真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

「クライテリオン・コレクション」の虜になるような魅惑(前回の続き)

2009-03-24 | クライテリオン・コレクション
 
サム・ペキンパー『わらの犬』、ピーター・イエーツ『エディ・コイルの友人たち』、スティーブン・フリアーズ『殺し屋たちの挽歌』、ニコラス・ローグ『ジェラシー』

 前回に引き続き「クライテリオン・コレクション」ことを。クライテリオンは輸入版。当然のごとく字幕は付いてない。しかしにもかかわらず買ってしまうのは、画質の良さもそうだが、ジャケット・デザインの魅力によるところが大きい。大手ソフト会社の最大公約数的な発想から遠く離れた独創的なデザインワークは、作品の本質をズバリ視覚的に伝えて素晴らしい。かつてレーザーディスク(LD)で知られるようになったそのデザインは、LPレコードと同様の大きなジャケット・サイズに映えて、新譜を買うたび部屋に飾りたくなったものだ。
 LDは、80年代初頭に「絵の出るレコード」と宣伝された高画質ソフト。パイオニア発売のデッキもまたレコード・プレイヤーと同じように上ぶたを持ち上げるようにして開き、真ん中の突起に合わせてディスクを装填する方式だったが、のちに現在のスライド・トレー式に「進化」した。

   
アルフレッド・ヒッチコック『汚名』、『イングマル・ベルイマン・トリロジー』、マイケル・パウエル『血を吸うカメラ』、黒澤明『影武者』

 80~90年代に発売された主な映画ソフト最大の難点であり問題は映像のトリミング。洋画それもアメリカ映画の60~80年代初頭の作品で気になった。その時代にはシネマスコープ、70ミリ、そしてシネラマの作品が多かったからで、これを無理にスタンダードに近いテレビのサイズに合わせるため、画面の両端を4分の1くらいづつちょん切り、ほぼ半分ほどのサイズとなった映画は、もはや別物の作品だった。言うまでもなく映画は映像を観ることで始めて成立する芸術であり娯楽なわけだが、意外にも登場の多くの人は気にしなかった。気にしても上映時間であり、ノーカット放送というと騒いだが、画面をノートリミングにして倍に増えても、大した反応がなかった。その頃のテレビは「スタンダード・サイズ」で「ワイド・サイズ」ではなかったため、横長の「シネマスコープ映画」をそのまま収録しようとすると「上下に帯状の黒味」が出来てしまう。これを「損」であり「ブラウン管の無駄遣い」だと勘違いしている人が多かったのだ。「ノートリミング」が当たり前になったいま、そのころに感じた失望を説明するのは困難だが、ストレスを溜めつつ、それでも好きな作品を手元に置いておきたいという欲求が勝ち、我慢して購入するのだった。僕の「行きつけの店」はダイナミック・オーディオの渋谷パルコPART3店。入らなくなったソフトを2枚持っていけば新品1枚と交換してくれるシステムを気に入っていたのだ。

 
フォルカー・シュレンドルフ『ブリキの太鼓』、『ファスビンダー・トリロジーBOX』、サミュエル・フラー『ホワイトドッグ』、レナード・カッスル『ハネムーン・キラーズ』

 トリミングの話しに戻る。
 ワーナー、フォックス、CIC(ユニヴァーサルとパラマウント)などのメジャー作品のソフトはトリミングが当たり前。しかし、たとえばソニーのソフトや松竹富士配給作品のソフトはノートリミングが多かったように思う。しかし問題があった。ひとつには字幕。当時の劇場用字幕は「書き文字」でありこれをそのままソフトに落とし込んでいて読みづらい。次に画質がやたら悪い。黒が灰色に近く白っぽく浮き上がり、全体がつぶれているため、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』『コットンクラブ』『フール・フォア・ラブ』など夜の場面が多い作品の場合はほとんど何も見えないのだった。劇場とビデオでまるで異なる作品といってほど違ったが、逆に言えば、そのぶんだけ劇場で鑑賞することの価値も高かった。
 メジャー作品は「ビデオ化」を前提としており、ほとんどの作品をスタンダードサイズ(TVとほぼ同じ)で撮影し、劇場では上下にマスキングを施してビスタサイズで上映、ビデオ化の際にマスキングを外して撮影時のサイズに戻していた(つまり画像が削られることはなかった)。そのためトリミングによる被害は少なかったが、各社で画質にバラつきがあった。たとえばユニバーサル映画やパラマウント映画の画質は白っぽくて色味が薄い。当時ウォルター・ヒルは『ウォリアーズ』『48時間』『ストリート・オブ・ファイヤー』など夜景の美しさで知られたが、「白っぽく」ては叶わない。もはや別物であった。『48時間』のソフトにはもうひとつ問題があり、版権上、劇中でエディ・マーフィーが歌うポリスの「ロクサーヌ」が、別人が歌う声に吹き替えられていたし、ジョン・カーペンターの『遊星からの物体X』ではラジオから流れる音楽が差し替えられていた。

   
リンゼイ・アンダーソン『if…もしも』、フェデリコ・フェリーニ『魂のジュリエッタ』、ミケランジェロ・アントニオー二『情事』、ドゥシャン・マカヴァイエフ『WR オルガニズムの神秘』

 ワーナーはとくにひどかった。まるで8ミリのような発色は最悪。ワーナーは70年代に傑作を多く制作したが、その多くはシネマスコープだったので、トリミングと相まって頻繁は失望させられていた。「ひどさ」で記憶に鮮烈なのが、ドン・シーゲルの「ダーティハリー」、シャッツバーグの「スケアクロウ」、アルトマンの「ロング・グッドバイ」、ケン・ラッセルの「肉体の悪魔」あたり。これらは「構図」や「色彩」の美しさで知られる作品なだけに失望も大きかった。『燃えよドラゴン』の場合、シネマスコープの広い構図を活かしたブルース・リーのアクションが展開するが、半分ちょん切れているとなると迫力は半減。いまでならほとんど詐欺まがいの商品だろう。
 ちなみに、僕が画質や構図にこだわるようになったきっかけはブライアン・デ・パルマの作品を観てからである。彼のシネマスコープの遣い方が好きで、なかでもヴィルモス・ジグモンドが撮影した「ミッドナイトクロス」とラルフ・ボードが撮影の「殺しのドレス」に狂っていた。この二作品は「ベストロン・ビデオ」からの発売で、当然トリミング版、しかもワーナーに匹敵するボケボケの画質だった。それゆえデ・パルマが得意とする技法――二分割画面(スプリット・スクリーン)、パンフォーカス、そしてスコープ画面を活かした移動撮影――はすべてぶち壊し。なんとか色見だけでも劇場で観たときの印象に近づけたくて、テレビの色調整やブライトをいじくりまわしていたが、ノートリミング版を入手したいま思えば、実にむなしい作業を繰り返していたものである。

   
テレンス・マリック『天国の日々』、モンテ・ヘルマン『断絶』、アン・リー『アイス・ストーム』、スパイク・リー『ドゥ・ザ・ライト・シング』

 筆者は納得のいかなぬ日々を悶々と過ごしていたが、ある日「輸入版のLD」は「ノートリミング収録」でしかも「画質が格段に良い」と読んだ。たしか雑誌『HIVI』だったと思うが、喜び勇んで、新宿の「紀伊国屋書店」で『アンタッチャブル』の輸入版を探し当て購入。これに手ごたえを感じ、さらに新宿の「ビデオ・マーケット」、続いて渋谷の「ディスク&ギャラリー」に足を運ぶようになった。
 まず一目見て感心したのは輸入版のジャケットが日本版のそれより格段に格好いいこと。日本デザイン全般がどうも野暮ったくていけなかったのだ。
 「あれもほしい、これもほしい」という精神状態に陥りつつ、心を落ち着けて、ビデオマーケットの店内を順に見ていくと、数ある輸入版の中で異彩を放っていたのが「クライテリオン・コレクション」だった。固定概念を打ち破るデザイン。シンプルだが高級感のある風情。特典映像の充実。監督承認のサイン……こういうのが欲しかったのだ! しかし財布の中身は軽い。千円札には限りがある。しかしどれかは家に持ち帰りたい。迷いに迷ったあげく「クライテリオン社版」の「タクシードライバー」を購入した。急ぎ足で家路を戻り、家のなかに飛び込むやいなや素早く「デッキ」に挿入し、再生……驚いた。念願のワイドスクリーン。しかしそれは『アンタッチャブル』で体験ずみである。しかし実は、色味の薄さに少し失望していたが、こちらは聞きしに増して「高画質」だった。日本版の『タクシードライバー』は「コロンビア・ピクチャーズ」(現ソニーピクチャーズ)からの発売。この映画はスタンダードで撮影されているからそのままの収録であり、「画面が半分切れ」というわけではないものの、ひどい発色であり、あの映画特有の官能性のかけらほどしか残ってなかった。「クライテリオン版LD」は違う。ニューヨークの魔的な夜景描写が、東京の狭いワンルームのなかへやってきたのだ。
「映画は映像を味わうもの……そういう当たり前といえば当たり前の事実を反映してくれるメーカーがやっと登場したのだ。
 現在は完全収録など当たり前のことだから「ノートリミング」などという「うたい文句」は成立しない。死語である。だがこの思想を広めたのが「クライテリオン社」なのである。やがてそれは大手にも普及し、特に「ワーナー」のソフトなど目覚しい進化を遂げた。スコットの『ブレードランナー』やアルトマンの『ギャンブラー』など見事な画質だったが、しかしそれでも「クライテリオン」が優位なのは、あの「ジャケット・デザイン」のためだった。

   
ポール・シュレイダー『ミシマ』、ウォン・カーウァイ『花様年華』、テリー・ギリアム『ラスベガスをやっつけろ』、コーネル・ワイルド『裸のジャングル』

 ところで、レーザーディスクはLPレコードと同じサイズで大抵の店で同様の売られ方をしていた。しかし先に書いたようにLDもLPもジャケットが命だから、意識的な店長なら見えるように飾りたいものである。その点で抜きんでていたのが渋谷のファイヤー通り沿いにあった「ディスク&ギャラリー」である。その名のとおり壁面をLDジャケットで埋め尽くすギャラリー形式の商品展開で、ファンの購買意欲を大いにそそった。店員さんがまた売り込み上手で、僕はずぶずぶと「輸入版LDの世界」にはまっていったが、その後、時代は「DVD」時代に移行し、ジャケットが小型化された。DVDはLDと異なり、日本製のデッキとの互換性がない(つまり見れない)。そのため輸入版店は厳しくなっていったが、LDよりもはるかに高画質かつ価格が安い。せっかく買い集めたビデオやLDだったが、「高画質」の文句に負けて、輸入版専用のデッキを購入し、蜜月の日々は続いた。当然のごとくクライテリオンも既発のLDをDVD化していくが、当初「小さなジャケットサイズ」に不安を感じた。つまりデザイン的にどうなのだろうと考えたのだが、さすがクライテリオン、ご覧のような素晴らしいデザインが揃っている。それはいまも抜きんでた存在であり、少々値が張るとしても仕方ないと思わせるだけの磁力を発し続けている。
 2000年代はインターネットも当たり前で、やがて店舗経営が難しくなると、ディスク&ギャラリーは店じまいしたが、ネットには「DVD Fantasium」なる「海外と同じ価格」で手軽に買えるサイトが登場して便利な時代になった。ネットでの購入は、あらかじめ目標に定めた作品のみに向かうから無駄はないが、店舗ならではの「発見の喜び」や「衝動買いの快楽」が減退したのは残念である。

 映画が劇場での占有でなくなって久しく、いまや自宅の本棚に並べられる「物」となったが、そのうちに完全にデータ化されて「ジャケット」など必要とされない時代になるだろう。生き残る道はクライテリオンのごとく「物」としての価値を限りなく高めることだろうが、そうなれば筆者の手が届く値段ではないかも知れない。
 いずれせよ、これからも刺激的なメーカーであり続けて欲しいし、いつかこれらジャケット・デザインを一望にできる写真集を出版して貰いたいものである。
(渡部幻)

   
ルイス・ブニュエル『小間使の日誌』、ロベール・ブレッソン『バルタザールどこへゆく』、ピエロ・パオロ・パゾリーニ『ソドムの市』、ドゥシャン・マカヴァイエフ『スウィート・ムービー』

   
マックス・オフェルス『快楽』

「クライテリオン・コレクション」のDVDデザインはあまりにも素晴らしい

2009-03-23 | クライテリオン・コレクション
「クライテリオン・コレクション」と言えばアメリカのソフト・メーカーの最高峰。
正式には「THE CRITERION COLLECTION」。
昔は高品質レーザーディスク・ソフトで知られ、買い求めたものだが、いまは小さなDVDになった。
素晴らしい会社で、世界中の名作・傑作をフォローし、ここから出ると「殿堂入り」を果たした気がする。
大手メジャー作品の発売は難しいだろうが、とにかく思わず感動してしまうラインナップなのだ。

画質は保障済みで特典映像のクオリティも高い。
しかし何と言ってもパッケージのデザイン・ワークが見事なのである。
パッケージだけで欲しくなることもしばしばであり、実際それほどでなくともお気に入り作品のような気がしてくる。つまりデザインの魔法にあてられてしまうのである。
例えばこれ。

    
サミュエル・フラー「拾った女」

フラーの中でも上位に入る好きな作品だが、このデザインにはしびれた。映画の冒頭で主人公のスリが電車の中で女のハンドバックから偶然に「ある物」をスッてしまう。男と女の汗、周囲の乗客、バッグに忍び寄る手の動き、絶妙なカット割りで描かれたこの場面の粋を見事に表現している。映画を観てなくても「この手の映画」が好きな人ならピンとくるだろう秀逸なデザインだ。
こんなのもある。

    
ジュールズ・ダッシン「裸の町」

これはニューヨーク派の原点ともいえるセミ・ドキュメンタリー・タッチの犯罪映画である。ことに印象に残るクライマックス。その一場面を切り取ったデザイン。遠景に浮かび上がるニューヨークと男のシルエットに感傷に浸らない映画のハードボイルドな精神がにじむ。

   
ビリー・ワイルダー「地獄の英雄」

ワイルダーの隠れた大傑作はジャーナリズムを痛烈に皮肉った作品である。社会の混沌が新聞の文字配列の中に整理されている。カーク・ダグラスの顔は英雄のそれにも汚れた英雄のそれにも見える。新聞のスクープを思わせるデザインが元新聞記者でもあったワイルダーの主題をストレートに伝え、思わず「何だろう」と手に取りたくなるパッケージになっている。

   
黒澤明「酔いどれ天使」

「世界のクロサワ」によるシュールな戦後やくざ映画。しかしまさかこんなデザインを施すとは日本人には想像できない。三船敏郎も志村喬も不在。白と黒が荒々しく分割されて対立する。その裏側に見える歩く男の姿に戦後の疲弊と混乱、そして男の意地が浮かび上がる。

   
ジャン・ピエール・メルヴィル「いぬ」

鬼才メルヴィルのモノクロノワール。その最高傑作のデザインは、黒字に拳銃、そして男二人と女一人。もうそれだけで充分。フランス製ノワールの「粋」にしびれるあのラストシーン。もう一度観たくなる。ベルモンドに再会したくなる。

   
ジャン・ピエール・メルヴィル「サムライ」

こちらはメルヴィルのカラーノワールの最高峰。いまプロの殺しの仕事に向かう。男はその身支度のなかに自らの精神を集中させていく。ドロンが帽子のつばを指でなぞる仕草、そのストイックな横顔を持ってくるとは思わなかった。

   
ジョン・カサヴェテス「フェイシズ」

アメリカ映画を変えたインディペンデントの父カサヴェテス。その初期の実験的な最高作が本作だ。彼の作品を観たことのある人ならひと目で納得するだろう激情を剥き出しになった顔。フレームをはみ出すクローズアップの数々が観る者をこれほど圧倒するものだとは彼の映画を観るまで知らなかった。何よりも雄弁であると同時に何より曖昧な「人間の顔」と言うデザイン。これしかないというデザイン。

   
ロバート・アルトマン「三人の女」

アメリカ映画史上最も異色な作品のひとつに数えられるだろうアルトマン芸術の最高峰。砂漠の中の水のないプールに描かれた奇妙な絵画とそれを黙々と描きつづける妊婦の女ジャニス・ルールと、シェリー・デュバルと、シシー・スペイセクの競演。もうそれだけでむせ返るような異端の匂いがしてくる。霞みがかったアルトマンの夢の映画。

   
マイク・リー「ネイキッド」

イギリスのユーモア監督マイク・リーによるダークな青春映画は、ヒリヒリと可笑しく、そのなかに強烈な悲しみを湛えている。90年代イギリスを代表するこの傑作の映像はまず絶望的なまでに黒い。その黒さを蹴散らしながら皮肉を連発する反逆児デヴィッド・シューリスの眼に映る人間の諸相。耳から離れないテーマ曲のメロディが聞こえてきそうなスチール選びである。

   
今村昌平「復讐するは我にあり」

スコセッシも尊敬する今村の代表作。存在自体が悪夢のごとき殺人者緒形拳の悪意と殺意に満ちた形相をモンタージュしたデザインワーク。ビートたけしが登場する以前の最も強烈な狂気を見事に表現したクライテリオンの傑作だろう。

   
今村昌平BOX 「にっぽん昆虫記」「豚と軍艦」「赤い殺意」

パッケージは豚の群れ。つまり『豚と軍艦』から。『にっぽん昆虫記』『赤い殺意』とパッケージされている。
今村の濃密なスタイルはこれらモノクロ映画でこそ堪能できるかもしれない。個人的にはテレビで偶然に見た『赤い殺意』に衝撃を受けた。

   
大島渚「愛の亡霊」

大島が『愛のコリーダ』に続いて放った『愛の亡霊』と言えばやはり「井戸の穴」だろう。映画史に残したいあの「井戸」をパッケージに持ってきたクライテリオンのセンスに脱帽する。


次もクライテリオンのパッケージデザインを紹介したいとと思っている。作品解説は余分だと気づいたのでやめるつもりだ。それくらい「クライテリオン」のデザインは雄弁なのである。
(渡部幻)