真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

Charlotte Kemp Muhlの幻想的な“お化け写真”

2010-05-31 | ファッション写真


スクロールしながら見ると「余計にいい」。モデルの表情に見とれつつ下げていくと、やがて右首筋のあたりからぼんやりと横顔が浮かびあがってくる。首もとから「ヌボゥ」と出かかっている横顔が「お化け」めいてよく、「ヌード側」の腰脇に垂れ下がった「服を着ている側」の腕が異様に短く、フリークめいて見えるのもこの写真の「お化け性」を強めている。二つのポーズを重ねてるだけなのだが、あらためて全体を見たとき、二つの顔のうち正面よりも横顔の方が印象の残るのはどうしてだろう。ひとつに「ぼやけた横顔の方」がヌードであること、バストやわき腹に浮き上がったあばら骨に意識が向かうからだろう。人はモデルを見るときにどこから眺めるだろう? 自分は顔からである。そして視線を下げていき、最終的に全体像を見るが、そのときの焦点は中心に合っている。この写真の場合で言えば、まず視点が、ピントの合った「正面の顔」に向かい、次に左の顔に移動し、バスト、あばら骨、垂れ下がった右腕、へそ、と流れて、最後に写真の中心にあたる「あばら」を見てから、上へ視点を辿らせ「顔」を探しあてたゆえ、最終的に「ぼやけた横顔の方」の印象が強くなったのだろう。もうひとつおもしろいのは「二つの顔」が不思議なくらいうまく溶け合っていること。多分それは「ぼやけた横顔の前髪」が「正面の顔の膨らんだうしろ髪」のように見えるからではないだろうか。

「TOKION 2010/spring/summer]より。モデルはCharlotte Kemp Muhl。






[写真] "鏡で顔を確認する女の子"

2010-05-29 | 写真


お出掛け前だろうか、鏡を覗き込んでいる女の子。
いま彼女は、顔のどこを確認しているのだろう。唇、鼻、それとも顎か?
女の子は出掛けるまでに、一体何回くらい確認を繰り返すものなのだろうか。

鏡を極力見たくない僕には分からないが、やはり女の子にとってお顔チェックは大切なことだろう。
男たちは結構ジロジロと見ているものだ。だから、百人の男の視線よりも厳しい自己チェックが必要になるのは当然のことであろう。彼女の肩からは“緊張”が、視線からは“厳しさ”が、眉からは“自己を皮肉に眺める心”が感じられる。
しかし、かしげた腰元と、そこから伸びる揃えられた細い足からは、そんな日常の営みに、すっかり慣れきっていることから生まれた“余裕”や“楽しさ”も伝わってくるようだ。

ダンカン・ジョーンズの『月に囚われた男』は「SF映画の美」を現代に甦らせるDNAを持つ

2010-05-15 | ロードショー
   


 デヴィッド・ボウイの息子ダンカン・ジョーンズの監督デビュー作『月に囚われた男』(09)を恵比寿ガーデン・シネマで観た。
月を舞台にした久しぶりの創意溢れるSF映画らしいSF映画で、主演はサム・ロックウェルと声のみでケビン・スペイシーが参加。基本的に人間はロックウェルしか出てこない野心作である。

 原題は『MOON』――シンプルなタイトルである。日本タイトルは往々にして説明的でかえって観る気をそがれるが、しかし単に『月』でも困るだろうから仕方がない。制作費4、5億円程度の低予算映画だが、しかし実に美しい仕上がりである。
 『月に囚われた男』は、遠き故郷、遠き記憶への、決して届かぬ「想い」を描いた作品である。ジョーンズはここで「SFの形式」を借りてアイデンティティの問題を追及する。生命とはなにか、自己とはなにか、それが生まれ、そして死ぬことには、どんな意味があるのか。ジョーンズは映画の天才なのかもしれない。静謐な月面の造形が、人の生命の儚さと孤独を表現して近年稀に見る。かつて60年代の宇宙時代を通過して生まれたSF映画の名作――『2001年宇宙の旅』『サイレント・ランニング』『エイリアン』など――が描いてきた「孤独美」がここにはある。かつて見たあの映像詩が、いま、ここに甦ったのである。

 


 地球に不足しているある燃料が月にあるという。この採掘事業に乗り出したのは政府でなく企業だが、彼らは月面に基地と自動作業用の機械を設置。従業員は独り。サムの労働はなんら科学的なものでなく単純な管理係だ。主な作業はコンピューターが担っており、その進行がスムーズに進んでいるかを確認しているだけである。いわば『エイリアン』でハリー・ディーン・スタントンとヤフェット・コトーがコンビを演じたブルーカラーだが、サムにもパートナーのガーティがいる。ガーティはロボットだが奇妙に温かみも感じさせる。姿形は擬人化されておらず四角い機械の塊でしかないが、食事や散髪、心と身体の状態の世話をやき、何より会話相手になってくれるのである。
 サムは故郷の地球に妻と幼い子供を残している。機械の故障によりリアルタイム通信が出来ない状態だが、ときおり妻からのビデオレターが届く。知性的なブロンド美人の妻は「こんなことになって残念だけど仕方がなかった。でも、もうすぐまた逢えるわね」と語る。サムはその映像を愛しそうに見つめる。三年の契約はもうすぐ満了。地球に帰れるのだ。
 ある時、サムがコーヒーを入れていると、モニター前のソファーに長い黒髪の若い女性が座っているのに気づく。動揺して手を火傷するが、その女性は消えてしまった。ガーティはサムを手当てしながら心配して「幻覚を見たのでは?」と問う(スペイシーの話し方は『2001年』のHALをより温かくした雰囲気だ)。しかしサムはその問いに答えられない。

 

 


 月面での作業。作業用の車両に乗って暗く音のない世界を進んでいく。基地から一定距離を離れると通信が届かない。自動で採掘を進める巨大なマシーン。崩された無数の石が無音で宙を舞っている。ユックリそこへ近づいていく。車窓の視界が宙を降ってくる石で曇る。が、その向こうに「あの女性」が立っているのが見える。今度は驚かない。ただ見とれ、陶酔したように黒髪の元に吸い込まれていく。採掘機に激突。事故を起こしてしまう。
 目覚めたサムは基地のベッドにいる。記憶がない。ガーティは「あなたは事故を起こしたのです。しばらく安静にしてください」と説明。どういうわけだか傷ひとつない、誰がここへ連れてきたのだろう。これが「女性」に続く二つ目のミステリーとなる。
 サムはガーティが地球の人間(企業の)と「リアルタイム通信」をしている声を聴く。リアルタイム通信は出来ないはず。サムが問うと「いえ通信機器が故障しているのでレターを送ったところです」との返答。三つ目のミステリーだ。外に出ようとすると執拗に止められる。無理やりに飛び出して月面を車で走らせる。あの作業機に近づくと、そこに事故を起こして斜めになった「別の車」がある。サムが車を調べると、自分と瓜二つの男が怪我をして倒れている。基地に連れて帰り、病室に寝かしつける。ガーティに問うが答えない。四つ目のミステリーである。






 以上はドラマのほんのさわりである。監督・脚本のダンカン・ジョーンズは、ここまでの展開をスロウで自信に満ちたテンポ運びでミステリアスに進めていく。静謐であり、視覚的な美意識が観る者の眼を惹きつけ、一種独特なムードの中へ巻き込んでいく。サム・ロックウェルの一人芝居が素晴らしく、宇宙に一人生きることを自然に納得させ、ケビン・スペイシーの「声」の魅力を再認識させられる。
 ジョーンズは提示された謎の数々の答えを容易には提示しない。映像やセリフ(または音)が示唆するものをそのまま受け取ることは出来ないのだ。謎が謎を呼び、様々な感情の断片が散りばめられる。それらは映画を見終わってからも尾を引き、フラッシュバックしてくる。映画の記憶を振り返り、茫洋とした意識のなかで「あれは一体何だったのだろう」と反芻させられるだろう。これは「答えのないミステリー」なのか、それとも「答え」に気づかなかっただけなのか。

 本作の主題は記憶である。人の記憶は「事実」をそのまま保存することができない。あくまでも主観的に解釈された記憶でしかないのである。しかし人は「事実」を確認すべく、自らの記憶を探る。そして分かることは自分という存在の不確かさ、その曖昧さでしかない。現実性の記憶、夢の記憶、幻想の記憶、人から聞いた話の記憶、どこかで読んだ記憶、あらゆる記憶が渾然一体となって脚色された末に生まれた「その人に固有の意識」がどこまで客観的な信用に足るものだろう。ときに人は自らをも信じられず孤独を感じ、感じるうちに、自らについての幻想を抱きはじめるかもしれない。そうした人と人が出会い始まる関係はその擦れ合いであり、本質的には問題が解決されることはない。人の生き死にはどこまでも孤独な営みなのだ。それは夜空を見上げ、無限の宇宙を想うことと似ているだろうか。サムが直面するのは実存を揺るがすそんな自らへの「問いかけ」なのである。






 人の「問い」は科学となりときにDNAの記憶へと遡っていく。しかしDNAのなかに自己のルーツを発見したとしても、だから何が救われるというのか。主体はどちらにあるのか。DNAを探り当てた自分にあるのか、探り当てられた自分の方にあるのか? 合わせ鏡の疑問は無間地獄であり、この追求が辿りつける帰結などないのである。しかし、「真実の一端」に触れてしまった人間はそれを見過ごせない場合がある。不可思議を拒絶して真理を問い、未完であり不完全であることを否定して自らを一個のアイデンティティとして証明しようとする。そんな不可能に挑戦することで最終的には人格の崩壊に到るかも知れない。自ら無限の宇宙に身を投げ出す振る舞いのなかに人という生き物の真の切なさがあるのかも知れない
 『月に囚われた男』の美しさは生命の儚さと表裏の関係にある。世界で最も有名な人物のひとりデヴィッド・ボウイのDNAを引き継ぐ息子としてのダンカン・ジョーンズほど、その問いかけに相応しい監督もいないかもしれない。1972年生まれのジョーンズがどんな人生を送ってきたのかは知らない。かの「スターマン」(72)を歌った希代のロック詩人の父親が、幼い彼の心に何を示し、何を残したのかも知りはしない。しかしすべての人がそうであるように、ジョーンズの人生の記憶、彼の細胞を形成し血管を流れるDNAの記憶、彼の人格形成に影響を残してきた経験やSF小説や映画の記憶、そうしたあらゆる記憶がよき血となり肉となった結晶が『月に囚われた男』であることは確かだ。

 本作のそこかしこに見受けられる「映画的なDNA」についてなら多少気づくことができる。ダグラス・トランブルの『サイレント・ランニング』(72)、レムの小説を映画化したアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(72)とスティーブン・ソダーバーグの『ソラリス』(02)、キューブリックの『2001年宇宙の旅』(68)、リドリー・スコットの『エイリアン』(79)『ブレードランナー』(82)、ピーター・ハイアムズの『アウトランド』(81)、ジョン・ブアマンの『未来惑星ザルドス』〈74〉……。さらに連想は膨らむ。ソール・バスの『フェイズⅣ』(74)、デヴィッド・クローネンバーグの『戦慄の絆』(88)、黒沢清の『回路』、松本零士の『銀河鉄道999』や手塚治虫の『火の鳥・未来編』。もちろんデヴィッド・ボウイが主演したニコラス・ローグの『地球に落ちてきた男』(76)『赤い影』〈73〉『美しき冒険旅行』〈71〉、フランシス・フォード・コッポラの『カンバセーション…盗聴‥』(74)……。『月に囚われた男』がこれらから「よきDNA」を受け継いでいることは間違いがないだろう。

 

 では、ジョーンズが鮮やかに受け継ぎ、消化したものは何か? それはあのデザインが似ているとか、あの撮りかたは○○の影響を受けているとかいう表面的なスタイルのことではない。もっと深いもの……より掘り下げてたどり着いたDNAのようなものである。これらSFやその他の作品が共通して描いていたもの、それは喩えようのない孤立感であり、実存の揺らぎ、失われつつある感覚、もう2度と戻らないだろう過去へのノスタルジア……。

 『月に囚われた男』が以後、埋もれてしまうか、もしくはカルト作になって残るのかはわからない。しかしこれがスパイク・ジョーンズの『かいじゅうたちのいるところ』(09)やスコセッシの『シャッター・アイランド』(10)、ビグローの『ハートロッカー』(09)やブロムカンプの『第九地区』(09)に描かれたアイデンティティの揺らぎと同様、同じ時代の空気を深く吸い込んでいる作品であることは確かだ。観客を幻惑するSFミステリーでありながら、謎を謎のままに放置して「死の不安」を「生の実感」に反転させる。「新しい才能」の誕生に賞賛を送り、新作を楽しみにしたい。
(渡部幻)

 
 
 

写真家Peter Lindebarghによる「俺たちに明日はない」(HARPERS`BAZZER)

2010-05-05 | 映画




「俺たちに明日はない」はアーサー・ペン監督が「エスクワイア」の記者ロバート・ベントンとデヴィッド・ニューマンの二人が書いた脚本を映画化した伝説的傑作。フェイ・ダナウェイとウォーレン・ビーティを主演、ジーン・ハックマン、エステル・パーソンズ、マイケル・J・ポラードが脇を固める。大恐慌時代に実在したギャング“ボニーとクライド”を描いたアメリカン・ニュー・シネマの代表作で超スローモーションで描かれる87発の射殺シーンは見たものの脳裏から離れない。
そんな名作を写真家Peter LindebarghがAnna SeleznevaとWes Bentleyで写真にして発表した。
映画でフェイ・ダナウェイが演じたボニー役のファッションは67年当時話題になり“ボニー・ルック”としてもてはやされたことを思えば、43年の時を越えてまた取り上げられたのも、なるほどである。