真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

『60年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)を、「はじめに」から。

2016-02-21 | アメリカ映画100シリーズ(芸術新聞社)
  

もし映画界を支配する人々が良質な作品への敬意を持っているとしても、並み以下の作品でも興行的に成功できるという事実が、その敬意を弱めている。しかしテレビが状況を一変させた。映画産業は経済的に大きな打撃を受けたが、一方で、真面目かつ大胆な映画づくりが、いままで以上に求められる状況が生まれた。ロールスロイスとヒョウ皮に代表される華やかさが、ハリウッドから失われても、それに代わって若い世代には願ってもない刺激的な環境が生まれつつある。――スタンリー・キューブリック(1957年、CBSラジオ)

 第二次大戦のアメリカでは映画の非日常世界に浸ることが習慣化して、1946年には週間動員数が9000万人以上に達したとされる。しかし、38年から続いた反トラスト法違反の訴訟で敗れ、54年までに5大メジャーは直営劇場を手放して収益が激減。さらにジョゼフ・マッカーシーの赤狩りが業界を萎縮させて、テレビの普及がこれに追い討ちをかけた。
 14インチから17インチの小さなブラウン管が映像を日常化して、人の知覚や習慣にまで影響を及ぼしていく。トロント大学の教授マーシャル・マクルーハンは、映画を「熱いメディア」、テレビを「冷たいメディア」と位置づけ、64年の著書『メディア論/人間拡張の諸相』に記した。

「地球は電気のために縮小して、もはや村以外のなにものでもなくなってしまった。電気のスピードがあらゆる社会的および政治的作用を一瞬にして統合してしまうために、人間の責任の自覚を極度に高めてしまった」「現代は不安の時代である。電気の内爆発のために、いかなる「視点」と無関係に関与と参与を強いられるからだ」「冷たいメディアは、話しことばにしろ、写本にしろ、テレビにしろ、それを聞く人や使う人が自分でやる余地を、熱いメディアよりはるかに多くを残している。メディアが高い精細度のものであれば、参加の度合いは低い。メディアが低い精細度のものであれば、参加の度合いは高い」

    

 53年、デルバート・マンのテレビドラマ『マーティ』がありふれた人々の生活を描いて反響を呼ぶ。若きシドニー・ルメットやジョン・フランケンハイマーらが手がけた生放送ドラマの「低い精細度」の映像は、電波に乗って家庭に届くことで「日常」と「ドラマ」を結びつけたのである。ハリウッドは、ビスタヴィジョン、シネマスコープ、シネラマ、70ミリ、3Dなどの新機軸で対抗。贅を尽くした非日常の映像で、映画の「高い精細度」化に拍車をかけた。しかし大衆の劇場離れは止まらず、結果、“娯楽の王”の座から転がり落ちる。

人間は二つのタイプにわけられるんだ。部屋に入るなりテレビをつける者と、部屋に入るなり消す者だ。――ジョン・フランケンハイマー監督『影なき狙撃者』(62)より

 しかしこうした状況は“映画”を最大公約数的な“娯楽”から解放させた。ハリウッドとは一線を画するインディペンデント映画、アンダーグラウンド映画、ドキュメンタリー映画が勃興してくる。アートシアターではヨーロッパの新しい波が紹介され、大学の映画学科にベビーブーム世代の若者が集まり、私的かつ自由で、現実的かつ超現実的な映画表現の可能性が模索された。アンダーグラウンドの重鎮ジョナス・メカスは「ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」を発足。そのマニフェストのなかで宣言した。

「芸術と人生の嘘っぱちにはもう飽き飽きした。他の諸国の若い仲間たちと同じように、新しい映画を創造するばかりでなく、われわれは新しい人間を目指すのだ。芸術作品と同じくらい、われわれは新しい人生の創造に賭ける。ピカピカできれいに磨き上げられているが中身の方は嘘っぱちだらけといったニセモノの映画はもうまっぴらだ。たとえ荒削りでもいい。素顔の生きた映画の方がはるかにマシだ。観客にバラ色の夢を与える映画でなくてもいい。われわれの欲しいのは血の色をした映画なのだ」

     

 「血の色をした映画」――60年代の映像を映画に限らなければ、テレビ、特にニュース映像が伝えた「バラ色の夢」でない「血の色をした」現実がある。それは、人々の意識を変え、現実観、死生観にまで影響を及ぼし、文化や政治を動かす一因ともなった。
 60年。マサチューセッツ州選出のジョン・F・ケネディ上院議員が大統領候補指名を目指したとき、タイム社のロバート・ドリューはリチャード・リーコック、アルバート・メイスルズらとともに、彼を追う画期的なドキュメンタリー『プライマリー(予備選挙)』(60)を撮影。これがテレビで反響を得ると、続いてケネディは、リチャード・ニクソンと史上初のテレビ討論に挑んだ。そして接戦の末に43歳の“スター大統領”となり、61年の就任演説で呼びかけた。

「同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。最後に、アメリカ市民の皆さんも世界市民の皆さんも、どうぞ我々が皆さんに求めるのと同じ水準の熱意と犠牲を我々に求めてください」

     

62年、覚えてる? 62年、君はどこにいた?――ジョージ・ルーカス監督『アメリカン・グラフィティ』(73)予告編より

 62年、キューバ危機が勃発。世界は核戦争の手前まで行くが、回避される。しかし一般的な感覚では、まだ温和であり安全な時代だったかもしれない。そして63年。白昼のダラスでケネディの頭が吹き飛ばされ、民衆はテレビを通じて葬儀に参加した。婦人服製造業者エイブラハム・ザプルーダーが8ミリカメラでとらえた暗殺の瞬間は、「ザプルーダー・フィルム」と呼ばれ、のちに最もよく知られる「60年代の映像」となり、暗殺犯とされるリー・ハーヴェイ・オズワルド殺害の中継映像が、これに続くことになる。
 ケネディを引き継ぎリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任。64年の再選の際に衝撃的なモノクロCMを打つ。花びらを数える金髪の少女にカウントダウンの声が重なる。スリー、ツー、ワン、ゼロ……少女が顔を上げるとキノコ雲が空を覆い、ジョンソンの声が語りかけてくる。

「私たちは愛し合わなければ死ぬしかありません。11月3日はジョンソンに投票を。棄権の代償は高くつきます」

     

 遠くベトナムのジャングルでは、平凡なアメリカ人青年が国家的殺戮に加担し、殺し、殺され、狂気にまみれていた。ベトナム戦争はテレビ初の戦争報道となり、63年のベトナム人僧侶ティック・クアン・ドックによる在南ベトナム・アメリカ大使館での抗議の焼身自殺や、65年、CBSのモーリー。セーファーによる南ベトナムの村に派遣された海兵隊員がライターで120棟の家を焼き払う姿、68年、南ベトナム解放戦線ゲリラのアメリカ大使館襲撃とその戦闘を中継。同年、NBCはベトナム共和国警察庁長官グエン・ゴク・ロアンの解放戦線兵士グエン・ヴァン・レムに対する路上処刑などを放送し、世論を騒然とさせた。国民の、世界の、真の敵は誰か? 67年、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンの風雲児モハメッド・アリはベトナム徴兵を拒否し、言い放った。

「ベトコンは俺を「ニガー」と呼ばない。彼らには何の恨みも憎しみもない。殺す理由もない」

     

 アメリカの矛盾が吹きだして国民は分裂。人々は“参加”と“不参加”の間で選択を迫られる。カウンターカルチャーが沸き起こり、フォークソング、ロック、雑誌、デモ、シット・イン、ティーチ・インに参加し、徴兵カードを焼き払うことで“暴力社会”への不参加を表明することは、国家の敵となることを意味した。68年、非暴力主義を唱えた公民権運動家のマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺され、続いてロバート・ケネディも凶弾に倒れた。
 69年、愛と平和のウッドストック・フェスティバルとアポロ11号の月面着陸で、「60年代」は頂点を迎える。ロックの轟音鳴り響く広野に集う40万人のヒッピーと、音のない世界に着陸した宇宙飛行士のニール・アームストロングとエドウィン・オルドリン。この啓示的とも言えるスペクタクルは、人々にひととき現実を忘れさせたが、ベトナムに従軍した無名兵士はこう記していた。

「アメリカという国は、ベトナムの泥沼を這いずり回って暮らす数十万のわれわれ全員よりも、月面にいる、たった2人の男のことを、ずっと心配していたのだ」

     

 歯に衣着せぬ毒舌で体制と対立したスタンダップ・コメディアン、レニー・ブルースは言った。

「真実ってえのはさ、あるがままのもんであってな、あるべき姿なんかじゃないんだよ。あるべき姿なんてえのは、ただの薄汚れた嘘っぱちだね」

 60年代アメリカ映画もまた「あるべき姿」ではない「あるがまま」の姿をとらえはじめる。ハリウッドと非ハリウッド、往年の巨匠と業界のアウトサイダー、モノクロとカラー、スタンダードとシネマスコープ、商業映画と非商業映画が対立し、入り乱れ、交錯するなか、長年業界に君臨してきたタイクーンたちも老いて引退するか、この世を去るときを迎える。メジャー各社は次々にコングロマリット傘下へ。業界に風穴が開くと、テレビ、カウンターカルチャーの洗礼を受けた世代が台頭。彼らの突破する精神が、伝統と革新、映画と現実の境を溶解させて“ルネッサンス”に突入し、67年の『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン)や『卒業』(マイク・ニコルズ)、68年の『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック)、69年の『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー)『真夜中のカーボーイ』(ジョン・シュレシンジャー)『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー)などの異色作が世に問われた――

     

 ――しかし、現在の目で見れば、俳優だったジョン・カサヴェテスが「映画作家」として導入したゲリラ撮影と感情的混沌の世界こそが「新しい映画」の幕開けを告げていたと思える。若きマーティン・スコセッシは、初めて彼の映画を観たときの思いを、次のように語っていた。

「1959年、ジョン・カサヴェテスが『アメリカの影』で16ミリキャメラをすでに用いていた。だからもう言い逃れはできなかった。カサヴェテスにできたのなら、自分たちにだってできるはずだ!」

(渡部幻)
     

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