真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

妄執の映画作家・ロマン・ポランスキーの映画はパラノイア・カタログ

2010-04-25 | 映画作家

[反撥」

「袋小路」

「水の中のナイフ」

「ローズマリーの赤ちゃん」

「テナント」

「マクベス」

「チャイナタウン」

「フランティック」

「赤い航路」

「死と乙女」

「ゴースト・ライター」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シャッターアイランド」に横溢する精神を蝕む炎と水の記憶

2010-04-24 | マーティン・スコセッシ
 



 




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『(500)日のサマー』は抜群のチームワークと感性で描いた00年代を代表する「失恋映画」

2010-04-16 | ロードショー



 マーク・ウェブの映画デビュー作「(500)日のサマー」を吉祥寺でやっと観た。青年トムから見たサマーとの500日間の「恋愛」というより「失恋」の過程がおもしろく描かれてる。脚本はスコット・ノイスタッターとマイケル・H・ウェバーによるもので、ノイスタッター自身の経験が下敷きになったらしい。これを監督のウェブが手並み鮮やかに調理。凝った構成と視覚スタイル、使用される音楽がトムの主観的な世界観を表現している。トム役のジョセフ・ゴードン=レヴィットが等身大の魅力で、サマー役のズーイー・デシャネルは驚くほど謎めいてみえる。脇の役者たちもはまり、すみずみまで目が離せない。




 トムがサマーと出会い、別れるまでのプロセスを、失恋からランダムに遡っていく。トムは、幼い頃にマイク・ニコルズ監督の『卒業』(67)を観て、その「恋愛観」を決定したという青年で、恋に傷つくたびに「ヌーヴェルヴァーグ映画」を観て、それらに登場する「観念的に苦悩する主人公」に同化することで自らを救済している。日頃聴くのは、ザ・スミス、ジーザス・アンド・メリーチェイン、ジョイ・ディヴィジョン、ピクシーズなど自己嫌悪型のナルシシズムを横溢させたオルタナティヴバンド。全体にクセのあるアーティストが好みで、僕あたり共感してしまうが、彼自身は素直な性格であり――妄想壁の傾向はあるが――いわゆる「いいやつ」なのだ。
 サマーは――トムの主観からみると――謎めいてチャーミングな女の子である。過去に幾多の「伝説的なエピソード」を残しており、一部劇中で再現されるが、それらはトムの空想であり、シュールな誇張が入っているので「実態」はよくわからない。ザ・ビートルズのメンバーで好きなのはリンゴ・スターで、その理由は「人気がない」。センスよくお洒落なのだが、歩き方はがさつ。性格は大雑把とも自然体とも言えるが、ここで何より重要なのは、彼女が「恋愛を信じない」と話していることだ。恋愛に屈折した思いがあるのか、奔放なのか、その理由は明らかにされない。それゆえ、映画を観る者はトムの主観を通じてサマーの言動を観察し、推理を働かせないでいられなくなる。冷めた表情を浮かべトムを不安にさせるが、突然に機嫌がよくなり、あとから謝ってくることもある。ひとつうかがえるのは、(トムに比して)サマーは男性経験が豊富で、恋愛に大胆だということ。そのことがトムの不安をいっそうかきたてるわけだが、映画的には「彼の主観」が邪魔をしているから実像は見えない。






 むかしピーター・イエーツ監督に「ジョンとメリー」(69)という恋愛映画があった。もう忘れられているが、ウディ・アレンの『アニー・ホール』を先駆け、『(500)日のサマー』の原点ともいえる手法を駆使した作品として忘れがたい佳作である。
 カップルは若きダスティン・ホフマンとミア・ファロー。二人がある朝を同じベッドで目覚めるところから始まる。『(500日)』と違うのはまずここで、性革命時代を象徴する描写である。女が先に目覚め、全裸で窓際に立つと出て行く。男も目覚め、バツの悪い雰囲気のなかで朝食をともにする。彼らは昨晩バーで出逢い勢い一夜を共にしたが、いまは冷静であり、会話がぎこちない。まだ相手に気を許せていないからで、慎重に言葉を選びながら、互いの心のうちを探りはじめる。これ以前のハリウッド映画にかぎらず大抵の恋愛映画は「二人の出会いと会話」から関係がはじまるが、二人の場合「セックス」からはじまる。快楽の酩酊から解放されると、急速に冷めて不安になり、互いの探り合いが始まる。「心の声」が「話し言葉」を裏切り、「映像」が「会話」の嘘やすれ違いを描き出す。イエーツはフラッシュバックとフラッシュフォワードを駆使して恋愛にいたるまでの男女を生態観察にしているのだ。「恋愛映画」が面白いのは誰もが経験するだろう「心理的な混乱状況」を「安全かつ客観的な立場」から眺めることができるからである。『ジョンとメリー』は
この面白さを一歩先に進めた作品だが、実験的なスタイルが難解にならず具体性を持ち得た点で優れていた。




 『アニー・ホール』(77)はより直接的な影響を『(500)日のサマー』に与えているかも知れない。ここでカップルを演じるウディ・アレンとダイアン・キートンは本作以前に実際恋人同士だった。アレンはここで「キートンとの恋愛」を振り返りオマージュを捧げているが、同時に、客観的にその「別れ」を受け入れている。本人同士が演じることによる「現実と映画」の入れ子構造が、これを特別な作品にしており、「恋愛映画の金字塔」であり「映画史に残る名作」としての地位を揺るぎないものにしている。
 フラッシュバック、スプリットスクリーン、アニメーション、ボイスオーバー、スーパーインポーズなどあらゆるテクニックを総動員することで描かれるのは、恋愛の不可思議である。出会いと別れの繰り返しが『アニー・ホール』は『ジョンとメリー』と共通している。だが、前者が作者の実体験に基づく「私的恋愛映画」なのに対し、後者が覗き見的な視点による「恋愛観察」であることを思えば、この二作は「似て非なる作品」だった。




 本作が連想させる映画はたくさんある。たとえば、ジャン=リュック・ゴダールの『男性女性』、マイク・ニコルズの『卒業』『愛の狩人』『クローサー』、ハーバート・ロスの『ボギー!俺も男だ』、ジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向かって撃て!』『リトルロマンス』『ガープの世界』、ハル・アシュビーの『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』、ロブ・ライナーの『シュア・シング』『恋人たちの予感』、キャメロン・クロウの『あの頃、ペニーレインと』などなど。
 トムは、冒頭で本作の物語を「ラブストーリー」ではなく「ボーイ・ミーツ・ガール」ものであると規定する。この映画の新しさは「オタク青年の恋」を描いた点で、映画や音楽のオタク的知識が、彼の現実に影響を与え、さまざまな恋愛の局面を彩り、その意味するところを規定していくのだ。当初、彼からすれば「恋愛」だった関係が、単に「少年と少女」が出会い、ひと時を過ごしたあと、やがて別れることになったに過ぎない。そんな「大人の認識」が冒頭の言葉で示唆されている。
 オタクでもマニアでもいいが、趣味に埋没する人の多くは、趣味の世界と現実の世界を結びつけて思考する。というより、それこそが「現実そのもの」なのだ。トムもそういうタイプで、空想の世界に逃げ込んで舞い上がったり落ち込んだりする。サマーという「現実」はトムの「世界」を揺さぶったが、すでに「失恋」していて、あの「500日間」を思い返しているのである。
 この映画には「探偵もの」的なおもしろさがある。「失恋」という事件からはじまり、失った(失踪)した恋人の手がかりを求めて記憶のなかを坂ぼっていくのである。映画の作者たちはトムの記憶=映像のなかに「手がかりらしきらしき断片」を散りばめているから、観ているこちらも様々なディテールに注意を払いながら観ることになる。
 会社主催のカラオケ・パーティーの場面。トムはサマーと恋愛について議論している。サマーは「恋愛には必ず終わりがくる。私は恋愛を信じない」と言う。トムは「愛は情熱。理性では避けられない」と反論。このあとトムはピクシーズのカラオケを熱唱し、サマーはその姿を「優しく微笑み」ながら見ている。「通常の映画」ならこの「微笑み」は「愛の始まり」を意味する描写である。しかしここでは「失恋」が前提だから、その微笑みはフィルムノワールの運命の女(ファムファタール)ではないが、いよいよ謎めくのである。




 やがてトムの記憶めぐりは迷宮の様相を呈してくる。記憶を探ると浮かびあがる彼女の言動のひとつひとつが「未処理」のままであり「袋小路」だらけだからだ。
 カラオケの帰り際にトムにサマーが尋ねた一言――「私のことを好きなの?」。このときトムは平静を装い「もちろん。友達としてね」と答えた。このときサマーが浮かべる「寂しそうな表情」が気になる。トムとしてはサマーの「恋愛否定論」に調子を合わせたつもりの返答だったが、瞬間、沈黙が漂い、サマーは「友達になろうね」と言って帰っていく。あのときのサマーの真意が気になる。のちのサマーの行動を思い出すとあまり真剣に恋していたと思えないからだ。ただ、もしも「好きだよ」と軽く答えていたらどうだろう。一夜のセックスでもできたか? 彼女の表情はもっと真剣だった。つまり恋愛を視野にいれた質問だったに違いない、いや、そうじゃないかもしれない……。観客はトムと一緒にあれこれ考えてみる。だが、このときトムとサマーの「主導権」は決まったも同然だった。続く「コピー機前のキス・シーン」は「大人の女サマー」が「もどかしきトム“少年”」をリードしてやる格好になってる。メロメロになっても仕方ないが。




 重要な鍵となるもうひとつ重要な場面がある。二人が映画『卒業』を観に行く場面だ(トムの大好きな映画である)。スクリーンにはかの有名なクライマックスシーン――教会で人妻になろうとしている花嫁をダスティン・ホフマンが奪還してバスに乗り込む――でサマーは涙を流す。それに気づいたトムは泣きじゃくるサマーに「たかが映画さ。現実じゃない」などと格好をつけて慰めるのだった。
 トムは人一倍『卒業』を愛しているようだが、どうもこのシニカルな映画を誤解している。あのラストの示唆するものを理解してないように見受けられるのである。『卒業』のクライマックスは教会での結婚式ある。親の言うまま意に沿わぬ男と結婚するキャサリン・ロスを奪還すべくダスティン・ホフマンがやって来る。ホフマンはロスの手を引きながら勝利の笑顔を浮かべながら走り、偶然きたバスに飛び乗って去っていく。重要なのはこのあとに続く場面だ。バスの最後尾に座った二人は満足の笑顔を浮かべ、手を叩いて喜んでいる。しかしやがて一息ついてみると頭のなかを不安の影が覆いだし、みるみるうちに目が泳ぎはじめる。「果たしてこれで良かったのか?」「これからどうするというのか?」そんな疑問がフト頭をもたげるのである。彼らもまたそこからの大人たちのように不幸は夫婦を演じるようになるだろう。二人の表情には早くも「虚飾の笑顔」が浮かんでいるのだ。
 「愛は情熱」の熱弁をふるうトムがこの映画をちゃんと理解できているかどうかは怪しいものである。しかしサマーはどうだろう。恋愛否定論者の彼女こそ理解していたのではないか。サマーがあのラストに何を見て涙を流したのかは謎のまあだが、単なるもらい泣きでなかっただろうことは映画の終盤で暗示される。

(加えてもうひとつ。サマーがエレベーターの中で口ずさんだザ・スミスの「There is a light that never goes out」の歌詞の内容を思えば、彼女こそ真のロマンティストだったように思える。彼女は心のうちに「茨」を抱えてる――ロマンスとは決して成就しないからこその「ロマンティック」なのだ。サマーは「恋愛を否定」したあとポツリと「傷つくのが嫌だし」ともつぶやく。彼女の一連の「冷めた言動」や「唐突な心変わり」は「傷つくことを恐れるがあまりの防御壁」だったかもしれない)





 もう二度と「あのときのサマー」と再会することはない。そう認識したトムはラストで「大人の入り口」に立つ。それもこれも「サマーとの500日」あってのことなのである。



  





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マンハッタン」 ウッディ・アレンの最も美しいニューヨークへのモノクローム・オマージュ

2010-04-10 | 映画

 




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする