真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

ライアン・クーグラーの『クリード/チャンプを継ぐ男』が「継ぐもの」と「映画館」のこと。

2015-12-30 | ロードショー
 

『クリード/チャンプを継ぐ男』がなかなかいい。「お節介」と「優しさ」のドラマが骨子になって、実に『ロッキー』シリーズらしい人情ドラマになっているのである。
 1976年の『ロッキー』に並ぶとは思わない。あれはやはり特別な映画で、脚本のレベルが違うし、生活感情により深い実感があった。しかし『クリード』もいい映画だし、偶然だが『スターウォーズ/フォースの覚醒』との共通点も感じられた。それは70年代から連綿と連なるアメリカ映画史とその人材への強いリスペクトの賜物なのだ。



 『クリード』は『ロッキー2』のファンだったライアン・クーグラー監督のアイデアから生まれた作品である。スタローンは脚本を持ち込んだ彼の熱意に「かつての自分」を見たことだろう。物語も同様で、かつてロッキーの宿敵だったアポロ・クリードの息子が、彼のところに来てトレーナーになってくれと依頼してくる。言うまでもなくこうした作者の「現実」と登場人物の「ドラマ」の相関関係は『ロッキー』シリーズを貫いてきたものである。スタローンはこれで大スターとなり、当初のハングリーな魅力を失っていったが、すると『ロッキー3』のロッキーおそうした状況に陥り、スタローンが右傾化すれば『ロッキー4』でのロッキーもソ連のドラゴと対決する。その意味でこのシリーズは、『ゴッドファーザー』シリーズにおけるマイケル・コルレオーネが作者たるフランシス・フォード・コッポラその人であり、『スターウォーズ』シリーズにおける若きルーク・スカイウォーカーやアナキン・スカイウォーカーがジョージ・ルーカスその人であったことと通じるシリーズだったのである。



 しかし時は流れて、いまやルーカスもスタローンもシリーズの中心から外れており、新たな作者たちがそれを引き継ぎはじめた。本作のクーグラーや『フォースの覚醒』のJ.J.エイブラムスは、彼らへのリスペクトを前面に押し出しながら「自分の作品」に仕上げている。劇中で脇に回るスタローン、それにハリソン・フォードとキャリー・フッシャーもいい芝居を見せている。ことにスタローンが見せる深い表情には、彼の映画人生とイコールで結びついてきたロッキー役の集大成とも言えるものであった。
 『クリード』はまたいまひとつ継承を成し遂げている。本作のクレジットにロバート・チャートフの名が出てくることに目を留めた人が何人いるか知らないが、彼こそアーウィン・ウィンクラーとともにシリーズを製作してきた功績者である。2人は『ひとりぼっちの青春』(シドニー・ポラック)『いちご白書』(スチュアート・ハグマン)の製作者としてアメリカン・ニューシネマを牽引したチームだった。『ロッキー』はそのニューシネマの転回点となった作品だが、その後も『バレンチノ』(ケン・ラッセル)『ニューヨーク・ニューヨーク』『レイジング・ブル』(ともにマーティン・スコセッシ)『ライトスタッフ』(フィリップ・カウフマン)と映画史に燦然と輝く傑作を世に送り出してきた。二人は別れた時期もあったが、そのロバート・チャートフもいまはこの世になく、本作はその家族によって製作されているのである。



 『クリード』を観たのは有楽町マリオンにある丸の内ピカデリー。ここはそこらの劇場よりもスクリーンが大きい。往年の劇場らしい空間設計で、スクリーンを「見上げる行為」の気落ち良さと贅沢さを味わえるのである。スクリーンと客席との距離感がゆったりとして落ち着きがあり、映像(=ドラマ)をよくよく堪能することができる。やはり映画館の肝は「空間」だなと感じ入った。
 劇場空間に快感を感じられるか否かは、人それぞれの感覚にもよるだろうが、個人的にはスクリーンが眼前に「そびえたって」いる感じが欲しい。そびえ立つ画面の全貌を把握できつつ、映像から離れすぎない距離に座るのが好みなのである。こうした好みから出発する映画鑑賞は、必然、主観的なものになるだろうが、「クリード」の場合、画作りの基本が主人公を取り巻く環境と、そこから生じる感情のうねりを掬い取ることにあるから、カメラ位置は遠からず近からずの位置に据えられている。その落ちつき方に――伝統的なアメリカ映画の――この映画の作者の理性を感じ、安心して盛り上がれる。そういう古典的な映画の有り様が、古典的な丸の内ピカデリーの有り様とよく似合っていたのだ。
(渡部幻)

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J.J.エイブラムスの『スターウォーズ/フォースの覚醒』に思わず感心。

2015-12-27 | ロードショー
 

 『スターウォーズ/フォースの覚醒』は予想を超えておもしろい映画だった。JJエイブラムスの演出はかなりスピーディーで、『エピソード4』のビジュアル・イメージを意識しつつ、『エピソード5』におけるアービン・カーシュナー演出のめくるめく展開の力技を想起させて好調である。実際『エピソード5』ほどの緻密さはないし、あの毒気も感情的な深みも足りないとは思うが、勢いがあり、画面がイキイキとして、JJの優等生的な演出姿勢が活きた。

 ジョージ・ルーカスの創作姿勢は基本「私小説的」なもので、どこか暗くナーバスな傾向を拭えないところがある。『エピソード4』での若きルーカスはそうした自分の性格傾向を反転させて「明るい映画」を目指し、見事に成功した。しかし時を経た『エピソード1~3』では生来の個性を噴出させ、それゆえ娯楽作としてのバランス感覚を歪にした。僕はそこがおもしろいと思ったが、ファンからの評判はあまり良くなかった。『スターウォーズ』の底にあるのはルーカスの自伝的な感慨をフィクショナルに描いたストーリーだったが、『エピソード1~3』を取る頃には時すでに遅し、彼の手を離れて独自の道を歩み始めていたのである。

 

 『フォースの覚醒』は作者たるルーカスがほぼ手を引いて最初の作品である。権利を獲得したディズニーとの問題を記事で読むと気の毒に思うが、完成した『フォースの覚醒』を観るかぎりルーカスが撮っていたら、こうはいかなかったろうと想像せずにはいられない。JJの「八方美人的な演出」は、ここで考えうるかぎりのファン心理に応えて見事に完成された「商品」に仕立てているが、ルーカスなら良くも悪くもファンを裏切り「作品」に仕立て上げようとしていただろう。ルーカスには気の毒だが、僕はこれで良かったのだと思う。
 ただひとつ大きな疑問が残るのは、J.J.の演出はバランスが良すぎるからか、シリーズのこれまでと比べ、意外にも「脳裏に焼きつくイメージ」に乏しいのである。J.Jは優れた「まとめ系演出家」だが、想像力の飛躍が足りないのかもしれない。人物は魅力的でそこが美点なのだが、身を裂くような情念が薄いのも、ルーカスもしくはカーシュナー演出に譲ってしまう部分だ。

 

 『フォースの覚醒』はまず主演の「新しい顔ぶれ」の起用で成功している。カリスマ性はないが、それぞれに人間臭く、だからこそのフレッシュなムードを付与している。若手ではとくに『風の谷のナウシカ』のナウシカを思わせるデイジー・リドリーが目を引くが、アダム・ドライバーの芝居が変わっていて印象に残る。テレビシリーズの『GIRLS』やノア・バームバックの『フランシス・ハ』での彼も現代的でいいが、マーティン・スコセッシの新作『沈黙』では日本へ布教に来たリーアム・ニーソン扮するイエスズ会の神学者フェレイラの弟子フランシス・ガルペ役を演じるらしい。いかにも似合いそうである。また個人的に感心したのが古株のキャリー・フィッシャー。彼女がここまで深みある表情を見せたのはたぶん初めてだろう。ハリソン・フォード扮するハン・ソロとの再会場面で見せる風情に積年の人生がにじんでいた。

 

 映画マニア的にはマックス・フォン・シドーの起用が嬉しい。スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン作品の秘蔵っ子として脚光を浴び、ジョージ・スティーブンスの『偉大な生涯の物語』でイエス・キリストを演じアメリカ映画界に進出。ベルイマンは70年代のアメリカ監督に多大な影響を及ぼしたが、なかでもウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』は顕著だった。シドーはこの大ヒット作に出たあと、シドニー・ポラックの『コンドル』の殺し屋役でも特異な存在感を披露した。品格と風格を兼ね備えた容貌は神話的なドラマによく似合い、ほんの少しの出演で作品に風格をもたらす。『スターウォーズ/エピソード4』ではアレック・ギネスやピーター・カッシングが引き受けたその責務を、『フォースの覚醒』ではシドーが任されているわけだ。しかし『スターウォーズ』シリーズにおける「老人=旧世代」の「退場」の仕方は、いつもちょっと拍子抜けしてしまうほどにあっけないのが特徴である。『エピソード4』におけるギネスのオビ=ワン、『エピソード6』のヨーダやダースベイダー(皇帝も)、老人でないが『エピソード1』のリーアム・ニーソンもそうだ。つねに疑問に感じるのだが、あの「感じ」は一体何なのだろう。
 今回ジョン・ウィリアムズの音楽が思いのほか控えめに鳴っていて、全盛期に必ず聴かせた「必殺のメロディライン」が無かったように思った。最も凄かったのは『帝国の逆襲』で、そのサントラLPはほとんど驚異的な出来栄えであった。しかし劇場の大音量で聴く「ウィリアムズ節」はやはりいいものである。日本映画でこのレベルのフル・オーケストラを聴かせて貰える日がくるとは到底思えないのだ。
(渡部幻)

   

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『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』公開記念に~~『エピソードⅠ~Ⅲ』とジョージ・ルーカスの世界

2015-12-26 | ロードショー


 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が公開された。ジョージ・ルーカスが関わらない新作だと言う。僕が最初の『スターウォーズ』(77/ジョージ・ルーカス監督)を観たのは日本で公開された78年、8歳の時だ。劇場で多くの子供たちと同様、夢中になった。しかし遠い昔の思い出で、このシリーズについて何かを書くことを避けてきたし、語ることすらも気が重いことがある。それゆえか、すっかり忘れていたけど、意外に最近書いていたことを思い出した。2010年に編集した『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)所収の「エピソードⅠ~Ⅲ」についての短い原稿。せっかくだし、新作の公開記念に、少し加筆修正を加えてここに再録することにした次第。以下。


 1977年に全米で公開された『スター・ウォーズ』は、新世代の観客から熱狂的に迎えられて社会現象となり、アメリカ映画界の潮流を変えた。その生みの親の名はジョージ・ルーカス。彼は1971年のSF映画『THX-1138』で長編映画デビュー。完璧に管理化された未来世界を白と黒で統一させた前衛的な映像スタイルで描き出したが、ロバート・デュヴァル扮する主人公の物語の中心になるのは「ロマンス」と「チェイス」と「現状からの脱出」である。続く『アメリカン・グラフィティ』は打って変わって、彼の出身地たるモデストを舞台に、「青春の終焉と新たなる旅立ち」をジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件の前年にあたる62年に設定して回顧した自伝的な青春映画だが、やはりここでも「ロマンス」と「チェイス」と「現状からの脱出」が描かれている。
 『スターウォーズ』は前2作を融合させてスペースオペラの衣を着せた青春映画であり、その意味で『アメリカン・グラフィティ』からの流れである。主人公のルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)は、『アメリカン・グラフィティ』の主人公カート(リチャード・ドレイファス)から連なる系譜にある田舎青年で、退屈な日常生活から「脱出」して「ロマンス」と「チェイス」に溢れた未知なる冒険の世界へと乗り出していった。しかし、続く『帝国の逆襲』でルークを待ち受けていたのは自らの出生にまつわる呪われた歴史である。シリーズは神話的な壮大さを増し、「親子の確執」を描いた物語としての陰影を深くしていく。その意味でこのシリーズは、ルーカスの師に当たるフランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』サーガに通ずる「家族の叙事詩」だと言える.
 「ルーク=ルーカス」三部作の最終話『ジェダイの帰還』で「息子=ルーク」が悪の帝国に堕ちた「父=ダース・ペイダー」を打ち倒し、その確執を克服すると、同時に宇宙の平和が取り戻され、仲間たちと共に「神話の英雄」となる。現実の世界でも、ルーカスは仲間の監督たち――コッポラ、スピルバーグ、スコセッシ、デ・パルマ、ミリアス――と共にアメリカ映画界に革命を起こして時代の寵児となった。様々な局面で『スターウォーズ』は人々をハッピーにさせた「青春映画」だったのである。
 あれから16年の時を経てルーカスはその前日譚『ファントム・メナス』の映画化に挑み、ダース・ベイダーことアナキン・スカイウォーカー――つまりルークの父――の青春時代を描く。しかし、かつての「青春映画作家ルーカス」もすでに若者ではなく、かつて打ち倒した「父」もいまや「わが身」であり、たとえ遠い昔に書き上げたドラマだとしても、その認識が、新シリーズに影響を及ぼさないわけはない。
 『ファントム・メナス』(99)はこの大河ドラマの序章つまり「エピソードⅠ」であり、『クローンの攻撃』(02)『シスの復讐』(05)と続き、77年の『スターウォーズ』が「エピソードⅣ」になる。しかしここでは、あくまでも「公開順」のシリーズとして考える。
 『クローンの攻撃』で美しい青年に成長するアナキン・スカイウォーカー。余りにも若く純粋で地に足のつかないが、そう遠くない将来にルークの父となる運命にある。ドラマ上の時制が逆転して製作されたため、観る者のほとんどが、彼ら親子の悲劇的な運命の行方を意識しながら観ている。息子ルークの青春が未知の可能性を観る者に伝えたのと真逆に、父アナキンの青春が悲劇へと向かうことは、あらかじめ定められた運命である。ことに『クローンの攻撃』は2001年の9.11テロ事件後の公開作であり、ルーカスは急速に右傾化していく当時のアメリカの混沌とした状況を意識している。だから「ゼロ年代『スターウォーズ』」の冒険に、あの天真爛漫とした楽しさはない。(ちなみに「エピソードⅠ」はベトナム戦争がアメリカの撤退で終結をみて、ニクソンがウォーターゲート事件を起こし退陣、建国200年を迎えた翌年の77年公開。「重い季節」に区切りがつき、大衆は「憂さ晴らし」を求めていた)
 そうした「違い」は俳優陣の個性にもハッキリと現れている。「旧三部作(エピソードⅣ~Ⅵ)」で、ルークを演じたマーク・ハミルやハリソン・フォード、キャリー・フィッシャーの陽性な個性と比べたとき、「新三部作(エピソードⅠ~Ⅲ)」でアナキンを演じたヘイデン・クリステンセンやパドメ・アミダラを演じたナタリー・ポートマンの個性はいかにも陰性であり、深刻である。そんな彼らの個性を選択したことによる作品への影響は大きい。
 デヴィッド・タッタソールの撮影もまた、エピソードを重ねるごとに「黒」の印象を強め、「新三部作」にノワール的な「暗さ」を付加しているが、しかし、このこと自体は「旧三部作」のルークの衣装が、白色(Ⅳ)から灰色(Ⅴ)へ、灰色から黒色(Ⅵ)へと変化していくことで、純真な息子が闇に堕ちた父親(ダースベイダー)に同化していく過程を象徴させた色彩設計に対応しているに過ぎない。
 その意味で真に重要な役割を担っている色彩とは、エピソードⅢでアナキンとオビ=ワン(ユアン・マクレガー)が演じる痛ましい決闘の背景に塗り込められた漆黒を引き裂くように噴出する溶岩の「赤色」であり、ルーカスはこの「赤色」の禍々しさに「新三部作」の主題を託しているのではないか。
 あのマグマの赤色は、滅びゆくジェダイの同士たちが流した血の赤であり、手足を斬りおとされて芋虫のごとく這いずるアナキンが流した血の赤であると同時に、彼の子を宿し、出産した後に息絶えるアミダラの胎内から流れ出た血の赤である。ここに本シリーズのもう一つ重要なる主題――家族のサーガ――が立ち現れてくる。つまり「マグマの赤」は、呪われた運命に煮えたぎる血縁の「赤色」なのである。
 自らの父を知らぬアナキンは、ゆえに母のシミとアミダラが象徴する母性の愛に飢え、もだえ苦しむ。それがジェダイの騎士たる彼のアキレス腱となり、師であり兄であり父の代わりでもあったオビ=ワンとの関係をも引き裂いていく。ダークサイドへと堕ちるしかないアナキンの姿はあまりにも悲痛だ。その姿を見つめつつ悲劇ドラマとしての「新三部作」は幕を閉じる。
 観る者はこのあと、悲劇の物語から一転、『新たな希望(エピソードⅣ)』と題した「次世代の青春物語」へと引き継がれ、血まじりの漆黒にふたたび光が差し込むだろうことを知っている。しかし、だからこそと言うべきか、いまや「父の世代」になった「ゼロ年代のルーカス」が、二世代に渡る「青春」を比較検証した末に描き出した結末が、とてつもなく重たく、陰惨なものに感じられるのである。

渡部幻(2010年執筆。『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)所収の原稿を加筆修正)







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ファティ・アキン『消えた声が、その名を呼ぶ』の壮大な地獄巡りと映画の美

2015-12-03 | 試写
 

 ファティ・アキンの『消えた声が、その名を呼ぶ』を試写で。
 近頃、試写で観た映画を書いておくよう心がけることにしているが、いつまで続くだろうか。

 第一時大戦中の1915年、オスマン・トルコから始まる。鍛冶職人のナザレットには愛する妻と双子の娘がいる。アルメニア人でありキリスト教徒であるがゆえにある日突然連行され、家族から引き離され、重労働を課せられたのちに他のアルメニア人とともにのどを裂かれて処刑されるが、奇跡的に生き残る。ここまでは容赦ない描写の連続で現実とは思えないような大量殺戮の歴史が映像化される。「復活」したナザレットは声を失うが、ここから壮大なる旅の物語がはじまり、途中、娘が生きているとの情報を得るとアメリカ・ノースダコタへと向かい、ついに辿り着く。

 20世紀前半オスマン・トルコのアルメニア人親子を襲った凄絶な受難劇である。西部劇を思わせる旅の物語で、果てはアメリカにまで辿り着く壮大なる移民の物語でもあるが、こういう、すれっからしではない「映画らしい映画の映像」を観たのも久しぶりな気がする。
 現在あまり見られなくなった類のエピックドラマとして、(内容は違うが)たとえば『アラビアのロレンス』『ドクトルジバゴ』(デヴィッド・リーン)、[『人間の条件』(小林正樹)『戦争と人間』『ウエスタン』(セルジオ・レオーネ)『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー)『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー)『ガリポリ』(ピーター・ウィアー)『アメリカ アメリカ』(エリア・カザン)『ゴッドファーザーPART�』(フランシス・フォード・コッポラ)『ラグタイム』(ミロス・フォアマン)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(レオーネ)『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン)などと通ずる「魂の叙事詩」としての面白さがある(時代的な一致を含む)。「面白い」とは言っても、ここに描かれるのは、時代の大きなうねりに翻弄された個人が体験する地獄めぐりであり、そのなかで人間が、なおも行動――つまり「生きる」ということ――を起こし、生き残らんとするとき、彼や彼女を突き動かすだろう「動機」には普遍的かつ根源的な感動があるのである。

 
(ゴッドファーザーPART�より)

 「壮大なるエピックドラマ」というと、昨今は『スターウォーズ』もしくは『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのように「ファンタジーの衣」をかぶせないとなかなか大衆に届かなくなっているようだが、『消えた声が、その名を呼ぶ』は、より生々しい内容を持つ大作であり、実際、それらにも負けないようなドラマチックな面白さを持っている。
 アキン監督は民族の悲劇を克明に捉え、その映像はリアリズムを土台にしながら、ときに現実の枷を外して超現実的な領域に踏み込んでいく。その点でこれはマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』や『クンドゥン』に近い宗教的体験としてのインナートリップ・ムービーだと言えるが、ここに描かれる「トリップ」とは、見知らぬ世界への地理的・物理的・時間的な肉体の移動が精神を揺り動かし、その先にもたらされるだろう魂の浄化としての「旅」であり、その様を描いた体験としての物語である。

 

 アキンには監督としての新鮮な目、驚きに見開けれた目があり、それは自らの歴史を遡る者に不可欠の目でもあるが、同時に、現代的かつ理性的な「距離の眼差し」を保ち、恐るべき悲劇を描きながら決して情に溺れさせない。シネマスコープの撮影は見事。ことに美術造形は圧倒的で、ドラマの後半に広がる20世紀前半のアメリカの景観は一種幻想的ですらあった(セルジオ・レオーネの『ウエスタン』やイーストウッドの『荒野のストレンジャー』を彷彿とさせる)。音楽も特筆される。ナザレットの破裂寸前の鼓動に同期して早鐘を打つ音楽の効果は鮮烈。思わず身を乗りださせる。
 そんな本作の映像美を堪能するのには巨大スクリーンが相応しいと想像(試写室は小さい)するのだが、さすがに無理だろうか。タランティーノが新作西部劇を「70ミリ」で公開するらしいが、多分こうした動きは、ネットでの映像環境に対抗する「劇場向け映画づくり」として「3D」に次ぐ有効な方法論として検討されているのであろう。ファティ・アキンにはそんな「時代の要請」に応えられるだけの技量がある。少なくとも日本の映画状況のなかで今後先決となるのは、彼が描くような「内容」を受け止めることの出来る観客を育てていくことだろう。
 ちなみに、マーティン・スコセッシの盟友であり、『ミーン・ストリート』を彼と共に書いたアルメニア系アメリカ人のマーディック・マーティンが本作の脚本に参加している。苦悩する魂と暴力の相克を描くエピックドラマを好むスコセッシが絶賛したのにも納得。当然そうだろうと思わせる力作である。
(渡部幻)

   

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奇才カルロス・ベルムトが『マジカル・ガール』で披露した「映画の魔法」

2015-12-01 | 試写
 

 カルロス・ベルムト監督のスペイン映画「マジカル・ガール」を試写で。創意溢るるとはこのこと。いつかどこかで見たことのあるようなないような摩訶不思議な夢の感触を持った映画だ。
 白血病を患い余命短い娘のために奔走する父親の愛をきっかけに、薬漬けの不安定な美人女性とその夫、前科者の老人らの過去と現在が絡み合い、予想外の方向へ転がっていく。公開が先なので詳しくは書けない。しかしその不条理とも言える錯綜した展開は、ファンタジックなタイトルから想像もつかないものだが、これはたしかにフィルムノワール的なのである。「黒い」それでなく「白い」それであり、ここにまず、才人ベルムトの新鮮な着眼をうかがうことができる。映画ファンなら一度この怪昧に触れておいていい傑作だと思うが、それ以上にヒットすべき作品というか、させなければ勿体ないと思わせるものがある。もしかすると、この作品を観ることで初めて映画の世界にはまる人が出てくるかも知れない、そういう可能性を秘めている気がするのである


   

 ベルムトにはイラスト的な視覚センスがあり、そのセンスにはまった役者たちの目鼻立ちと体つきが、まず素晴らしい。男優の二人は揃って知的なマスクをしている。ホセ・サクリスタンの額と背中、ルイス・ベルメホの奇妙に短い二の腕とがに股が、どこか哀れかつ滑稽で、瞼に焼きつくが、女優ではことバルバラ・レニーの存在感がセンセーショナルで、主演女優賞を総なめにしたというのも「当然」と頷かせられる。彼女の薄幸な美貌と容姿(停滞した体つきとファッション、ヘアスタイル)が時折、ゾッとさせるほど魅惑的で、このスペイン製ノワールに似合うが、しかしここで最大の「運命の女」は、美少年とも身紛わせる12歳の病身の美少女(ルシア・ポシャン)なのだ。物語は彼女の願いを叶えたいと願う父親の行動を起点に人々の過去を呼び寄せていくが、しかし本作は、「美少女幻想」もしくは「女性幻想」に寄りかかり甘えている作品ではない。むしろここには「女性(または美少女)」を「男性」がどのように愛し、扱っているかについての批評的な考察があり、そこが深みともなっている。とくにインテリ男性の弱点というか愚行を突いた部分については、同じ性を生きるものとして思わずゾッとさせられる瞬間が幾度かあった。

 
 
 もっとも、ベルムト演出は知的かつ抑制的にコントロールされたもので不必要な煽りや安易な決め付けを感じさせない。彼は劇中で「日本のカルチャー〈アニメやアイドル〉」を重要な要素として登場させるのだが、その映像の肌合いも、少年(男性)マンガ的というより女性マンガ的であり、白を活かした空間のなかに禁欲的かつ触覚的な情念を横溢させている。深い考えなしに魚喃キリコの視覚的なセンスを想起したが、勿論、内容はまるで異なる。しかし、その「語りすぎない話法」は同様に鮮やかでで、各人物が抱え込んだ「事情」の数々から生じたあらゆる「謎」の解釈は、観る者に固有の感応に委ねられている。ゆえに、さまざまな人の意見を聞いてみたくなるような、これはそういう極めてユニークな映画であり、だからより多くの観客のもとへ広まり、ヒットして欲しいと思ったのである。

(渡部幻)

   

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