真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

スピルバーグ『ジョーズ』40周年。人食いサメの恐怖。そのサブプロットはメガネ男性の通過儀礼。

2016-01-10 | 映画作家
   


 「何百万年もの歴史を経て生き残ってきた生命体。原始的で憐れみもなく理性もない。生きるために、ただ殺すのみ。どんなものでも襲いかかる、悪魔がいるとしたら、それは“●ジョーズ(●ルビ=アゴ)”をもっている」(アメリカ初公開時の予告編より)

 ほの暗い海中を進む“何者かの視点”。仰々しくドスの利いたナレーションが重なり、ジョン・ウィリアムズの無気味な名曲が鳴り響く。映画史に残る名トレーラーである。

 『ジョーズ』は、ホラー、パニック、スリラー、アクション、アドベンチャーと様々な形容で語られるジャンルの壁を越えた映画史の伝説である。トレーラーでは『キング・コング』(33)『海底二万哩』(54)などを想起させる怪物映画とホラー映画の折衷のごとく売り出しているが、大衆は未知なる“何か”への興味と、怖いもの見たさの覗き見根性を刺激されて劇場に詰めかけ長蛇の列をつくったのだった。
 本作の2年前にスキャンダラスな話題を呼んだオカルト映画『エクソシスト』(73)の監督ウィリアム・フリードキンは、こうした現象について語る。
 「新聞で恐怖映画ということになっているものだから、人は列に並んでいるときにもう怖がっている。タイトルが現われると「いやだ、観られないよ」と言う人もいる。そしてそこが映画製作者として仕掛けていくところだ」(『ディレクティング・ザ・フィルム』キネマ旬報社)
 『ジョーズ』もまた、同様の仕掛けを施して社会現象となり歴代興行記録を塗り替えるメガヒット作になった。


 製作者のデヴィッド・ブラウンとリチャード・D・ザナックは、ピーター・ベンチリーの原作小説を読み、すぐに映画化を決めた。監督としてジョン・ヒューストンやサム・ペキンパーの名が挙がり、ディック・リチャーズが有力候補だったが、最終的に選ばれたのは、『続・激突!/カージャック』(74)でも彼らと組んだ新人のスティーヴン・スピルバーグだった。
 スピルバーグは巨大なサメが人々を襲う物語の中に自身の出世作『激突!』(71/テレビ映画)と劇映画デビュー作『続・激突!~』に通じる構造を見い出す。彼は語る。
僕の三本の映画は、三つのちがったテーマをもっています。でも、フィーリングにおいては、確かに共通したものがある、と思います。罪もない人々が、得体の知れないような、名伏しがたい力に、追っかけられる。それは、わたしが意識してそうしている何か、だと思います」(『キネマ旬報』1975年10月上旬号)
 ここで彼が語る「罪もない人々」とは、別の場所では「いい奴」「平凡な人々」などの表現に置き換えられるが、つまりは「市井の人々」のことである。こうした彼特有の視点――作家性と言っていい――が『ジョーズ』を凡百の怪物映画やホラー映画と似て非なる傑作にするのだ。

 


 スピルバーグはウディ・アレンやコーエン兄弟と並ぶアメリカを代表するユダヤ系映画監督の一人である。彼らに共通するのは「平凡な人物」が内に抱える不安や人生の欠陥が、とあるきっかけから明らかとなり、制御不能の状態に陥るときのパラノイア的な状況を描き続けている点である。アレンの場合、それが都会の人生悲喜劇となり、コーエン兄弟の場合は田舎のブラックな犯罪ドラマになる違いはあるが、スピルバーグは市井の人々の内にある縛とした不安を、象徴的かつ具体的な“何か”に置き換える才能を持っていた。
 「小さな日常」が反転し「大きな非日常」を現出させるときのスペクタクル性に持ち味が現れるが、その“何か”が『激突!』では巨大トラック、『ジョーズ』では巨大ザメ、『未知との遭遇』(77)ではマザーシップ、『レイダース/失われた聖櫃』(81)の転がる石の塊、『ジュラシック・パーク』(93)の恐竜などに置き換えられる。こうしたバリエーションは、のちに社会派ドラマへと拡がり、展開する。『カラーパープル』(85)での黒人女性の受難、『太陽の帝国』(87)の少年の目から見た戦争を経て、『シンドラーのリスト』(93)のユダヤ人虐殺、『プライベート・ライアン』(98)のノルマンディー上陸作戦、『アミスタッド』(97)『ミュンヘン』(05)、もしくは『ターミナル』(04)にしても、「罪もない人々」が「名伏しがたい力」に翻弄され、抵抗する際に味わう恐怖や不安を描き続けて主題的な一貫性が見られるのだ。

 


 スピルバーグは「古い映画スタイル」と決別すべくマーサズビンヤード島でのオール・ロケを決めた。旧来のセット撮影ではなく、リアリズムにこだわることで、観客を恐怖のどん底に陥れようというのだ。
 巨大なサメの模型を海に浮かべ人間と闘わせる――大胆な発想だが、撮影は悪夢の様相を呈する。彼は回想する。
 「『ジョーズ』は僕にとってのベトナム戦争だった。無知な人間が自然に対して仕掛けた戦争で、来る日も来る日も自然が僕を打ちのめした」「何一つうまくいかなかった。サメはチューブを破裂させたり、ぶくぶく沈んだり好き放題やっていた。あれは淡水用に設計されてたんだ。それがわかったとき、路線を変更した。姿を出さないことで恐怖をかきたてる「ヒッチコック路線」でいくことにしたんだ」(『プレミア日本版』1998年11月号)
 スピルバーグは「ヒッチコック路線」の“見せない演出”を選択。マイナス要素を逆手に取ってその「天才」を発揮していく。脅し、はぐらかし、笑わせ、油断させたあとでアッと驚かせる「ショック演出」の数々を発明。なかでも先のトレーラーに登場する「サメの視点(POV)」がユニークなのは「あの」メインタイトル曲とともに「獲物を狙うサメ=殺人鬼」の視点に「観る者の視点」を同化させてしまうからだ。映像に映るのは被害者となるだろう人の泳ぐ足。観客は映画鑑賞の慣わしとして被写体に感情移入するクセがあり、襲う側と襲われる側の気分を同時に味わわせられることになる。ここに本作の持つ「アトラクション性」――恐怖のお楽しみとでも言えるもの――の基本があり、極めてスピルバーグ的な倒錯の仕掛けがあるのである。
 スピルバーグ映画は子供から大人まで楽しめるエンターテインメントだが、同時に、過剰なまでに暴力的な描写を含んでいることでも知られている。『ジョーズ』では若い女性が“見えない怪物”に足を食われて海面を引きずり回される冒頭や、ゴムボートごと襲われた少年の鮮血――黒澤明の『椿三十郎』(62)の5倍ほどの――が吹き上がる場面、沈没船から海水で膨張した死体の頭が現れる場面、入り江で男性が犠牲になる場面(ここで初めてサメの頭が一瞬見える)が観る者に衝撃を与えたが、なかでも猟師クイント(ロバート・ショウ)がサメに飲まれ、口から血を吐いて絶命していく場面は白眉だ。しかし、新世代エンターテイナーたるスピルバーグは、不快になる手前でギリギリ抑制して巧みであり、ヒッチコック的ないしはハワード・ホークス的な職人気質を感じさせる。

 


 『ジョーズ』は1975年の夏に公開。『タイム』は「この映画は最高の娯楽マシーンだ!」、『ニューズウィーク』は「スピルバーグは、ピーター・ベンチリーの原作から社会性とセックスを排除した。結果的に、その選択は賢明だった。若さに似ずスピルバーグは、大脳を無視して直接はらわたに訴える往時の巨匠を彷彿とさせる」と絶賛。
 一方、批判者の代表は映画評論家の荻昌弘だった。
(ベンチリーの小説は)マス・ブルジョワ社会のおこぼれで生計を立てているリゾート海浜都市の入江へ、まったく無制御なホオジロザメ一匹なげこむことで、それにリアクトしてゆく街の諸階層の思惑や行動から、こんにち日本にもまったく共通であるプチブル市民階級の心理と生理をリポートしてみせる。(中略)しかし、このベンチリーも脚色に参加した映画版『ジョーズ』は、(私はこのほうを先に見たのだが)どの角度から見ようとしてもタイしたできとはかんがえられない。後世に作品価値がのこる収穫でないことはもちろん、単にスペクタキュラーなショッカーとしても、見のがせば悔いをながくのこす、といった水準の昂奮のたのしみは、少い。ここには、原作がミニマムの存在価値としていた“アメリカへの眼”さえ欠けるありさまで、私は現代性という点からも監督S・スピルバーグは先年の『激突!』のほうが格段に深層に触れた開発をやってのけていたのに、といいたい。要するに一言でつくせば、これは、リアリズムごかしの並級怪獣ショッカー、という評価から、あまり出られない貧相な作品といわざるをえないのである
 大変な酷評だが、これを掲載した『キネマ旬報』(1976年2月上旬号)には石上三登志の賞賛評も並んでいいる。いわく、
 「この、デッカイ人食い鮫があばれまわるという“ワン・ポイント”映画は、実はただそれだけの事なのである。そして、それに徹したからこその、『キング・コング』同様のメッタヤタラの面白さなのである。(中略)それ以外の楽しさもある事にはあるが、しかし、どうでもいいのである
 と評し、映画マニアらしい視点で賞賛したのだった。

 


 だが、ここでは荻氏よりも『ニューズウィーク』を取りたい。また、石上氏の慧眼に頷きつつ、スピルバーグ映画の個性であり魅力は、血の通った人物造形にあると思うのである。
 初公開時はたしかに――ポスターと予告篇の影響で――巨大ザメの新鮮な驚きに気を取られ、その恐ろしさばかりが話題にされたかも知れない。だが、時を経て驚きが薄くなると、やがて3人の男たち――ブロディ、フーパー、クイント――をまるで旧知の友人のごとく感じ、親しみ覚えている自分に気づくはずである。
 70年代は空前のパニック映画ブームで、『ジョーズ』もまたその流れのなかで話題を呼んだ。だが、大きく異なるのは、『ポセイドン・アドベンチャー』(72)のジーン・ハックマン、『タワーリング・インフェルノ』(74)のスティーヴ・マックィーン、『大地震』(75)のチャールトン・ヘストンのような「頼りになるヒーロー」が登場しない点である。『ジョーズ』に登場するのはスピルバーグが言うところの「平凡な人々」であり、ロイ・シャイダー扮するブロディには署長だという役どころ以上の特技がなく、いままさにサメが人を襲っている最中に「早く海から出ろ!」と叫ぶだけで精一杯の人物なのだ。
 ブロディは犯罪と暴力が蔓延するニューヨークを離れ、家族とともに穏やかなアミティ島に越してきたばかりである。しかし、穏やかで済むはずはない、やがて人食いザメの脅威に対処しなければならなくなるが、彼にはこの任務を遂行するにあたり、致命的な欠陥があった――海が怖くて泳げないのだ。
 ここに一人の助っ人がやってくる。リチャード・ドレイファス扮する海洋学者フーパーは金持ちのインテリでよそ者だが見た目よりも男っぽいところがある。ロバート・ショウ扮する猟師クイントは不遜かつワイルドな変人。個性の異なる彼らが手を組むことになるが、途中、互いの名誉の負傷を見せ合い、友情を深めるときにも、ブロディだけは盲腸の痕しかないのだった。
 アミティ島のアウトサイダーたちが、いがみ合い、皮肉を飛ばしながらも手を結び、島の平和を取り戻すべく脅威に立ち向かうべく海に出て行く。

 


 ここで「70年代」における男性性の位置づけを解説する必要がある。フェミニズムが台頭、女性が強くなると、男性原理の見直しが始まる。映画はヒーローらしからぬ俳優たちを多く輩出。その最初の声が『卒業』(67)のダスティン・ホフマン、続いて『イージー・ライダー』(69)のピーター・フォンダ、『真夜中のカーボーイ』(69)のジョン・ボイト、『ファイブ・イージー・ピーセス』(71)のジャック・ニコルソンら、いわゆるニューシネマ俳優が台頭してくる。彼らは「弱い男」「平凡な男」を演じて共感を呼ぶが、この潮流への反動を示した監督としてサム・ペキンパーを挙げなければならない。
 ペキンパーの代表作『わらの犬』(71)は、「暴力はびこるアメリカ」を捨てて「安全なイギリスの田舎町」に越してきた軟弱な数学者(ダスティン・ホフマン)が主人公である。彼には性的魅力をもて余している妻(スーザン・ジョージ)がおり、無邪気にじゃれる毎日だが、しかし暴力は普遍であり、彼らに襲い掛かる。夫は妻をレイプされるが、しかし屈強なイギリス男たちを前に無抵抗であり、気づかない振りをしている。そんな「男らしさ」とは程遠い「平凡な人物」が、終盤、暴力本能もあらわに決死の闘いに挑み、敵を皆殺しにして生き残る――。『わらの犬』は現代的な男性性を挑発し、内なる野生を取り戻させる「ペキンパー流の通過儀礼」であった。

   


 なぜ『わらの犬』を引き合いに出したかと言えば、スピルバーグの『激突!』もこれに似た構造を持つからだ。妻に頭の上がらぬ郊外暮らしの平凡なサラリーマン(『激突!』『ジョーズ』『わらの犬』の主人公は全員がメガネをかけている)が、巨大なトラックに追われるうちに「決闘(~原題)」を迫られ、遂に打ち倒すまでを描いた物語である。ラスト、主人公はトラックを打ち倒す。それは恐竜を倒して嬉々と跳ね回る原始人のようだ。やがて彼は落ち着き、虚脱する。あのトラックはもしかすると彼自身の内なる本能が呼び覚ました「怪物」の象徴ではなかったか? ここには『わらの犬』と同様、文明に本能を去勢されていた男の悲哀が滲んでいた。
 『ジョーズ』のブロディも最後に孤立して巨大サメとの「決闘」を迫られる。そして勝利すると、狂喜の雄たけびを上げ、知らぬ間に海への恐怖を克服している自分に気づく。そして「前は海が嫌いだった」と笑いながら、フーパーと共に満ち潮の海を泳いでいく。『ジョーズ』のメインプロットは「サメ退治の物語」だが、サブプロットはブロディが「トラウマを克服する」までの成長物語なのである。ブロディは人食いザメを倒すことによって海への恐怖を乗り越え、ついに「署長」の名に相応しい「真のヒーロー」に生まれ変われるのだ。

 


 『ジョーズ』の70年代性は『わらの犬』や『激突!』との構造上の類似からも明らかである。しかし荻昌弘が書くように批評精神に欠け、表面的で、掘り下げが不足しているだろう。ただ、それはスピルバーグが「あえて選択した」ことのはずである。彼は原作に描かれる社会的な背景の一切を脚色の段階で排除している。そしてこここそ荻氏の不満な点なのだが、そもそもスピルバーグは「現代」に関心が薄く「過去」志向が強いのである。
 『ジョース』にものちの歴史大作に顕著なスピルバーグの志向性が現れる有名な場面がある。クイントが語る「軍艦インディナポリス号」のエピソードがそれだが、派手な見せ場に事欠かないエンターテインメント作のなかにおもむろに「過去の歴史」が流れ込んでくる部分であり、ひと際リアルでシリアスな印象を与える。
 「インディアナポリス号」とは1945年に広島に落とすための原爆を運んだ実在の軍艦である。任務完了後、日本の潜水艦に攻撃され、乗組員1196名のうち300名が死んだ。海に放りだされた生存者たちは人食いサメに襲われて次々に餌食になっていった。最終的に生き残れたのは、わずか317名。クイントはその生き残りの一人という設定なのだ。彼はその経験があるゆえにサメ退治への執念を燃やしている男であり、ここにはスピルバーグが好む『白鯨』のエイハブ船長の影がある。ロバート・ショウが自らの過去を語りだす場面は、スピルバーグの確かな演出力を示している。語りだけで観る者の想像を刺激しながら、男たちの頭上で揺れるランプの光と影を利用して緊張感を高める。この部分は、いわば本作の「さらなるサブプロット」である。そして本作中で最も真に迫ったこの場面が、映画全体の印象に及ぼした影響は計り知れない。

 

10
 自らの弱さと対決する男たちの物語を盛り上げたジョン・ウィリアムズの功績も大きい。あまりにも映画的な高まりの妙味は、二人のコンビネーションなくして生まれ得ないものだ。『ジョーズ』は「あの名曲」と共に熱狂を生み、キャラクターグッズが販売され、シリーズ化され、ついにはユニバーサル・スタジオの名物アトラクションとなった。
 シリーズは他の監督の手になるものだが、それ以上に当時の観客が「騙された」のが数々の亜流作品。『グリズリー』(76)、『テンタクルズ』(77)、『ザ・カー』(77)などの愛嬌ある小品や、『オルカ』(77)『ピラニア』(78)『トレマーズ』(90)などの秀作を生むきっかけとなった。だが、いまだ『ジョーズ』の完成度に匹敵する作品は存在せず、戦後アメリカのポップカルチャーを語るときに欠かすことのできない金字塔であり続けている。
(渡部幻/「映画秘宝」2015.11『ジョーズ』40周年より加筆修正)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NY派の職人硬派シドニー・ルメット・・・都市型リアリズム作家の死。

2011-04-10 | 映画作家



未知への飛行



蛇皮の服を着た男

シドニー・ルメットが亡くなったという。
『12人の怒れる男』『質屋』『蛇皮の服を着た男』『未知への飛行』『丘』『グループ』『オリエント急行殺人事件』『セルピコ』『狼たちの午後』『ネットワーク』『プリンス・オブ・シティ』『評決』『デストラップ』『Q&A』『旅立ちの時』、そして最晩年の超絶倫的傑作『その土曜日、7時58分』などなど・・・俳優から名演技を引き出す達人で、特にNYが舞台の作品でのロケーションが見事な監督だった。
特に『プリンス・オブ・シティ』は凄まじくヘビィで、警察の汚職問題を告発する(『セルピコ』『Q&A』『NY検事局』でも同様の主題を追及している)。ノンスターで描かれたイタリア系刑事たちの姿を描く3時間弱。
この作品は82年の初頭に雨の歌舞伎町で見た。寒々とした都市の風景と主人公の陥る孤独の心情が胸に重く響き、映画と現実の景色が溶け合うような強烈な体験であった。
一番繰り返し見たのは『狼たちの午後』だが、一番の傑作は『プリンス・オブ・シティ』だと思っている。妥協のない作品だ。




セルピコ



狼たちの午後



ネットワーク





評決





プリンス・オブ・シティ






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映像の天才ニコラス・ローグが生みだす痛みの記憶。その超絶技巧を2010年代に観る

2011-04-10 | 映画作家








ニコラス・ローグという天才監督がいた。その、キャリアを重ねるごとに鈍ってゆく切れ味を見ていくと、「天才」というのはいつまでも「天才」であるわけじゃないのだと知る。

全盛期の作品はいま観ても衝撃的であり、まさしく天才の仕事である。このすごさはスチールなどいくら眺めても分かりはしない。ローグは撮影する。そしてそのフィルムを編集すると、そのとき、映画に魔法がかかるのである。冴えに冴えたローグの頭脳は人間の深層をえぐり、フィルムのなかに切り取る。鋭利な剃刀のごときフラッシュバックをたたみかけ、その「イメージ」を観る者の脳裏に焼きつけたのである。彼のメスの刃は鋭く、その手際は鮮やかで、切り口の痛みがすぐに訪れることはないが、奥底の記憶に刻まれて、やがてじくじくと痛みだすのである。
記憶は選べない。良い記憶、悪い記憶の選別を許さない。それはふいに襲ってくる。記憶とは生き地獄なのである。人は記憶によって人格を形成する。記憶は経験であり、「生きる」という行為は、その囚われの身となることを意味している。人は「忘れたくない」と「忘れたい」の狭間を揺れ動きながら生きていく。この事実が地獄なのである。ローグは、そんな人間の地獄を描き続けた。彼がなぜこのような「地獄」にこだわり、自身のアートのなかに表現しようとしたのか知らない。しかしローグの頭脳から生まれたのは、苦く厳しく衝撃的であると同時に甘美かつ恍惚的な作品群であった。80年代以降のローグその切っ先を鈍らせていき、その理由もまた分からないが、残された傑作は、時を越えていまもフラッシュバックを繰り返し、中毒患者はあとを絶たない。

『赤い影』は、ヒッチコックの『レベッカ』『鳥』の原作者ダフネ・デュ・モーリアの小説の映像化である。主演はドナルド・サザーランドとジュリー・クリスティ。二人が失った娘の記憶に囚われながら演じるセックスシーンの優しさと官能性もまた、映画史の「記憶」である。内に孤独を抱えた夫婦が、久しぶりの性的な高揚を覚え、求め合い、愛の交歓に昇華されていくさまの美しさ。『赤い影』は真の恐ろしいスリラーだが、同時に、哀しい愛のドラマなのである。











上は『美しき冒険旅行』
下は『地球に落ちてきた男』

















↓『赤い影』



















↓『ジェラシー』













↓『マリリンとアインシュタイン』























  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『エディ・コイルの友人』・・・映画職人ピーター・イエーツの渋みあるソフィティケーション

2011-01-14 | 映画作家


 70年代から80年代初頭にかけてピーター・イエーツ監督が撮った作品は面白いものばかりである。
 60年代イギリスのリアリズム犯罪映画の傑作『大列車強盗団』、スティーブ・マックイーン主演の先駆的な刑事アクション『ブリット』、ダスティン・ホフマンとミア・ファーロー主演でセックスからはじまる男女の駆け引きを実験的な恋愛映画『ジョンとメリー』、ピーター。オトゥールの男気と執念が凄まじい戦争ドラマ『マーフィーの戦い』、ロバート・レッドフォード主演でドナルド・E・ウェストレイクの原作を映像化した粋な泥棒映画『ホットロック』、ピーター・ベンチュリーの小説を映画化したロバート・ショー、ジャクリーン・ビセット、ニック・ノルティ主演の海洋映画『ザ・ディープ』、いまも人気を誇る青春映画『ヤング・ゼネレーション』、ウィリアム・ハートとシガニー・ウィーバー主演のスリラー『目撃者』、アルバート・フィーニーとトム・コートネーが火花を散らせる文芸映画『ドレッサー』、SFファンタジー『銀河伝説クルール』など。
 多岐に渡るジャンルを器用に撮りこなしてしまうイエーツだが、本当のところ何を伝えたくて映画を撮っている人なのかは知らないし、想像することもできない。個人的にはあえて『ブリット』を保留し、『ザ・ディープ』を問答無用で外すならば、秀作揃いであり、以後の同ジャンル作品に少なくない影響を与えていると思える。
 イエーツのイメージは男くさいアクション映画で腕前を発揮する監督と評価されてきたと思う。といって同時代のドン・シーゲルやウィリアム・フリードキン、またはサム・ペキンパーやロバート・アルドリッチのような腹にズシリと重く響く骨太な男性映画を期待すると、少し肩透かしをくらい。忘れられがちだが、そもそも『ジョンとメリー』のような恋愛映画や、『ヤング・ゼネレーション』のような青春映画をもさらりと撮ってしまう、フレキシブルな監督なのである。
 『ジョンとメリー』はフラッシュバックとフラッシュフォワードを多用した作品で、その撮影と編集テクニックは凝りに凝ってる。互いの名も知らぬ一組の男女は先に肉体関係を持ってる。彼らの探りあいの心理を赤裸々に映像化していて思わず笑わせるのだが、同じイギリス出身のジョン・ブアマンやニコラス・ローグ、またはアメリカ出身でイギリスで成功したリチャード・レスターの「それ」と比べる整理が行き届いていて、ちっとも難解にならない。イエーツの職人気質がうかがえるが、これとのちの『ヤング・ゼネレーション』は、それぞれに恋愛と青春を描いて秀作である。それは間違いないが、同時に、のちのウディ・アレンやキャメロン・クロウの作品と比べれば「想いの切実」において譲らざるを得ないとも思うわけだ。
 つまり突出した個性には欠けるがうまい監督。これがイエーツの印象だが、だからこそイエーツ作品は大体においてどれもが「面白い」のである。これが彼の「個性」であり、何よりの「美点」だ。

 社会的に需要なテーマを扱っているとか、映画史上に画期的な足跡を残した作品を撮ったとか、ひとつの主題を追求し続けただとか、そういうことばかりが「名監督」の条件ではないのである。「映画」の魅力は娯楽性もしくは芸術性いずれかの追求だけではない。その「魅惑」に掴みとり観客に届けるには、ときにその両立を目指さねばならない。ここに名監督や芸術家のつくるいわゆる「名作」ばかりを観ていても理解することのできない映画の奥深さがある。つまりイエーツ作品のごとくソフィティケートされて、しかも腕のたつ職人の手による中庸な作品にこそ、大衆芸術であり商業芸術であるところの映画の「真髄」が宿ることがあるのだ。
 例えば、『ホットロック』のラストでレッドフォードが披露した、あの素晴らしい「歩行」に「映画」が詰まっている。レッドフォードの歩行が次第にうきうきとしてくる様を、イエーツは移動カメラで延々と追いかけてゆく。そこにはスティーブン・ソダーバーグの『オーシャンズ』シリーズがデザイナーズ・ブランドの泥棒映画でしかなかったのに比して、「ただの映画」としての血統のよさを感じさせるのである。あの観れば一目瞭然の「うきうき歩き」が「映画」を観ることの浮き足立つ楽しさと一体となって観る者にも伝わってくるのである。

 そんなイエーツの映画には「作者のエゴ」が感じられない。だが、それは決して映画の脆弱さを示すものではないのだ。それどころか、映画の「仕上げ」にこだわる職人の誇りと心意気を感じさせる。「職人」たる者、「努力」の形跡など残したりはしない。『地獄の黙示録』はコッポラの「映画職人魂」を「映画芸術家魂」が凌駕した結果である。ゆえに傷だらけで努力の形跡ばかり目立つが、逆にそこに「コッポラという男」の生き様を感じさせて稀有な作品になっているのだ。しかしイエーツは「プロフェッショナルの映画職人」である。だから「努力の形跡」を残すことなど「恥」にも等しいのだ。彼の映画には「ここを頑張りましたのでどうぞよろしく」というようなところがない。それは甘えに他ならず、面白いか、面白くないか、単にそれだけなのである。

 アクション映画監督としてのイメージがあるイエーツではあるが、しかしイギリス出身監督らしい役者指導の的確さを見逃すことはできない。むかし娯楽映画の基本は「スター」だった。彼らの魅力と才能を引き出し、画面のなかに定着させる腕が職人に求められた。イエーツは70年代を代表する映画スタイリストとしてそれが出来たし、誇りでもあったろう。実施、イエーツ作品には当代の大スターたちがこぞって出ていた。『大列車強盗団』を観てイエーツを『ブリット』に抜擢したのはスティーヴ・マックイーンだったが、このイギリス監督はウエスタンで人気を博したアメリカ人マックイーンを洗練された都会派刑事にイメージチェンジさせることに成功。以後、ピータ・オトゥール、ダスティン・ホフマン、ロバート・レッドフォード、ジャクリーン・ビセット、ミア・ファーロー、デニス・クリストファー、ウィリアム・ハートシガニー・ウィーヴァー、アルバート・フィニー、トム・コートネーらスターたちの魅力をフィルムに焼き付けてきたのである。

 彼のカラフルな作品群をつぶさに観ていくだけで「娯楽映画の豊かさ」「映画職人のなんたるか」をうかがい知ることができる。映画にはいろいろある。アートフィルムやカルトフィルムもいいが、昨今見せ掛けだけであったり、ファン気質ばかり突出したものに飽きてきたら、イエーツの安定した映画作法に目から鱗が落ちるかもしてない。そこに奥深さを感じ、もっと「いろいろな映画」を観てみたいと思うかも知れない。
 少なくとも僕はいまあらためてそう感じているのだが、当たり前のようにさり気なく存在しているものの真価を、実感できるようになるまでには「今更」の時間がかかるものかもしれない。イエーツ作品のような小粒かつ小粋でソフィスティケートされた映画群を、何とはなしに見続けていることが大切であり、そうした余裕を持つことは決して無駄にはならないはずである。

 最後になるが、そんなイエーツの最高作は『エディ・コイルの友人たち』だと思う。ジョージ・V・ヒギンズの小説を映画化した本作は、イエーツの経歴のなかで特異な位置を収めている。ひときわ地味で娯楽性に乏しい、いわゆる「渋い作ノワールフィルム」。『大列車強盗団』で頭角を現した「イギリス映画監督」としてのイエーツの個性が際立つ「作家の映画」は、イギリス伝統のリアリズムとアメリカのそれが融合して一際味わい深い作品となった。
 ロバート・ミッチャム(『狩人の夜』『さらば愛しき女よ』)とピーター・ボイル(『タクシードライバー』『ハードコアの夜』)の見事な男のたたずまい。彼らが演じる侘しき犯罪者の人生模様は、アメリカですでに古典であり、老舗クライテリオン・コレクションへの「殿堂入り」を果たしている。
 「新しい映画ファン」には『ブリット』でなく『エディ・コイルの友人たち』から観ることを薦めたい。そして『大列車強盗団』『ジョンとメリー』『ヤング・ゼネレーション』『ドレッサー』と流がして、『マーフィの戦い』『ほっとロック』、『ブリット』は最後に取って置いていい。
 いま、「映画とはかなかのものだなあ」としみじみ感銘を受けるとすれば、きっとこの『エディ・コイルの友人たち』の方であり、決して「有名作」の方ではないと思うのである。


渡部幻

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『暗殺の森』~~ベルトルッチ&ストラーロの到達点

2011-01-02 | 映画作家












渋谷で『暗殺の森』がリバイバル中だ。めくるめく映像美は初めて観たリバイバル上映時の状態に及ばない印象だが、上々。そもそもあの目もくらむ感覚はスクリーンでなければ体感できない。世界中の映画が盛り上がった70年代の中でも屈指の傑作だと思うが、これに続いて『フェリーニの道化師』もリバイバルされる。これはフェデリコ・フェリーニが滅びつつある「本物のサーカス」を探して、老いた団員を訪ねていくという美しい作品だ。ドキュメンタリーではない。現実と記憶と幻想の旅は「映画芸術家フェリーニ」の真骨頂であり、彼の魂に直接手で触れる思いがする。

(これらとともに『殺しのドレス』『ジェラシー』『ツィゴイネルワイゼン』それに『カンバセーション…盗聴‥』を観れると興奮していたら「夢」であった。初夢ではない。単なる12月28日だった)
渡部幻












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピーター・ウィアーの最高峰『ピクニック・アット・ハンギングロック』

2010-12-15 | 映画作家






オーストラリア出身のピーター・ウィアーは80年代に日本でも注目された。当時、ウィアーを「シドニー派」、『マッドマックス』のジョージ・ミラーを「メルボルン派」としていたが、前者が44年、後者が45年生まれで、個性は対照的だが、ともにオーストラリアとアメリカをまたにかけたキャリアは長い。
 ウィアーの『誓い』は若きメル・ギブソンを起用した第一次大戦におけるガリポリ戦線を描いた痛ましい青春映画で、『西部戦線異常なし』を思わせる作品だった。『危険な年』ではギブソンとシガニー・ウィーヴァーを起用し、スカルノ政権下の現実を報道するジャーナリストと大使館勤務の女性の恋愛を描いた。この作品ではリンダ・ハントを謎めいた男性カメラマン役として使い、彼女にアカデミー賞をもたらした。これらの成功でアメリカに進出。ハリソン・フォード主演で『刑事ジョン・ブック/目撃者』『モスキート・コースト』を発表。いずれも異文化と出会う西欧人の姿を描いている。文化と文化の衝突もしくは価値観の衝突というテーマは、やがてアザーサイドへと突き抜ける。ジェフ・ブリッジス主演の『フィアレス』は飛行機事故から生還した男が「生き死に」の実感を失ってしまう物語だった。以後もジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』などジャンルの壁を越えた異色作を連打し、独自のキャリアを築いたのである。

 しかし、そんなウィアーの真にオリジナルな傑作はオーストラリア時代の作品。白人が直面するアボリジニの神秘をミステリアスに描いた『ラスト・ウェーブ』、そして『ピクニックatハンギングロック』かもしれない。後者は、寄宿学校に暮らす少女たちが神隠しにあうという物語である(ソフィア・コッポラのフェイバリットでもあり、彼女の『ヴァージン・スーサイズ』への影響は計り知れない)。
 『ピクニックatハンギング・ロック』にはアール・ヌーヴォーのスティル・フロレアルと、岩山を象徴とするオーストラリアの原始的・太古的な超感覚の世界が共存している。ここで少女たちは夢を生きて、目を伏せ、目覚めを拒絶している。「物事はみな、始まり、そして終わる。定められた時と場所で」――この言葉が映画のすべてを言い表している。少女のひとりはピクニック場所でくつろぐ仲間たちを見下ろして呟く――「まるでアリよ。目的のない人間がなんて多いの。あの人たちもたぶん自分でもわからない役割を果たしているのね」。そしてその直後、岩山のなかへ消えていく。この超現実的な出来事が残された人々に波紋を及ぼしていくのである。
 冒頭、エドガー・アラン・ポーの「私たちが見るものも、私たちの姿もただの夢、すべては夢の中の夢」という詩が引用される。新世紀の始まりと過去の終焉の狭間で、永遠なる少女たちと対照的に滅びゆくのが校長である。扮するレイチェル・ロバーツも80年に自殺してしまった。
 70年代のアメリカの映画はより原初的なものや土俗的なものへの傾向が目立ったが、同時期のオーストラリアのニューウェーヴたちも西洋文明とアボリジニの世界を対照していた。ウィアーは「オーストラリア人たち、我々は、夢を見ることを失ってしまって久しい。アボリジニーはたちは今でも、夢に触れることができる」と語っているが、同じ頃にイギリス人のニコラス・ローグが『美しき冒険旅行』が超現実的な感覚で描いたオーストラリアの原野もそうした文明批評だった。これと似たモチーフが頻出する『荒野の千鳥足』は保安官が牛耳るむさ苦しき男ばかりの荒野の町から逃れられない男の悪夢の如き物語で、『砂の女』の「豪州荒野版」といった趣もあり、『ピクニックatハンギングロック』の少女たちとは対照的な男の汗の粘っこさ。他の追随を許さない異色作として一見の価値がある。
(渡部幻)









渡部幻

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異能派アベル・フェラーラのワイルドサイド・フィルムが魅せる凄み

2010-11-29 | 映画作家


最近ヴェルナー・ヘルツォーク監督、ニコラス・ケイジ主演でリメイクされた『バッド・ルーテナント』のオリジナル版は、ニューヨーク派のアウトロー監督アベル・フェラーラの大傑作。主演はハーベイ・カイテル。
マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』やジェームズ・トバックの『マッド・フィンガース』フェラーラ自身による『ドリラー・キラー』(こちらもフランスで『真夜中のピアニスト』としてリメイク)の系譜に連なるニューヨーク映画の怪作中の怪作だが、殺伐としながら色気のある映像作りはフェラーラの真骨頂。日本での公開時、閑静な東横線祐天寺駅に、この成人指定映画のポスターがずらりと飾られて、小さな革命を起こした。

癒されることのない魂を抱え込んだ男の苦悩を救済するのは、「死」の恵みだけだ。
極点に達したハーベイ・カイテルの芝居と、フェラーラが格好よく歌うざらついた主題歌が、都市生活の裏面に潜む絶対的な孤独を焙りだす。その厳しき認識の向こう側に、脈々と流れる情の深さに、流れされることの涙が滲む。もっともっと観られるべきカルト。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼アーサー・ペン・・・幻の実験的作品『ミッキー・ワン』

2010-11-09 | 映画作家




アーサー・ペン監督が先日亡くなった。ペンといえば『俺たちに明日はない』(67)に尽きるし、この作品で見せた天才を発揮することは二度となかったが、この『ミッキー・ワン』(64)は再発見されてもいい60年代ならではの野心的な作品である。本来は『ツー』『スリー』と作りたかったらしいが、興行的に無視されて『ワン』だけになった。『明日はない』に先駆けるウォーレン・ビーティ主演作。
それ以外では『逃亡地帯』(65)。リリアン・ヘルマン脚本の衝撃的な映画で、マーロン・ブランドとロバート・レッドフォードが共演している珍しい暴力劇だ。
過小評価されてるような気がしてならない作品には『ミズーリ・ブレイク』がある。これはマーロン・ブランドとジャック・ニコルソンが対決する暴力西部劇でカタルシスの欠片もないが、ブランド扮する殺し屋の愛嬌と残酷さに若きニコルソンはまるで歯が立たない。そこのところが十分に面白く撮影も美しかった映画である。
『フォーフレンズ』といノスタルジックな青春映画もあり、とても良い作品であったような気がしているのだが、よく憶えてはいない。見直してみたい作品だ。





渡部幻

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ウォリアーズ』の闇の幻想美・・・ウォルター・ヒル監督の最高傑作

2010-09-07 | 映画作家















『ウォリアーズ』はウォルター・ヒルのニューヨーク幻想。
『ザ・ドライバー』のロサンゼルス、『48時間』のサンフランシスコ、『ストリート・オブ・ファイヤー』の架空都市、『ストリート・ファイター』『ジョニー・ハンサム』のニューオリンズ……ヒルの都会はいつも湿気ている。
最高作はもちろん、アンリアルかつ夢魔的な都市の夢を描いた『ウォリアーズ』である。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

傑作中の傑作・・・神代辰巳の「赫い髪の女」の鮮烈でかっこいいオープニング

2010-07-16 | 映画作家











憂歌団のけだる歌が流れるなか、トンネルの向こうからやってくる、赫い髪の女。
大型トラックがすれ違い、その瞬間、振り返り、その髪を揺らした女のスローモーション。
彼女の横をトラックがすり抜けると同時にストップモーションとなり、タイトルが出る。

「赫い髪の女」

70年代で最高の映画作家の一人神代辰巳の代表作、このファーストシーンは真に映画的だ。
たった73分の上映時間。
そのなかに繰り広げられる「男と女の性」。
主演は宮下順子と石橋蓮司である。

わびしげな雨で湿気ったシネマスコープ画面は、文字で形容しがたい脱力感に満ちている。
この世に男と女が存在するかぎり逃れられぬセックスの、その哀しさと滑稽が、かったるく横溢する。
神代はそのさまを「仕っ方ねえなあ……」と見つめている。そのたぐい稀なるやさしさ。
なにもかもが整理されてしまう21世紀。
彼のような「才能」が存在することが許されたなんて、70年代は「いい時代」だと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨降りの映画・・・神代辰巳の『赫い髪の女』

2010-07-16 | 映画作家
















  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『コールガール』アラン・J・パクラ監督とゴードン・ウィリス撮影による闇深いノワール映像

2010-07-11 | 映画作家




アラン・J・パクラは70年代社会派フィルムノワールの異才である。代表作にはニクソン大統領の汚職を追い詰めたワシントンポスト紙の記者を描いた「大統領の陰謀」(76)や、政治的謀略の闇を追う記者を描いた「パララックス・ビュー」(74)、アウシュビッツを生き延びてアメリカに亡命した女性の運命をアメリカ人青年の視点から描いた「ソフィーの選択」(82)がある。しかし、個人的には「コールガール」(71)こそ最高だと思う。失踪した科学者を追跡する探偵クルートの物語は、やがてその科学者と関係のあったニューヨークのコールガール、ブリーの存在に行き着く、というシンプルかつ複雑なノワール・ストーリーは、そのこと以上に、都市生活者としてのコールガールを描いて女性映画として優れている。

60年代にグラマー女優として名を馳せたジェーン・フォンダが「ひとりぼっちの青春」(69)に続いて、いわゆる汚れ役を演じて演技派としての名声を確立、アカデミー賞主演女優賞を獲得した作品である。その後も時代を代表する女優として「帰郷」「ジュリア」などに出演(前者で再度アカデミー受賞)。本作では彼女が着こなすニューヨーク・スタイルのファッションが話題となった。
原題の「krute」は探偵の名前である。演じるのはドナルド・サザーランド。彼もまた国際俳優として70年代を代表するの「顔」の一人だ。「マッシュ」(アルトマン)「1900年」(ベルトルッチ)「カサノバ」(フェリーニ)と世界中の映画作家に起用されたアメリカを代表する異能派俳優で、一度見たら忘れられない顔である。ロイ・シャイダーも悪役で出演。凄みを見せる。僕はこの時代の彼のファンで「フレンチコネクション」「恐怖の報酬」(フリードキン)「ザ・セブン・アップス」(ダントニ)「ジョーズ」(スピルバーグ)「マラソンマン」(シュレシンジャー)で忘れがたいが、「オール・ザット・ジャズ」(フォッシー)こそ最高である。

しかし「コールガール」の真の魅力は、ドラマや主演者より“ニューヨークという都市”を捉えた映像美にこそある。つまり本作は、「真夜中のカーボーイ」(シュレシンジャー)「フレンチコネクション」(フリードキン)「タクシードライバー」(スコセッシ)「ウォリアーズ」(ヒル)「マンハッタン」(アレン)「マッドフィンガース」(トバック)「グロリア」(カサヴェテス)と並ぶニューヨーク映画の代表的な一本なのだ。

見事に70年代初頭ニューヨークの景観を斬りとったのはアメリカ映画界の伝説的撮影監督ゴードン・ウィリス(パクラ、コッポラ、ウディ・アレンとのコンビで有名)。隙のない構図の中に捉えられた“黒”の深さに浮かびあがる低彩度の色彩。その漆黒と色彩のコントラストに現代の不安が滲み、登場人物たちを脅えさせる。ほのかに現れる光も救いとはならず、かえって孤立感を深めさせるばかりなのだ。
本作の黒い映像は、妄執的かつどこか物悲しい。

「コールガール」の“暗く何も見えない映像”はカラ版フィルムノワールの最高峰だ。









渡部幻

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエジー・スコリモフスキーの「ザ・シャウト/さまよえる幻響」は“異様すぎる”映画だった

2010-06-05 | 映画作家
 


 イエジー・スコリモフスキーの『ザ・シャウト/さまよえる幻響』(78)はまこと異常な感性を感じさせる映画だ。久方こういう面妖な作品を観ることで映画というものの底知れなさに感じ入った。ポーランド出身のスコリモフスキーがイギリスで撮った1978年の作品だが、カンヌ映画祭で審査員賞を獲得。これは一見、一聴の価値がある超異色作なのである。(タイトルをクリックすると予告編へ)

 ここにとある夫婦がいる。扮するのはジョン・ハートとスザンナ・ヨークだ。もうこれだけで異常さが保証されているようなものだが、一見まともを装い登場してくる。ハートは前衛的な音楽家で、虫をグラスの中に入れてマイクを突っ込みその羽音を聴いたり録音したりしている。普段は教会でオルガン弾きをしており、その帰り道に靴屋の女房と浮気するのが習慣になっている。妻のヨークは女の直感らしきもので夫の浮気に気づいているが、特にそれで気に病むような様子はない。
 ある教会からの帰り道にハートは謎の男と出会う。髪はモジャモジャで口髭を蓄え、逞しく脂ぎった男。おおよそハートとは間逆のロングコートを着た男を演じるはアラン・ベイツ。いよいよ怪しげな顔ぶれである。
 ベイツは夫婦の家に転がり込み自らの過去を語り始める。オーストラリアでアボリジニと過ごしてきたこと、そこで産まれた自分の赤子を殺したこと、魂の輪廻について……そして加えて、自分は人間を確実に殺せる「叫び」の持ち主だと言うのだ。ハートはあまりの突飛な話に疑問を持つが、「音」への強い関心から、その「叫び」を聴いてみたいと申し出る。が、聴いたら死ぬぞと釘を刺されてしまう。結局、人気のない砂浜に赴き、そこでハートは「叫び」を聴く。ハートは実は秘かに耳栓をしていたが、にも関わらず、あまりの凄まじさゆえに気絶してしまう。一方でベイツは人妻のヨークに「肉欲の魔術」をかけており、彼女はベイツとのセックスの虜となる。その結果、家のあるじはベイツになった。





 『シャウト』は実は回想形式で語られている。回想の主はアラン・ベイツで、彼の他人には計り知れない苦悩がドラマのベースになっている。しかしあまりにも計り知れな過ぎてよく分からないのである。ベイツの回想で進むのだから彼が主人公なのかと思いきや、冒頭と最後を締めくくる映像の主はヨークなのだ。回想から一転、物語が動き出せばハートの主観的な視点が中心になることもある。ということはつまり「もう一人の主役」がいるに違いないと想いながら観ていた。謎めきすぎて難解だが、しかしそれでも観る者は『シャウト』から目を離せない。
 スコモリフスキーは、この神秘的かつ幻想的で禍々しくもリアリスティックな人間関係を淡々と進めていく。これと近い雰囲気があるのは、ニコラス・ローグの『赤い影』(73)、ロマン・ポランスキーの『テナント』(76)、ロバート・アルトマンの『イメージズ』(72)あたりだろうが、スコリモフスキー演出はそれらよりもっと骨太である。ハロルド・ピンターの不条理劇を映画化したジョセフ・ロージーの『召使』(63)やウィリアム・フリードキンの『誕生パーティー』を連想させもするが、よりオカルト的な不可解さがある。いずれも現代では見られない「異常な映画」だと思うが、『ザ・シャウト』が飛び抜けて異常だとすれば、それはやはり、あの「叫び」の凄まじさゆえのことだ。とても文章では表現できないが、まさに「爆音」であり、驚異の音圧で空気が歪み、近場に居たすべての動物や人間が死んでしまうのだ。叫びをあげるベイツの口を見ているとそれはもはや「怪物」としか形容できない。





 70年代に活躍したイギリス俳優のなかでアラン・ベイツとオリバー・リードは濃すぎるセックスアピールの魔王ぶりで印象に強烈である。全身を構成するすべてが肉厚で性豪のごとき容貌のいやらしさが子供のころに恐ろしく、吐き気を催したほどだが、いまあらためて見てもやはり凄まじい個性だ。その監督版ともいえるケン・ラッセルの『恋する女たち』(69)で二人は共演。全裸レスリングを展開する場面の異様さはまさにトラウマ級だ。ムチムチと脂肪のついた筋肉を汗で光らせた男二人のくんづほぐれつに、子供の僕は目をそむける思いだったものである。同じラッセルの悪夢のような『肉体の悪魔』(71)でせむしの尼僧を欲情させる絶倫司祭役もリード。その異様なカリスマ性にもただならぬものを感じたが、『シャウト』でのベイツはこれに拮抗する怪演ぶりだといえる。なぜかまつげの長い目元の妖気と哀感でリードが数歩リードしていると考えてきたが、ベイツには「シャウト」という必殺芸があったのである。
 ジョン・ハートはいっけん対照的な草食系の病み上がり男という感じだが、いっけん気の弱そうな瞳に、ときおり宿る狂気にも特有の薄気味の悪さがある。ことに自作の音楽をベイツに非難されたあと披露するヒステリーぶりは絶品。アラン・パーカーの『ミッドナイト・エクスプレス』(78)とスティーブン・フリアーズの『殺し屋たちの挽歌』(84)に匹敵する名芝居である。
 スザンナ・ヨークは恐れるもののない女優である。ロバート・アルドリッチのやはり濃すぎるレズビアンドラマ『甘い抱擁』(68)や、シドニー・ポラックの『ひとりぼっちの青春』(69)での気が触れる瞬間の怖さと哀れ。アルトマンの『イメージズ』で演じた狂気の童話作家役でカンヌ国際映画祭の主演女優賞を獲得。自らの作り出したイメージとセックスしては次々と殺していく。『シャウト』もまたヨークの大胆不敵な女優魂が嬉しくなる作品だった。

 イエジー・スコリモフスキーこそ本作のもう一人の主役である。本作を支配する神の視点、つまり4人目の主人公は彼なのである。やはりイギリスで撮った『早春』(70)は衝撃のラストが伝説的な青春映画で、アメリカで撮った『ライトシップ』(85)も一風変わっていたが、去年、新作『アンナと過ごした4日間』(68)を引っさげて健在ぶりを披露。同じポーランド出身のロマン・ポランスキーをより地味に、より難解にした作風は独特のもので、『シャウト』でも異端ぶりを遺憾なく発揮している。



 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死と暴力と詩「ソナチネ」。新作「アウトレイジ」が楽しみな北野武の名作。

2010-06-03 | 映画作家




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妄執の映画作家・ロマン・ポランスキーの映画はパラノイア・カタログ

2010-04-25 | 映画作家

[反撥」

「袋小路」

「水の中のナイフ」

「ローズマリーの赤ちゃん」

「テナント」

「マクベス」

「チャイナタウン」

「フランティック」

「赤い航路」

「死と乙女」

「ゴースト・ライター」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする