真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』公開記念に~~『エピソードⅠ~Ⅲ』とジョージ・ルーカスの世界

2015-12-26 | ロードショー


 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が公開された。ジョージ・ルーカスが関わらない新作だと言う。僕が最初の『スターウォーズ』(77/ジョージ・ルーカス監督)を観たのは日本で公開された78年、8歳の時だ。劇場で多くの子供たちと同様、夢中になった。しかし遠い昔の思い出で、このシリーズについて何かを書くことを避けてきたし、語ることすらも気が重いことがある。それゆえか、すっかり忘れていたけど、意外に最近書いていたことを思い出した。2010年に編集した『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)所収の「エピソードⅠ~Ⅲ」についての短い原稿。せっかくだし、新作の公開記念に、少し加筆修正を加えてここに再録することにした次第。以下。


 1977年に全米で公開された『スター・ウォーズ』は、新世代の観客から熱狂的に迎えられて社会現象となり、アメリカ映画界の潮流を変えた。その生みの親の名はジョージ・ルーカス。彼は1971年のSF映画『THX-1138』で長編映画デビュー。完璧に管理化された未来世界を白と黒で統一させた前衛的な映像スタイルで描き出したが、ロバート・デュヴァル扮する主人公の物語の中心になるのは「ロマンス」と「チェイス」と「現状からの脱出」である。続く『アメリカン・グラフィティ』は打って変わって、彼の出身地たるモデストを舞台に、「青春の終焉と新たなる旅立ち」をジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件の前年にあたる62年に設定して回顧した自伝的な青春映画だが、やはりここでも「ロマンス」と「チェイス」と「現状からの脱出」が描かれている。
 『スターウォーズ』は前2作を融合させてスペースオペラの衣を着せた青春映画であり、その意味で『アメリカン・グラフィティ』からの流れである。主人公のルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)は、『アメリカン・グラフィティ』の主人公カート(リチャード・ドレイファス)から連なる系譜にある田舎青年で、退屈な日常生活から「脱出」して「ロマンス」と「チェイス」に溢れた未知なる冒険の世界へと乗り出していった。しかし、続く『帝国の逆襲』でルークを待ち受けていたのは自らの出生にまつわる呪われた歴史である。シリーズは神話的な壮大さを増し、「親子の確執」を描いた物語としての陰影を深くしていく。その意味でこのシリーズは、ルーカスの師に当たるフランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』サーガに通ずる「家族の叙事詩」だと言える.
 「ルーク=ルーカス」三部作の最終話『ジェダイの帰還』で「息子=ルーク」が悪の帝国に堕ちた「父=ダース・ペイダー」を打ち倒し、その確執を克服すると、同時に宇宙の平和が取り戻され、仲間たちと共に「神話の英雄」となる。現実の世界でも、ルーカスは仲間の監督たち――コッポラ、スピルバーグ、スコセッシ、デ・パルマ、ミリアス――と共にアメリカ映画界に革命を起こして時代の寵児となった。様々な局面で『スターウォーズ』は人々をハッピーにさせた「青春映画」だったのである。
 あれから16年の時を経てルーカスはその前日譚『ファントム・メナス』の映画化に挑み、ダース・ベイダーことアナキン・スカイウォーカー――つまりルークの父――の青春時代を描く。しかし、かつての「青春映画作家ルーカス」もすでに若者ではなく、かつて打ち倒した「父」もいまや「わが身」であり、たとえ遠い昔に書き上げたドラマだとしても、その認識が、新シリーズに影響を及ぼさないわけはない。
 『ファントム・メナス』(99)はこの大河ドラマの序章つまり「エピソードⅠ」であり、『クローンの攻撃』(02)『シスの復讐』(05)と続き、77年の『スターウォーズ』が「エピソードⅣ」になる。しかしここでは、あくまでも「公開順」のシリーズとして考える。
 『クローンの攻撃』で美しい青年に成長するアナキン・スカイウォーカー。余りにも若く純粋で地に足のつかないが、そう遠くない将来にルークの父となる運命にある。ドラマ上の時制が逆転して製作されたため、観る者のほとんどが、彼ら親子の悲劇的な運命の行方を意識しながら観ている。息子ルークの青春が未知の可能性を観る者に伝えたのと真逆に、父アナキンの青春が悲劇へと向かうことは、あらかじめ定められた運命である。ことに『クローンの攻撃』は2001年の9.11テロ事件後の公開作であり、ルーカスは急速に右傾化していく当時のアメリカの混沌とした状況を意識している。だから「ゼロ年代『スターウォーズ』」の冒険に、あの天真爛漫とした楽しさはない。(ちなみに「エピソードⅠ」はベトナム戦争がアメリカの撤退で終結をみて、ニクソンがウォーターゲート事件を起こし退陣、建国200年を迎えた翌年の77年公開。「重い季節」に区切りがつき、大衆は「憂さ晴らし」を求めていた)
 そうした「違い」は俳優陣の個性にもハッキリと現れている。「旧三部作(エピソードⅣ~Ⅵ)」で、ルークを演じたマーク・ハミルやハリソン・フォード、キャリー・フィッシャーの陽性な個性と比べたとき、「新三部作(エピソードⅠ~Ⅲ)」でアナキンを演じたヘイデン・クリステンセンやパドメ・アミダラを演じたナタリー・ポートマンの個性はいかにも陰性であり、深刻である。そんな彼らの個性を選択したことによる作品への影響は大きい。
 デヴィッド・タッタソールの撮影もまた、エピソードを重ねるごとに「黒」の印象を強め、「新三部作」にノワール的な「暗さ」を付加しているが、しかし、このこと自体は「旧三部作」のルークの衣装が、白色(Ⅳ)から灰色(Ⅴ)へ、灰色から黒色(Ⅵ)へと変化していくことで、純真な息子が闇に堕ちた父親(ダースベイダー)に同化していく過程を象徴させた色彩設計に対応しているに過ぎない。
 その意味で真に重要な役割を担っている色彩とは、エピソードⅢでアナキンとオビ=ワン(ユアン・マクレガー)が演じる痛ましい決闘の背景に塗り込められた漆黒を引き裂くように噴出する溶岩の「赤色」であり、ルーカスはこの「赤色」の禍々しさに「新三部作」の主題を託しているのではないか。
 あのマグマの赤色は、滅びゆくジェダイの同士たちが流した血の赤であり、手足を斬りおとされて芋虫のごとく這いずるアナキンが流した血の赤であると同時に、彼の子を宿し、出産した後に息絶えるアミダラの胎内から流れ出た血の赤である。ここに本シリーズのもう一つ重要なる主題――家族のサーガ――が立ち現れてくる。つまり「マグマの赤」は、呪われた運命に煮えたぎる血縁の「赤色」なのである。
 自らの父を知らぬアナキンは、ゆえに母のシミとアミダラが象徴する母性の愛に飢え、もだえ苦しむ。それがジェダイの騎士たる彼のアキレス腱となり、師であり兄であり父の代わりでもあったオビ=ワンとの関係をも引き裂いていく。ダークサイドへと堕ちるしかないアナキンの姿はあまりにも悲痛だ。その姿を見つめつつ悲劇ドラマとしての「新三部作」は幕を閉じる。
 観る者はこのあと、悲劇の物語から一転、『新たな希望(エピソードⅣ)』と題した「次世代の青春物語」へと引き継がれ、血まじりの漆黒にふたたび光が差し込むだろうことを知っている。しかし、だからこそと言うべきか、いまや「父の世代」になった「ゼロ年代のルーカス」が、二世代に渡る「青春」を比較検証した末に描き出した結末が、とてつもなく重たく、陰惨なものに感じられるのである。

渡部幻(2010年執筆。『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)所収の原稿を加筆修正)







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