たった90年代初頭のある日、突然もう一度観たくなった。いくつかの場面(ネコの描写や、海辺の色彩、ラストの並木道)や俳優たち(エリオット・グールドやスターリング・ヘイドン)が忘れ難かったからで、それに、親から「あの映像の美しさは劇場で観なければ分からない」と言われ、常に心に引っ掛かっていたからである。レーザーディスクを発作的に購入して改めて鑑賞。驚いた。今度はすべての映像がスルスルと心に入り込んできて、そのあまりのすばらしさに、すっかり夢中になってしまった。僕がそれまでに観てきたすべての映画の中でも最も好きな作品の一本になって、突然、人が変わったようにアルトマン作品を探し求めてビデオ店を彷徨う日々が始まったのである。

一度目と二度目で最も大きかったのは、アルトマンという映画作家の「視点=眼差し」の存在を強く感じ取れた点だ。ここで言う「視点」とは大上段に構えたテーマやストーリーによるものではなく、より視覚的な要素――カメラワーク――によってもたらされるもので、目から沁み入り、体中をかけ廻り、心をかき乱した末に、それまでの認識や感覚を揺さぶるような、そんな感動であった。それまでにすでに観ていた他のアルトマン作品(『マッシュ』『ポパイ』『フール・フォア・ラブ』)とは段違いの衝撃で、本作の性質を思えば大げさのようだが、それは映画という表現の再発見であった。





アルトマン作品の映像的な特徴は、ズームイン、ズームアウトを繰り返す望遠カメラの不安定な動きと、霞がかったパステル調の色彩である。クッキリしたハリウッド風でもグラグラして焦点の定まらないアンダーグラウンド映画風でもない、アルトマン印のフラフラとホロ酔い加減の千鳥足風カメラワークが、現実からほんの少しだけ遊離したような感覚を観る者に与える。そんなアルトマン作品には、何というか、現実性の夢とでも言いたいと独特の浮遊感がある。半睡半醒の……遠いと同時に近く、近いと同時に遠い、そんな混沌として眼差しが、矛盾に満ちたこの世界を右往左往しつつ生きる人間たちをまるごと捉える。そんなアルトマンの視覚スタイルは、撮影監督が交代したり、時代が変わったとしても生涯貫徹された。

『ロング・グッドバイ』の撮影は、アルトマンが見出したヴィルモス・ジグモンドが担当している。同じくアルトマンの『イメージス』『ギャンブラー』の撮影も彼によるもので、この時期のアルトマンの「視点」を完璧に具象化した名カメラマンである。僕はアルトマン作品を観る前からのジグモンド・ファンで、たとえば、『脱出』(ジョン・ブアマン)『スケアクロウ』(ジェリー・シャッツバーグ)『続・激突!カージャック』(スティーブン・スピルバーグ)『ディアハンター』(マイケル・チミノ)『ミッドナイトクロス』(ブライアン・デ・パルマ)などに惚れ込んでいた。彼は、僕が10代の頃に夢中になった、70~80年代初頭のアメリカ映画の多くを撮影していたのである。








本作におけるアルトマンのカメラアイは、探偵フィリップ・マーロウが人々を見つめる眼差しに同調している。つまり、マーロウが常に人を見つているのに対し、見つめられている人々がマーロウ=アルトマンを見つめ返すことはない。

アルトマンの眼はつねに観察者に徹している。彼が人間や風景を観察するときに注目しているのは、多くの映画では切り落とされてしまうであろう枝葉の部分である。ハリウッドがその歴史の中で磨き上げてきたのは、ドラマ進行の効率を上げるべく細部を整理して可能な限りシンプルに纏め上げるストーリーテリングの技術である。その洗練が世界中の観客を虜にしてきたのだが、しかしアルトマンはその切り捨てられた無数の枝葉をあらためて一枚一枚拾い上げて「ストーリー」を語り直していった。アルトマンにとってはその枝葉の中にこそ彼の考える「世界の真実」があったのである。

そうした枝葉の集積からなるアルトマン作品は当然のごとく従来のアメリカ映画とは似て非なるものとなった。そんな彼の作品を観ることで多くの映画がいかに映像でものを考えるよりも、脚本に書かれた文字の映像化に腐心してきたのかに思い至ることができる。僕が、かつて彼の映画を観たときにひとつ理解出来なかったのも、つまりは僕の映画を観る目が“物語=書かれた文字”の従属し、映画の映像を「観察する眼」を持たなかったからなのである。

アルトマンの映像は一つの意味に収斂することを拒否する。無数の小さなエピソードを積み重ねることによって観る者の視点を拡散させる。彼の眼目は“大きな物語”の中から“小さな物語=細部”が生まれてくる様を見守ることにあり、そんな映画の有り様がこの世に存在することを僕は了解していなかった僕は、一貫した物語を見つけ出そうとやっきになり、無意識に困惑していた。アルトマンのこうした姿勢は“音響”に対しても貫かれ、いわゆる“雑音”が意識的に拾われてゆく。一見取るに足らない雑多な要素の集積からなる“アルトマン的世界”はひどくノイジーであり、ゆえに従来の映画からは逸脱しているのだ。しかし、その世界観に一度慣れると、それが僕たちの生きるこの世界ととても似通っていることに気付かされる。そのことの発見が僕の大きな喜びになったのである。


『ロング・グッドバイ』はそんなアルトマンの映像スタイルが非常に大きな効果をあげた作品である。パンとズームを繰り返すカメラはおっとりと彷徨い、その動きを片時も止めない。不透明なクローズアップが続くかと思うと、唐突にズームバックをはじめ、それがかなり離れた位置から撮られたものであることを暴露する。アルトマンのクローズアップは被写体のすぐ手前にカメラを置いたそれではない。つねに被写体から離れた位置から狙ったそれであり、ズームバックによって対象に対する距離感を強調するのである。

アルトマンのクローズアップは、たとえばカサヴェテス映画のそれのように被写体に寄り添うために用いられることはない。一定の距離が担保されているため、どこかクールな距離感を感じさせる。同時に、そのことがキューブリック映画のような「冷たさ」に繋がらない。彼のつかず離れずの眼差しには「温かみ」があるのである。

『ロング・グッドバイ』の映像の殆どがそんな覗き見的な視点から撮影されていると気づいたとき、僕は初めて“アルトマン映画”の魅力を理解した気になった。「遠くて近い」その眼差しはここで探偵マーロウの眼差し=視点であると同時に映画作家アルトマンの眼差し=視点であると気づいた。
ありとあらゆる対象を「遠くて近い」位置から眺めざるを得ないの人間が居るとすれば、それは何と孤独な存在であろう。アルトマンが、チャンドラーが創造した50年代の探偵マーロウを70年代に登場させて場違いな世界を右往左往させることで描いていたのは、「遠くて近い」宿命を背負わされた人間の眼から眺めた「70年代前半のアメリカ」の諸相であり、そこにアルトマン自身の戸惑いと孤独感と行き場のない怒りが混沌と二重写しになっているのだ。



探偵とは事件を発端に関係する人間と人間の間を彷徨い、つかず離れずの位置を保ちながら、その観察の眼の冴えによって、ついに真実に肉薄していく存在である。その意味において探偵と映画監督はともに「眼の人」である。
『ロング・グッドバイ』の物語が悲劇的なのは、探偵が調査する事件が彼の無二の親友によって引き起こされたものであったからだ。名探偵たるマーロウは「つかず離れずの位置」から事件の真相を明らかにし、場合によって裁かなければならないが、しかしマーロウという男が背負う宿命的な感傷が判断を鈍らせてしまう。

アルトマンは一人称で書かれたハードボイルド小説の映画化にあたり、つねにカメラの構図の中にマーロウを収め、彼が立ち会っている場面だけに限定して描いている。探偵マーロウが目撃した出来事は、監督アルトマンが目撃した出来事であり、つまりは観客が目撃するのも彼らが見たそれがすべてなのである。本作はハードボイルド小説の多くがそうであるように事件の謎解きに眼目があるわけではない。重視されるのは事件を軸とする不安定な人間関係であり、そこから浮かび上がるこの世界の諸相なのである。

マーロウとアルトマンは世界を遠い位置から観察し、時に望遠の眼でズームすると枝葉の一枚一枚に注目していく。それは人に限らず、事物や動物にいたるが、注目されたそれらが彼らの眼差しに気づくことはない。遠い位置にいる彼らに気づくことはなく、また、気にとめないが、しかしそのことが彼らを宿命的かつ絶対的な孤独へと追い詰めていくのだ。





ここで多用されるズームレンズの使用から感じられるのは、全てが遠くにあるようで、同時に身近にあるような奇妙な感覚である。

アルトマン映画に登場する人物たちの多くは、皆、他人に関心を持たない。自分のことしか考えておらず、その心は刻々と移ろい続ける。ここで変わらないのはマーロウだけである。マーロウは彼が出会う人間たちに対し一定の距離を保っている。それは探偵として欠くべからず資質であり才能であるはずだが、しかし彼の場合、優しすぎるほど優しいのだ。マーロウがすべての人々を見つめているのは、見つめ観察することによって事件の真相に迫るためだが、にしては心優しすぎる。マーロウだけが他者に関心を持ち続け、その性格が彼を孤独の道化に仕立てていく。アルトマンのフラフラと彷徨い続けるカメラワークは、ここで道化の観察者としてもマーロウでありアルトマンその人と同化しているが、同時に、移ろい続ける人々の心模様を反映してもいるのである。

アルトマンは望遠レンズする。望遠は近景と遠景を圧縮し、距離を破壊する性質を持つ。彼の作品の画面がすべて平面的なのはそのせいである。本作は、ロサンゼルスという「平らな街」を背景とし、奥行きを欠いて平面化した人間関係を描いているが、その感性と主題はそのままのちにやはりロスを背景にした『ザ・プレイヤー』『ショートカッツ』へと引き継がれている。

アルトマン映画に独特のマリファナでとろけた寝ぼけ眼でこの世を眺めてるかのような奇妙な幽体離脱的感覚がユニークで、しかしとろけながらもどこか覚醒した自己批評性を失わないところがまた特異である。そしてこの寝ぼけ眼と覚醒の同居は、『ロング・グッドバイ』の伝説的なオープニングシーン――フィリップ・マーロウの目覚めから始まる――に呼応し、これも高名なラストの並木道とハーモニカ演奏にいたるまで貫かれ、本作をまこと異色なチャンドラー小説の映画化にしているのである。





映画は名曲「フレー・フォー・ハリウッド」の一部が流れ出して始まり、そのメロディに重なるように壁にかけられた「ハリウッド地図」が映しだされる。曲がジャズ・ピアノに変わるとそのまま右にパンするカメラがマーロウの寝室を映し出す。ネクタイをつけたまま眠りこけているマーロウのみすぼらしい姿はすでに原作に描写されたマーロウ像やかつてハンフリー・ボガートが演じたマーロウ像とは似ても似つかない。飼い猫が入ってきて、無理矢理に起こされた彼は驚いて時計を見る。まだ深夜だが、愛猫は腹が減っているのだ。仕方なく起き上がりタバコに火をつける。壁はブックマッチを擦った跡で傷だらけだ。台所に向かうが、猫の大好きなカリー印の缶詰がない。ピーナッツバターで即席の夜食を作ってやったが食べようとしない。ブツクサ文句を呟きながらも観念して買い物に出かけようとすると、隣人の女の子たちから「ブラウニー・ミックスを買ってきて欲しい」と頼まれて引き受け、「やさしいのね」とおだてられると、「探偵だからね……ま、どうでもいいけど」と独り言のように答える。クラッシック・カーに乗りこみ深夜営業のスーパーへ。しかし沢山ありすぎて分からない。黒人の店員に尋ねると「猫の缶詰なんてどれも一緒だ」。マーロウが「猫をしらないな」と反論すると店員は「猫より女の方がいい」と口答えする。



これからハードボイルド映画が始まるとは思えぬこうした描写が延々と続く様はまさしくアルトマン映画だ。先の一連の描写は、テリー・レノックスがマーロウのそれとは対照的な70年代的なスポーツ・カーに乗り込み、手の甲についた謎の痕を気にしながら運転している様子とともにカットバックされる。二人の深夜の道行きを結びつけるのはジョン・ウィリアムズの音楽。アレンジの異なる男女のヴォーカルが歌われるのは名曲「ロング・グッドバイ」だ。

結局、違う缶詰を買ってきたマーロウは帰るなり猫をキッチンから締め出してカリー印の空き缶に詰め変える。あらためて猫を招き入れ、ご丁寧に缶切で開ける振りまでして与えるが、猫は騙されず家をプイと出ていってしまう。猫を探していると交代するようにテリーがやってくる。
マーロウとテリーは親友。久しぶりの再会である。マーロウが顔見てすかさず札を使ったゲームをやろうと提案すると、よし来たと応えるテリー。その様子だけで彼らの過ごしてきた時間が伺える。テリーは告白する。「実は追われているんだ。メキシコのティファナまで車で送ってくれないか」。せっかく久しぶりの再会なのに、いますぐに行かねばならないという彼の言葉に従うマーロウ。

別れて戻るともう昼間である。猫を気にしつつ家に着くと出迎えたのは顔見知りの二人組の刑事。何故かテリーのことを質問してくる。マーロウがとぼけていると強引に参考人として連行され、尋問される。刑事たちはテリーは彼の妻を殴り殺して、マーロウはその逃亡を助けたと言う。あり得ないと否定するが、無惨な死体写真を見せられ絶句する。留置場に入れられ、翌朝、唐突に釈放されるが、その理由と問いただすとテリーの自殺で事件は一件落着、もう用はないという。探偵仲間によればテリーの死体は弾き受け先がなくメキシコで葬られるという。探偵業の窓口に使っているサンフェルナンド・バレーのバーに立ち寄ってみると新しい仕事の依頼。さっそく出向く。中年の美しい夫人アイリーンから行方不明の夫を探して欲しいと依頼される。夫はアルコール中毒の有名作家。そしてこの夫妻は同じ地区に暮らしていたテリー夫妻と顔見知りだったらしい……。

アルトマンの才気は冴えに冴えて流れるような演出で観る者を酔わせるが、こうした文字面の要約では映画『ロング・グッドバイ』の奥深い面白さが一向に分かってこない。アルトマン流のハードボイルドスタイルは、ユーモラスで、まったくスリリングではない。探偵小説史に名を残すフィリップ・マーロウに扮するエリオット・グールドの風情もどこか滑稽であり、ドラマが進むごとに、冒頭の原作にない愛猫家の設定が効いて、彼の全身から得も言われぬ男の孤独がにじみだしてくるのである。(つづく/渡部幻)





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(その二)ロバート・アルトマンの平らな街の猫と犬 傑作『ロング・グッドバイ』

2009-08-25 | ロバート・アルトマン




(その二)


映画『ロング・グッドバイ』でアルトマンは、レイモンド・チャンドラーが創造した50年代の英雄フィリップ・マーロウを、現代=70年代に移し変えてまるでハードボイルドの英雄らしからぬエリオット・グールドを配役している。初公開時にチャンドラー・ファンは激怒したが、実はその仕掛けにこそアルトマンの意図があった。

冒頭でマーロウは現代のロサンゼルスに眼覚める。アルトマンは本作のマーロウを「リップ・ヴァン・マーロウ」と呼ぶが、これはアメリカの浦島太郎とも言える「リップ・ヴァン・ウィンクル」をもじったもので、木こりのリップが森で居眠りから目覚めると時代が変わっていたという物語である。そんな「リップ・ヴァン・マーロウ」は猫に起こされるのだが、彼はこの時から最後までずっと無精ひげの寝ぼけ眼であり、映画そのものが寝起きの感覚というか、マーロウの酩酊した様子に同期した浮遊感覚が付きまとう。知らぬ間にタイムスリップしていることに気づかないまま、まるで夢遊病患者のごとく彷徨い、独り言を呟き続けるマーロウは、まるで夢と現実、過去と現在の狭間を彷徨っているかのようである。

1950年代からタイムスリップしたフィリップ・マーロウが彷徨う「73年のロサンゼルス」には無関心が支配している。60年代のカウンタカルチャーが敗北したあと、誰もが他人がどうなろうと知ったこっちゃないというような気分が蔓延しているのだ。アルトマンはマーロウが代表する旧価値と個人主義が蔓延する刹那的な現代を対比する。マーロウは時代遅れのヒーローで、ただ独り親友のテリーをかばい続けて、結果、複雑に捩じれた事件に巻き込まれていく。




アルトマンは何故、原作ファンの怒りを買ってでも現代に脚色したか。映画版『ロング・グッドバイ』の時代背景は70年代初頭。つまり「革命の60年代が終わったあとのアメリカ」である。60年代に爆発したカウンターカルチャーはウッドストックを頂点に、タカ派のリチャード・ニクソンが大統領に就任したことでひとつの終止符を打った。そうして始まった70年代のアメリカ社会は疲弊して無力感のなかで白けていた。そんな1973年のロサンゼルスのどこか投げやりな雰囲気のなかにアルトマンは旧価値を代表するヒーロー「フィリップ・マーロウ」を放り込む。「昔は良かった」、そういうノスタルジーからではない。そして過去と現在を対立させ、同時代を批評することで「古き良き時代」に「長いお別れ」を告げるためである。そんなマニアックで奇想天外に過ぎる試みが初公開時には理解されなかったのである。

アルトマンの「リップ・ヴァン・マーロウ」は、人と人が繋がっていた「過去」から「現代」へと迷い込んできた野良犬であり、個人主義と無関心が蔓延する現代を彷徨う「過去の人」である。それ示すのが入念に仕込まれたディテールの数々であり、アルトマンはたとえば、マーロウにクラシックカー、親友テリーには現代的なスポーツカーを愛用させる。リップ・ヴァン・マーロウはどこへ行っても浮いた存在で、理解しあえるのは、40年代のハリウッドスターの物真似ばかりしているお人好しの孤独な守衛や、アーネスト・ヘミングウェイのごときアル中で不能の作家だけである。彼らは皆、場違いな男たちで、時代の変化に戸惑うばかりの「負け犬」たちなのである。

(その一)に書いたように、映画の冒頭は「フレイ・フォー・ハリウッド(ハリウッド万歳)」のメロディが流れるなかに浮かび上がる「ハリウッド地図」である。つまりここに描かれるロサンゼルスはイコールでハリウッドである。そして登場人間たちも「ハリウッド人種」なのだ。本作の構造を単純化するとこうだ――探偵マーロウが現代のハリウッドを彷徨ったすえに難事件が解決するとラストもう一度「ハリウッド万歳」が聞こえてきてその円環を閉じる。この構造を通じてアルトマンは「夢のハリウッド」「無垢のアメリカ」への挽歌を歌っている。

そんなアルトマンが育ったのは大恐慌時代である。若き日に第二次大戦に従軍したが、戦勝国となったアメリカでは、米ソ冷戦、核戦争の恐怖、朝鮮戦争、赤狩りのパラノイアが国中に蔓延して、その性格を変えていった。
アルトマン世代が若き日に親しんだであろう「夢のハリウッド=アメリカの夢」もこの時代に廃れていく。しかし、いや、そもそも「夢」などはじめから存在しなかったのではないか? 俺たちは「アメリカの嘘」に騙されていただけではないのか? そんな不信と疑念が、たとえば、サム・ペキンパーら戦中派世代の頭を重くもたげはじめる。マーティン・ルーサー・キング牧師を筆頭とする黒人たちが公民権運動を開始し、ロックンロールが登場、ビート作家たちはアメリカのアンダーワールドを描き出し始めていた。

続く、60年代は若きケネディの大統領就任から幕を開くが、アメリカは冷戦を背景に、ベトナム戦争に首を突っ込み、キューバ危機を迎え、ついに大統領の暗殺を目撃することになる。中盤には次世代の学生たちの間からベトナム反戦の声が沸き起こり、時代は荒れに荒れていく。そんな時代背景のなかで戦中派アルトマンが世に問うたのが革新的な反戦ブラック・コメディ『M★A★S★H』(70)。これで時代の寵児となるが、このときすでに46歳。これで鮮やかにハリウッドの戦争映画の嘘を暴き出して笑いのめし、『ギャンブラー』(71)で古い西部劇に描かれた開拓神話を覆したあとに続けて発表した『ロング・グッドバイ』(73)では古いハードボイルドを現代のハリウッド周辺に移し変えて、かつてこの街で生まれた「映画」への「長いお別れ」を試みた。それは同時に、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったアルトマンの「俺のキャリアは“ハリウッドの死”から始まるのだ」という覚悟と決意の意思表示でもあったのである。



全体が白昼夢のような本作においてことに脳裏に焼きつくのはロサンゼルスのしっとりとした夜景である。作家ロジャー・ウェードの妻アイリーンが乗る車を追ってひた走るマーロウだが対向車に跳ねられて倒れる。遠のく意識に合わせて溶けていくフォーカス。その映像に重なる「ロング・グッドバイ」のメロディ……まるで映画が終わったかのような印象。おどけ者の迷探偵はここで哀れにも息絶えたのかもしれない。そう思えなくもない。実際はこのあとマーロウが病院で目覚める場面に繋がる。病室の窓から差し込む日の光が室内を白茶けて見せる。白衣姿のマーロウは「頭は大丈夫」などと呟きながら起き上がる。そのとき同室の隣には全身を包帯でぐるぐる巻きにされて顔も見えない重傷患者が寝ている。あの患者こそ実際のマーロウで、眠りから目覚めたマーロウは、幽体離脱したマーロウの姿かも知れない。瀕死の患者はマーロウに小さなハーモニカを託し、そこへ看護婦が入ってくるとマーロウはその患者を指して「彼が有名なフィリップ・マーロウ氏だ」と説明する。彼らしいおどけたジョークだが、しかしそのものずばりの言葉として真に受けて見るならちょっと映画の解釈が変わってくる。奇抜は想像だが、映画の冒頭に戻れば、本作はマーロウが猫に起こされて目覚める場面で始まり、車に跳ねられて暗転するところで一度終わる。続く「二度目の目覚め」からを「第二部」の始まりと考えることもできるのではないか。




以後、事件はあれよあれよと解決していく。真相が明らかにされ、マーロウは信じていたテリーに利用されていたことが分かる。彼はメキシコで生きており、自殺した作家ウェードの妻を愛人にして、彼女に遺産が入って満足だ、俺はすべてを手に入れたんだと言う。「俺は猫を失ったよ」と呟くマーロウに対してテリーは満足気な笑みを浮かべながら、「この気分は負け犬のお前には分かるまいな」と言いのける。原作ファンならテリーの言い草に唖然とするが、さらに「射殺場面」へと続く。それは、偽装死を装い実はのうのうと生きていたテリーに対する、車に跳ねられて死んでしまったマーロウの亡霊による「怒りの一撃」のように思えなくもない。

ラスト。メキシコの並木道を超望遠で捉えたショット。黄色いジープに乗ってテリーに会いにやってきたアイリーンとマーロウがすれ違う。「亡霊のマーロウ」は彼女を無視する。アイリーンは「いますれ違った男」を曖昧に振り向き、また走り去ると、「亡霊のマーロウ」は「包帯のマーロウ」から譲り受けたハーモニカを吹きながらおどけて、どこへともなく去ってゆくと、音楽が流れ出すとそれはあの冒頭にも流れた曲――バズビー・バークレーの往年のミュージカル映画『聖林ホテル』の主題歌――「ハリウッド万歳」が皮肉に歌い上げる「君もここでならスターになれる」。冗談じゃない、そんなアルトマンのため息が聞こえてくるような結末……そんな風にも捉えることが出来なくもないのではないか。

かつてのハリウッド映画が象徴した「栄光」や原作者チャンドラーが書いた英雄マーロウの「騎士道精神」。アルトマンはここでそれらが、1973年の現代においてとっくに死に絶えた価値観に過ぎないと宣言し、「長いお別れ」を告げようと試みた。そう捉えるのならば、おどけ者のごとく歩み去るあのマーロウのおどけた後ろ姿も――一見すれば親友を撃ち殺した割りに陽性に過ぎると映るかも知れないが――せめておどけて見せるほかの術がないからそのように振舞うのであり、だからそこに見て取るべきはマーロウの背中に滲じむ得も言われぬような諦念なのだ。アルトマンは自らの内に秘めた現代への失意をマーロウの背中に重ねながら描いていたに違いないのであり、であれば原作ファンを改悪と激怒させた大幅な設定変更も、すべてその感慨を描き出すために用意された計算に基づくものであったはずなのである。




話しが妄想的に脱線したので、ここで唐突に巻き戻す。錯綜し混沌としたアルトマン映画だから、そんな展開も許されるだろうという甘えからである。

『ロング・グッドバイ』という映画で最も強く印象に残る場面と言えば――誰もが語るように――冒頭数分間に渡るマーロウと飼い猫のやり取りだろう。猫は機嫌を損ねて家出してしまい、それきり出てこないが、ラスト、マーロウのセリフの中に再度登場する。あの「俺は猫を失ったよ」というセリフは、猫を探すのを止めて親友を取った失意を表してあまりある。だが、ここで言いたいのは、この映画、ちょっと奇妙に思えるほどに猫と犬が頻出する作品である、ということなのだ。猫は冒頭の一匹だけだが、あちこちにしつこいほど野良犬が登場してくる。よく考えてみればマーロウ役のエリオット・グールドだって犬顔である。彼扮する探偵の仕事は、飼い主たる依頼主の要請に従い人や土地の一部始終を犬のごとく嗅ぎ回ることであり、いわゆる調査の過程で危機をひょうひょうとすり抜けつつ多くの人と関わり、ついほだされて時に感情移入してしまうこともあるが、そこにマーロウのハードボイルドに徹っしきれぬ甘さがあり、その弱みにつけこんで利用したのが他ならぬ親友のテリーであった。

この映画に描かれるマーロウはチャンドラーが描いた「強い男」ではないが「優しい男」である。彼は人々を見つめ、おせっかいを焼く。猫のために深夜餌を買いに出かけ、隣人のためにブラウニー・ミックスのお使いもこなす。そんなマーロウを見ていると、探偵という職業が、悪に正義の鉄槌を下す仕事ではなく、何より人の世話焼きが仕事なのだと思えてもくる。人々の事情を知り尽くし、主人の意を汲み、行動する忠犬、それが探偵なのだと。アルトマンはここで、ハンフリー・ボガートらが主演した「ハードボイルド映画」が描いた「探偵像」の虚構を暴いており、「映画の探偵」を等身大で現実的なひとりの人間として解き放っている。しかし、等身大となった探偵のマーロウは、なんとうら寂しき男であるだろう。移り気な猫どもに振り回されたあげく用が済めば「ハイ、さようなら」とばかり、あとは赤の他人でしかない。独り残された「忠犬」は「野良犬」となってフラフラとあてどなくどこかへ歩み去るほかはない。映画『ロング・グッドバイ』は、そんな「猫的人間」と「犬的人間」の関係についての物語だとも言えるのである。

10
劇中に登場するマーロウの以外の「犬的人間」の代表はスターリング・ヘイドン扮する作家ロジャー・ウェード。そして古典俳優の物真似ばかりしている門番、間の抜けたやくざの子分もそうだ。彼らは皆、野良犬であり、もの寂しくどこかみじめなその姿は、映像を始終徘徊している野良犬たちの姿と重なってみえる。

「猫的人間」はどうだろう。映画は、猫に振り回されたあげくに振られた犬たるマーロウの姿から幕を開けるが、順に隣人の女たちや刑事たち、アイリーンもヤクザの親分もべリンジャー医師も、そしてテりー・レノックスも、皆、気まぐれな猫的人間像である。彼らは揃いも揃って自分本位な移り気な性格で、その振る舞いに犬的人間どもは傷つけられているようだ。こうやって見ていくと映画『ロング・グッドバイ』は「猫にあこがれて裏切られる犬」の物語もしくは「自由に憧れてしかし自由には慣れないみじめな犬」たちの悲劇の物語のように見えてくる。探偵は自由業だが、主人に尽くす犬でしかない。そんないかにもアルトマン的な人間観察が浮かび上がってくるのだ。




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マーロウの哀れな野良犬キャラクターは、『ギャンブラー』の西部開拓者や『ボウイ&キーチ』の大恐慌ギャング、『ビッグアメリカン』の伝説の男バッファロー・ビル、『ポパイ』のポパイ、『名誉ある撤退』のニクソン、『ストリーマーズ』の古参兵士、『ゴッホ』のゴッホ兄弟や『カンザスシティ』の愛する人のために犯罪に手を染める白人女性などに通ずる、非常にアルトマン的な人物像である。遺作『今宵、フィッツジェラルド劇場で』にはマーロウを思わせる探偵もどきのユニークな警備主任が登場させていたが、彼らはみな浮世離れしていて、繊細なのに鈍感で、役立たずの道化のような存在だ。そんな彼ら彼女らが、生き馬の眼を抜くアメリカ社会を生き抜くことは難しいだろう。アルトマンは美男美女でなくこれといった特技を持たぬ「等身大の人々」を映画の主人公に据えることで「ハリウッド栄華」の「夢の世界」を破壊し「現実」の中に奪い返しているのだ。現在では珍しくない映画の作り方かも知れないが、70年代当時のメジャー映画としてはまだまだ珍しいものだった。
 その作法を極限に推し進めたのが『ナッシュビル』『ウエディング』『ショートカッツ』などの群像劇であり、彼一流の観察の眼が光った。アルトマンの群像世界において人と人は時と場所を共有しても基本的に他人に対して無関心である。会話はすれ違うばかりで他人なんかそっちのけで勝手にしゃべりまくるその世界ではコミュニケーションの成立などまれなことだ。誠意ある人間ほど傷つき、生き残ることもできないような、そんなまこといい加減な世界なのである。


12
アルトマンは人間という生き物に宿命的な意思疎通の必要と困難のドラマを生涯に渡りスケッチし続けた。その世界は一見サラリとしていて、間が抜けていて時にひどくユーモラスなのだが、ふとそれが他人事でないと気付かされるとゾッと背筋を凍らせる。人間を猫と犬に見立てるそんなアルトマン一流の仕掛けがもっとも「映画的」な効果を上げて「日常」は異化することに成功したとき、彼の映画は僕たちが生きる世界の映し絵となる。人間がいかに奇妙で同時に平凡な存在で、いつも他人に関心を持ち、しかしそれがあくまで主観的な興味関心から出ることがなく、愛し愛されたり傷つけ傷つけたりしながら右往左往するばかりで、他者は永久に他者のままであり、自分の扱いすらもままならず、結局どう転んだところで自分本位の気まぐれから抜け出ることが出来ない。宿命的な孤独から逃れようと必死になって自らの妄想や幻想にしがみついて生き、そして死んでゆく儚い存在。アルトマン映画は、そんなやっかいで、だからこそ奇妙にいとおしい人間という生き物の生態観察なのだ。



13
『ロング・グッドバイ』でアルトマンはチャンドラーが描いた人間の孤独をハリウッド=アメリカの死と重ねて映画化したが、いまひとつ原作となった映画作品があるのだ。キャロル・リードとグレアム・グリーンの『第三の男』はウィーンの街へ訪ねてきたアメリカ人がそこで親友の死を知る。彼の愛人に想いを寄せるうちに、やがて友の生存を確信するのだが、彼は戦後ヨーロッパの廃墟に暗躍する犯罪人になっていたという物語。戦争がもたらした精神風土の崩壊が、男たちの友情と男女の愛を切り裂いていく様を痛切にあぶりだした作品である。そのプロットはもちろん『ロング・グッドバイ』のラストシーンがこの『第三の男』へのオマージュなのは一目瞭然である。
そんな複雑な構造を持つ本作は、当時理解されなかった。いわば実験的でマニアックな作品であり、ある意味で難解とも言える。にも関わらず魅了される者があとを絶えないのは何故だろう。ヴィルモス・ジグモンド撮影のパステル画調の色彩とカメラの動作、アレンジを変えながら繰り返し演奏されるジョン・ウィリアムズの主題曲、ハワード・ホークスの『三つ数えろ』(これもチャンドラー原作)で知られるリー・ブラケットによる脚本の見事さが大きいが、何より、それらを統括するアルトマンの腕前に酔わされて抜けられなくなるからだろう。

マーロウ役のエリオット・グールドは彼の最高作。時代に取り残された捨て犬の哀しさと優しさを演じて完璧。入水自殺するアル中作家ウェイドに扮したスターリング・ヘイドンは赤狩り時代の裏切りの記憶により実際にアルコール依存症に苦しんでいたというが、粗暴な外見に隠した繊細な魂を体言して一世一代の名演となった。怪しげな医師役にヘンリー・ギブソン、ヤクザ役に映画監督マーク・ライデルの起用したこともユニーク。背の低い彼らが、背の高いグールドやヘイドンに脅威を与えるのである。「ニーナ&フレデリック」の歌手ニーナ・ヴァン・パラントを夫を裏切る妻役に、元ヤンキースの野球選手ジム・ボートンをテリー役に配したあたりにも素人を巧みに扱うことに長けたアルトマン演出の冴えが窺え、先日急逝したデヴィッド・キャラダインとアーノルド・シュワレツェネッガーまでもが顔を見せる。
映画の内容は哀しくて寂しいが、アルトマン映画の最大の何よりのご馳走とは、彼ら役者たちが披露する「生きた人間の振る舞い」であり、だから繰り返し再会したくなるのである。








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