真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

トッド・ヘインズの『キャロル』を観る前に読んでおきたい淀川長治の『太陽がいっぱい』話

2016-01-29 | ロードショー
   

トッド・ヘインズの『キャロル』が評判のようだが、これは僕が去年に観たなかでも特に気に入った映画だった。
いまは遠い時代のラブストーリーであり、同時に一人の女性の成長物語である。女性とデパート、レコードとラジオ、カメラとフィルム、非米活動委員会と盗聴――保守と抑圧の50年代を柔らかに胸を締めつけるような緊張美で飾りつけて洗練を極め、たまらなく魅惑的だ。全編が名演技、名演出の連なりからなり、撮影、衣装、美術、音楽に至る入念な時代考証とその繊細な表現力が観る者に「現在」を忘れさせる。ヘインズは当時のフォト・ジャーナリズムを参考にし、同時にデヴィッド・リーンの『逢いびき』を引き合いに出していると語るが、これは、社会的、政治的な抑圧と困難に直面したアウトサイダーのソウルを描き続けるヘインズの新たな到達になった。心許なく華奢な身体で人の現実を凝視する才能を秘めるルーニー・マーラと孤独で誇り高くゴージャスなケイトブランシェットは映画ファンに記憶されるカップルになるだろう。

アカデミー賞の作品・監督賞から外されたが、ほかの賞ではノミネートされていることを考えると、ちょっと解せない。またケイト・ブランシェットが主演女優賞、ルーニー・マーラが助演女優賞という分け方にもピンとこない。同時に主演ノミネートか、ルーニー・マーラが主演賞でなければおかしいと思うのだが、こういうことはよくあることで、別に目くじらを立てるほどのことではないかもしれない(『ゴッドファーザー』では当時に知名度の違いからだろうか、ブランドが主演、パチーノが助演だった。内容からすればむしろ逆だと思うが)。

ところで、『キャロル』は女性カップルの恋愛を描いた作品である。映画の監督へインズ自身がゲイであり、そのことはよく知られているが、原作者のパトリシア・ハイスミスもレズビアンだった。このことは比較的最近知られるようになったことで、原作の発表時には「クレア・モーガン」名義で出版している。

ハイスミス作品の映画化といえば、ルネ・クレマン監督による『太陽がいっぱい』が有名である。クレマンもまたゲイだったと読んだことがあるが、主演のアラン・ドロンは、クレマンとやはりゲイの巨匠ルキノ・ヴィスコンティに愛された俳優であった。ハイスミス原作の映画化では他にヒッチコックの『見知らぬ乗客』があり、これも有名だが、主演のファーリー・グレンジャーはバイセクシャルだったと聞く。それを知ってかヒッチコックは、ゲイ・カップルによる殺人事件をモデルとする『ロープ』にも彼を起用。その事件は、リチャード・フライシャーの『脅迫/ローブ殺人事件』や、トッド・ヘインズと同じ頃に登場したトム・ケイリンの『恍惚』にも描かれていた。

『恍惚』はこれまでの映画化とは比較にならないほど率直にゲイと殺人を描いていた。ケイリンとヘインズは共に、90年代に台頭した「ニュー・クィア・シネマ」の旗手として注目されたが、ことにヘインズの才能はそうしたカテゴライズをはるかに超えるものだったと言える。ヘインズの興味と姿勢は、『ポイズン』『SAFE』『ベルベット・ゴールドマイン』『エデンより彼方に』『アイム・ノット・ゼア』『ミルドレット・ピアース』『キャロル』と続いてきた多彩なフィルモグラフィーを貫く個性で、そのことは彼が『ポイズン』を語る次の言葉に集約されていると思える。

「映画の中のリアリティを、ハリウッドの伝統的ジャンル、そのスタイルを検証しつつ、示してみようと思った。映画と観客の間の距離が、物語によって次第に奪い取られてゆく。映画のそんな仕組み、内面に働きかける力、ストーリー・テリング。ただ物語に別の角度を与えること、その角度のつけ方も同じ位、重要だと考えている。面白いのは、当時の恐怖映画が冷戦とか非行とか50年代にあった問題を使ってある種、危機感を煽るように作られている点だ。(中略)ハリウッドのホモ恐怖症のせいばかりではない。実験的な映画を撮ろうとしているから伝統的なハリウッドのフォーマットには収まらなかったんだ」(1991年『FLIX』より)

91年の言葉だが、いま読んでも、新作を語っているように読める。最後の部分について補足すれば、『キャロル』でのヘインズは、失われた(50年代の)ハリウッド・フォーマットにフィットさせた上で、その「角度」を微妙なかたちで異化して自らに引き寄せている。50年代のハリウッド映画は「安全・無害」に殺菌された映画の代名詞だが、それは検閲が厳しかったからであり、悪名高い「赤狩り」による思想弾圧も行われていた。それゆえ野心的な作者たちは自らの思想を、権力に「見えない角度」からこっそり忍び込ませていた。その大家が、たとえばヒッチコックでありビリー・ワイルダーだったわけだ。

   

冷戦と赤狩りが支配した50年代の同性愛を描いた『キャロル』は、「50年代を背景とする50年代スタイルの映画」である。ヘインズはここで、微細かつ微妙な表現と率直な表現を、交互に、抜け目なく施すことで「50年代を現在の眼から批評」しているが、その結果、「50年代には決してつくれない50年代についての映画」になっている。ここで少し長くなるが、ジェフ・アンドリューが1998年に発表した「ヘインズ論」を引用する。

「(トッド・)ヘインズは、社会の価値判断の指標として、そして自己規定の根源になりうる要素として捉えたうえで、病気や”異常”に関心を示している。この考え方は、今の時代を反映していながら、斬新でもある。またヘインズは、個人の生活が心理や性、経済、歴史、政治、文化的要因によってかたち作られていることを、知的な視点からはっきりと意識している。そして彼の現実と”イメージ”の間の隔たりへのこだわり(これはおそらくヘインズが記号学に興味を持っていることに起因している)や、私的な生活と表向きの顔が矛盾しながら共存することに対する興味を、成功、名声、ファッション、メディアに縛られた現代のなかで浮き彫りにしている。またヘインズが、特定の病気や欲望、人間のアイデンティティなどを我々が許容できない、またはしたがらない結果として生じるダメージが何なのかは結局分からない、と認めているところは、理性的で巧妙だといえる。映画的手法という観点から見ても、非常に大胆で、その才能には驚かされるばかりだ。ヘインズは、様式やストーリー運びの形式を自在に操り、新鮮なアプローチで題材に挑み、伝統的なジャンル映画を操作して切り崩しながら、ポップ・カルチャーが映し出す世界像を浮き彫りにし、問いを投げかけている。主題やスタイル、分析的な手法という点でいうと、彼の作品は、間違いなく現代的だ――記号学から得た知識に着目したアメリカ人の監督は、彼をおいてほかにいないだろう。批評家や観客が、ヘインズの作品を特徴づけている両義性を受け入れる心構えを持ち、理解しようと努力しさえすれば、映画作家としてのヘインズの未来は光り輝くに違いない」(『インディーズ監督10人の肖像』/キネマ旬報社より)

これもまた、すでに『キャロル』を知る2015年において、古びていないどころか、いまも的を射ており、彼の一連の作品への理解が深まる論考だったと思う(本では1998年時点における全作品について書かれている)。

ここでやっと話を元に戻すが、ハイスミス×クレマンの映画『太陽がいっぱい』を「ゲイの物語」だと最初期に見抜たのが、かの映画評論家・淀川長治だった。当時に限らずこの作品をそのように見立てた人は少ないと思われ、仮にそう見抜いていたとしても、そのように語る勇気を持てなかったに違いない。一般的には、貧乏な若者が金持ちの若者に近づき、殺して、彼のすべてを手に入れようと目論む「犯罪ドラマ」であり、もしくは『アメリカの悲劇』(モンゴメリー・クリフト主演の『陽のあたる場所』の原作)のような悲劇的な青春ドラマとして観たかもしれない。

僕も、淀川さんの説明を読み、ピンとこないながらも、そういう見方があること、それ自体に刺激を感じた。「おや?」と思ったのは、アンソニー・ミンゲラ監督(彼もゲイと聞いたことがあるが、どうなのだろう)が、同原作を再映画化した『リプリー』を観てからである。ここでマット・デイモン扮するリプリー(『太陽がいっぱい』でドロンが演じた役)は、よりはっきりゲイとして描かれていたからで――この時点でハイスミスがレズビアンとは知らなかったが――淀川さんの「見立て」の確かさに驚いたのだった。

その淀川さんと吉行淳之介の対談を引用する。
映画は開かれたテキストであり、人の想像力は画面に描かれている事柄をいくらでも自らの問題に置き換えたり、引き寄せたりして観ることができるものである。淀川さんの「見立て」を過分に意識する必要もないが、頭の片隅に置いておくことで、より深い理解につながるということもあるだろう。と、どこからともなくサービス精神が沸き起こってきたのである。以下、

淀川 それに、あの映画はホモセクシャル映画の第一号なんですよね。
吉行 (和田、同席の男性も)え、そんな馬鹿な。
淀川 あれ見たら完全にそうですよ。貧乏人の息子のアラン・ドロンが金持ちの家に、坊ちゃんを連れ戻しに行く。彼は金持ちの坊ちゃんのすべてが好きになっちゃうのね。ワイシャツから、ネクタイから、靴から、全部自分のものになったらいいなあと思う。坊ちゃんのほうはそんなもの飽きて困ってる。そして、そんなものほしがる子供みたいな男を喜ぶのね、モーリス・ロネは。手紙を書くのも、サイン教えて彼にやらせるようになる。そのうち、彼がおらな面白くなくなってくる。ラヴシーンだろうが、連れて行く。どっちも無いものねだり。片っ方はネクタイから靴から全部ほしい。片っ方はそんなこという感覚の人間がほしい。
吉行 違うと思うんだがなあ。
淀川 ちょっと待って(笑)。どっちも無いものねだりで、憎らしいけど離れられない。それがだんだんクライマックスになってくるとエキサイトしてくるのね。それは、俺が憎いんだろう、憎いんだろう、憎いんだろうで、とうとう殺すところまでゆく。そして殺しちゃった。なにもそこまでエイキサイトしなくてもいいのに、エキサイトして、片っ方は死んだ。そして、死体になっても、ふたりは離れられないのよ。
吉行 今、それをいおうと思った。スクリューにからみついた死体が離れない、それは淀川流解釈では、そういうとになるんでしょう、と。
淀川 もうちょっと待ちなさい(笑)。アラン・ドロンの方は、洋服からタイプライターから、全部自分のものになった。そこで、サインの練習するでしょう。
吉行 あれが面白かった。いつか深夜劇場で見たらカットされてましたけど。
淀川 あれ、大きなサインでしょう。プロジェクターで伸ばして練習するでしょう。まるでキスマークみたい。あんな大きくする必要ないのに、大きく大きくする。あれ、一生懸命、片っ方の唇をなすってるのね。
吉行 それはどうですか……。
淀川 なぜ、そんなことわかるかというと、映画の文法いうのがあるんです。一番最初、ふたりが遊びに行って、三日くらい遅れて帰ってくるでしょう、マリー・ラフォレの家へ。マリー・ラフォレのこと絵本でも買ってごまかそういって。ふたりが船から降りる時ね。あのふたりは、主従の関係になっている。映画の原則では、そういう時、銃のほう、つまりアラン・ドロンが先に降りてボートをロープで引っ張るのが常識なのね。ところが、ふたりがキチッと並んで降りてくる。こんなことあり得ないのよ。そうすると、そばで見ていたおじいちゃんが、あのふたり可愛いね、いうのね。そして、絵本渡したら、マリー・ラフォレ怒ってしまうでしょう。あの映画、マリー・ラフォレとモーリス・ロネ、マリー・ラフォレとアラン・ドロンのラヴシーンほとんどないのね。
吉行 うーん。映画の文法か。説得力が出てきたな。
淀川 そして、モーリス・ロネを殺してしまって、最後のシーンがくるでしょ。その時に、ヨットが一艘沖にいる。あれは幽霊なの。おまえもすぐ俺のところへ来るよ、という暗示なのね。
吉行 なるほど、あのヨットは何だろう、とおもっていた。
淀川 そこへあなたのいうシーン、太陽がいっぱいのシーンがくる。足をバンとあげて喜んじゃう。その前に、マリー・ラフォレと濡れ場があるはずなのね。ちょっとあるんだけど、それは見せない。で、電話がかかってきて、そうかといった時にワインのグラスを持った。彼の手が若くて美少年らしい。それと一緒にモーリス・ロネの死体の手が写るのね。ダブって。握手してるのね。そこへ、また呼ばれていっち……あれは後追い心中なのよ。
吉行 はあーっ(笑)。映画の文法として、ふたり一緒に降りるのはおかしいというところ、迫力がありましたね。
淀川 ふたつの殺しがあるのね。ひとつはモーリス・ロネの、もうひとつは憎ったらしい太っちょを殺すの。ちゃんと分けてる。太っちょのほうは銅像みたいのんでガーン、モーリス・ロネのほうはナイフで刺す。刃物で殺すのはラヴシーン、前のは単なる殺しですよ。片っぽうのは夢の殺しなの。殺せるか、殺せるか、殺してごらん、とうとう殺してくれたいうね。
吉行 ぼくは、貧乏人と金持ちというパターンであの映画見てましたけどね……。
淀川 また、監督がルネ・クレマンだから、いえるのね。
吉行 そうですか……。いや、勉強になりました。長いこと小説やってて、そこに気がつかないんじゃ駄目だな。
淀川 善良なのよ、あなたさんは。これはさっきの仇討ち(笑)。
吉行 いや、こわかったですねえ。勉強になりましたねえ(笑)。

淀川さんはここで、映画の「文法」から『太陽がいっぱい』に隠された「含み」を読み解いていくが、当時、奇抜とも思えたその「読み」は正しかったことが、いまはわかっている。多分、この時の吉行さんは半信半疑のままだったと思うし、読者の多くも困惑したに違いない。実に面白い対談だが、ほかにスピルバーグの『激突!』やウィリアム・ワイラーの『コレクター』なんかの話をしている。(1977年、新潮社刊の『恐怖対談』所収)。
トッド・ヘインズもまた「含み」の天才であり、彼が新作『キャロル』の繊細な映像に忍び込ませた「隠し絵」の数々を読み解いてみるのも映画鑑賞の醍醐味だと思う。淀川さんならどのように観ただろう。
(渡部幻)

 

スティーヴン・スピルバーグ流の〈教育的〉冷戦サスペンス『ブリッジ・オブ・スパイ』

2016-01-09 | ロードショー
 

 スティーヴン・スピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』を渋谷のTOHOシネマズで観た。この場所でのスピルバーグ映画鑑賞は『ミュンヘン』以来。当時はTOHOシネマズとは言わなかったかもしれない。ちなみに場内は初日にも関わらずガラガラだった(最近は金曜日が初日になることが多いせいもあるかも知れない)。『ブリッジ・オブ・スパイ』は公開劇場がどこも小さなスクリーンばかりなのが解せなかったが、それがいまの日本におけるスピルバーグ映画の立ち居地なのだと考え、その状況に対する「別の想像」を膨らませる方向へ思考を切り替えたのだった。

 スピルバーグ映画は、『ジョーズ』『インディ・ジョーンズ』などの娯楽作、『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』『リンカーン』などの社会派作を含め、共通するのは、巨大な難問が個人の前に立ちはだかり、今にも押し潰さんとする時、それでお理想を貫く「不屈の意志」を描いた物語だと言うことを改めて感じた。スピルバーグは「男の映画作家」なのである。
 かつて盟友ジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』と同年に『未知との遭遇』を発表して並び称されたスピルバーグ。あれから40年近くの年月が過ぎてルーカスが『スターウォーズ』から手を引いたいま、彼は旺盛な挑戦を続けているが、彼の基本的な「物の見方」は変わっていないと言えるかもしれない。

 冷戦下の50年代に起きた両国のスパイ交換の物語は、彼の幼少時の出来事だが、だからこそその史実を「映画の形」に残そうとしている。本作に描かれた50年代アメリカには欺瞞と事なかれ主義が蔓延している。主人公の弁護士は、ほとんど昔のアメリカ映画に出てくる絵に描いたような保守的な家庭持ちだが、それゆえに、アメリカの理想主義を貫き、難問に挑戦しなければならなくなる。
 「ならなくなる」というのは、初め彼は――多くのスピルバーグ作品の主人公と同様――その挑戦に前向きではないからだ。しかし、一度やると決めたら、熱に浮かされたように没頭し、諦めず、命をかけても責務を全うする。つまり、この「教育的」かつ「真面目」な映画で、スピルバーグはそんな男たちこそ「目指すべき真のアメリカ人」の姿だと言いたいのだ。彼は「アメリカ人として生きることとは?」「アメリカの初心とは?」「アメリカの理想を実現するために必要な態度とは」と問いかける。多様な人種と文化が混在するアメリカをアメリカたらしめる理想の実現――それ自体が巨大な難問であり、壮大な実験であるが、映画もまたその実験の一つだから、興味が尽きないし、アメリカ映画を肴に議論することは面白い。その問いの難しさゆえに、アメリカはしばし道を踏み外し、幾多の間違いを起こし批判にさらされてきた。しかし一方で、その歪みを指摘して是正すべき「ほとんど奇跡」とも思える「理想の実現」を成し遂げてきた「現実の男たちの偉業」があり、そのスピリットこそ忘れてはならなぬものなのだと、スピルバーグは物語り続けることを責務にしているようだ。そうした彼の熱心な学校教師的な側面と愛国心は――たとえそれを日本のそれに置き換えても――僕の共感の外にあるものだが、映画監督としてのカメラ扱いのうまさは相変わらずで、構図と動かし方ひとつで状況を伝えてしまう。

 トム・ハンクスは理想の男性像(父性像)を自然体の芝居で演じていよいよスペンサー・トレイシー的。国家の壁をこえて「架け橋」となるべく奮闘するハンクス手だれの名演を見てると、彼なら『ニュールンベルグ裁判』のトレイシーの役柄も相応しく演じられるだろうと思えた。だが、本作が観る者を引き込む原動力はマーク・ライランスの存在。「時代」に準じた男の諦念と誇りを静謐な意志を秘めた芝居で名演している。結果、まるで「ベスト・オブ・スピルバーグ」のような作品になっていた。
 しかし僕は、初期スピルバーグ映画の猪突猛進的な面白さに夢中になって育った口なので、彼の歴史映画の「教育的」な部分が苦手であり、見ながら極力それ以外のところを面白がろうと努力していて、その無理に疲れてしまうこともある。「教育的」な要素を「描写」そのものが凌駕しているスピルバーグ映画と言えば『ミュンヘン』。僕はこれがベストだと思う。
(渡部幻)

ライアン・クーグラーの『クリード/チャンプを継ぐ男』が「継ぐもの」と「映画館」のこと。

2015-12-30 | ロードショー
 

『クリード/チャンプを継ぐ男』がなかなかいい。「お節介」と「優しさ」のドラマが骨子になって、実に『ロッキー』シリーズらしい人情ドラマになっているのである。
 1976年の『ロッキー』に並ぶとは思わない。あれはやはり特別な映画で、脚本のレベルが違うし、生活感情により深い実感があった。しかし『クリード』もいい映画だし、偶然だが『スターウォーズ/フォースの覚醒』との共通点も感じられた。それは70年代から連綿と連なるアメリカ映画史とその人材への強いリスペクトの賜物なのだ。



 『クリード』は『ロッキー2』のファンだったライアン・クーグラー監督のアイデアから生まれた作品である。スタローンは脚本を持ち込んだ彼の熱意に「かつての自分」を見たことだろう。物語も同様で、かつてロッキーの宿敵だったアポロ・クリードの息子が、彼のところに来てトレーナーになってくれと依頼してくる。言うまでもなくこうした作者の「現実」と登場人物の「ドラマ」の相関関係は『ロッキー』シリーズを貫いてきたものである。スタローンはこれで大スターとなり、当初のハングリーな魅力を失っていったが、すると『ロッキー3』のロッキーおそうした状況に陥り、スタローンが右傾化すれば『ロッキー4』でのロッキーもソ連のドラゴと対決する。その意味でこのシリーズは、『ゴッドファーザー』シリーズにおけるマイケル・コルレオーネが作者たるフランシス・フォード・コッポラその人であり、『スターウォーズ』シリーズにおける若きルーク・スカイウォーカーやアナキン・スカイウォーカーがジョージ・ルーカスその人であったことと通じるシリーズだったのである。



 しかし時は流れて、いまやルーカスもスタローンもシリーズの中心から外れており、新たな作者たちがそれを引き継ぎはじめた。本作のクーグラーや『フォースの覚醒』のJ.J.エイブラムスは、彼らへのリスペクトを前面に押し出しながら「自分の作品」に仕上げている。劇中で脇に回るスタローン、それにハリソン・フォードとキャリー・フッシャーもいい芝居を見せている。ことにスタローンが見せる深い表情には、彼の映画人生とイコールで結びついてきたロッキー役の集大成とも言えるものであった。
 『クリード』はまたいまひとつ継承を成し遂げている。本作のクレジットにロバート・チャートフの名が出てくることに目を留めた人が何人いるか知らないが、彼こそアーウィン・ウィンクラーとともにシリーズを製作してきた功績者である。2人は『ひとりぼっちの青春』(シドニー・ポラック)『いちご白書』(スチュアート・ハグマン)の製作者としてアメリカン・ニューシネマを牽引したチームだった。『ロッキー』はそのニューシネマの転回点となった作品だが、その後も『バレンチノ』(ケン・ラッセル)『ニューヨーク・ニューヨーク』『レイジング・ブル』(ともにマーティン・スコセッシ)『ライトスタッフ』(フィリップ・カウフマン)と映画史に燦然と輝く傑作を世に送り出してきた。二人は別れた時期もあったが、そのロバート・チャートフもいまはこの世になく、本作はその家族によって製作されているのである。



 『クリード』を観たのは有楽町マリオンにある丸の内ピカデリー。ここはそこらの劇場よりもスクリーンが大きい。往年の劇場らしい空間設計で、スクリーンを「見上げる行為」の気落ち良さと贅沢さを味わえるのである。スクリーンと客席との距離感がゆったりとして落ち着きがあり、映像(=ドラマ)をよくよく堪能することができる。やはり映画館の肝は「空間」だなと感じ入った。
 劇場空間に快感を感じられるか否かは、人それぞれの感覚にもよるだろうが、個人的にはスクリーンが眼前に「そびえたって」いる感じが欲しい。そびえ立つ画面の全貌を把握できつつ、映像から離れすぎない距離に座るのが好みなのである。こうした好みから出発する映画鑑賞は、必然、主観的なものになるだろうが、「クリード」の場合、画作りの基本が主人公を取り巻く環境と、そこから生じる感情のうねりを掬い取ることにあるから、カメラ位置は遠からず近からずの位置に据えられている。その落ちつき方に――伝統的なアメリカ映画の――この映画の作者の理性を感じ、安心して盛り上がれる。そういう古典的な映画の有り様が、古典的な丸の内ピカデリーの有り様とよく似合っていたのだ。
(渡部幻)

J.J.エイブラムスの『スターウォーズ/フォースの覚醒』に思わず感心。

2015-12-27 | ロードショー
 

 『スターウォーズ/フォースの覚醒』は予想を超えておもしろい映画だった。JJエイブラムスの演出はかなりスピーディーで、『エピソード4』のビジュアル・イメージを意識しつつ、『エピソード5』におけるアービン・カーシュナー演出のめくるめく展開の力技を想起させて好調である。実際『エピソード5』ほどの緻密さはないし、あの毒気も感情的な深みも足りないとは思うが、勢いがあり、画面がイキイキとして、JJの優等生的な演出姿勢が活きた。

 ジョージ・ルーカスの創作姿勢は基本「私小説的」なもので、どこか暗くナーバスな傾向を拭えないところがある。『エピソード4』での若きルーカスはそうした自分の性格傾向を反転させて「明るい映画」を目指し、見事に成功した。しかし時を経た『エピソード1~3』では生来の個性を噴出させ、それゆえ娯楽作としてのバランス感覚を歪にした。僕はそこがおもしろいと思ったが、ファンからの評判はあまり良くなかった。『スターウォーズ』の底にあるのはルーカスの自伝的な感慨をフィクショナルに描いたストーリーだったが、『エピソード1~3』を取る頃には時すでに遅し、彼の手を離れて独自の道を歩み始めていたのである。

 

 『フォースの覚醒』は作者たるルーカスがほぼ手を引いて最初の作品である。権利を獲得したディズニーとの問題を記事で読むと気の毒に思うが、完成した『フォースの覚醒』を観るかぎりルーカスが撮っていたら、こうはいかなかったろうと想像せずにはいられない。JJの「八方美人的な演出」は、ここで考えうるかぎりのファン心理に応えて見事に完成された「商品」に仕立てているが、ルーカスなら良くも悪くもファンを裏切り「作品」に仕立て上げようとしていただろう。ルーカスには気の毒だが、僕はこれで良かったのだと思う。
 ただひとつ大きな疑問が残るのは、J.J.の演出はバランスが良すぎるからか、シリーズのこれまでと比べ、意外にも「脳裏に焼きつくイメージ」に乏しいのである。J.Jは優れた「まとめ系演出家」だが、想像力の飛躍が足りないのかもしれない。人物は魅力的でそこが美点なのだが、身を裂くような情念が薄いのも、ルーカスもしくはカーシュナー演出に譲ってしまう部分だ。

 

 『フォースの覚醒』はまず主演の「新しい顔ぶれ」の起用で成功している。カリスマ性はないが、それぞれに人間臭く、だからこそのフレッシュなムードを付与している。若手ではとくに『風の谷のナウシカ』のナウシカを思わせるデイジー・リドリーが目を引くが、アダム・ドライバーの芝居が変わっていて印象に残る。テレビシリーズの『GIRLS』やノア・バームバックの『フランシス・ハ』での彼も現代的でいいが、マーティン・スコセッシの新作『沈黙』では日本へ布教に来たリーアム・ニーソン扮するイエスズ会の神学者フェレイラの弟子フランシス・ガルペ役を演じるらしい。いかにも似合いそうである。また個人的に感心したのが古株のキャリー・フィッシャー。彼女がここまで深みある表情を見せたのはたぶん初めてだろう。ハリソン・フォード扮するハン・ソロとの再会場面で見せる風情に積年の人生がにじんでいた。

 

 映画マニア的にはマックス・フォン・シドーの起用が嬉しい。スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン作品の秘蔵っ子として脚光を浴び、ジョージ・スティーブンスの『偉大な生涯の物語』でイエス・キリストを演じアメリカ映画界に進出。ベルイマンは70年代のアメリカ監督に多大な影響を及ぼしたが、なかでもウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』は顕著だった。シドーはこの大ヒット作に出たあと、シドニー・ポラックの『コンドル』の殺し屋役でも特異な存在感を披露した。品格と風格を兼ね備えた容貌は神話的なドラマによく似合い、ほんの少しの出演で作品に風格をもたらす。『スターウォーズ/エピソード4』ではアレック・ギネスやピーター・カッシングが引き受けたその責務を、『フォースの覚醒』ではシドーが任されているわけだ。しかし『スターウォーズ』シリーズにおける「老人=旧世代」の「退場」の仕方は、いつもちょっと拍子抜けしてしまうほどにあっけないのが特徴である。『エピソード4』におけるギネスのオビ=ワン、『エピソード6』のヨーダやダースベイダー(皇帝も)、老人でないが『エピソード1』のリーアム・ニーソンもそうだ。つねに疑問に感じるのだが、あの「感じ」は一体何なのだろう。
 今回ジョン・ウィリアムズの音楽が思いのほか控えめに鳴っていて、全盛期に必ず聴かせた「必殺のメロディライン」が無かったように思った。最も凄かったのは『帝国の逆襲』で、そのサントラLPはほとんど驚異的な出来栄えであった。しかし劇場の大音量で聴く「ウィリアムズ節」はやはりいいものである。日本映画でこのレベルのフル・オーケストラを聴かせて貰える日がくるとは到底思えないのだ。
(渡部幻)

   

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』公開記念に~~『エピソードⅠ~Ⅲ』とジョージ・ルーカスの世界

2015-12-26 | ロードショー


 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が公開された。ジョージ・ルーカスが関わらない新作だと言う。僕が最初の『スターウォーズ』(77/ジョージ・ルーカス監督)を観たのは日本で公開された78年、8歳の時だ。劇場で多くの子供たちと同様、夢中になった。しかし遠い昔の思い出で、このシリーズについて何かを書くことを避けてきたし、語ることすらも気が重いことがある。それゆえか、すっかり忘れていたけど、意外に最近書いていたことを思い出した。2010年に編集した『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)所収の「エピソードⅠ~Ⅲ」についての短い原稿。せっかくだし、新作の公開記念に、少し加筆修正を加えてここに再録することにした次第。以下。


 1977年に全米で公開された『スター・ウォーズ』は、新世代の観客から熱狂的に迎えられて社会現象となり、アメリカ映画界の潮流を変えた。その生みの親の名はジョージ・ルーカス。彼は1971年のSF映画『THX-1138』で長編映画デビュー。完璧に管理化された未来世界を白と黒で統一させた前衛的な映像スタイルで描き出したが、ロバート・デュヴァル扮する主人公の物語の中心になるのは「ロマンス」と「チェイス」と「現状からの脱出」である。続く『アメリカン・グラフィティ』は打って変わって、彼の出身地たるモデストを舞台に、「青春の終焉と新たなる旅立ち」をジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件の前年にあたる62年に設定して回顧した自伝的な青春映画だが、やはりここでも「ロマンス」と「チェイス」と「現状からの脱出」が描かれている。
 『スターウォーズ』は前2作を融合させてスペースオペラの衣を着せた青春映画であり、その意味で『アメリカン・グラフィティ』からの流れである。主人公のルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)は、『アメリカン・グラフィティ』の主人公カート(リチャード・ドレイファス)から連なる系譜にある田舎青年で、退屈な日常生活から「脱出」して「ロマンス」と「チェイス」に溢れた未知なる冒険の世界へと乗り出していった。しかし、続く『帝国の逆襲』でルークを待ち受けていたのは自らの出生にまつわる呪われた歴史である。シリーズは神話的な壮大さを増し、「親子の確執」を描いた物語としての陰影を深くしていく。その意味でこのシリーズは、ルーカスの師に当たるフランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』サーガに通ずる「家族の叙事詩」だと言える.
 「ルーク=ルーカス」三部作の最終話『ジェダイの帰還』で「息子=ルーク」が悪の帝国に堕ちた「父=ダース・ペイダー」を打ち倒し、その確執を克服すると、同時に宇宙の平和が取り戻され、仲間たちと共に「神話の英雄」となる。現実の世界でも、ルーカスは仲間の監督たち――コッポラ、スピルバーグ、スコセッシ、デ・パルマ、ミリアス――と共にアメリカ映画界に革命を起こして時代の寵児となった。様々な局面で『スターウォーズ』は人々をハッピーにさせた「青春映画」だったのである。
 あれから16年の時を経てルーカスはその前日譚『ファントム・メナス』の映画化に挑み、ダース・ベイダーことアナキン・スカイウォーカー――つまりルークの父――の青春時代を描く。しかし、かつての「青春映画作家ルーカス」もすでに若者ではなく、かつて打ち倒した「父」もいまや「わが身」であり、たとえ遠い昔に書き上げたドラマだとしても、その認識が、新シリーズに影響を及ぼさないわけはない。
 『ファントム・メナス』(99)はこの大河ドラマの序章つまり「エピソードⅠ」であり、『クローンの攻撃』(02)『シスの復讐』(05)と続き、77年の『スターウォーズ』が「エピソードⅣ」になる。しかしここでは、あくまでも「公開順」のシリーズとして考える。
 『クローンの攻撃』で美しい青年に成長するアナキン・スカイウォーカー。余りにも若く純粋で地に足のつかないが、そう遠くない将来にルークの父となる運命にある。ドラマ上の時制が逆転して製作されたため、観る者のほとんどが、彼ら親子の悲劇的な運命の行方を意識しながら観ている。息子ルークの青春が未知の可能性を観る者に伝えたのと真逆に、父アナキンの青春が悲劇へと向かうことは、あらかじめ定められた運命である。ことに『クローンの攻撃』は2001年の9.11テロ事件後の公開作であり、ルーカスは急速に右傾化していく当時のアメリカの混沌とした状況を意識している。だから「ゼロ年代『スターウォーズ』」の冒険に、あの天真爛漫とした楽しさはない。(ちなみに「エピソードⅠ」はベトナム戦争がアメリカの撤退で終結をみて、ニクソンがウォーターゲート事件を起こし退陣、建国200年を迎えた翌年の77年公開。「重い季節」に区切りがつき、大衆は「憂さ晴らし」を求めていた)
 そうした「違い」は俳優陣の個性にもハッキリと現れている。「旧三部作(エピソードⅣ~Ⅵ)」で、ルークを演じたマーク・ハミルやハリソン・フォード、キャリー・フィッシャーの陽性な個性と比べたとき、「新三部作(エピソードⅠ~Ⅲ)」でアナキンを演じたヘイデン・クリステンセンやパドメ・アミダラを演じたナタリー・ポートマンの個性はいかにも陰性であり、深刻である。そんな彼らの個性を選択したことによる作品への影響は大きい。
 デヴィッド・タッタソールの撮影もまた、エピソードを重ねるごとに「黒」の印象を強め、「新三部作」にノワール的な「暗さ」を付加しているが、しかし、このこと自体は「旧三部作」のルークの衣装が、白色(Ⅳ)から灰色(Ⅴ)へ、灰色から黒色(Ⅵ)へと変化していくことで、純真な息子が闇に堕ちた父親(ダースベイダー)に同化していく過程を象徴させた色彩設計に対応しているに過ぎない。
 その意味で真に重要な役割を担っている色彩とは、エピソードⅢでアナキンとオビ=ワン(ユアン・マクレガー)が演じる痛ましい決闘の背景に塗り込められた漆黒を引き裂くように噴出する溶岩の「赤色」であり、ルーカスはこの「赤色」の禍々しさに「新三部作」の主題を託しているのではないか。
 あのマグマの赤色は、滅びゆくジェダイの同士たちが流した血の赤であり、手足を斬りおとされて芋虫のごとく這いずるアナキンが流した血の赤であると同時に、彼の子を宿し、出産した後に息絶えるアミダラの胎内から流れ出た血の赤である。ここに本シリーズのもう一つ重要なる主題――家族のサーガ――が立ち現れてくる。つまり「マグマの赤」は、呪われた運命に煮えたぎる血縁の「赤色」なのである。
 自らの父を知らぬアナキンは、ゆえに母のシミとアミダラが象徴する母性の愛に飢え、もだえ苦しむ。それがジェダイの騎士たる彼のアキレス腱となり、師であり兄であり父の代わりでもあったオビ=ワンとの関係をも引き裂いていく。ダークサイドへと堕ちるしかないアナキンの姿はあまりにも悲痛だ。その姿を見つめつつ悲劇ドラマとしての「新三部作」は幕を閉じる。
 観る者はこのあと、悲劇の物語から一転、『新たな希望(エピソードⅣ)』と題した「次世代の青春物語」へと引き継がれ、血まじりの漆黒にふたたび光が差し込むだろうことを知っている。しかし、だからこそと言うべきか、いまや「父の世代」になった「ゼロ年代のルーカス」が、二世代に渡る「青春」を比較検証した末に描き出した結末が、とてつもなく重たく、陰惨なものに感じられるのである。

渡部幻(2010年執筆。『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)所収の原稿を加筆修正)







塚本晋也の『野火』 「1000ミリ望遠の目」で描いた戦場の異常

2015-08-24 | ロードショー
   

 塚本晋也の『野火』は想像したとおり飛び抜けた日本映画だった。戦争を描いて怖さのない作品など信用は出来ない。感傷過多、英雄譚などお話にもならない。そんな昨今の日本の戦争映画にへきえきしていた。しかし『野火』は恐ろしい。とにもかくにも恐ろしいのである。塚本演出は主観的かつ触覚的である。透徹し、生々しく、しかも美しい。「塚本作品」として観れば正当だが、昨今の日本映画としては超異端。しかしあえて言えばこれは久しぶりに観た「正当な戦場映画」なのだ。

 この『野火』を観て改めて思い知らされるのは塚本監督の人の「瞳」を映しだす才能である。「目は心の鏡」と言うが、肉体の変容が精神を揺さぶり、未踏のステージへと押し上げていく過程を、塚本は人=俳優の瞳を通じて描き切ってしまう。その意味で塚本はやはり、マーティン・スコセッシやデヴィッド・クローネンバーグと直系でつながる「俳優演出の天才」である。
 俳優とはつねに自らの「器官」や「触覚」に敏感な生き物であるだろうが、塚本は彼らにその五官を極限まで研ぎ澄ますことを要求し、その濃密な成果が集約的に本作に出た。三人の主演者――塚本晋也自身、リリー・フランキー、中村達也――がともに見事に恐ろしい。彼らの眼光に宿る異常はただごとでないが、それを捉えた撮影の力も大きい。スタンリー・キューブリックの戦場映画『フルメタル・ジャケット』のなかで、いきがって武勇伝を語る兵士の嘘を見抜いた兵士が次のような会話を交わす。

 「やつに実戦の経験はねえよ。第一、あの目つきがねえ」
 「目つき?」
 「1000ミリ望遠の目つき。長くクソ地獄にハマったときの――マジに――あの世まで見通す目さ」


 ここで三人の目に宿るのはまさしくそういう「目つき」である。目玉という、ぬるぬるとして、しかも弾力があり、意外にも頑丈な物質が、がい骨の穴の中にはめ込まれている。それがやはり奇妙な形をした耳と、二つ並んだ鼻の穴とで、脳に与える影響は計り知れない。嗅覚はともかく塚本の映画ほど目と耳を直撃し、全身に回る劇薬はない。三人のニッポン男児たちが、禁断の領域に堕ちていくさまを『野火』は描破する。古今東西、人は苦痛を前に目と耳をふさぐものだが、『野火』はその目耳を直撃してしかも片時もふさがせない。こうした演出姿勢もしくは演技姿勢は、元来、基本中の基本であるのかもしれない。50~60年代の日本映画にはそんな役者たちの瞳や映像がたくさんあった。しかし現時点において『野火』は稀に見る日本の戦争映画として屹立している。


『フォックスキャッチャー』 暗鬱な密室の〝アメリカ〟

2015-02-22 | ロードショー


ベネット・ミラーの『フォックスキャッチャー』は何もかもが圧倒的である。カンヌ映画祭で監督賞を獲得する以前から期待していたが、映画を構成しているあらゆる要素が完璧に機能していて、ミラーが「現代の名匠」としての地位を揺るぎないものにしたことを実感させる。

ミラーはデビュー作『カポーティ』で、天才作家トルーマン・カポーティと彼が取材した一家殺害事件の犯人の奇妙な共感と裏切りの顛末を描き注目されたが、『マネーボール』に続く三作目の『フォックスキャッチャー』でも、デュポン家の御曹司が1984年ロス五輪におけるアマチュア・レスリング金メダリストを殺害するに至った異様な経緯を暗鬱たるタッチであぶり出してみせる。社会階層の異なる有名・無名の男たちが共通して抱えている孤独感が、いかに両者を結びつけ、互いを必要とさせ、ときに利用しながら、破滅へ突き進んでいく過程、それが静謐な緊張感を張り巡らせた演出によって描破しつくされるのである。

アメリカ史に名を残すデュポン家の世界と金メダリストの世界は、ともに栄光の華々しさとは裏腹に、世界から隔絶され、内部から崩壊する過程にある。この二つの世界が結びつき、三人三様の男たちが暮らす「いっけん健康な世界」が「不健康な世界」に呑まれ、ゆっくりと窒息していく。共依存関係を築き、腐食していくさまの異様さ、極度の不健康さが、観る者をも蝕み、登場人物たちの内面的・身体的な危機を共有せずにおられなくなるのだ。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ザ・マスター』『ノーカントリー』『悪の法則』『ハートロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティ』『ソーシャル・ネットワーク』『her』『ダラス・バイヤーズ・クラブ』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『ブルージャスミン』『マップ・トゥ・ザ・スターズ』、そして『ゴーン・ガール』、またはテレビドラマ版『FARGO/ファーゴ』や『トゥルーディティクティブ』など、ここ10年以内の現代アメリカ映画の映像には、現実感覚の崩壊と、暗鬱たる未来の予感が横溢している。結末の先に不穏を見るか、希望を見るかの違いはあるにせよ、ドラマの中心になるのは、いま足元から崩れつつある自国の過去と現在を検証する厳しい眼差しである。

ミラーはそうした現代映画の最前線に立つ人物のひとりだと言えるが、これまでのところ彼の主題は、アメリカ現代史の特殊かつ閉鎖的な人間関係の実話を材に、極めて普遍的な「人間の孤独」を浮かび上がらせることにあったと思う。『フォックス・キャッチャー』はその決定打とも言える傑作であり、アメリカを覆う不穏を、映像の隅々にまで行き渡らせることに成功している。「アメリカ」と「アメリカ人」の深淵をえぐりださんとするこの作者の眼差しと高度な映画芸術に昇華させる手腕は敬服に値するものだ。

ミラーは『カポーティ』で2005年のアカデミー賞にノミネートされたが、同年はクオリティの高い作品が揃っていた。スピルバーグの『ミュンヘン』、クルーニーの『グッドナイト&グッドラック』、アン・リーの『ブロークバック・マウンテン』、ポール・ハギスの『クラッシュ』だが、いまをもってアメリカ映画の重要作だといえる力作揃いだ。また、『クラッシュ』を除き残りすべてが過去を題材にしており、『カポーティ』と『ミュンヘン』『グッドナイト&グッドラック』は実話の映画化だった。「過去の悲劇」を描いて「現代の問題」を焙り出すことに成功した「ベテラン勢」。そのなかにあって「新世代」にあたるミラーもまた彼らに引けを取らぬ地に足のついた演出力を披露して注目されたのである。

『フォックスキャッチャー』は『カポーティ』の変奏であり、両者は非常によく似た人間関係を描いているといえる。
『カポーティ』は作家と殺人犯といういっけん対照的な人物がともに内に抱えた「心の茨」の交流を描いている。カポーティは犯人のなかにあり得たかも知れに自らの分身を見いだし、犯人は自分を利用しているだけかも知れない作家をまるで父のように慕っていく。カポーティもまた犯人に自らを投影し、感情移入を抑えることができなかったが、作家としての性(さが)によって細い糸でつながる信頼関係を打ち切ってしまうのである。
自らの「分身」への裏切りの行為は、のちに彼自身をも崩壊させていくこととなるが、この関係が『フォックスキャッチャー』でのデュポンとシュルツの関係を思わせるのである。その姿は映画作家ミラー自身にも重なるだろう。実在人物を自らの芸術に利用する。その過程で内なる歪みをも見出さざる得ないだろうことは、こうした創作に携わるかぎり、避けることのできぬ必然の帰結であり、ゆえにあのカポーティと重なり見えてくることもある。

『フォックスキャッチャー』でミラーは「事実」にとらわれず脚色を加えることで、自らの「真実」を追求している。実在のマーク・シュルツが、本作に対し怒りを表明していると聞くが、なるほどそういうことは映画や小説など「事実を元にした創作物」にはよく起こるトラブルだといえる。実話を元とする映画が目指すべきは「事実」の忠実な再現ではなく、その奥に潜む人間普遍の「真実」を突き詰めることである。「シュルツにとっての“事実”」と「映画にとっての“真実”」はまるで異なるものであり、観客が観ることになるのは、「現実の事実」ではなく「映画の真実」なのである。90年代の事件を80年代に置き換えたミラーの真意こそ知らないが、「事実の忠実な再現よりも」あくまで「映画リアリズム」を優先してはばからぬその決断と姿勢は、極めて理知的な判断によるものではないだろうか。見方によれば残酷とも冷酷ともとれるその判断が、本作を他に比すもののない傑作たらしめていると、感じられてならない。本作はそうしたミラーの作家性を現時点における最高度にまで高めた成果なのである。
また、彼は、俳優演出の天才でもある。『カポーティ』のフィリップ・シーモア・ホフマンとキャスリン・キーナー、『マネーボール』のブラッド・ピットとジョナ・ヒルなどに続き、ここでは、スティーヴ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロから最高レベルの芝居を引きだしてみせ、そのアンサンブルは『ゴッドファーザー』や『ディアハンター』に匹敵している。『カポーティ』と同様、撮影も見事だ。時折綴り込まれる風景ショットの暗鬱たる寒々しさが、アメリカとそこに生きる登場人物たちの憂鬱を伝えるのである。それは黄金の70年代アメリカ映画を思わせる質感を持つが、ミラーは久方に現れた「映画の風景画家」といっていいかもしれない。

何より素晴らしいのは、ミラーのニューロティックかつパラノイアックな人間ドラマが、その奥底に人間という生物の儚さと哀しみへの共感を沁み込ませていることである。





ホドロフスキーの『DUNE』は「幻」だからいいのだ

2014-06-23 | ロードショー
 『ホドロフスキーのDUNE』は実に面白いドキュメンタリーだった。
 これは結局作られることのなかった「幻の映画」について作者ホドロフスキーが語るドキュメントなのだが、その「壮大な妄想」に聞かされているうちに、観客の心の中にも「とてつもない傑作」が浮かび上がってくるという、実に刺激的な作品になのだ。

 ホドロフスキーのあの熱病的な語り口を聞いていると、どんなことだって可能なような気がしてくる。映画作家とはプロジェクトに携わる人々にとって予言者もしくは挑発者でなければならず、必要とあらば手品師にでも詐欺師にでもなるだろうが、このドキュメンタリーを見る限り『DUNE』構想時の彼はとにかく「最高の状態」にあったと見受けられる。オバノン、フォス、ギーガー、ピンク・フロイド、ダリ、ウェルズ……とてつもない才人たちをもたらしこみ巻き込むことを可能とする予言者であり挑発者たりえていたのであり、だから本作に登場する数々のエピソードが異様なテンションを呈すのも当然、ゆえに結局、構想が「妄想」で終わったときの落胆といったらない。もちろん「結果」は周知の事実。だからあらためて落胆することもないのだが。
 本作はこの「100%あり得ない夢想」の中にグイグイ観る者を巻き込んでいく。どれほどの類まれなる「壮大な企画」だとしても実現できなければ「単なる幻」に過ぎないし、なおもこだわり続ければ「誇大妄想狂の戯れ言」とも捉えられかねない。しばしそんな夢の実現にこだわり続けることそのものが生業たる映画芸術家なのだから仕方がない。ことホドロフスキーに限れば「幻想イコールで人生」、その逆も真なのである。
 本作を観た多くのファンが「実現して欲しかった」と語っているが、僕の個人的な感慨であり結論としては「完成できずに幻のままで良かった!」。幻は幻のままでこそ美しいのだ。

 テリー・ギリアムの『ロスト・イン・ラマンチャ』やオーソン・ウェルズの『イッツ・オール・トゥルー』も頓挫した企画についてのドキュメンタリー映画である。また、70年代にはキューブリックの『ナポレオン』、80年代にはベルトルッチの『血の収穫』が頓挫している。いずれも残念なことだ。
 『DUNE』の伝説は長いこと噂に聞いてきた。僕はホドロフスキーの熱狂的なファンではないだろう。もちろん『エル・トポ』は折に触れて見返してきたし、異貌の傑作であり、真のカルト映画だと思っている。だが、多分、『DUNE』は空前の怪作もしくは珍作にこそなりえたとしても、彼自身の話から想像するほどの大傑作にはならなかったのではないか、と、そう思えてならないのである。

 あのプロジェクトの成立させるにはやはり時代の限界があるように思える。
 70年代のダグラス・トランブルはずば抜けた才能を持つ特撮マンであった。ホドロフスキーも最初彼にめを止めたが、結果うまく行かなかった。これはいかにも残念である。ドキュメンタリーを見る限り、トランブルの態度に問題があったのだろう。だがそれにしても技術的にははるかに劣るダン・オバノンへの変更は判断としてどうなのであろう。気にかかるところである。
 オバノンと組んで超絶的な「低予算映画」を作るのならば面白そうだ。しかし大作としてはどうか。この企画が「大作」であるということを忘れて、素直にイメージを広げれば、『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』と同じくらいのサイズだが、しかし無限の想像力を持つ異貌の怪作が生まれたかもしれない。

 だが、劇中、散々引用される、リドリー・スコットの『エイリアン』や『ブレードランナー』、ロバート・ゼメキスの『コンタクト』のような、もしくはそれ以上に立派な映像をつくれただろうか。このドキュメンタリーで示されるものを見る限り、技術的な土台が足りていないように思えてならないのである。
 あからさまに『DUNE』のコンテを真似しているらしい『フラッシュゴードン』ほどではないにしても、チープな特撮に堕した可能性もあるのではないか。
 当時のSF映画の大体はあんなレベルだった。いま思い起こしても、『スタートレック』『メテオ』『スペースサタン』『スーパーマン』。みんな実に安っぽい特撮映像ばかりだったように思う。
 トランブルはずば抜けた存在だった。彼の『2001年宇宙の旅』『未知との遭遇』、もしくはダイクストラの『スターウォーズ』、または『エイリアン』が格別に優れていたのであり、当時それらと同等のレベルまで到達するのは至難だったのだ。

 もちろん低予算のチープだが面白い作品もあった。トランブル自身、低予算映画『サイレント・ランニング』では安い映像ながらも魅力的な世界観を生み出していたし、オバノン×カーペンターの『ダークスター』(ホドロフスキーはこの傑作を観て彼を起用した)もまたその代表作だろう。
 
 だが、『DUNE』に期待されるのは、のちの『スターウォーズ』や『エイリアン』『ブレードランナー』に匹敵する大名作であろう。
 理想的に作られれば、フェデリコ・フェリーニとスタンリー・キューブリックが一緒にSF映画を作ったかのような壮大な芸術作品が生まれただろうか。

 リドリー・スコットのビジュアルは基本リアリズムで、80年代以降のあらゆる造形を先駆して現実に影響を及ぼしていった。ホドロフスキーの想像力はより神秘主義的な造形美学であり、ゆえに60年代から70年代に至る時代の記念碑にはなっても、当時の不十分な特撮技術でつくられれば目も当てられない惨たんたる結果になったかもしれないではないか……。
 
 僕はホドロフスキーを甘く見ているのかも知れない。彼なら前人未踏の映像で映画史を揺るがす大ヒット作をつくっていたのかもしれない。
 だが、カルト作家を越えてメジャー監督になるホドロフスキーをどうしても想像できない。リンチはなったではないかといわれれば、なんとも返答のしようがない。だがリンチのビジュアルの肝のひとつは50Sテイストにあり、それがいかに奇妙で無気味だとしても、アメリカ人(にかぎらない)人々の郷愁を刺激するところがあり、少なくとも50Sリバイバルに沸いた80年代の感性とも結びついていたのだ。

 『DUNE』が企画された70年代中盤から後半にかけては、アメリカにおけるいわゆる「映画作家の時代」の後半に差し掛かっている。映画産業の一職業であるところ「映画監督」は、60年代のヨーロッパ映画の新しい波やニューヨークを中心とするアンダーグラウンド映画の洗礼を受けて「映画作家」に生まれ変わった。
 彼らのつくる自己探求的で深遠な映像世界は、アメリカの資本と結びつくことで膨張し、大金をかけた問題作・超大作が多くつくられるようになった。
 暴走を始めた「作家の映画」は、ときに惨たんたる興行結果を残して。産業としての映画界を危機に陥れはじめたのである。
 コッポラの『地獄の黙示録』『ワン・フロム・ザ・ハート』、スピルバーグの『1941』、チミノの『天国の門』、アルトマンの『ポパイ』、スコセッシの『ニューヨーク、ニューヨーク』、ブアマンの『エクソシスト2』、フリードキンの『恐怖の報酬』、フォアマンの『ヘアー』……。黒澤の『影武者』、フェリーニの『カサノバ』『女の都』を並べてもいい。これら「作家の映画」は「1980年」に限界に達した。質的にはスコセッシの『レイジングブル』、興行的失敗ではチミノの『天国の門』で頂点に達し、後者は老舗ユナイテッドアーティスツ社を破産に追い込んだ。

 SFとホラーの特撮系映画は、商業的なそれなりの保障があったから、辛うじて82年まで延命する。そしてそこから、ラッセルの『アルタード・ステーツ』、カーペンターの『ニューヨーク1997』『遊星からの物体X』、ハイアムズの『アウトランド』、ウォドレーの『ウルフェン』、もしくはクローネンバーグの『ビデオドローム』、さらにはスコットの『ブレードランナー』などの異色作が生まれた。
 だが82年にはスピルバーグの『E.T.』が登場。潮流はいわゆるSFであるよりファンタジーに流れた。例のトランブルにしても83年の野心作『ブレインストーム』を成功させることはできなかった。

 実際上記の作品はどれも面白い。もう二度とは作られないだろうスケールの映画の夢が詰まっている。どれもどこか無気味な異色作ばかりだが、きっとホドロフスキーの『DUNE』も完成していたら、そんな作品になっていたに違いない。
 84年のデヴィッド・リンチ版『DUNE』たる『砂の惑星』など大予算にも関わらず、内容的にも映像的にも目も当てられない出来栄えだった(当時、新宿ピカデリーの巨大スクリーンで予告を見たときスケールの大きさに楽しみにしたが、合成の荒さに失望し、特撮の出来栄えは予算の問題ばかりではないと感じたものだ……)。
 
 結局どのように想像を膨らませてみたところで「現実」は、ホドロフスキーの『DUNE』が存在することを許さなかった(ホドロフスキー自身言うように「アニメ化」もできそうだが、どうせやるならやはり「実写化」の無謀にこそ「夢」を感じる)。
 巷では『DUNE』がもし完成していれば――大傑作となる前提で――『スターウォーズ』も『エイリアン』も『スターウォーズ』もなかったかも知れないと言われている。80年代以降の映画地図が書き換えられてしまうのだと。
 そういわれてしまうといかにもつまらない。僕は『エイリアン』『ブレードランナー』が存在する「現実」のほうを取る。『砂の惑星』の失敗があったから製作者ディノ・デ・ラウレンティスはデヴィッド・リンチに『ブルーベルベット』を作る自由を与えたのだ。ホドロフスキーは本当に気の毒だし、全部存在できるならば観たかったが、残念だけどそれはありえなかった。

 作品づくりとは可能性の探求であり、想像力のギャンブルである。ことに映画は多くの人が携わり、そこにクリエイティブの掛け算が生じ、正体の知れぬなにかが暴走を開始する……その営みにはえもいわれぬ感動がある。
 無謀から奇跡の作品が生まれた前例はいくらもある(『スターウォーズ』『ブレードランナー』『地獄の黙示録』もみなある種の間違いから生まれた傑作なのだ)。
 だからこそ、ファンは、ホドロフスキーと彼が集めた「戦士たち」(彼はそう呼ぶ)に無限の可能性を感じて我がことのように一喜一憂してしまうのだ。
 
 映画ドキュメンタリーの傑作である。

D・フィンチャー版『ドラゴンタトゥーの女』の女優はルーニー・マーラ。エリカ役からの見事な変身

2011-02-05 | ロードショー














『w magazine』の映画特集より。
『ソーシャル・ネットワーク』で、少ない出番ながら知的な清潔感で強い印象を残し、ザッカーバーグにとっての「薔薇の蕾」を象徴したルーニーマーラ。
彼女の新作は、同じくデヴィッド・フィンチャーによるベストセラー小説『ドラゴンタトゥーの女』の映画化&再映画化。写真で見る限り見事な変身ぶり。フィンチャーにどう料理されるか、いまから楽しみだ。



ダンカン・ジョーンズの『月に囚われた男』は「SF映画の美」を現代に甦らせるDNAを持つ

2010-05-15 | ロードショー
   


 デヴィッド・ボウイの息子ダンカン・ジョーンズの監督デビュー作『月に囚われた男』(09)を恵比寿ガーデン・シネマで観た。
月を舞台にした久しぶりの創意溢れるSF映画らしいSF映画で、主演はサム・ロックウェルと声のみでケビン・スペイシーが参加。基本的に人間はロックウェルしか出てこない野心作である。

 原題は『MOON』――シンプルなタイトルである。日本タイトルは往々にして説明的でかえって観る気をそがれるが、しかし単に『月』でも困るだろうから仕方がない。制作費4、5億円程度の低予算映画だが、しかし実に美しい仕上がりである。
 『月に囚われた男』は、遠き故郷、遠き記憶への、決して届かぬ「想い」を描いた作品である。ジョーンズはここで「SFの形式」を借りてアイデンティティの問題を追及する。生命とはなにか、自己とはなにか、それが生まれ、そして死ぬことには、どんな意味があるのか。ジョーンズは映画の天才なのかもしれない。静謐な月面の造形が、人の生命の儚さと孤独を表現して近年稀に見る。かつて60年代の宇宙時代を通過して生まれたSF映画の名作――『2001年宇宙の旅』『サイレント・ランニング』『エイリアン』など――が描いてきた「孤独美」がここにはある。かつて見たあの映像詩が、いま、ここに甦ったのである。

 


 地球に不足しているある燃料が月にあるという。この採掘事業に乗り出したのは政府でなく企業だが、彼らは月面に基地と自動作業用の機械を設置。従業員は独り。サムの労働はなんら科学的なものでなく単純な管理係だ。主な作業はコンピューターが担っており、その進行がスムーズに進んでいるかを確認しているだけである。いわば『エイリアン』でハリー・ディーン・スタントンとヤフェット・コトーがコンビを演じたブルーカラーだが、サムにもパートナーのガーティがいる。ガーティはロボットだが奇妙に温かみも感じさせる。姿形は擬人化されておらず四角い機械の塊でしかないが、食事や散髪、心と身体の状態の世話をやき、何より会話相手になってくれるのである。
 サムは故郷の地球に妻と幼い子供を残している。機械の故障によりリアルタイム通信が出来ない状態だが、ときおり妻からのビデオレターが届く。知性的なブロンド美人の妻は「こんなことになって残念だけど仕方がなかった。でも、もうすぐまた逢えるわね」と語る。サムはその映像を愛しそうに見つめる。三年の契約はもうすぐ満了。地球に帰れるのだ。
 ある時、サムがコーヒーを入れていると、モニター前のソファーに長い黒髪の若い女性が座っているのに気づく。動揺して手を火傷するが、その女性は消えてしまった。ガーティはサムを手当てしながら心配して「幻覚を見たのでは?」と問う(スペイシーの話し方は『2001年』のHALをより温かくした雰囲気だ)。しかしサムはその問いに答えられない。

 

 


 月面での作業。作業用の車両に乗って暗く音のない世界を進んでいく。基地から一定距離を離れると通信が届かない。自動で採掘を進める巨大なマシーン。崩された無数の石が無音で宙を舞っている。ユックリそこへ近づいていく。車窓の視界が宙を降ってくる石で曇る。が、その向こうに「あの女性」が立っているのが見える。今度は驚かない。ただ見とれ、陶酔したように黒髪の元に吸い込まれていく。採掘機に激突。事故を起こしてしまう。
 目覚めたサムは基地のベッドにいる。記憶がない。ガーティは「あなたは事故を起こしたのです。しばらく安静にしてください」と説明。どういうわけだか傷ひとつない、誰がここへ連れてきたのだろう。これが「女性」に続く二つ目のミステリーとなる。
 サムはガーティが地球の人間(企業の)と「リアルタイム通信」をしている声を聴く。リアルタイム通信は出来ないはず。サムが問うと「いえ通信機器が故障しているのでレターを送ったところです」との返答。三つ目のミステリーだ。外に出ようとすると執拗に止められる。無理やりに飛び出して月面を車で走らせる。あの作業機に近づくと、そこに事故を起こして斜めになった「別の車」がある。サムが車を調べると、自分と瓜二つの男が怪我をして倒れている。基地に連れて帰り、病室に寝かしつける。ガーティに問うが答えない。四つ目のミステリーである。






 以上はドラマのほんのさわりである。監督・脚本のダンカン・ジョーンズは、ここまでの展開をスロウで自信に満ちたテンポ運びでミステリアスに進めていく。静謐であり、視覚的な美意識が観る者の眼を惹きつけ、一種独特なムードの中へ巻き込んでいく。サム・ロックウェルの一人芝居が素晴らしく、宇宙に一人生きることを自然に納得させ、ケビン・スペイシーの「声」の魅力を再認識させられる。
 ジョーンズは提示された謎の数々の答えを容易には提示しない。映像やセリフ(または音)が示唆するものをそのまま受け取ることは出来ないのだ。謎が謎を呼び、様々な感情の断片が散りばめられる。それらは映画を見終わってからも尾を引き、フラッシュバックしてくる。映画の記憶を振り返り、茫洋とした意識のなかで「あれは一体何だったのだろう」と反芻させられるだろう。これは「答えのないミステリー」なのか、それとも「答え」に気づかなかっただけなのか。

 本作の主題は記憶である。人の記憶は「事実」をそのまま保存することができない。あくまでも主観的に解釈された記憶でしかないのである。しかし人は「事実」を確認すべく、自らの記憶を探る。そして分かることは自分という存在の不確かさ、その曖昧さでしかない。現実性の記憶、夢の記憶、幻想の記憶、人から聞いた話の記憶、どこかで読んだ記憶、あらゆる記憶が渾然一体となって脚色された末に生まれた「その人に固有の意識」がどこまで客観的な信用に足るものだろう。ときに人は自らをも信じられず孤独を感じ、感じるうちに、自らについての幻想を抱きはじめるかもしれない。そうした人と人が出会い始まる関係はその擦れ合いであり、本質的には問題が解決されることはない。人の生き死にはどこまでも孤独な営みなのだ。それは夜空を見上げ、無限の宇宙を想うことと似ているだろうか。サムが直面するのは実存を揺るがすそんな自らへの「問いかけ」なのである。






 人の「問い」は科学となりときにDNAの記憶へと遡っていく。しかしDNAのなかに自己のルーツを発見したとしても、だから何が救われるというのか。主体はどちらにあるのか。DNAを探り当てた自分にあるのか、探り当てられた自分の方にあるのか? 合わせ鏡の疑問は無間地獄であり、この追求が辿りつける帰結などないのである。しかし、「真実の一端」に触れてしまった人間はそれを見過ごせない場合がある。不可思議を拒絶して真理を問い、未完であり不完全であることを否定して自らを一個のアイデンティティとして証明しようとする。そんな不可能に挑戦することで最終的には人格の崩壊に到るかも知れない。自ら無限の宇宙に身を投げ出す振る舞いのなかに人という生き物の真の切なさがあるのかも知れない
 『月に囚われた男』の美しさは生命の儚さと表裏の関係にある。世界で最も有名な人物のひとりデヴィッド・ボウイのDNAを引き継ぐ息子としてのダンカン・ジョーンズほど、その問いかけに相応しい監督もいないかもしれない。1972年生まれのジョーンズがどんな人生を送ってきたのかは知らない。かの「スターマン」(72)を歌った希代のロック詩人の父親が、幼い彼の心に何を示し、何を残したのかも知りはしない。しかしすべての人がそうであるように、ジョーンズの人生の記憶、彼の細胞を形成し血管を流れるDNAの記憶、彼の人格形成に影響を残してきた経験やSF小説や映画の記憶、そうしたあらゆる記憶がよき血となり肉となった結晶が『月に囚われた男』であることは確かだ。

 本作のそこかしこに見受けられる「映画的なDNA」についてなら多少気づくことができる。ダグラス・トランブルの『サイレント・ランニング』(72)、レムの小説を映画化したアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(72)とスティーブン・ソダーバーグの『ソラリス』(02)、キューブリックの『2001年宇宙の旅』(68)、リドリー・スコットの『エイリアン』(79)『ブレードランナー』(82)、ピーター・ハイアムズの『アウトランド』(81)、ジョン・ブアマンの『未来惑星ザルドス』〈74〉……。さらに連想は膨らむ。ソール・バスの『フェイズⅣ』(74)、デヴィッド・クローネンバーグの『戦慄の絆』(88)、黒沢清の『回路』、松本零士の『銀河鉄道999』や手塚治虫の『火の鳥・未来編』。もちろんデヴィッド・ボウイが主演したニコラス・ローグの『地球に落ちてきた男』(76)『赤い影』〈73〉『美しき冒険旅行』〈71〉、フランシス・フォード・コッポラの『カンバセーション…盗聴‥』(74)……。『月に囚われた男』がこれらから「よきDNA」を受け継いでいることは間違いがないだろう。

 

 では、ジョーンズが鮮やかに受け継ぎ、消化したものは何か? それはあのデザインが似ているとか、あの撮りかたは○○の影響を受けているとかいう表面的なスタイルのことではない。もっと深いもの……より掘り下げてたどり着いたDNAのようなものである。これらSFやその他の作品が共通して描いていたもの、それは喩えようのない孤立感であり、実存の揺らぎ、失われつつある感覚、もう2度と戻らないだろう過去へのノスタルジア……。

 『月に囚われた男』が以後、埋もれてしまうか、もしくはカルト作になって残るのかはわからない。しかしこれがスパイク・ジョーンズの『かいじゅうたちのいるところ』(09)やスコセッシの『シャッター・アイランド』(10)、ビグローの『ハートロッカー』(09)やブロムカンプの『第九地区』(09)に描かれたアイデンティティの揺らぎと同様、同じ時代の空気を深く吸い込んでいる作品であることは確かだ。観客を幻惑するSFミステリーでありながら、謎を謎のままに放置して「死の不安」を「生の実感」に反転させる。「新しい才能」の誕生に賞賛を送り、新作を楽しみにしたい。
(渡部幻)

 
 
 

『(500)日のサマー』は抜群のチームワークと感性で描いた00年代を代表する「失恋映画」

2010-04-16 | ロードショー



 マーク・ウェブの映画デビュー作「(500)日のサマー」を吉祥寺でやっと観た。青年トムから見たサマーとの500日間の「恋愛」というより「失恋」の過程がおもしろく描かれてる。脚本はスコット・ノイスタッターとマイケル・H・ウェバーによるもので、ノイスタッター自身の経験が下敷きになったらしい。これを監督のウェブが手並み鮮やかに調理。凝った構成と視覚スタイル、使用される音楽がトムの主観的な世界観を表現している。トム役のジョセフ・ゴードン=レヴィットが等身大の魅力で、サマー役のズーイー・デシャネルは驚くほど謎めいてみえる。脇の役者たちもはまり、すみずみまで目が離せない。




 トムがサマーと出会い、別れるまでのプロセスを、失恋からランダムに遡っていく。トムは、幼い頃にマイク・ニコルズ監督の『卒業』(67)を観て、その「恋愛観」を決定したという青年で、恋に傷つくたびに「ヌーヴェルヴァーグ映画」を観て、それらに登場する「観念的に苦悩する主人公」に同化することで自らを救済している。日頃聴くのは、ザ・スミス、ジーザス・アンド・メリーチェイン、ジョイ・ディヴィジョン、ピクシーズなど自己嫌悪型のナルシシズムを横溢させたオルタナティヴバンド。全体にクセのあるアーティストが好みで、僕あたり共感してしまうが、彼自身は素直な性格であり――妄想壁の傾向はあるが――いわゆる「いいやつ」なのだ。
 サマーは――トムの主観からみると――謎めいてチャーミングな女の子である。過去に幾多の「伝説的なエピソード」を残しており、一部劇中で再現されるが、それらはトムの空想であり、シュールな誇張が入っているので「実態」はよくわからない。ザ・ビートルズのメンバーで好きなのはリンゴ・スターで、その理由は「人気がない」。センスよくお洒落なのだが、歩き方はがさつ。性格は大雑把とも自然体とも言えるが、ここで何より重要なのは、彼女が「恋愛を信じない」と話していることだ。恋愛に屈折した思いがあるのか、奔放なのか、その理由は明らかにされない。それゆえ、映画を観る者はトムの主観を通じてサマーの言動を観察し、推理を働かせないでいられなくなる。冷めた表情を浮かべトムを不安にさせるが、突然に機嫌がよくなり、あとから謝ってくることもある。ひとつうかがえるのは、(トムに比して)サマーは男性経験が豊富で、恋愛に大胆だということ。そのことがトムの不安をいっそうかきたてるわけだが、映画的には「彼の主観」が邪魔をしているから実像は見えない。






 むかしピーター・イエーツ監督に「ジョンとメリー」(69)という恋愛映画があった。もう忘れられているが、ウディ・アレンの『アニー・ホール』を先駆け、『(500)日のサマー』の原点ともいえる手法を駆使した作品として忘れがたい佳作である。
 カップルは若きダスティン・ホフマンとミア・ファロー。二人がある朝を同じベッドで目覚めるところから始まる。『(500日)』と違うのはまずここで、性革命時代を象徴する描写である。女が先に目覚め、全裸で窓際に立つと出て行く。男も目覚め、バツの悪い雰囲気のなかで朝食をともにする。彼らは昨晩バーで出逢い勢い一夜を共にしたが、いまは冷静であり、会話がぎこちない。まだ相手に気を許せていないからで、慎重に言葉を選びながら、互いの心のうちを探りはじめる。これ以前のハリウッド映画にかぎらず大抵の恋愛映画は「二人の出会いと会話」から関係がはじまるが、二人の場合「セックス」からはじまる。快楽の酩酊から解放されると、急速に冷めて不安になり、互いの探り合いが始まる。「心の声」が「話し言葉」を裏切り、「映像」が「会話」の嘘やすれ違いを描き出す。イエーツはフラッシュバックとフラッシュフォワードを駆使して恋愛にいたるまでの男女を生態観察にしているのだ。「恋愛映画」が面白いのは誰もが経験するだろう「心理的な混乱状況」を「安全かつ客観的な立場」から眺めることができるからである。『ジョンとメリー』は
この面白さを一歩先に進めた作品だが、実験的なスタイルが難解にならず具体性を持ち得た点で優れていた。




 『アニー・ホール』(77)はより直接的な影響を『(500)日のサマー』に与えているかも知れない。ここでカップルを演じるウディ・アレンとダイアン・キートンは本作以前に実際恋人同士だった。アレンはここで「キートンとの恋愛」を振り返りオマージュを捧げているが、同時に、客観的にその「別れ」を受け入れている。本人同士が演じることによる「現実と映画」の入れ子構造が、これを特別な作品にしており、「恋愛映画の金字塔」であり「映画史に残る名作」としての地位を揺るぎないものにしている。
 フラッシュバック、スプリットスクリーン、アニメーション、ボイスオーバー、スーパーインポーズなどあらゆるテクニックを総動員することで描かれるのは、恋愛の不可思議である。出会いと別れの繰り返しが『アニー・ホール』は『ジョンとメリー』と共通している。だが、前者が作者の実体験に基づく「私的恋愛映画」なのに対し、後者が覗き見的な視点による「恋愛観察」であることを思えば、この二作は「似て非なる作品」だった。




 本作が連想させる映画はたくさんある。たとえば、ジャン=リュック・ゴダールの『男性女性』、マイク・ニコルズの『卒業』『愛の狩人』『クローサー』、ハーバート・ロスの『ボギー!俺も男だ』、ジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向かって撃て!』『リトルロマンス』『ガープの世界』、ハル・アシュビーの『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』、ロブ・ライナーの『シュア・シング』『恋人たちの予感』、キャメロン・クロウの『あの頃、ペニーレインと』などなど。
 トムは、冒頭で本作の物語を「ラブストーリー」ではなく「ボーイ・ミーツ・ガール」ものであると規定する。この映画の新しさは「オタク青年の恋」を描いた点で、映画や音楽のオタク的知識が、彼の現実に影響を与え、さまざまな恋愛の局面を彩り、その意味するところを規定していくのだ。当初、彼からすれば「恋愛」だった関係が、単に「少年と少女」が出会い、ひと時を過ごしたあと、やがて別れることになったに過ぎない。そんな「大人の認識」が冒頭の言葉で示唆されている。
 オタクでもマニアでもいいが、趣味に埋没する人の多くは、趣味の世界と現実の世界を結びつけて思考する。というより、それこそが「現実そのもの」なのだ。トムもそういうタイプで、空想の世界に逃げ込んで舞い上がったり落ち込んだりする。サマーという「現実」はトムの「世界」を揺さぶったが、すでに「失恋」していて、あの「500日間」を思い返しているのである。
 この映画には「探偵もの」的なおもしろさがある。「失恋」という事件からはじまり、失った(失踪)した恋人の手がかりを求めて記憶のなかを坂ぼっていくのである。映画の作者たちはトムの記憶=映像のなかに「手がかりらしきらしき断片」を散りばめているから、観ているこちらも様々なディテールに注意を払いながら観ることになる。
 会社主催のカラオケ・パーティーの場面。トムはサマーと恋愛について議論している。サマーは「恋愛には必ず終わりがくる。私は恋愛を信じない」と言う。トムは「愛は情熱。理性では避けられない」と反論。このあとトムはピクシーズのカラオケを熱唱し、サマーはその姿を「優しく微笑み」ながら見ている。「通常の映画」ならこの「微笑み」は「愛の始まり」を意味する描写である。しかしここでは「失恋」が前提だから、その微笑みはフィルムノワールの運命の女(ファムファタール)ではないが、いよいよ謎めくのである。




 やがてトムの記憶めぐりは迷宮の様相を呈してくる。記憶を探ると浮かびあがる彼女の言動のひとつひとつが「未処理」のままであり「袋小路」だらけだからだ。
 カラオケの帰り際にトムにサマーが尋ねた一言――「私のことを好きなの?」。このときトムは平静を装い「もちろん。友達としてね」と答えた。このときサマーが浮かべる「寂しそうな表情」が気になる。トムとしてはサマーの「恋愛否定論」に調子を合わせたつもりの返答だったが、瞬間、沈黙が漂い、サマーは「友達になろうね」と言って帰っていく。あのときのサマーの真意が気になる。のちのサマーの行動を思い出すとあまり真剣に恋していたと思えないからだ。ただ、もしも「好きだよ」と軽く答えていたらどうだろう。一夜のセックスでもできたか? 彼女の表情はもっと真剣だった。つまり恋愛を視野にいれた質問だったに違いない、いや、そうじゃないかもしれない……。観客はトムと一緒にあれこれ考えてみる。だが、このときトムとサマーの「主導権」は決まったも同然だった。続く「コピー機前のキス・シーン」は「大人の女サマー」が「もどかしきトム“少年”」をリードしてやる格好になってる。メロメロになっても仕方ないが。




 重要な鍵となるもうひとつ重要な場面がある。二人が映画『卒業』を観に行く場面だ(トムの大好きな映画である)。スクリーンにはかの有名なクライマックスシーン――教会で人妻になろうとしている花嫁をダスティン・ホフマンが奪還してバスに乗り込む――でサマーは涙を流す。それに気づいたトムは泣きじゃくるサマーに「たかが映画さ。現実じゃない」などと格好をつけて慰めるのだった。
 トムは人一倍『卒業』を愛しているようだが、どうもこのシニカルな映画を誤解している。あのラストの示唆するものを理解してないように見受けられるのである。『卒業』のクライマックスは教会での結婚式ある。親の言うまま意に沿わぬ男と結婚するキャサリン・ロスを奪還すべくダスティン・ホフマンがやって来る。ホフマンはロスの手を引きながら勝利の笑顔を浮かべながら走り、偶然きたバスに飛び乗って去っていく。重要なのはこのあとに続く場面だ。バスの最後尾に座った二人は満足の笑顔を浮かべ、手を叩いて喜んでいる。しかしやがて一息ついてみると頭のなかを不安の影が覆いだし、みるみるうちに目が泳ぎはじめる。「果たしてこれで良かったのか?」「これからどうするというのか?」そんな疑問がフト頭をもたげるのである。彼らもまたそこからの大人たちのように不幸は夫婦を演じるようになるだろう。二人の表情には早くも「虚飾の笑顔」が浮かんでいるのだ。
 「愛は情熱」の熱弁をふるうトムがこの映画をちゃんと理解できているかどうかは怪しいものである。しかしサマーはどうだろう。恋愛否定論者の彼女こそ理解していたのではないか。サマーがあのラストに何を見て涙を流したのかは謎のまあだが、単なるもらい泣きでなかっただろうことは映画の終盤で暗示される。

(加えてもうひとつ。サマーがエレベーターの中で口ずさんだザ・スミスの「There is a light that never goes out」の歌詞の内容を思えば、彼女こそ真のロマンティストだったように思える。彼女は心のうちに「茨」を抱えてる――ロマンスとは決して成就しないからこその「ロマンティック」なのだ。サマーは「恋愛を否定」したあとポツリと「傷つくのが嫌だし」ともつぶやく。彼女の一連の「冷めた言動」や「唐突な心変わり」は「傷つくことを恐れるがあまりの防御壁」だったかもしれない)





 もう二度と「あのときのサマー」と再会することはない。そう認識したトムはラストで「大人の入り口」に立つ。それもこれも「サマーとの500日」あってのことなのである。



  





「リダクテッド」 あまりにも衝撃的なラストショットで語る、戦争の一断面

2010-03-20 | ロードショー



星条旗の星から滴る血。顔が黒く塗りつぶされた兵士。

「ハート・ロッカー」を観て「リダクテッド」を思い起こした。
ブライアン・デ・パルマのイラク戦争への「怒り」が暴発した問題作である。
今まさに進行中のイラク戦争におけるレイプ殺害事件の狂気と不快感を容赦なく横溢させてベルリン映画祭銀熊賞を得た。そのあまりにも衝撃的な描写ゆえか本国、日本ともにひっそりと公開されるにとどまった。

「ハート・ロッカー」の主人公たる爆弾処理班はエリートだったが、「リダクテッド」に登場するのは無名の兵士たちである。彼らが引き起こす無惨かつ不快このうえない罪も、戦争というシステムのなかでは、ほんの瑣末な出来事のひとつとなりえる。60年代世代のデ・パルマには反体制魂がある。これは、彼の名を知らしめた残虐なスリラー映画のすべてを足しても足りないほどの恐ろしさを持った反戦映画である。あのラストショットをもう一度味わうのにはちょっとばかり勇気が必要だが、観直してみたい作品である。



「Drパルナサスの鏡」と「アバター」視覚表現が与えてくれる自由と楽しさ。そして苦さ。

2010-02-02 | ロードショー
  

近頃、心の中が騒がしい。なにやら落ち着かない気分だ。
文章を書こうと思ってもモヤモヤするだけ、人の文章もちゃんと読めない。
文字はもういい、視覚的なものが欲しいと飢えている。絵を描いたり写真を見たり映画を見たりすることのほうが遥かに楽しい。もっと直接に肉体と繋がっているような感覚が欲しいのだ。
という訳で、最近見に行った映画は、ジェームズ・キャメロンの「アバター」とテリー・ギリアムの「Drパルナサスの鏡」である。両者とも映像の天才。だが遠く離れた質感を持つ。



「アバター」は3Dが話題になっている。
それは映画の歴史がひっくり返るのではないかと思えるほど凄かった。まさに体験する映画という感じで、見逃した人、見る気がない人には悪いが、この体験を見逃すことは一生の不覚というものだ。この3D、飛び出してくるというより奥行きを表現する。それは映画制作のうえで現実の動きを抑制するどころか数倍に拡大している。そのことによって眼球の運動量は飛躍的に高まり疲れるが、しばらくすると慣れてしまう。
予告編で気になっていた映像の過剰な明るさは、3Dメガネをかけてみることで解消されるように出来ていた。おかげで画面は重厚ですらあった。



戦争映画にこだわるキャメロンらしい凄まじいばかりの戦争ファンタジー映画である。
「地獄の黙示録」の神の視線からみたナパーム弾の狂気や、「プラトーン」のゲリラ戦の恐怖、「プライベート・ライアン」の臨場感、「シン・レッド・ライン」の自然と暴力の対比、「七人の侍」の合戦、「もののけ姫」のエコロジー、「ゴースト・イン・ザ・シェル」、「アキラ」、「マトリックス」のSF要素、「ダンス・ウィズ・ウルヴス」や「ニューワールド」の物語。
キャメロン自身の特に「エイリアン2」を思い起こさせる大スペクタクル、フェミニズム、すべてのキャメロン好みを彼自身の両の手の平に乗せ、ミキサーにかけた一大通俗エンターテイメント。アメリカン・モダン・アートとしての3D映画。
美しく、残酷で、迫力。キャメロン・エネルギーの物凄さを改めて思い知る思い。
説明なんて野暮。理屈もいらない。キャメロンはとにかく俺の3Dを観ろ!といっているかのようだ。

  


一方、「Drパルナサスの鏡」は、毒気に満ちた想像力の大博覧会である。「アバター」とは別の意味で、あきれ返るほど変なイメージの連続である。
本作は「未来世紀ブラジル」を作ったギリアムらしく“現実と想像力の闘争”の物語。
誰もが知るように“現実”という怪物は、いつだって“個人の想像力=夢を見る力“を破壊する。それは全ての人が必ず経験する痛みだ。だからギリアムのファンタジーは苦い。それは哀しみと痛恨の苦味である。
本作は夢と現実を行き来する物語だが、それは次第に相互浸食しあい、悪夢の様相を呈し始める。夢だけに酔わせることはない、突然冷たい汚水を浴びせられる感覚を繰り返し味あわせられる。その夢は、現実を奇妙にデフォルメしたグロテスクで恐ろしく、同時に愉快なことこの上ないものだ。愉快に感じるためには自らを笑いとばす感性がなければならないが…。

「アバター」が最新鋭のミキサーにかけた最新濃縮ジュースの一気飲み体験なら、「パルナサス」は魅力的なレトロ・ミキサーに入って一緒にかき回されるような体験が出来る。
出来上がったジュースは世にも珍しい怪味がする。うまいもまずいもない、理屈など吹っ飛んでいる。

若く美しい女性に恋をした老人パルナサスは、悪魔に魂を売ってその恋を成就させた。その条件は、娘が産まれ、17歳になったら悪魔に引き渡すこと。いま、娘は17歳になろうとしている。勿論彼女に話してはいない。パルナサスと仲間は一種のマジックショーを巡業する小さな一座をしている。客は少ない。悪魔は客を5人用意出来れば見逃してやろうと持ちかけてくる。そんなある日、首をつって死にかけていた青年を救う。彼は記憶喪失になったが魅力的だ。彼なら客を呼べるかもしれない・・・。



こんな風に展開する物語は、ロンドンの薄汚い場所ばかりでロケしており、色彩もダークである。「アバター」のハイテク機器による旅とは違って、幻想への旅の入り口はペナペナの鏡だ。しかし、幻想の世界に(その仕掛けは書かないが)入ると、そこは人の願望や夢想を再現するビザールな原色世界。このコントラストは、いかにもギリアムらしいインパクトだ。
毒気のあるダークファンタジーといえばティム・バートンも高名。だが、彼と比べてギリアムはより知的に屈折していて、その毒も致死量寸前のものである。パルナサスの夢と現実の闘いは、実はギリアム自身のものであり、必ずしも全てが叶うハッピーな世界ではない。
彼が生み出す夢の映像は、すでに“現実の魔”に犯されていて純粋さを保てないでいる。グロテスクに変形した悪夢だ。そんな彼の作品が切実さを持っているのは、それでもギリアムが夢を見る力を手放そうとはしないことである。ここが彼の素敵なところだ。その意思は狂気的である。だが、その狂気は、鏡に反映させると正気の顔をしているのである。その聡明な繊細さとやさしさ。それは、美しい幻想を錆びついたナイフで切り裂かれた痛みを経験している人だけが持つものだ。

テリー・ギリアムは70歳。だが反骨精神は鈍ることを知らない。
彼の作品はスイートなものではないが、勇気をくれる。
君はそれでも夢を見るかい?と彼は問いかけてくる。しっかりと君自身のための夢を見ているのかい?と。
人に与えられた夢でなく、自分の力で自分だけの夢を見たいという人にテリー・ギリアムは最高に滑稽な“悪夢”を用意してくれる。僕はこんな夢を見たよ。それは悪夢のようだった。でも、悪夢だって“かけがえのない”僕の一部なのさと。

キャメロンの理想と夢も確かに面白いが、やはりギリアムのそんな提言こそ素敵だ。
言葉と視覚、現実と幻想、現在を軸にした誕生以前と未来、若者と老人、甘さと苦さ。
ギリアムは傷だらけになりながら、バカバカしく奔放な想像力で描く。



キャメロンの、映像メディア自体を変革しようという壮大な夢と実現の目ざましい成果。
ギリアムの、夢の実現のための闘い。それはギリアム流の私的ドキュメンタリーともいえる作品だった。個人的に応援したくなるのは、勿論後者である。
とにかく、この二本の対照的な作品を続けて見て満足した。
澱んだ頭は、ほんのしばらくだが“真っ白”になった。一度白くなった頭はスッキリして、また色々と考えたり感じたりできるようになるものである。
そう信じて、今日はこれからマリオ・バーバの「白い肌に狂う鞭」を見よう。
その後、落書きをしてから、ギイ・ブルダンの写真集をみて寝よう。