真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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フィリップ・カウフマンらしい文芸大河ロマン『私が愛したヘミングウェイ』

2016-05-24 | テレビで見た映画
   

 フィリップ・カウフマンの『私が愛したヘミングウェイ』(12)は、HBO制作のテレビ映画である。
 70~80年代にカウフマンは傑作を連打したが、90年代はあまり成功作に恵まれず、いまでは映画を撮れる機がはめぐってこないようだが、本作は久方カウフマンらしい文学趣味に溢れた佳品となった。
 『SF/ボディ・スナッチャー』でジャック・フィニィ、『ワンダラーズ』でリチャード・プライスを扱い、『ライトスタッフ』では巨匠トム・ウルフの映画化を見事に成し遂げて以降、『存在の耐えられない軽さ』でミラン・クンデラを、『ヘンリー&ジューン』でヘンリー・ミラーとアナイス・ニンを、『クイルズ』でマルキ・ド・サドの物語を描いてきたが、彼は元々は作家志望だったのである。だから、ヘミングウェイと彼の三番目の妻マーサ・ゲルホーン、それにドス・パトス、ロバート・キャパら実在人物が交錯するこの作品は、いかにもカウフマンの趣味にあっているのだ。
 背景はスペイン内戦から第二次大戦に連なる時代で、ウォーレン・ベイティがロシア革命を目撃したジャーナリスト、ジョン・リードを描いた大作『レッズ』(81)を思わせるスタイルの大河ロマンである。
 『私が愛したヘミングウェイ』という邦題からうかがるように、「私」たる主人公はマーサ・ゲルホーンであり、彼女を文芸映画を好むニコール・キッドマンが演じている。

   

 物語は老女となったゲルホーンがインタビューに答えるかたちで進行していく。カウフマンは、戦争とそこに生きる人間を書くことへの奇妙な情熱につかれた戦争記者ゲルホーンと作家ヘミングウェイの愛の行方を描くが、それは戦火の時代にその身を投じてはじめて成立し得た愛の情熱であり、困難や危険こそが2人を性的な関係にしたのだった。そのあたりの描写は、『存在の耐えられない軽さ』や『ヘンリー&ジューン』など往年のカウフマン作品の官能性に及ぶべくもなく、爆撃の中で初めてゲルホーンとヘミングウェイが互いの身体を求め合うシーンにしても、意図は理解は出来るもののひとつ官能の深さに欠けるのであった(テレビ作品だからかもしれない)。
 作家としても性的にも「共闘の季節」が過ぎたことを悟ったゲルホーンは、やがてヘミングウェイとの別れを決意する。ヘミングウェイは彼女との出会いと共闘関係から最高作とも言われる『誰が為に鐘は鳴る』を書いたが、彼を刺激し得る相手を失った彼は、書けなくなり、老いて心を病み、自殺してしまう。一方、彼女はその後もベトナム戦争や81歳のときのパナマ侵攻の取材まで、その情熱を記者人生に捧げきる。
 終盤、記者から「ヘミングウェイに借りがあるでしょう」と問われたゲルホーンは、毅然と「あの男は三十年前に死んだ。彼は誰よりも自分自身を苦しめた。冥福を祈る。彼ついて言えるのはそれだけ。私は誰かの人生の注釈になるのはごめんなの」と応じるが、彼女の机の引き出しには、いまも彼からの手紙がしまってあった。

 カウフマンは動乱の時代を生きた人物の愛と情熱に関心があり、実在の人物を題材にとり、その再現に長けているが、本作でもドキュメンタリー映像を綴り混ぜ、モノクロとカラーを複雑に絡めている。キッドマンは『めぐりあう時間たち』でのヴァージニア・ウルフ役と同様、老けメイクの演技への活用が巧みかつ見事で、説得力があった。映画の構成もあって、ふとダスティン・ホフマンの『小さな巨人』(アーサー・ペン監督)を思い出したりもしたが、彼女にはホフマンまたはメリル・ストリープ的な役者心理の傾向がある。へミングウェイ役はクライヴ・オーウェンで、なかなかはまってたが、イギリス人であることの限界も感じさせ、アメリカの俳優で誰か居なかったのだろうかとも思った。脚本はジェリー・スタールとバーバラ・ターナーだが、ターナーはラルフ・ネルソン監督の問題作『ソルジャーブルー』や、ジャクソン・ポロックの伝記映画『ポロック』、ロバート・アルトマンの『バレエ・カンパニー』なども書いた人らしい。また、製作総指揮に名優ですでに故人のジェームズ・ガンドルフィーニが名を連ねていた。

 


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