真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

【リンク更新!】『80年代アメリカ映画100』~番外リンク集編~まだある80年代傑作映画(渡部幻)

2012-03-03 | アメリカ映画100シリーズ(芸術新聞社)
80年代アメリカ映画100』(芸術新聞社より発売中)の「番外編」です
)。

1985




ポール・シュレイダーの『ミシマ』は、三島由紀夫を素材にしたビジュアルアートとして優れている。石岡瑛子がシュレイダーにくどかれて担当した美術は映画史に残る偉業であり、カンヌ国際映画祭で芸術貢献賞を獲得した。フィリップ・グラスの音楽、緒形拳、沢田研二、烏丸せつ子、横尾忠則をはじめとする日本の豪華出演陣。シュレイダーは凝りに凝っており、割腹に到る現在をリアリズム調、三島の過去をモノクロ、小説の映像化部分を極度に様式化したスタイルで描きわけていく。そんな本作はその内容よりも視覚性の優位にこそ見るべきものがあり、その点でこれは映像の実験に意欲的な製作者コッポラの作品でもあると言えるだろう。しかし残念なことに三島夫人からの許諾を得ることができず日本での公開は見送られた。→「本編」(『80年代アメリカ映画100』に収録)

※『ミシマ』について――石岡瑛子。「わたしが『ミシマ』でやった仕事を、日本人の目で見て判断しえもらえないのは、本当に残念です。自分でこっそり映画を上映しようかとも思いましたが、右翼団体から脅迫されてしまって・・・三島夫人の抗議はばかげています。彼女は論理的でもなければ、およそ知的な女性とも言えません。まったくの主婦感覚で、言うことがまるで感情的なんです。自分がホモセクシュアルの男性と結婚していたと思われたくないんでしょうね。まったくばかげたことです。先日、とある文芸評論家と話したんですが、三島が自殺する前は、奥さんは彼の小説をまったく読んだこともなかったそうですよ」(『ラヴェンダー・スクリーン』より引用)




トラブル・イン・マインド』に限らずアラン・ルドルフがつくる映画はなんとも奇妙である。クリス・クリストファーソンが自らのキザな個性をパロディ化し、ジョン・ウォーターズ作品で有名な怪優ディヴァインと対決するという作品だが、そのとらえどころない「変さ」は、多分にキース・キャラダインが受け持ってる。ここでキースは真面目だった男が悪に染まり次第にパンクをさらにマンガにしたような男に変貌していく様を演じる。キースはルドルフ作品の個性の体現者だったが、現在ルドルフは彼に匹敵する体現者を見つけられず、低迷している。80年代の最もオリジナルな作家としてのルドルフの映像は(これも奇妙なかたちで)人工的かつ様式的な世界観を構築している。その世界の住人たる登場人物はみな揃いも揃ってどことなく間が抜けており、その抜け方からえもいわれぬ切なさが滲んだときに初めて「ルドルフ・ワールド」は完成する。かように正体のつかめない曖昧さがルドルフの身上だが、彼自身その個性をもてあましているようなところがあり、ここに師匠アルトマンとは異なる彼の弱点があるのではないか。おそらく内容面では『チューズ・ミー』が、視覚的には『トラブル・イン・マインド』が――栗田豊通の見事な撮影が手伝い――最も完成形に近づいた作品だと言えるだろう。




LA大捜査線/狼たちの街』は、低迷期に入ったウィリアム・フリードキンが久しぶりに放った起死回生のヴァイオレンス映画である。死につかれた狂犬のごとき刑事の異常な捜査手法を描いているが、その遠慮呵責ない描写で、北野武の『その男、凶暴につき』に多大な影響を与えた(ラストシーンもそっくりだ)。『フレンチ・コネクション』などドキュメンタリースタイルを最大の特長としたフリードキンが、ここでは撮影にロビー・ミューラーを迎えて、LAの景観を美しく切るとりながら、まばゆい陽光の下で行使される数々の暴力描写――執拗に繰り返される顔面破損描写――で観る者を圧倒するのである。ウィリアム・デフォーがアーティスティックな偽札犯を演じ、新鮮な悪役俳優の登場を印象付けた。




コットンクラブ』は、やはり低調だったフランシス・フォード・コッポラが「起死回生の一作」を狙った大作である。だが、「第二の『ゴッドファーザー』」を期待する人々からの評判は悪かった。しかしそのことは本作の名誉を傷つけるものではなく、むしろコッポラがいまだ新しい試みに挑戦し続けていたことの証明になっている。「コットンクラブ」は1920年代のハーレムに実在したクラブで、時のギャングやハリウッドスターたちが集まる文化拠点であり、70年代後半における「54」のような存在だった。コッポラはここに交錯する群像模様をミュージカル・スタイルで描きつつ、十八番の華麗な暴力描写を絡めていく。たしかにコッポラの野心は生煮えで、ドラマの要となる人種問題の描写など説得力が弱く、主演のリチャード・ギアも精彩を欠いている。見所は、実在のアイリッシュ・マフィア、ダッチ・シュルツに扮したジェームズ・レマーのあくの強い芝居と、グレゴリー・ハインズが「死のタップ」を披露するクライマックス・シーン。「タップ」と「殺し」が不気味にカットバックするこの場面でコッポラの天才がようやく息を吹き返し、流麗なロマンティシズムが画面に花開いていく。この絢爛たる映像の切れ味と全編を彩るジョン・バリー監修のジャズの数々を堪能できるだけで『コットンクラブ』には一見の価値があるだろう。




マイケル・チミノは超大作『天国の門』で老舗ユナテッド・アーティスツ社を倒産に追い込み、以後のハリウッドを骨抜きにした張本人と目され、再起不能をささやかれた。しかし、イタリアの大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスがチミノの才能を買って『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』で復帰をとげるまでに、そう長い時間はかからなかった。チミノはアメリカのマイノリティがいかに苦渋を舐めてきたのかに関心を抱いてきたが、本作では、ポーランド系刑事(ミッキー・ローク)とチャイニーズ刑マフィア(ジョン・ローン)の抗争を描いて、相変わらない「アメリカへの嫌がらせ」を展開。この壮大な暴力絵巻は、よもや「アート」などというヤワを寄せつけぬ巨大な映像の力で観る者を圧倒する。アメリカに中国を再現するチャイナタウンの迷宮を、さらにオールセットで再現するという蛮行に、チミノの荒ぶる活動屋魂が炸裂するのである。以下、チミノのインタビュー記事から引用。
 「スタンリー・ホワイトにしても、ジョーイ・タイにしても、彼らは鉄道建設のために連れて来られた大勢の移民たちとは一味違った、よりアメリカ人らしい役柄を演じている。アメリカという国は、基本的には人種差別ができない国なのだ。というのも、アメリカは外国人が集まってできた国だからだ。いったい誰が純粋なアメリカ人といえるのだろうか?彼(ジョーイ・タイ)はスタンリーと同じ境遇にいる人間である。彼らは現代の戦士なのだ。興味を持った全く違うものに対して、全く違う行動を起こすのだ。そして、彼らは互いに立ち向かっていったのである。中国人はアメリカ人にとても似ているところがある。多様性という点において、彼らは全く同じである。中国人はズバ抜けて天分豊かな民族だ。彼らは働くことにおいて、限りない才能を持っている。そして、アメリカ人の文化のすべてを包み込んでしまうような芸術的な伝統も持っている。私は、アメリカに住む中国人は向こう一〇年くらいでこの国において大きな文化的影響を与えるようになるだろうと思う」キネマ旬報 NO928より.【日本版予告編】http://youtu.be/HZemMn574Hk

 

ケヴィン・レイノルズの『ファンダンゴ』は80年代に多数制作された「60年代回顧もの」の隠れた秀作である。そうしたなかの一本『再会と時』(ローレンス・カスダン)に出演しながらカットされてしまったケヴィン・コスナーがここでは主演をつとめる。タイトルの「ファンダンゴ」とは「バカ騒ぎ」のこと。本作では「60年代」そのもののことで、その終焉と向き合う青年たちを描いたロードムービーである。ベトナム戦争ただなかで大学を卒業しようとしてる仲間たち。そのうちの一人が結婚を目前に不安にかられているのを見とったコスナーが「最後のバカ騒ぎ」を提案、ドロップアウトの旅に出る。ラストの感傷も心地よい。2009年の傑作コメディ『ハングオーバー』は本作を下敷きにしていると思えるが、どうだろう。




90年代のアメリカ映画界を席巻した「インディーズ・ルネッサンス」。その前触れは80年代中盤にあり、コーエン兄弟の『ブラッドシンプル』、そしてガス・ヴァン・サントの『マラノーチェ』はその代表的な1本である。50年代のビート作家やアンディ・ウォーホルらのアヴァンギャルド映画、そしてコッポラの『ランブルフィッシュ』から影響を受けたガス・ヴァン・サントの原点がここにある。ニュークィア・シネマの代表作であり、先駆的な本作なくして、『ポイズン』のトッド・ヘインズ、『恍惚』のトム・ケイリン、『リビング・エンド』のグレッグ・アラキらの台頭はなかったかもしれない。




「ローリングストーン」誌の「80年代映画ベスト1」に選ばれた『レイジング・ブル』で頂点に立ったマーティン・スコセッシの隠れた傑作といえば『アフターアワーズ』を置いてほかにはない。本作でスコセッシは「インディーズ・シーン」に返り咲き、カンヌ国際映画祭で監督賞を獲得した。ヤッピーのコンピュータ・プログラマーが一夜の刺激を求めて、場違いなソーホー地区に迷い込み、味わうことになる神経衰弱ぎりぎり悪夢が、超高速の展開のなかに描かれる。80年代初頭のニューヨークのナイトライフが魅惑的に描写されて、さながら「もう一つの『タクシードライバー』」である。ミヒャエル・バルハウスの超絶テクニックが冴え渡りうなりをあげる撮影、ベートーベンからラテン音楽、ハードコアパンクに至る音楽のすべてがスコセッシ印。ソーホーをうごめく魑魅魍魎のアーティストたちや、ロザンナ・アークウェット、リンダ・フォレンティーノ、テリー・ガー、ヴァーナ・ブルームら個性派女優が演じるエキセントリックな女性像にいちいちリアリティがあり、彼女らに翻弄される主人公の滑稽さは、カフカをオーソン・ウェルズが映画化した『審判』を彷彿とさせる。




不眠に悩む都会人の姿はきわめて「80年代的」な風景でありカルチャーのひとつだったといえる。80年代最高のコメディ監督ジョン・ランディスの『眠れぬ夜のために』は、スコセッシの『アフターアワーズ』とともに「不眠症時代」を代表する作品である。スコセッシのNY型神経症的コメディと異なり、ランディスがLAを舞台に描いたのはボンヤリと頭のゆるい巻き込まれ型サスペンス・コメディである。主演は不眠症顔のジェフ・ゴールドブラム、謎の美女はミシェル・ファイファー。デヴィッド・ボウイ、ドン・シーゲルなどカメオ出演も豪華。こんな映画こそ座右に置いておいて「眠れぬ夜に」何の気なしにデッキにセットしたくなる。




80年代は50年代を超えるSFとホラー映画の全盛時代だったと言える。メジャーからマイナーまで膨大な量の傑作・駄作がつくられ、レンタルビデオの普及がその隆盛を後押ししたのである。『ダークスター』『エイリアン』『トータルリコール』の脚本で知られる奇才ダン・オバノンはこの時代に活躍した映画人のなかでもひと際印象に残る映画人のひとり。彼の監督作『バタリアン』は実に風変わりなゾンビ映画である。軍部が極秘に開発した化学薬品が事故により外に漏れて甦った死体=ゾンビはなんと「走る」のである。次々に喰われゾンビ化していく人々。真っ二つに割られた標本の犬やミイラ化した老婆がぴくぴくと動き出すナンセンスがイキイキと描かれてこれほど愉快な作品にはなかなかお目にかかれない。B級にこだわりA級を否定し続けた蝶ネクタイのホラー紳士オバノンだったが、残念なことに2009年この世を去った。

次回に続く。(渡部幻)

芸術新聞社の「アメリカ映画100シリーズ」

">『ゼロ年代アメリカ映画100』(渡部幻、佐野亨編)発売中

">『80年代アメリカ映画100』(北沢夏音監修、渡部幻主編)

">『90年代アメリカ映画100』(大場正明監修、佐野亨主編、渡部幻編集)3月発売

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【リンク更新!】 『80年代アメリカ映画100』~番外リンク集編~まだある80年代傑作映画(渡部幻)

2012-03-02 | アメリカ映画100シリーズ(芸術新聞社)
�1983~84年編
『80年代アメリカ映画』~番外リンク集編~まだある80年代傑作映画

1983



80年代の50~60年代初頭リバイバルは、当時に青春を過ごした世代が、社会人として振り返った感慨から生まれたものが多かったが、それを若年層が享受すると風俗的部分のみが受け継がれる傾向にあるものだ。ザ・シュレルズの62年の名曲と同じタイトルを持つ『ベイビー・イッツ・ユー』は、ノスタルジー・ブームに乗ったメジャー映画だが、時代の急速な変動に翻弄され、価値観がすれ違い別れていくカップルを描いて他とは異なる深みがあった。監督のジョン・セイルズは『セコーカスセブン』で60年代を学生運動に捧げた若者たちの10年後の感慨をほろ苦く描いたが、ここでは「あの時代」を再現。名手ハスケル・ウェクスラーによるパステル画調の撮影が美しい。主演のロザンナ・アークェットがニューヨーク派のミューズ的に活躍しはじめた頃の作品だが、彼女にこのあとマーティン・スコセッシの『アフターアワーズ』やスーザン・シーデルマンの『マドンナのスーザンを探して』などに出演。いわゆるハリウッド女優とは異なる都会的なセンスがキュートだった。




リック・ローゼンタールの『バッドボーイズ』はハードな不良少年映画である。80年代中盤に台頭するブラットパック俳優たちを輩出したコッポラの『アウトサイダー』の「甘さ」は微塵も見られない。ワイルド・ストリートを命を擦り減らしながら生きる少年たちを待ち受ける少年院の生活。クライマックスの凄絶なファイトシーンで、少年のニヒルな瞳から流れた涙が忘れがたい印象を残す。若きショーン・ペンの痩せた肉体ににじむ殺気とやるせなさ。そこに「破格の新人」を見出した者も多いだろう。




卒業白書』でトム・クルーズは本格的な注目を集めた。ごく平凡な高校生が両親の留守中に娼婦(レベッカ・デモーネイ)を呼び、意気投合して「リスキーなビジネス(Risky Business)」を始めるという物語。大人の観賞に耐える風刺コメディだが、その「ビジネス・センス」は「未来のヤッピー」の資格十分というわけだ。「おぼっちゃま」なクルーズがイキイキとし、レベッカ・デモーネイのお色気も評判になった。監督はポール・ブリックマン。タンジェリン・ドリームの音楽も「80年代的」だった。『バッドボーイズ』のショーン・ペンと『卒業白書』のクルーズは81年の『タップス』(ハロルド・ベッカー)で共演していたが、以後の映画界で最も対照的なキャリアを歩んでいく。




ジョン・カーペンターの『クリスティーン』は、『ハロウィン』『ザ・フォッグ』で好調の波に乗った彼が、満を持して挑んだスティーヴン・キングのホラー小説を映像化である。いじめられっ子の高校生が、ある日廃車場で出逢った「運命の彼女」。真っ赤なボディが悩ましい58年型のプリマスフューリー――「彼女」を引き取った少年は「クリスティーン」と名づける。次第に少年は豹変、静かな田舎町は殺戮の場となり、悲劇的な結末を迎えていく。シネマスコープを活かした美しい空間設計が、車と少年の歪んだ悲恋を盛り立て、50Sロックンロールが陽気に鳴り響くなか、カーペンター印のシンセサイザー・サウンドが不気味に重なる……そのクールなオリジナリティには抗いがたい魅惑がある。主演はキース・ゴードン。『殺しのドレス』ではデ・パルマの分身である天才コンピューター少年を演じた。のちに監督となり『チョコレート・ウォー』『マザーナイト』などの秀作を撮った。




スチュアート・ローゼンバーグの『悪の華/パッショネイト』は、いかにもニューヨーク的なストリート・フィルムである。名作『暴力脱獄』や『笑う警官/マジンガン・パニック』で知られるローゼンバーグは、ここでマーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』からの影響を隠さない。イタリア系のチンピラ青年たちを演じるのはミッキー・ロークとエリック・ロバーツ。ことにロバーツは若き日のロバート・デ・ニーロを彷彿とさせる怪演を披露し、ロークを食った。共演者も豪華で、ジェラルディン・ペイジ、バート・ヤング、トニー・ムサンテ、ダリル・ハンナが顔を揃える。『ミーン・ストリート』の鋭さ、深さには遥かに及ばない二番煎じだが、これはこれでなかなか捨てがたい味がある。




ジム・マクブライドの『ブレスレス』は、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』の大胆不敵なリメイクというより、盲目的なオマージュといった方が相応しい。ゴダールがアメリカのB級映画にオマージュを捧げたのをひっくり返してマクブライドはかの革命的傑作にオマージュを捧げたのである。同時代の多くの映画と同じくここにも50年代への目配せがあるが、マクブライドはジェリー・リー・ルイスのロックンロールにアメリカンコミック調の色彩設計とコマ割りのスタイルを映画に持ち込む試みを追求してユニークな成果を出している。これは90年代にクエンティン・タランティーノやハル・ハートリーがやったことの先駆けであり、悪評高い『ブレスレス』を評価を改めさせるひとつのポイントになるだろう。この早すぎた「ポップアート・フィルム」で主演を務めたのは、当時人気絶頂のアメリカ人リチャード・ギアとフランス人ヴァレリー・カプリスキー。もちろん、オリジナルのフランス人ジャン・ポール・ベルモンドとアメリカ人ジーン・セバーグのもじりである。




ジョン・バダムは80年代に安定した作品を連打したエンターテインメント監督だった。77年の『サタデーナイト・フィーバー』でブレイク、『この生命誰のもの』『ブルーサンダー』『ショート・サーキット』『アメリカン・フライヤーズ』『張り込み』『ハード・ウェイ』など多彩な作品を発表、なかでも『ウォーゲーム』は切れのいいSF青春スリラーである。マシュー・ブロデリックが好演するハッカー高校生が、偶然「世界全面核戦争」という「ゲーム」にアクセスして遊びはじめる。それは北アメリカ航空宇宙防衛司令部の「核戦争プログラム」であり、起動したコンピュターは米ソ全面核戦争の準備を着々と開始していく……。核戦争をゲームと重ねてキューブリックの『博士の異常な愛情』を思わせる風刺が効いて、勝者のいない「三目並べ」を効果的に使う終盤の盛り上げがユニークだった。




80年代のアメリカ映画界にはまだサム・ペキンパーがいたことが不思議なくらいだ。遺作となった『バイオレント・サタデー』はロバート・ラドラムのスパイ小説『オスターマンの週末』の映画化。時代の先端をいく「メディア監視」の恐怖を描いたスリラーで、ペキンパーの得意分野とはいえない。しかし奇妙なおもしろさがあるのもまた事実で、ルドガー・ハウアー、ジョン・ハート、バート・ランカスター、クレイグ・T・ネルソン、デニス・ホッパーなどキャストも異色の顔ぶれだった。トレードマークのスローモーションはおざなりな使い方だったが……。




ペキンパーやハル・アシュビーと比べれば晩年のボブ・フォッシーはまだ健在を感じさせた。遺作『スター80』は、『レニー・ブルース』などショービジネスの世界を描かせれば右に出るもののないフォッシーが、雑誌「プレイボーイ」の人気プレイメイト「ドロシー・ストラットン殺害事件」の顛末を描いた作品である。時代の「不穏」を巧みに捉えた力作で、観る者はこの悲劇の底に70年代の夢の終焉を感じとるだろう。ドロシー役に『マンハッタン』(ウディ・アレン)『マイライバル』のマリエル・ヘミングウェイ、彼女を殺害した恋人役に『キング・オブ・ジプシー』(フランク・ピアソン)『悪の華/パッショネイト』のエリック・ロバーツが扮した。


1984




ランブルフィッシュ』はフランシス・フォード・コッポラの実験精神精神が冴えた青春映画として忘れがたい一編である。(『80年代アメリカ映画100』の表紙に選出)。本作の夢幻的な視覚・音響スタイルは超大作『地獄の黙示録』と同一線上にあり、のちの『テトロ』などほとんど続編といっていい。これらを通じてコッポラは自らの内省的な側面を表現してきたが、その姿勢と手法が80~90年代のインディーズ作家たちに与えた影響は大きく、特にガス・ヴァン・サントの『マラノーチェ』『ドラッグストア・カウボーイ』などに顕著だった。マット・ディロン、ミッキー・ローク、デニス・ホッパーが家族を演じるが、ことにバイクボーイ役のロークの登場は衝撃的。トム・ウェイツ、ニコラス・ケイジ、クリス・ペン、ダイアン・レイン、ソフィア・コッポラらが脇をかため、いま見るとかなり豪華。ポリスのドラマー、スチュアート・コープランドの音楽もインパクトがある。前作『アウトサイダー』と同じスーザン・E・ヒントンのYA小説が原作だが、本作の方に「コッポラらしさ」が横溢している。ちなみに娘のソフィアが一番好きな父親の作品が本作だそうだ。




名誉ある撤退~ニクソンの夜』は、『ストリーマーズ』『わが心のジミー・ディーン』と続いたアルトマンの「16ミリ三部作」の最後の作品である。『ポパイ』で干されて以降、80年代のアルトマンは、舞台劇ばかり積極的に取り上げ、映画のミニマリズムに挑戦していた。『ナッシュビル』『ウエディング』などの群像劇で知られたが、『名誉ある撤退』では文字通りの「一人芝居」である。フィリップ・ベーカー・ホールがアルトマンの「天敵」リチャード。ニクソン大統領に扮し、ウォーターゲート事件発覚後の混乱のなかで大統領執務室に閉じこもり独りごとを語り続けるだけなのだが、奇妙な動作を続けるカメラワークで片時も飽きさせない。異色作中の異色作と言えるだろう。邦題は、ニクソンが不透明なベトナム戦争の終わらせ方に対する公約として語った「名誉ある撤退」から取られている。




アレックス・コックスは『レポマン』で、ローン未払いの車を回収する裏家業=レポマンとパンク青年オットーのエキセントリックな交流を描いた異色作をつくった。冒頭、イギー・ポップのテーマ曲とともにカリフォルニアの地図が映ると「ロスアラモス」がクローズアップになる。続いて、荒野をひた走る一台の車を止めた白バイ警官が謎の「白光」を浴びて骸骨になり、「Feelin'7-UP」を口ずさむオットー(エミリオ・エステベス)が登場する。ロスアラモスは45年アメリカ初の核実験地で、つまり「白光」は「原子力の光」なのである。政府機関から逃げ出した科学者は4人の宇宙人の死体を車に乗せて逃走。オットーらレポマンたちは知らぬ間に危険に接近していくが……。オックスフォードで政治を学び、UCLAで映画を学んだコックスの反体制スピリットが炸裂。ロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ』をベースとするこの確信犯的な超B級映画は、核戦争時代の80年代を語るときに欠かせないカルト・コメディとなった。自然光を人工的にみせる撮影はオランダ出身のロビー・ミューラー。『パリ、テキサス』(ヴィム・ヴェンダース)『L.A.大捜査線/狼たちの街』(ウィリアム・フリードキン)『ダウン・バイ・ロー』(ジム・ジャームッシュ)『サンタリア/魔界怨霊』(ジョン・シュレシンジャー)『バーフライ』(バーベット・シュローダー)など風景を異化する特有の眼差しで80年代のアメリカ映画を象徴するルックを生みだした。




80年代の「ニューヨーク・インディーズ」を牽引したのはジョン・セイルズである。『セコーカス・セブン』『リアンナ』『ベイビー・イッツ・ユー』に続く『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』は、そんなセイルズの代表作だ。スピルバーグの『E.T.』の脚本を依頼されるも社会派的に書き過ぎ却下された彼がつくった「非主流派のSF映画」。当然スピルバーグ的なSFXファンタジーではなく、ハーレムに「海から」やって来た黒人の宇宙人(ブラザー)は足の指が三本で、物を直す超能力を持つが、逃亡奴隷であり、白人二人組のバウンティハンターに追われている。 物言わぬブラザーがたどり着いたハーレムはかのコットンクラブで知られる黒人文化のメッカである。貧乏黒人ばかりが暮らすこの街にブラザーは溶け込み、白人ハンターは浮いているが、ここはアメリカなのだ……。オフビートなユーモアと鋭い社会批評にセイルズ一流のセンスが横溢。「ブラザー」は『E.T.』『シザーハンズ』(ティム・バートン)と並ぶ「新手のアウトサイダー」だった。これらの背景にあるのは共通して「差別」への問題意識である。なかでも『ブラザー』は黒人たちの連帯意識が痛快である。3本続けて観てみるとどうだろう。




ラヴ・ストリームス』は80年代につくられた「最も過激な作品」のひとつだといえる。『フェイシズ』『ハズバンズ』『こわれゆく女』『ミニーとモスコウィッツ』『オープニング・ナイト』『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』……ジョン・カサヴェテスがつくる映画ではつねに「感情」の表出が過剰である。本作でも、彼と妻のジーナ・ローランズ扮する兄妹が、感情的な行き場を失い、激情をぶつけ合い、形容しがたい「愛の流れ」なかに巻き込まれていく。2人が披露する禍々しい芝居、それを凝視するカメラ――シンプルな映画である。しかしそのシンプルさゆえに観る者は息詰まる荒波のなかへ放り込まれる。いよいよサービス過剰になっていく「ハリウッド映画」と、そのカウンターとしての「もうひとつのアメリカ映画」。カサヴェテスが巻いた種子がいよいよ育ちはじめていた。




ジョナサン・デミの『ストップ・メイキング・センス』は、ニューヨークのニューウェーヴ・バンド、トーキング・ヘッズのライブを捉えたドキュメンタリー映画の代表作。しかしその枠を越えて重要なインディーズ映画である。ロジャー・コーマン門下生のデミは、初期はバイオレンス・アクション、やがて『メルヴィンとハワード』などのコメディ作家として知られるようになった。その一方、ニューオーダーの「パーフェクト・キッス」などのPVで見事な腕を披露、本作では最盛期のトーキング・ヘッズのライブを記録した。『ブレードランナー』のジョーダン・クローネンウェスによる撮影は色彩が幻惑的で、デヴィッド・バーンの奇怪なパフォーマンスをつかんで離さない。観る者を巻き込む映画的な興奮は「痙攣」的。ウォドレーの『ウッドストック』、スコセッシの『ラストワルツ』と並ぶ音楽ドキュメンタリーの金字塔である。




フランケンウィニー』はティム・バートンがディズニー社でつくった短編だが、不気味かつ繊細で楽しいバートン・スタイルはすでに完成済み。愛犬を亡くした少年が、落雷の力により蘇生させようと試みる物語は、かの『フランケンシュタイン』へのオマージュである。少年役に『ネバーエンディング・ストーリー』(ウォルフガング・ペーターゼン)のバレット・オリバー。母親に扮したシェリー・デュバルは、ロバート・アルトマン(『ポパイ』)、ウディ・アレン(『アニー・ホール』)、テリー・ギリアム(『バンデットQ』)、スタンリー・キューブリック(『シャイニング』)と、異端児ばかりに愛された異能の女優。奇才バートンもまた早くも殿堂入りを果たすべく起用したのであろう。




ボディダブル』は、問題児ブライアン・デ・パルマが『殺しのドレス』『ミッドナイトクロス』に続いて手がけた風刺的なエロティックスリラーである。過激な暴力と性描写で映画表現を拡張すると同時に、非難さらされてきた彼は、次回作の主題を「80年代のポルノ映画業界」に定めた。クレイグ・ワッソン扮する売れない役者は幼い頃のトラウマで閉所恐怖症である。恋人の浮気を目撃し、オーディションからも落ちて、あげくに美女電動ドリル殺人事件を目撃してしまう。やがて主人公は魑魅魍魎うごめくポルノ業界に接近し、メラニー・グリフィスが魅力的に演じる気立てのいいポルノ女優に出会うが……。ソフトフォーカスの映像が印象的な前2本と異なり、ここでは『ファントム・オブ・パラダイス』に近いコミカルで下品な風刺スタイルである。またフランキー・ゴーズ・トゥ・リラックスの放送禁止曲「リラックス」が流れるシーンでは『サンセット大通り』などパロディスト・デ・パルマの面目躍如。




肉体の悪魔』『トミー』の鬼才ケン・ラッセルの『アルタード・ステーツ』に続くアメリカ映画『クライム・オブ・パッション』は背徳的かつ変態的な作品である。『2つの頭脳を持つ男』のキャスリーン・ターナーが「二つの顔を持つ女」を演じ、アンソニー・パーキンスが異常そのものの神父を演じる。スキャンダラスな性描写とブラックユーモアは、観る者をいやな気持ちにさせること請け合いである。同時期に公開されたデ・パルマの『ボディダブル』を超える問題作となり、自作が論争になることを期待したデ・パルマを失望させた。




OCとスティッグス/お笑い黙示録』はアルトマンのキャリア中、最も評判の悪い作品であると同時に、ほんの少しの熱狂的なファンを獲得している作品である。80年代は映画の客層が若者中心に偏り、膨大な「青春映画」が作られた。青春映画嫌いのアルトマンはそんな風潮にさからい、その下らなさを皮肉るために「下らない青春映画」を作ったのである。その意味でこれは戦争の下らなさを下らなく描いた『M★A★S★H』に近い。アルトマン一流の悪ふざけが炸裂したコメディであり、『地獄の黙示録』のパロディを演じるデニス・ホッパーの姿や、キング・サニー・アデの楽曲を楽しめる異色作である。川勝正幸は宝島社刊行の「このビデオを見ろ!」のなかで自身の「クリエイティヴの恩人」としてアルトマンの名を挙げているが、そのあまりにもねじれた根性ゆえに、これはかえって難解な作品となった。そんな本作が「早すぎた作品」である証拠は、のちに人気を博した『ビルとテッド』シリーズに多大な影響を与えていることからもうかがえる。




マリアの恋人』はソ連のアンドレイ・コンチャロフスキーによる秀作である。彼はソ連映画『ワーニャ叔父さん』で注目され、アメリカで黒澤明脚本の『暴走機関車』を撮ったことで知られるが、本作の美しさも捨てがたい。第二次大戦後のペンシルヴァニアを舞台に、戦争帰りのサヴェージが結婚したキンスキーがかつて彼が知っていた純情な娘ではなかったことを知るという物語。最も美しい頃のナスターシャ・キンスキー、ジョン・サヴェージ、キース・キャラダイン、ロバート・ミッチャム、ヴィンセント・スパノが名を連、加えて『バード★シット』『少年は虹を渡る/ハロルドとモード』のカルト俳優バッド・コートも顔を見せる。


次回に続く(渡部幻)。


芸術新聞社の「アメリカ映画100シリーズ」

">『ゼロ年代アメリカ映画100』(渡部幻、佐野亨編)発売中

">『80年代アメリカ映画100』(北沢夏音監修、渡部幻主編、大場正明、佐野亨)

">『90年代アメリカ映画100』(大場正明監修、佐野亨主編、渡部幻)3月発売

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