真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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『フォックスキャッチャー』 暗鬱な密室の〝アメリカ〟

2015-02-22 | ロードショー


ベネット・ミラーの『フォックスキャッチャー』は何もかもが圧倒的である。カンヌ映画祭で監督賞を獲得する以前から期待していたが、映画を構成しているあらゆる要素が完璧に機能していて、ミラーが「現代の名匠」としての地位を揺るぎないものにしたことを実感させる。

ミラーはデビュー作『カポーティ』で、天才作家トルーマン・カポーティと彼が取材した一家殺害事件の犯人の奇妙な共感と裏切りの顛末を描き注目されたが、『マネーボール』に続く三作目の『フォックスキャッチャー』でも、デュポン家の御曹司が1984年ロス五輪におけるアマチュア・レスリング金メダリストを殺害するに至った異様な経緯を暗鬱たるタッチであぶり出してみせる。社会階層の異なる有名・無名の男たちが共通して抱えている孤独感が、いかに両者を結びつけ、互いを必要とさせ、ときに利用しながら、破滅へ突き進んでいく過程、それが静謐な緊張感を張り巡らせた演出によって描破しつくされるのである。

アメリカ史に名を残すデュポン家の世界と金メダリストの世界は、ともに栄光の華々しさとは裏腹に、世界から隔絶され、内部から崩壊する過程にある。この二つの世界が結びつき、三人三様の男たちが暮らす「いっけん健康な世界」が「不健康な世界」に呑まれ、ゆっくりと窒息していく。共依存関係を築き、腐食していくさまの異様さ、極度の不健康さが、観る者をも蝕み、登場人物たちの内面的・身体的な危機を共有せずにおられなくなるのだ。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ザ・マスター』『ノーカントリー』『悪の法則』『ハートロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティ』『ソーシャル・ネットワーク』『her』『ダラス・バイヤーズ・クラブ』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『ブルージャスミン』『マップ・トゥ・ザ・スターズ』、そして『ゴーン・ガール』、またはテレビドラマ版『FARGO/ファーゴ』や『トゥルーディティクティブ』など、ここ10年以内の現代アメリカ映画の映像には、現実感覚の崩壊と、暗鬱たる未来の予感が横溢している。結末の先に不穏を見るか、希望を見るかの違いはあるにせよ、ドラマの中心になるのは、いま足元から崩れつつある自国の過去と現在を検証する厳しい眼差しである。

ミラーはそうした現代映画の最前線に立つ人物のひとりだと言えるが、これまでのところ彼の主題は、アメリカ現代史の特殊かつ閉鎖的な人間関係の実話を材に、極めて普遍的な「人間の孤独」を浮かび上がらせることにあったと思う。『フォックス・キャッチャー』はその決定打とも言える傑作であり、アメリカを覆う不穏を、映像の隅々にまで行き渡らせることに成功している。「アメリカ」と「アメリカ人」の深淵をえぐりださんとするこの作者の眼差しと高度な映画芸術に昇華させる手腕は敬服に値するものだ。

ミラーは『カポーティ』で2005年のアカデミー賞にノミネートされたが、同年はクオリティの高い作品が揃っていた。スピルバーグの『ミュンヘン』、クルーニーの『グッドナイト&グッドラック』、アン・リーの『ブロークバック・マウンテン』、ポール・ハギスの『クラッシュ』だが、いまをもってアメリカ映画の重要作だといえる力作揃いだ。また、『クラッシュ』を除き残りすべてが過去を題材にしており、『カポーティ』と『ミュンヘン』『グッドナイト&グッドラック』は実話の映画化だった。「過去の悲劇」を描いて「現代の問題」を焙り出すことに成功した「ベテラン勢」。そのなかにあって「新世代」にあたるミラーもまた彼らに引けを取らぬ地に足のついた演出力を披露して注目されたのである。

『フォックスキャッチャー』は『カポーティ』の変奏であり、両者は非常によく似た人間関係を描いているといえる。
『カポーティ』は作家と殺人犯といういっけん対照的な人物がともに内に抱えた「心の茨」の交流を描いている。カポーティは犯人のなかにあり得たかも知れに自らの分身を見いだし、犯人は自分を利用しているだけかも知れない作家をまるで父のように慕っていく。カポーティもまた犯人に自らを投影し、感情移入を抑えることができなかったが、作家としての性(さが)によって細い糸でつながる信頼関係を打ち切ってしまうのである。
自らの「分身」への裏切りの行為は、のちに彼自身をも崩壊させていくこととなるが、この関係が『フォックスキャッチャー』でのデュポンとシュルツの関係を思わせるのである。その姿は映画作家ミラー自身にも重なるだろう。実在人物を自らの芸術に利用する。その過程で内なる歪みをも見出さざる得ないだろうことは、こうした創作に携わるかぎり、避けることのできぬ必然の帰結であり、ゆえにあのカポーティと重なり見えてくることもある。

『フォックスキャッチャー』でミラーは「事実」にとらわれず脚色を加えることで、自らの「真実」を追求している。実在のマーク・シュルツが、本作に対し怒りを表明していると聞くが、なるほどそういうことは映画や小説など「事実を元にした創作物」にはよく起こるトラブルだといえる。実話を元とする映画が目指すべきは「事実」の忠実な再現ではなく、その奥に潜む人間普遍の「真実」を突き詰めることである。「シュルツにとっての“事実”」と「映画にとっての“真実”」はまるで異なるものであり、観客が観ることになるのは、「現実の事実」ではなく「映画の真実」なのである。90年代の事件を80年代に置き換えたミラーの真意こそ知らないが、「事実の忠実な再現よりも」あくまで「映画リアリズム」を優先してはばからぬその決断と姿勢は、極めて理知的な判断によるものではないだろうか。見方によれば残酷とも冷酷ともとれるその判断が、本作を他に比すもののない傑作たらしめていると、感じられてならない。本作はそうしたミラーの作家性を現時点における最高度にまで高めた成果なのである。
また、彼は、俳優演出の天才でもある。『カポーティ』のフィリップ・シーモア・ホフマンとキャスリン・キーナー、『マネーボール』のブラッド・ピットとジョナ・ヒルなどに続き、ここでは、スティーヴ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロから最高レベルの芝居を引きだしてみせ、そのアンサンブルは『ゴッドファーザー』や『ディアハンター』に匹敵している。『カポーティ』と同様、撮影も見事だ。時折綴り込まれる風景ショットの暗鬱たる寒々しさが、アメリカとそこに生きる登場人物たちの憂鬱を伝えるのである。それは黄金の70年代アメリカ映画を思わせる質感を持つが、ミラーは久方に現れた「映画の風景画家」といっていいかもしれない。

何より素晴らしいのは、ミラーのニューロティックかつパラノイアックな人間ドラマが、その奥底に人間という生物の儚さと哀しみへの共感を沁み込ませていることである。