真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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人間がつくる映画もまた環境の生き物なのである

2015-06-17 | 雑感
人がつくる映画もまた環境の生き物だから、現在の環境で旧作を観ると昔とは違った顔を見せる。むしろ前向きに捉えるべきだが、作品そのものが少なからず時代の環境(社会背景、劇場環境)を意識してつくられるものなのだから、そのことを擬似的にでも少し想像できるほう人のほうが味わいは増すと思える。

昔日の薄汚い映像に郷愁を感じるのはまさに郷愁以外の何物でもない。34年ほど前に名画座で見た『俺たちに明日はない』のフィルムは、雨がざんざん振りの傷だらけで、ものすごく嫌だった。そこで別の劇場に出かけたが、そこでのフィルムは見違えるほどきれいで、映像に対する感動と理解が深くなった。

香港映画やマカロニウエスタンを日本で観た人の初見は、ほとんどテレビである。大抵最悪の画像で、シネマスコープがばっつり半分にトリミングされていたが、まず一般的にテレビ視聴者は「トリミング」という概念自体を知らなかったと思う。つまり気にしてなかったし、当時はそれで十分楽しめたわけだ。テレビそのものの画質だって悪かったし、16インチくらいのブラウン管で満足している人が多かった。するとその条件でも楽しめる映画が中心になった。つまり濃い味の娯楽作品であり、香港映画やマカロニはそうした鑑賞環境の条件にかなってもいた。だが、いまの環境は変わったのである。そうした鑑賞環境の変化は、映画の内容に対する理解をも変える。イタリア西部劇の基本的理解は言うまでもなくアメリカ西部劇の亜流である。アメリカ西部劇の基本は開拓の物語であり、アメリカ人にとってそれは彼らのルーツに関係している。だから生活の描写に時間を割くことが多いのである。

アメリカ西部劇に表現された開拓期の生活感や言葉使いや振る舞いの実感はマカロニに望むべくもない。マカロニのおもしろさの基本は過激なデフォルメであり、戦後イタリアのリアリズム(主に衣装やメイクの汚しに現れている)との融合から生まれた様式だが、それがのちに本家に刺激を与える。
そのことを知る昔の映画ファンはだからこそマカロニに眉をひそめたわけだ。西部劇がアメリカ史(歪みや娯楽化の捏造も含め)の物語だなんて西部劇=テレビで見るマカロニであった子どもは気にもしない。画像の悪いテレビや汚れた名画座のジャンクな暴力風味に映画の格好よさを感じたのである。刺激過多の質の低い映像の氾濫は、安上がりな視聴率優先の放送体制から生じた現象のひとつに過ぎず、技術的側面に関して言えば是正されるのも必然なのだ。結果、画質が良くなり、そこから新たな価値が発見され、古いテレビでは似たり寄ったりに見えたマカロニの奇妙な深みに気づくこともある。

フランスのJ・P・メルヴィルは西部劇はアメリカの物語だからノワールのようにヨーロッパ人が撮るべきではないと語っていた。僕が反省したのは「大人」になってからで、単純に思えていた本家西部劇も本格的な作品ほどあまり放送してなかったと気づいた。それはビデオ時代がもたらした恩恵だ。アメリカの西部劇はその歴史的背景を抜きに見れない作品も多いから、そのことを「難しく」感じる人もいるだろう。多分、正統西部劇を見慣れない現代の観客にとっては、ペキンパーの有名な『ワイルドバンチ』にしたって、その内容や背景や意図まで理解することは困難なのではないだろうか。映画の内容をすべてを理解することは不可能だし、さらにスルスルとすんなり面白がれる作品なんてほとんど稀なる存在に違いない。映画は観客の面白がろうとする日頃の努力の上に成立する。俳優の誰がいいとか、画面が美しいとか、衣装や小道具に目を向けるのも、そのひとつの現われなのである。

内容とは別に劇場やパンフなどのグッズに関心や愛着を向けるのもそのひとつであり、時が進みソフトのデザインや画質・音質にまで注目するのも楽しむためのたゆみない努力のひとつに違いない。画質などかなり改善されたがゆえに、かえって汚れたビデオや名画座への郷愁が湧いてくるのである。

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