真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

渡部明美の60~70年代『週刊セブンティーン』のカラーイラストも発掘

2016-01-31 | アート







©akemi watabe(上記すべてに対し)

『週刊セブンティーン』(集英社)の表紙イラストも昭和元禄 アングラポップさんが発掘。
創刊号からしばらく担当していたからかなりの量があるはずだけど手元にはないのだ。


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トッド・ヘインズの『キャロル』を観る前に読んでおきたい淀川長治の『太陽がいっぱい』話

2016-01-29 | ロードショー
   

トッド・ヘインズの『キャロル』が評判のようだが、これは僕が去年に観たなかでも特に気に入った映画だった。
いまは遠い時代のラブストーリーであり、同時に一人の女性の成長物語である。女性とデパート、レコードとラジオ、カメラとフィルム、非米活動委員会と盗聴――保守と抑圧の50年代を柔らかに胸を締めつけるような緊張美で飾りつけて洗練を極め、たまらなく魅惑的だ。全編が名演技、名演出の連なりからなり、撮影、衣装、美術、音楽に至る入念な時代考証とその繊細な表現力が観る者に「現在」を忘れさせる。ヘインズは当時のフォト・ジャーナリズムを参考にし、同時にデヴィッド・リーンの『逢いびき』を引き合いに出していると語るが、これは、社会的、政治的な抑圧と困難に直面したアウトサイダーのソウルを描き続けるヘインズの新たな到達になった。心許なく華奢な身体で人の現実を凝視する才能を秘めるルーニー・マーラと孤独で誇り高くゴージャスなケイトブランシェットは映画ファンに記憶されるカップルになるだろう。

アカデミー賞の作品・監督賞から外されたが、ほかの賞ではノミネートされていることを考えると、ちょっと解せない。またケイト・ブランシェットが主演女優賞、ルーニー・マーラが助演女優賞という分け方にもピンとこない。同時に主演ノミネートか、ルーニー・マーラが主演賞でなければおかしいと思うのだが、こういうことはよくあることで、別に目くじらを立てるほどのことではないかもしれない(『ゴッドファーザー』では当時に知名度の違いからだろうか、ブランドが主演、パチーノが助演だった。内容からすればむしろ逆だと思うが)。

ところで、『キャロル』は女性カップルの恋愛を描いた作品である。映画の監督へインズ自身がゲイであり、そのことはよく知られているが、原作者のパトリシア・ハイスミスもレズビアンだった。このことは比較的最近知られるようになったことで、原作の発表時には「クレア・モーガン」名義で出版している。

ハイスミス作品の映画化といえば、ルネ・クレマン監督による『太陽がいっぱい』が有名である。クレマンもまたゲイだったと読んだことがあるが、主演のアラン・ドロンは、クレマンとやはりゲイの巨匠ルキノ・ヴィスコンティに愛された俳優であった。ハイスミス原作の映画化では他にヒッチコックの『見知らぬ乗客』があり、これも有名だが、主演のファーリー・グレンジャーはバイセクシャルだったと聞く。それを知ってかヒッチコックは、ゲイ・カップルによる殺人事件をモデルとする『ロープ』にも彼を起用。その事件は、リチャード・フライシャーの『脅迫/ローブ殺人事件』や、トッド・ヘインズと同じ頃に登場したトム・ケイリンの『恍惚』にも描かれていた。

『恍惚』はこれまでの映画化とは比較にならないほど率直にゲイと殺人を描いていた。ケイリンとヘインズは共に、90年代に台頭した「ニュー・クィア・シネマ」の旗手として注目されたが、ことにヘインズの才能はそうしたカテゴライズをはるかに超えるものだったと言える。ヘインズの興味と姿勢は、『ポイズン』『SAFE』『ベルベット・ゴールドマイン』『エデンより彼方に』『アイム・ノット・ゼア』『ミルドレット・ピアース』『キャロル』と続いてきた多彩なフィルモグラフィーを貫く個性で、そのことは彼が『ポイズン』を語る次の言葉に集約されていると思える。

「映画の中のリアリティを、ハリウッドの伝統的ジャンル、そのスタイルを検証しつつ、示してみようと思った。映画と観客の間の距離が、物語によって次第に奪い取られてゆく。映画のそんな仕組み、内面に働きかける力、ストーリー・テリング。ただ物語に別の角度を与えること、その角度のつけ方も同じ位、重要だと考えている。面白いのは、当時の恐怖映画が冷戦とか非行とか50年代にあった問題を使ってある種、危機感を煽るように作られている点だ。(中略)ハリウッドのホモ恐怖症のせいばかりではない。実験的な映画を撮ろうとしているから伝統的なハリウッドのフォーマットには収まらなかったんだ」(1991年『FLIX』より)

91年の言葉だが、いま読んでも、新作を語っているように読める。最後の部分について補足すれば、『キャロル』でのヘインズは、失われた(50年代の)ハリウッド・フォーマットにフィットさせた上で、その「角度」を微妙なかたちで異化して自らに引き寄せている。50年代のハリウッド映画は「安全・無害」に殺菌された映画の代名詞だが、それは検閲が厳しかったからであり、悪名高い「赤狩り」による思想弾圧も行われていた。それゆえ野心的な作者たちは自らの思想を、権力に「見えない角度」からこっそり忍び込ませていた。その大家が、たとえばヒッチコックでありビリー・ワイルダーだったわけだ。

   

冷戦と赤狩りが支配した50年代の同性愛を描いた『キャロル』は、「50年代を背景とする50年代スタイルの映画」である。ヘインズはここで、微細かつ微妙な表現と率直な表現を、交互に、抜け目なく施すことで「50年代を現在の眼から批評」しているが、その結果、「50年代には決してつくれない50年代についての映画」になっている。ここで少し長くなるが、ジェフ・アンドリューが1998年に発表した「ヘインズ論」を引用する。

「(トッド・)ヘインズは、社会の価値判断の指標として、そして自己規定の根源になりうる要素として捉えたうえで、病気や”異常”に関心を示している。この考え方は、今の時代を反映していながら、斬新でもある。またヘインズは、個人の生活が心理や性、経済、歴史、政治、文化的要因によってかたち作られていることを、知的な視点からはっきりと意識している。そして彼の現実と”イメージ”の間の隔たりへのこだわり(これはおそらくヘインズが記号学に興味を持っていることに起因している)や、私的な生活と表向きの顔が矛盾しながら共存することに対する興味を、成功、名声、ファッション、メディアに縛られた現代のなかで浮き彫りにしている。またヘインズが、特定の病気や欲望、人間のアイデンティティなどを我々が許容できない、またはしたがらない結果として生じるダメージが何なのかは結局分からない、と認めているところは、理性的で巧妙だといえる。映画的手法という観点から見ても、非常に大胆で、その才能には驚かされるばかりだ。ヘインズは、様式やストーリー運びの形式を自在に操り、新鮮なアプローチで題材に挑み、伝統的なジャンル映画を操作して切り崩しながら、ポップ・カルチャーが映し出す世界像を浮き彫りにし、問いを投げかけている。主題やスタイル、分析的な手法という点でいうと、彼の作品は、間違いなく現代的だ――記号学から得た知識に着目したアメリカ人の監督は、彼をおいてほかにいないだろう。批評家や観客が、ヘインズの作品を特徴づけている両義性を受け入れる心構えを持ち、理解しようと努力しさえすれば、映画作家としてのヘインズの未来は光り輝くに違いない」(『インディーズ監督10人の肖像』/キネマ旬報社より)

これもまた、すでに『キャロル』を知る2015年において、古びていないどころか、いまも的を射ており、彼の一連の作品への理解が深まる論考だったと思う(本では1998年時点における全作品について書かれている)。

ここでやっと話を元に戻すが、ハイスミス×クレマンの映画『太陽がいっぱい』を「ゲイの物語」だと最初期に見抜たのが、かの映画評論家・淀川長治だった。当時に限らずこの作品をそのように見立てた人は少ないと思われ、仮にそう見抜いていたとしても、そのように語る勇気を持てなかったに違いない。一般的には、貧乏な若者が金持ちの若者に近づき、殺して、彼のすべてを手に入れようと目論む「犯罪ドラマ」であり、もしくは『アメリカの悲劇』(モンゴメリー・クリフト主演の『陽のあたる場所』の原作)のような悲劇的な青春ドラマとして観たかもしれない。

僕も、淀川さんの説明を読み、ピンとこないながらも、そういう見方があること、それ自体に刺激を感じた。「おや?」と思ったのは、アンソニー・ミンゲラ監督(彼もゲイと聞いたことがあるが、どうなのだろう)が、同原作を再映画化した『リプリー』を観てからである。ここでマット・デイモン扮するリプリー(『太陽がいっぱい』でドロンが演じた役)は、よりはっきりゲイとして描かれていたからで――この時点でハイスミスがレズビアンとは知らなかったが――淀川さんの「見立て」の確かさに驚いたのだった。

その淀川さんと吉行淳之介の対談を引用する。
映画は開かれたテキストであり、人の想像力は画面に描かれている事柄をいくらでも自らの問題に置き換えたり、引き寄せたりして観ることができるものである。淀川さんの「見立て」を過分に意識する必要もないが、頭の片隅に置いておくことで、より深い理解につながるということもあるだろう。と、どこからともなくサービス精神が沸き起こってきたのである。以下、

淀川 それに、あの映画はホモセクシャル映画の第一号なんですよね。
吉行 (和田、同席の男性も)え、そんな馬鹿な。
淀川 あれ見たら完全にそうですよ。貧乏人の息子のアラン・ドロンが金持ちの家に、坊ちゃんを連れ戻しに行く。彼は金持ちの坊ちゃんのすべてが好きになっちゃうのね。ワイシャツから、ネクタイから、靴から、全部自分のものになったらいいなあと思う。坊ちゃんのほうはそんなもの飽きて困ってる。そして、そんなものほしがる子供みたいな男を喜ぶのね、モーリス・ロネは。手紙を書くのも、サイン教えて彼にやらせるようになる。そのうち、彼がおらな面白くなくなってくる。ラヴシーンだろうが、連れて行く。どっちも無いものねだり。片っ方はネクタイから靴から全部ほしい。片っ方はそんなこという感覚の人間がほしい。
吉行 違うと思うんだがなあ。
淀川 ちょっと待って(笑)。どっちも無いものねだりで、憎らしいけど離れられない。それがだんだんクライマックスになってくるとエキサイトしてくるのね。それは、俺が憎いんだろう、憎いんだろう、憎いんだろうで、とうとう殺すところまでゆく。そして殺しちゃった。なにもそこまでエイキサイトしなくてもいいのに、エキサイトして、片っ方は死んだ。そして、死体になっても、ふたりは離れられないのよ。
吉行 今、それをいおうと思った。スクリューにからみついた死体が離れない、それは淀川流解釈では、そういうとになるんでしょう、と。
淀川 もうちょっと待ちなさい(笑)。アラン・ドロンの方は、洋服からタイプライターから、全部自分のものになった。そこで、サインの練習するでしょう。
吉行 あれが面白かった。いつか深夜劇場で見たらカットされてましたけど。
淀川 あれ、大きなサインでしょう。プロジェクターで伸ばして練習するでしょう。まるでキスマークみたい。あんな大きくする必要ないのに、大きく大きくする。あれ、一生懸命、片っ方の唇をなすってるのね。
吉行 それはどうですか……。
淀川 なぜ、そんなことわかるかというと、映画の文法いうのがあるんです。一番最初、ふたりが遊びに行って、三日くらい遅れて帰ってくるでしょう、マリー・ラフォレの家へ。マリー・ラフォレのこと絵本でも買ってごまかそういって。ふたりが船から降りる時ね。あのふたりは、主従の関係になっている。映画の原則では、そういう時、銃のほう、つまりアラン・ドロンが先に降りてボートをロープで引っ張るのが常識なのね。ところが、ふたりがキチッと並んで降りてくる。こんなことあり得ないのよ。そうすると、そばで見ていたおじいちゃんが、あのふたり可愛いね、いうのね。そして、絵本渡したら、マリー・ラフォレ怒ってしまうでしょう。あの映画、マリー・ラフォレとモーリス・ロネ、マリー・ラフォレとアラン・ドロンのラヴシーンほとんどないのね。
吉行 うーん。映画の文法か。説得力が出てきたな。
淀川 そして、モーリス・ロネを殺してしまって、最後のシーンがくるでしょ。その時に、ヨットが一艘沖にいる。あれは幽霊なの。おまえもすぐ俺のところへ来るよ、という暗示なのね。
吉行 なるほど、あのヨットは何だろう、とおもっていた。
淀川 そこへあなたのいうシーン、太陽がいっぱいのシーンがくる。足をバンとあげて喜んじゃう。その前に、マリー・ラフォレと濡れ場があるはずなのね。ちょっとあるんだけど、それは見せない。で、電話がかかってきて、そうかといった時にワインのグラスを持った。彼の手が若くて美少年らしい。それと一緒にモーリス・ロネの死体の手が写るのね。ダブって。握手してるのね。そこへ、また呼ばれていっち……あれは後追い心中なのよ。
吉行 はあーっ(笑)。映画の文法として、ふたり一緒に降りるのはおかしいというところ、迫力がありましたね。
淀川 ふたつの殺しがあるのね。ひとつはモーリス・ロネの、もうひとつは憎ったらしい太っちょを殺すの。ちゃんと分けてる。太っちょのほうは銅像みたいのんでガーン、モーリス・ロネのほうはナイフで刺す。刃物で殺すのはラヴシーン、前のは単なる殺しですよ。片っぽうのは夢の殺しなの。殺せるか、殺せるか、殺してごらん、とうとう殺してくれたいうね。
吉行 ぼくは、貧乏人と金持ちというパターンであの映画見てましたけどね……。
淀川 また、監督がルネ・クレマンだから、いえるのね。
吉行 そうですか……。いや、勉強になりました。長いこと小説やってて、そこに気がつかないんじゃ駄目だな。
淀川 善良なのよ、あなたさんは。これはさっきの仇討ち(笑)。
吉行 いや、こわかったですねえ。勉強になりましたねえ(笑)。

淀川さんはここで、映画の「文法」から『太陽がいっぱい』に隠された「含み」を読み解いていくが、当時、奇抜とも思えたその「読み」は正しかったことが、いまはわかっている。多分、この時の吉行さんは半信半疑のままだったと思うし、読者の多くも困惑したに違いない。実に面白い対談だが、ほかにスピルバーグの『激突!』やウィリアム・ワイラーの『コレクター』なんかの話をしている。(1977年、新潮社刊の『恐怖対談』所収)。
トッド・ヘインズもまた「含み」の天才であり、彼が新作『キャロル』の繊細な映像に忍び込ませた「隠し絵」の数々を読み解いてみるのも映画鑑賞の醍醐味だと思う。淀川さんならどのように観ただろう。
(渡部幻)

 

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ジェレミー・ソルニエの『ブルー・リベンジ』は使い古された「復讐物ジャンル」の可能性を開拓する試み

2016-01-29 | テレビで見た映画
   

『ブルー・リベンジ』(13)をWOWOWの初放送で。劇場で見逃して気になっていたインディペンデント映画である。
異色の大傑作を期待したいたほどではなかったが、しかしこの映画、リーアム・ニーソンものなどで使い古されて大味になった「復讐ものジャンル」にいまだ可能性があることを示している。
『ブラッドシンプル』(84)でコーエン兄弟が、フィルムノワールで定番のボイスオーバーを排して観る者の感情移入を拒み、客観的な立場に置くことによって、ドス黒いユーモアを滲ませ、ジャンルを刷新してみせたのにも似て、本作の新人ジェレミー・ソルニエもまた、主人公のこれまでの人生や復讐に至る経緯を最小の説明にとどめ、加害者との因果関係やその真相もなかなか知らされない。実際(映画としては)実にささやかな理由から起こった殺し合いの顛末は、登場人物たちの自警意識――一家の問題に警察など介入させない――によって雪だるま式に死体の数を増やしていくのだが、ミニマリズムに徹するソルニエ演出は、一連の「青い報復」のなかから得もいわれぬ「憂鬱なユーモア」を滲ませ「主流からこぼれ落ちたアメリカのリアリティ」をも浮かび上がらせる。その「さま」がなかなかの見ものなのだが、新作『Green Room』(15)での飛躍を期待したくなった。(渡部幻)

http://www.imdb.com/title/tt2359024/?ref_=nm_knf_i1
http://www.imdb.com/title/tt4062536/?ref_=nm_flmg_dr_1
(この新作、『25年目の弦楽四重奏』や『マイ・ファニー・レディ』のイモージェン・プーツが出演しているらしい)

   

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デヴィッド・ボウイと映画の演技~~ニコラス・ローグ、大島渚、そしてオーソン・ウェルズ。

2016-01-12 | 雑感
 

 再読していたヴィクター・ボクリスの『ビート・パンクス』に、70年代イギリス映画界の鬼才ニコラス・ローグ監督のインタビューが入っていて、彼がデヴィッド・ボウイについて語った言葉があったので引用する。ローグは、ロックスターのデヴィッド・ボウイに演技が出来るのだろうかと人に尋ねられて「思わず」次のように応えたという。

 「しかしあの男はちょっと奇妙な仕草をするだけで、4万人もの人間を魅了してきたんだ。どこの俳優が4万人もの人間を意のままにできると思ってるんだ。たとえデヴィッド自身がジョーン・サザーランドのようにはできないと言ったとしてもだよ。観衆は彼のパフォーマンスや彼の言葉を求めにやってくるんだ。ウォーレン・ベイティじゃあれだけの人は集まらんだろう。そもそもどういう意味で俳優って言葉を使ってるんだ?」

 ちなみに、ローグは、ボウイが主演した奇妙な映画『地球に落ちて来た男』を撮った才人。代表作『赤い影』や『マリリンとアインシュタイン』など記憶を主題に超絶的な技法を駆使したスタイルは、当時、『肉体の悪魔』『マーラー』『TOMMY/トミー』などのケン・ラッセル監督と並び称された。70年代のローグはミュージシャンの起用で知られ、『パフォーマンス』(ドナルド・キャメル共同監督)ではミック・ジャガー、『ジェラシー』ではアート・ガーファンクルを主演に迎え、ドキュメンタリー『Glastonbury Fayre』(ピーター・ニール共同監督)も手掛けており、ミュージシャンたちからの信用を集めていた。(ジョーン・サザーランドはオーストラリアのソプラノ歌手、ウォーレン・ベイティは『俺たちに明日はない』『ギャンブラー』『シャンプー』などの主演や製作者として当時もっとも人気の高かったハリウッド俳優の一人)

 

 ローグは1977年の時点で、アート・ガーファンクルとシシー・スペイセクの主演で『イリュージョンズ』という映画をつくろうとしていたようだが、この企画はなくなり、そしてガーファンクルとテレサ・ラッセルを共演させた傑作『ジェラシー』を完成させる。
 その『ジェラシー』のパンフレットに大島渚が寄稿している。大島は『戦場のメリークリスマス』の監督としてデヴィッド・ボウイを起用。ボウイの映画キャリアにおける「もう一本」の代表作になった。
 大島の文章は「『ジェラシー』との奇縁」と題してデヴィッド・ボウイとの出会いを回想したものだ。

 「昨年の十月の末、私はシティ・マラソンと大統領選でわきたつニューヨークにいた。デヴィッド・ボウイに会うためである。一九七八年の暮から準備をはじめた『戦場のメリークリスマス』は一向に前に進まないのだった。金がかかりすぎるということもあったが、主人公の英国軍将校があまりにも美しく描かれていることも難点のひとつだった。いったい、こういう役者がいるのかね? ふと、デヴィッド・ボウイに思い立った。聞いてみると、人を介したりせず直接交渉した方がいいだろうということだった。早速手紙を書くとシナリオを読みたいと言ってきた。シナリオを送るとすぐ、興奮している。すぐ会いたいと返事が来た。ニューヨークへ着くと、彼は出演している舞台の『エレファントマン』の切符まで用意して待っていてくれた。」「誰かいいライターを知らないかと聞いてみたが、彼は控え目な性格らしく、とり立てて名前をあげなかった。しかし、自分が主演した『地球に落ちて来た男』の監督ニコラス・ローグと、そのグループは信頼していると言った」

 ニコラス・ローグの『ジェラシー』を製作したのはジェレミー・トーマス。彼はのちに『戦場のメリークリスマス』の製作者として名を連ねるのだった(ほかに、ベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー』やデヴィッド・クローネンバーグの『裸のランチ』の製作も彼だ)。

 

 ところで、先のローグの言葉に、ある種の「スター=演技者」が「4万人もの人間を意のままに」することに関するがあったが、そこで思い出すのが、かのオーソン・ウェルズが、「映画の演技術なるものがあるのか」についてゲーリー・クーパーとローレンス・オリヴィエを引き合いにして語った言葉である。

 「映画俳優はいる。古典的なケースだが、(ゲーリー・)クーパーは映画俳優だった。セットを彼が歩いてゆくのを見たら、だれもが思う。「やれやれ、こりゃ撮り直しになるぞ」そこに彼がいるとはじっさい思えないんだ。それからラッシュを見る、するとスクリーンをはみ出さんばかりに彼がいる。」「個性だ。その秘密を解明する気はない。テクニック以上のなにかだ。テクニックに関しては、ローレンス・オリヴィエ以上の知識の持ち主はいない。もし、映画の演技術がキャメラのテクニックに帰着するのなら、ラリーは第一人者になったはずだ。ところが、映画での彼はすばらしくはあるが、それでも舞台を統括している時の、あのピリピリした存在感が消え、その影法師としか思えない。なぜ、キャメラは彼を縮小してしまうのか? そして、テクニックとは無縁と思われるゲーリー・クーパーを拡大するのか?」(ピーター・ボグダノヴィッチ『オーソン・ウェルズ その半生を語る』より)

 ウェルズの言葉に倣えば、僕としては、「ステージ」から降りて「映画」に出演してスクリーンに映った「俳優デヴィッド・ボウイ」も、「4万人もの人間を意のままに」するカリスマであるときよりも、ずっと「縮小」してしまっているように思える。つまり、ステージでのデヴィッド・ボウイ――こと全盛時代の――は、「映画」(グラマラスな魅力をかなり伝えたトニー・スコットの『ハンガー』や『ジギー・スターダスト』などのライブ映画ほかの映像全般を含む)などで見るより、もっともっと「凄かったはず」だと想像させるのである。

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スピルバーグ『ジョーズ』40周年。人食いサメの恐怖。そのサブプロットはメガネ男性の通過儀礼。

2016-01-10 | 映画作家
   


 「何百万年もの歴史を経て生き残ってきた生命体。原始的で憐れみもなく理性もない。生きるために、ただ殺すのみ。どんなものでも襲いかかる、悪魔がいるとしたら、それは“●ジョーズ(●ルビ=アゴ)”をもっている」(アメリカ初公開時の予告編より)

 ほの暗い海中を進む“何者かの視点”。仰々しくドスの利いたナレーションが重なり、ジョン・ウィリアムズの無気味な名曲が鳴り響く。映画史に残る名トレーラーである。

 『ジョーズ』は、ホラー、パニック、スリラー、アクション、アドベンチャーと様々な形容で語られるジャンルの壁を越えた映画史の伝説である。トレーラーでは『キング・コング』(33)『海底二万哩』(54)などを想起させる怪物映画とホラー映画の折衷のごとく売り出しているが、大衆は未知なる“何か”への興味と、怖いもの見たさの覗き見根性を刺激されて劇場に詰めかけ長蛇の列をつくったのだった。
 本作の2年前にスキャンダラスな話題を呼んだオカルト映画『エクソシスト』(73)の監督ウィリアム・フリードキンは、こうした現象について語る。
 「新聞で恐怖映画ということになっているものだから、人は列に並んでいるときにもう怖がっている。タイトルが現われると「いやだ、観られないよ」と言う人もいる。そしてそこが映画製作者として仕掛けていくところだ」(『ディレクティング・ザ・フィルム』キネマ旬報社)
 『ジョーズ』もまた、同様の仕掛けを施して社会現象となり歴代興行記録を塗り替えるメガヒット作になった。


 製作者のデヴィッド・ブラウンとリチャード・D・ザナックは、ピーター・ベンチリーの原作小説を読み、すぐに映画化を決めた。監督としてジョン・ヒューストンやサム・ペキンパーの名が挙がり、ディック・リチャーズが有力候補だったが、最終的に選ばれたのは、『続・激突!/カージャック』(74)でも彼らと組んだ新人のスティーヴン・スピルバーグだった。
 スピルバーグは巨大なサメが人々を襲う物語の中に自身の出世作『激突!』(71/テレビ映画)と劇映画デビュー作『続・激突!~』に通じる構造を見い出す。彼は語る。
僕の三本の映画は、三つのちがったテーマをもっています。でも、フィーリングにおいては、確かに共通したものがある、と思います。罪もない人々が、得体の知れないような、名伏しがたい力に、追っかけられる。それは、わたしが意識してそうしている何か、だと思います」(『キネマ旬報』1975年10月上旬号)
 ここで彼が語る「罪もない人々」とは、別の場所では「いい奴」「平凡な人々」などの表現に置き換えられるが、つまりは「市井の人々」のことである。こうした彼特有の視点――作家性と言っていい――が『ジョーズ』を凡百の怪物映画やホラー映画と似て非なる傑作にするのだ。

 


 スピルバーグはウディ・アレンやコーエン兄弟と並ぶアメリカを代表するユダヤ系映画監督の一人である。彼らに共通するのは「平凡な人物」が内に抱える不安や人生の欠陥が、とあるきっかけから明らかとなり、制御不能の状態に陥るときのパラノイア的な状況を描き続けている点である。アレンの場合、それが都会の人生悲喜劇となり、コーエン兄弟の場合は田舎のブラックな犯罪ドラマになる違いはあるが、スピルバーグは市井の人々の内にある縛とした不安を、象徴的かつ具体的な“何か”に置き換える才能を持っていた。
 「小さな日常」が反転し「大きな非日常」を現出させるときのスペクタクル性に持ち味が現れるが、その“何か”が『激突!』では巨大トラック、『ジョーズ』では巨大ザメ、『未知との遭遇』(77)ではマザーシップ、『レイダース/失われた聖櫃』(81)の転がる石の塊、『ジュラシック・パーク』(93)の恐竜などに置き換えられる。こうしたバリエーションは、のちに社会派ドラマへと拡がり、展開する。『カラーパープル』(85)での黒人女性の受難、『太陽の帝国』(87)の少年の目から見た戦争を経て、『シンドラーのリスト』(93)のユダヤ人虐殺、『プライベート・ライアン』(98)のノルマンディー上陸作戦、『アミスタッド』(97)『ミュンヘン』(05)、もしくは『ターミナル』(04)にしても、「罪もない人々」が「名伏しがたい力」に翻弄され、抵抗する際に味わう恐怖や不安を描き続けて主題的な一貫性が見られるのだ。

 


 スピルバーグは「古い映画スタイル」と決別すべくマーサズビンヤード島でのオール・ロケを決めた。旧来のセット撮影ではなく、リアリズムにこだわることで、観客を恐怖のどん底に陥れようというのだ。
 巨大なサメの模型を海に浮かべ人間と闘わせる――大胆な発想だが、撮影は悪夢の様相を呈する。彼は回想する。
 「『ジョーズ』は僕にとってのベトナム戦争だった。無知な人間が自然に対して仕掛けた戦争で、来る日も来る日も自然が僕を打ちのめした」「何一つうまくいかなかった。サメはチューブを破裂させたり、ぶくぶく沈んだり好き放題やっていた。あれは淡水用に設計されてたんだ。それがわかったとき、路線を変更した。姿を出さないことで恐怖をかきたてる「ヒッチコック路線」でいくことにしたんだ」(『プレミア日本版』1998年11月号)
 スピルバーグは「ヒッチコック路線」の“見せない演出”を選択。マイナス要素を逆手に取ってその「天才」を発揮していく。脅し、はぐらかし、笑わせ、油断させたあとでアッと驚かせる「ショック演出」の数々を発明。なかでも先のトレーラーに登場する「サメの視点(POV)」がユニークなのは「あの」メインタイトル曲とともに「獲物を狙うサメ=殺人鬼」の視点に「観る者の視点」を同化させてしまうからだ。映像に映るのは被害者となるだろう人の泳ぐ足。観客は映画鑑賞の慣わしとして被写体に感情移入するクセがあり、襲う側と襲われる側の気分を同時に味わわせられることになる。ここに本作の持つ「アトラクション性」――恐怖のお楽しみとでも言えるもの――の基本があり、極めてスピルバーグ的な倒錯の仕掛けがあるのである。
 スピルバーグ映画は子供から大人まで楽しめるエンターテインメントだが、同時に、過剰なまでに暴力的な描写を含んでいることでも知られている。『ジョーズ』では若い女性が“見えない怪物”に足を食われて海面を引きずり回される冒頭や、ゴムボートごと襲われた少年の鮮血――黒澤明の『椿三十郎』(62)の5倍ほどの――が吹き上がる場面、沈没船から海水で膨張した死体の頭が現れる場面、入り江で男性が犠牲になる場面(ここで初めてサメの頭が一瞬見える)が観る者に衝撃を与えたが、なかでも猟師クイント(ロバート・ショウ)がサメに飲まれ、口から血を吐いて絶命していく場面は白眉だ。しかし、新世代エンターテイナーたるスピルバーグは、不快になる手前でギリギリ抑制して巧みであり、ヒッチコック的ないしはハワード・ホークス的な職人気質を感じさせる。

 


 『ジョーズ』は1975年の夏に公開。『タイム』は「この映画は最高の娯楽マシーンだ!」、『ニューズウィーク』は「スピルバーグは、ピーター・ベンチリーの原作から社会性とセックスを排除した。結果的に、その選択は賢明だった。若さに似ずスピルバーグは、大脳を無視して直接はらわたに訴える往時の巨匠を彷彿とさせる」と絶賛。
 一方、批判者の代表は映画評論家の荻昌弘だった。
(ベンチリーの小説は)マス・ブルジョワ社会のおこぼれで生計を立てているリゾート海浜都市の入江へ、まったく無制御なホオジロザメ一匹なげこむことで、それにリアクトしてゆく街の諸階層の思惑や行動から、こんにち日本にもまったく共通であるプチブル市民階級の心理と生理をリポートしてみせる。(中略)しかし、このベンチリーも脚色に参加した映画版『ジョーズ』は、(私はこのほうを先に見たのだが)どの角度から見ようとしてもタイしたできとはかんがえられない。後世に作品価値がのこる収穫でないことはもちろん、単にスペクタキュラーなショッカーとしても、見のがせば悔いをながくのこす、といった水準の昂奮のたのしみは、少い。ここには、原作がミニマムの存在価値としていた“アメリカへの眼”さえ欠けるありさまで、私は現代性という点からも監督S・スピルバーグは先年の『激突!』のほうが格段に深層に触れた開発をやってのけていたのに、といいたい。要するに一言でつくせば、これは、リアリズムごかしの並級怪獣ショッカー、という評価から、あまり出られない貧相な作品といわざるをえないのである
 大変な酷評だが、これを掲載した『キネマ旬報』(1976年2月上旬号)には石上三登志の賞賛評も並んでいいる。いわく、
 「この、デッカイ人食い鮫があばれまわるという“ワン・ポイント”映画は、実はただそれだけの事なのである。そして、それに徹したからこその、『キング・コング』同様のメッタヤタラの面白さなのである。(中略)それ以外の楽しさもある事にはあるが、しかし、どうでもいいのである
 と評し、映画マニアらしい視点で賞賛したのだった。

 


 だが、ここでは荻氏よりも『ニューズウィーク』を取りたい。また、石上氏の慧眼に頷きつつ、スピルバーグ映画の個性であり魅力は、血の通った人物造形にあると思うのである。
 初公開時はたしかに――ポスターと予告篇の影響で――巨大ザメの新鮮な驚きに気を取られ、その恐ろしさばかりが話題にされたかも知れない。だが、時を経て驚きが薄くなると、やがて3人の男たち――ブロディ、フーパー、クイント――をまるで旧知の友人のごとく感じ、親しみ覚えている自分に気づくはずである。
 70年代は空前のパニック映画ブームで、『ジョーズ』もまたその流れのなかで話題を呼んだ。だが、大きく異なるのは、『ポセイドン・アドベンチャー』(72)のジーン・ハックマン、『タワーリング・インフェルノ』(74)のスティーヴ・マックィーン、『大地震』(75)のチャールトン・ヘストンのような「頼りになるヒーロー」が登場しない点である。『ジョーズ』に登場するのはスピルバーグが言うところの「平凡な人々」であり、ロイ・シャイダー扮するブロディには署長だという役どころ以上の特技がなく、いままさにサメが人を襲っている最中に「早く海から出ろ!」と叫ぶだけで精一杯の人物なのだ。
 ブロディは犯罪と暴力が蔓延するニューヨークを離れ、家族とともに穏やかなアミティ島に越してきたばかりである。しかし、穏やかで済むはずはない、やがて人食いザメの脅威に対処しなければならなくなるが、彼にはこの任務を遂行するにあたり、致命的な欠陥があった――海が怖くて泳げないのだ。
 ここに一人の助っ人がやってくる。リチャード・ドレイファス扮する海洋学者フーパーは金持ちのインテリでよそ者だが見た目よりも男っぽいところがある。ロバート・ショウ扮する猟師クイントは不遜かつワイルドな変人。個性の異なる彼らが手を組むことになるが、途中、互いの名誉の負傷を見せ合い、友情を深めるときにも、ブロディだけは盲腸の痕しかないのだった。
 アミティ島のアウトサイダーたちが、いがみ合い、皮肉を飛ばしながらも手を結び、島の平和を取り戻すべく脅威に立ち向かうべく海に出て行く。

 


 ここで「70年代」における男性性の位置づけを解説する必要がある。フェミニズムが台頭、女性が強くなると、男性原理の見直しが始まる。映画はヒーローらしからぬ俳優たちを多く輩出。その最初の声が『卒業』(67)のダスティン・ホフマン、続いて『イージー・ライダー』(69)のピーター・フォンダ、『真夜中のカーボーイ』(69)のジョン・ボイト、『ファイブ・イージー・ピーセス』(71)のジャック・ニコルソンら、いわゆるニューシネマ俳優が台頭してくる。彼らは「弱い男」「平凡な男」を演じて共感を呼ぶが、この潮流への反動を示した監督としてサム・ペキンパーを挙げなければならない。
 ペキンパーの代表作『わらの犬』(71)は、「暴力はびこるアメリカ」を捨てて「安全なイギリスの田舎町」に越してきた軟弱な数学者(ダスティン・ホフマン)が主人公である。彼には性的魅力をもて余している妻(スーザン・ジョージ)がおり、無邪気にじゃれる毎日だが、しかし暴力は普遍であり、彼らに襲い掛かる。夫は妻をレイプされるが、しかし屈強なイギリス男たちを前に無抵抗であり、気づかない振りをしている。そんな「男らしさ」とは程遠い「平凡な人物」が、終盤、暴力本能もあらわに決死の闘いに挑み、敵を皆殺しにして生き残る――。『わらの犬』は現代的な男性性を挑発し、内なる野生を取り戻させる「ペキンパー流の通過儀礼」であった。

   


 なぜ『わらの犬』を引き合いに出したかと言えば、スピルバーグの『激突!』もこれに似た構造を持つからだ。妻に頭の上がらぬ郊外暮らしの平凡なサラリーマン(『激突!』『ジョーズ』『わらの犬』の主人公は全員がメガネをかけている)が、巨大なトラックに追われるうちに「決闘(~原題)」を迫られ、遂に打ち倒すまでを描いた物語である。ラスト、主人公はトラックを打ち倒す。それは恐竜を倒して嬉々と跳ね回る原始人のようだ。やがて彼は落ち着き、虚脱する。あのトラックはもしかすると彼自身の内なる本能が呼び覚ました「怪物」の象徴ではなかったか? ここには『わらの犬』と同様、文明に本能を去勢されていた男の悲哀が滲んでいた。
 『ジョーズ』のブロディも最後に孤立して巨大サメとの「決闘」を迫られる。そして勝利すると、狂喜の雄たけびを上げ、知らぬ間に海への恐怖を克服している自分に気づく。そして「前は海が嫌いだった」と笑いながら、フーパーと共に満ち潮の海を泳いでいく。『ジョーズ』のメインプロットは「サメ退治の物語」だが、サブプロットはブロディが「トラウマを克服する」までの成長物語なのである。ブロディは人食いザメを倒すことによって海への恐怖を乗り越え、ついに「署長」の名に相応しい「真のヒーロー」に生まれ変われるのだ。

 


 『ジョーズ』の70年代性は『わらの犬』や『激突!』との構造上の類似からも明らかである。しかし荻昌弘が書くように批評精神に欠け、表面的で、掘り下げが不足しているだろう。ただ、それはスピルバーグが「あえて選択した」ことのはずである。彼は原作に描かれる社会的な背景の一切を脚色の段階で排除している。そしてこここそ荻氏の不満な点なのだが、そもそもスピルバーグは「現代」に関心が薄く「過去」志向が強いのである。
 『ジョース』にものちの歴史大作に顕著なスピルバーグの志向性が現れる有名な場面がある。クイントが語る「軍艦インディナポリス号」のエピソードがそれだが、派手な見せ場に事欠かないエンターテインメント作のなかにおもむろに「過去の歴史」が流れ込んでくる部分であり、ひと際リアルでシリアスな印象を与える。
 「インディアナポリス号」とは1945年に広島に落とすための原爆を運んだ実在の軍艦である。任務完了後、日本の潜水艦に攻撃され、乗組員1196名のうち300名が死んだ。海に放りだされた生存者たちは人食いサメに襲われて次々に餌食になっていった。最終的に生き残れたのは、わずか317名。クイントはその生き残りの一人という設定なのだ。彼はその経験があるゆえにサメ退治への執念を燃やしている男であり、ここにはスピルバーグが好む『白鯨』のエイハブ船長の影がある。ロバート・ショウが自らの過去を語りだす場面は、スピルバーグの確かな演出力を示している。語りだけで観る者の想像を刺激しながら、男たちの頭上で揺れるランプの光と影を利用して緊張感を高める。この部分は、いわば本作の「さらなるサブプロット」である。そして本作中で最も真に迫ったこの場面が、映画全体の印象に及ぼした影響は計り知れない。

 

10
 自らの弱さと対決する男たちの物語を盛り上げたジョン・ウィリアムズの功績も大きい。あまりにも映画的な高まりの妙味は、二人のコンビネーションなくして生まれ得ないものだ。『ジョーズ』は「あの名曲」と共に熱狂を生み、キャラクターグッズが販売され、シリーズ化され、ついにはユニバーサル・スタジオの名物アトラクションとなった。
 シリーズは他の監督の手になるものだが、それ以上に当時の観客が「騙された」のが数々の亜流作品。『グリズリー』(76)、『テンタクルズ』(77)、『ザ・カー』(77)などの愛嬌ある小品や、『オルカ』(77)『ピラニア』(78)『トレマーズ』(90)などの秀作を生むきっかけとなった。だが、いまだ『ジョーズ』の完成度に匹敵する作品は存在せず、戦後アメリカのポップカルチャーを語るときに欠かすことのできない金字塔であり続けている。
(渡部幻/「映画秘宝」2015.11『ジョーズ』40周年より加筆修正)




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スティーヴン・スピルバーグ流の〈教育的〉冷戦サスペンス『ブリッジ・オブ・スパイ』

2016-01-09 | ロードショー
 

 スティーヴン・スピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』を渋谷のTOHOシネマズで観た。この場所でのスピルバーグ映画鑑賞は『ミュンヘン』以来。当時はTOHOシネマズとは言わなかったかもしれない。ちなみに場内は初日にも関わらずガラガラだった(最近は金曜日が初日になることが多いせいもあるかも知れない)。『ブリッジ・オブ・スパイ』は公開劇場がどこも小さなスクリーンばかりなのが解せなかったが、それがいまの日本におけるスピルバーグ映画の立ち居地なのだと考え、その状況に対する「別の想像」を膨らませる方向へ思考を切り替えたのだった。

 スピルバーグ映画は、『ジョーズ』『インディ・ジョーンズ』などの娯楽作、『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』『リンカーン』などの社会派作を含め、共通するのは、巨大な難問が個人の前に立ちはだかり、今にも押し潰さんとする時、それでお理想を貫く「不屈の意志」を描いた物語だと言うことを改めて感じた。スピルバーグは「男の映画作家」なのである。
 かつて盟友ジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』と同年に『未知との遭遇』を発表して並び称されたスピルバーグ。あれから40年近くの年月が過ぎてルーカスが『スターウォーズ』から手を引いたいま、彼は旺盛な挑戦を続けているが、彼の基本的な「物の見方」は変わっていないと言えるかもしれない。

 冷戦下の50年代に起きた両国のスパイ交換の物語は、彼の幼少時の出来事だが、だからこそその史実を「映画の形」に残そうとしている。本作に描かれた50年代アメリカには欺瞞と事なかれ主義が蔓延している。主人公の弁護士は、ほとんど昔のアメリカ映画に出てくる絵に描いたような保守的な家庭持ちだが、それゆえに、アメリカの理想主義を貫き、難問に挑戦しなければならなくなる。
 「ならなくなる」というのは、初め彼は――多くのスピルバーグ作品の主人公と同様――その挑戦に前向きではないからだ。しかし、一度やると決めたら、熱に浮かされたように没頭し、諦めず、命をかけても責務を全うする。つまり、この「教育的」かつ「真面目」な映画で、スピルバーグはそんな男たちこそ「目指すべき真のアメリカ人」の姿だと言いたいのだ。彼は「アメリカ人として生きることとは?」「アメリカの初心とは?」「アメリカの理想を実現するために必要な態度とは」と問いかける。多様な人種と文化が混在するアメリカをアメリカたらしめる理想の実現――それ自体が巨大な難問であり、壮大な実験であるが、映画もまたその実験の一つだから、興味が尽きないし、アメリカ映画を肴に議論することは面白い。その問いの難しさゆえに、アメリカはしばし道を踏み外し、幾多の間違いを起こし批判にさらされてきた。しかし一方で、その歪みを指摘して是正すべき「ほとんど奇跡」とも思える「理想の実現」を成し遂げてきた「現実の男たちの偉業」があり、そのスピリットこそ忘れてはならなぬものなのだと、スピルバーグは物語り続けることを責務にしているようだ。そうした彼の熱心な学校教師的な側面と愛国心は――たとえそれを日本のそれに置き換えても――僕の共感の外にあるものだが、映画監督としてのカメラ扱いのうまさは相変わらずで、構図と動かし方ひとつで状況を伝えてしまう。

 トム・ハンクスは理想の男性像(父性像)を自然体の芝居で演じていよいよスペンサー・トレイシー的。国家の壁をこえて「架け橋」となるべく奮闘するハンクス手だれの名演を見てると、彼なら『ニュールンベルグ裁判』のトレイシーの役柄も相応しく演じられるだろうと思えた。だが、本作が観る者を引き込む原動力はマーク・ライランスの存在。「時代」に準じた男の諦念と誇りを静謐な意志を秘めた芝居で名演している。結果、まるで「ベスト・オブ・スピルバーグ」のような作品になっていた。
 しかし僕は、初期スピルバーグ映画の猪突猛進的な面白さに夢中になって育った口なので、彼の歴史映画の「教育的」な部分が苦手であり、見ながら極力それ以外のところを面白がろうと努力していて、その無理に疲れてしまうこともある。「教育的」な要素を「描写」そのものが凌駕しているスピルバーグ映画と言えば『ミュンヘン』。僕はこれがベストだと思う。
(渡部幻)

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デヴィッド・ロバート・ミッチェル『イット・フォローズ』のインスパイリングな「新しさ」と「物足りなさ」

2016-01-06 | 試写
   

 デヴィッド・ロバート・ミッチェル『イット・フォローズ』はユニークなホラー映画である。個人的にはまるで怖くないのだが、それは筆者の感受性の問題である。ホラーにも色々あり、『エクソシスト』などは大好きだが、『リング』にはなにも感じないというところがある。ホラーは好きだが「怖い」から好きなわけではないし、多分その方面の感性すれっからしになってる。本作は「青春ホラー」だが、個人的にはこのジャンルに思い入れがないし、若者がいくら脅えていても(大げさに言えば)なんとも思わないようなところがあるのだ。ただ、非常にインスパイアリングな作品であり、奇妙に尾を引くところがある。その感触からホラー好きなら『ハロウィン』などの初期ジョン・カーペンター作品を連想するだろう。いっけん二番煎じみたいだが、それで終わらないひらめきを感じさせる。高評価もうなずける異色作なのだ。

 映画は視覚・聴覚の感覚表現である。本作はひと目でその映像感覚に目をみはらされる。映画は総合表現なので一口に感覚と言っても、撮影、被写体、編集、それとも全部の総合を指しているのかわからない。どれを指しているのかで受け取り方も変わってくる。『イット・フォローズ』で僕が感心したのは撮影である。シネマスコープを活かした構図の陰影が深く、しかも「ほぼ動かない」。それゆえ観る者は動かないロングショットのワイドな構図のなかを観察し、目玉を動かす。ホラーだからその「目の動き」は脅えにもとずき、「恐怖の対象」を探しているのである。アングルの「固定」は、ここで劇場の椅子に固定された観客の視線と結びついている。冒頭で椅子に縛られた少女を見せるが、それはスクリーンの鏡に映った観客の似姿なのである。

 映画の画面は「世の映し鏡」である。スクリーンは鏡であり、その反映としての世界を眺める行為が映画鑑賞なのである。映画の鏡の世界は多彩である。「写実的なもの」から「奇妙に歪んだもの」まで色々だが、観客はスクリーンを覗き込んで、そのなかに自らの似姿を見出す。観客はその似姿=登場人物に共感したり嫌悪したりするが、作者はその心理を利用してドラマを様々な方向へ転がしていく。娯楽映画の多くは、極力、大衆の要望に合わせ理想化された人物を描くことが多いが、しかしホラーの場合は、必ずしも理想的な人物像である必要はない。こと青春ホラーではむしろ欠陥を持つ普通の人物がひどい目に合わされることが多いかもしれない。

 

 「鏡」を始終覗き込んでいるような人がいるが、あれはどうしてだろうか。自分の顔をそんなに眺めるとは、極端に神経質な人か、もしくはナルシスト、それともマゾヒストだろうか? 「ホラーの鏡」の場合どうだろう。映画は鏡だと書いたが、自らの似姿=分身たる登場人物を通じて恐怖に脅えてみたいなどとというのはどちらかといえばマゾヒスト的ではないか? ホラー映画ファンにかぎらず映画ファンなどという存在は多少なり歪なところを持っているものだと、自らを省みて思うのだが、しかしホラー映画に描かれる恐怖のつるべ打ちを観て喜んでいるとはどういう風の吹き回しからくるのだろうか。この世にはびこる者どもが痛めつけられるのをみて喜んでいるのか。それとも自らを鞭打っているのだろうか?? よくよく考えると奇妙に思えるものだが、ファンはそれを糧として生きているし、ホラー中毒者はあとを絶たない。
 ホラーファンにもいくつかあり、被害者の立場に身を置くマゾヒスト型の人物と、加害者の立場に身を置くサディスト型の人物とがいる。言い換えれば被害者の立場に身を置くのは普通のファン。加害者側に身を置くのはマニアックなファンである。マニアックなファンは作者たる監督の側に身を置こうとする癖がある。つまり脅かす側に身を置くため、脅される一方となるお化け屋敷には腹を立てる傾向がある。しかし『イット・フォローズ』の場合、ほとんどサディスト型の立場に身を置くことはむずかしいのではないか。本作には具体的な加害者が存在しない。もっぱら被害者側の心理状況を追体験させられ、恐怖の正体と理由を、観る者に自ら「考えさせる」ようつくられている。僕が怖くなかったのはここが理由だった。おもしろいのだがホラーとしてみれば適者生存の本能を直撃する恐怖感を煽ってほしいのだが、本作のつくりは「知的」に過ぎるように思えたのである。

   

 『イット・フォローズ』の主人公は青春盛りのティーンたちだが、彼らに襲いかかる「それ」は「レザーフェイス」や「ブギーマン」のように「具体的」かつ「特定的」な怪物ではない。たしかに「人の形」をしたゾンビのごとき存在が登場する。「それ」はただ歩きながら近づいてくる。単にそれだけなのだが、それらは「死」の象徴であり、その要因は「セックス」にあるのだ。ポイントは「死という観念」である。「死」を思わせるなにかが、ただ「こちらに近づいてくる」のが怖いという映画なのだが、言葉で説明するのは難しい。それは悪夢の感触に似て、目覚めたあと他人に話しても、まったく伝えられないのと似ている。相手の表情に「恐怖」が浮かんでいないのである。「ああなって、こうなって」というようなストーリーラインはここであまり関係はない。悪夢のなかの「あの雰囲気」。それが真に迫って「恐ろしかった」のだが。『イット・フォローズ』はあえて言えば「そういう」雰囲気を持つホラー映画なのである。「恐怖感」というより「不安感」といったほうニュアンスが近いかもしれないが、この映像は若者に特有の漠とした孤立感をよく捉えている。自らがいまだ不確かな存在でしかないことからくる孤立感。これに押しつぶされて人生を終えてしまうことも稀なことではない。

   

 ジョン・アーヴィングに『ガープの世界』という小説がある。ホラーではないが「死」が蔓延する世界が描かれる。登場人物たちに襲い掛かる「死」は、質、量ともに『イット・フォローズ』をはるかに超え、子供だましに見せる。この本で人々を死に追いやる要因は「暴力」「事故」そして「病い」である。ホラーでなくむしろユーモラスなの小説だが、そのことがかえって強力なリアリティを生む。次々に不条理な死が描かれていき、死が山積みの状態になるが、この状況を生き延び、ついに心の平和を得たころには「老い」という名の病いに襲われ、あっけなく死んでしまう。アーヴィング的な人生観。主人公のひとりに型破りな看護婦が登場し、彼女が言うように、人間はみな漏れなく「死という病」を患っている。世に生まれ落ちた瞬間に作動を始めた時限爆弾を抱えながら右往左往し、そして死んでいく。かように「生きる」とはイコールで「死に向かう」ことと同義なのだ。
 主人公ガープは、第二次大戦中に死にかけた兵士を犯して孕んだ看護婦が生んだ子供である。この本には死と同じくらい多様な性とセックスが描かれるのだが、性と死は分かちがたく結びついている。
 人はその成長過程で擬似的な「死」をいくつか経験するが、そのひとつは「眠り」である。誰もが一度くらい「眠ったまま二度と起きなかったとしたら」と考えてみる。日々の眠りは死の予行演習であり、明日よりよく生きるべく「眠る=死ぬる」のである。次に「病い」がある。風邪で高熱を出して意識が遠のくと肉体から魂が遊離していくような感覚にとらわれることがある。病いもまた死の予行演習であり、病いが完治すると毒素が抜けて以前にも増してサッパリするのもそのためである(ときに失敗するとそのまま死ぬ)。さらに「セックス」がある。セックスの目的のひとつは生殖だが、そこにはセックスでしか得られない快楽が伴うため、それだけを目的として人はその行為を求める。性的快楽の絶頂が死を思わせる感覚を呼び起こすことは大人なら身を持って経験している。絶頂で死に近づき解き放たれる快感を知った者たちは、繰り返しそれを求めるようになるが、快楽重視のセックスに付きまとう不安と危険がある。妊娠し、もしも産むつもりがなければ堕胎しかない。それは命の死を意味するから避妊を考えるが、しかし避妊も突き詰めれば命の種の死を伴うものである。男性はマスターベーションで精子を殺すことに慣れているよるようなところがあるが、それもまた「死の予行演習」のひとつだろう。人の肉体は日々さまざまな生と死の繰り返しのなかにあり、子供のときの「肝試し」や「探検」、「いじめ」や「殴り合い」、「大怪我」それに「近親者の死」など、さまざまなかたちで「死の擬似的体験」もしくは「死に至るための通過儀礼」が、人生のそここには用意されているのだ。そして「恐怖小説」を読んだり「ホラー映画」を観ることもまたそんな「死のレッスン」のひとつなのである。言い換えてみれば「死に至る通過儀礼」なのである。

   

 ホラー映画『イット・フォローズ』で若者たちのもとへ「死」を運んでくるのは「セックス」だ。思春期の若者が感じる孤独と不安がセックスを求め、そのまま「死」へと直結してしまう恐怖の底には罪の意識がある。いまだ大人の保護下にあり、監視されている彼らにとって、セックスは「大人からの解放」と結びついている。彼らはいまだ真の「恍惚」は知らないかもしれないが、そこに「死」の匂いを嗅ぎ取るからこそ、いわれのない罪の意識を感じる。ここから恐怖が生まれるのだが、気になるのは本作の背景にある宗教観である。しかしそこには踏み込まない。映画は宗教を超えているし、宗教もまた突き詰めれば普遍的な性格を帯びるものだからだ。
 子供と大人を対立軸に置いたセックスはある種の背徳性を帯びる。セックスが大人の保護からの開放を錯覚させ、その開放感がセックスをより求めさせる。人間は、普段、他者の裸体に触れる機会を持たないものである。「触れない」ということは「触れられない」ということでもあり、それ自体が存在の孤立なのである。多くの人は、どこかの誰かに恋愛感情を抱き、それを伝え、了解を得ることで相手の裸体に触れる禁を破ることが許される。他者との肉体的な結びつきがひととき孤独を忘れさせるが、普段、誰にも触れることなく触れられることもない「皮膚」は敏感であり、触れ合うことで強い喜びを覚える。その喜びは「生きている」実感であり陶酔感につながるが、やがて快感が絶頂に至ると「死に近づくことの」の恍惚へと変わる。しかし、絶頂の瞬間はやはり孤独である。死ぬときは誰も一人ぼっちでなのだ。脳がしびれ、純粋に肉体的な存在になると、すべてが溶け出し、消えていくような感覚に陥る。「死の予行演習」である。

 

 セックスの喜びを知ったばかりの若者は――通常どのくらいか知らないが――15から19年近く孤立してきた肉体を他者と結びつけ、生きる実感を得ることに夢中になる。『イット・フォローズ』は「セックス」がイコールで「死」と結びつく恐怖を描いている。セックスは「生死の分別」から解き放つ麻薬だが、ここでは無防備な若者の他者を求める心が「死」を撒き散らすことになるのだが、別に性病のメタファーというわけでもないだろう。『ハロウィン』などと異なるのは主人公が処女でない点である。主人公の少女は性的に開放されているが、ことさら潔癖でも奔放でもなく、セックスが先行し、恋や愛の感情があとから付いてくる状態であるかもしれない。彼女らが性的に潔癖でないぶん「それ」が「うつる」可能性が高くなるが、不潔さはなく、むしろ清潔なのは、その根に他者との触れあいを求める気持ちが感じられるからだ。セックスの描写に扇情性がなく、会話や食事もしくは睡眠の延長のようにスケッチされるのが新鮮だが、映画の仕掛けどころもここにある。カジュアルなセックスが「死」を「うつし合う」状況を誘発し、恐怖に怯え肩を寄せ合い助け合えば合うほどセックスの機会が増えてしまう。また、舞台となるデトロイトの町並みがシネマスコープの画面に印象的に描かれ、若者の心身を包囲して蝕んでいる。ここでは、町そのものが「死」の象徴なのであり、若者たちを孤立させる装置ともなっている。また大人の気配がなく、それが映画全体に「夢の性格」を付与している。若者らは無気力であり、熱情を伴わぬセックスの氾濫が、彼らをより弱い存在にしているともいえる。彼らはセックスによって生死の境をさまようことになるが、生か死のいずれかを選ぶことはできない。両側をまたぎ死とともに生きていくほかはないのだ。

 

 劇中に何度か登場するプールは、彼らがいまだ羊水に浸かる子供であることを示唆するが、いずれ出なければならないが、彼らを取り囲む死に体のボストンから抜け出すこともできない。受け入れなければ死ぬ。浜辺で死んだ少女のように。もっとも『イット・フォローズ』はホラーだから『スターウォーズ』のごとく「愛と連帯」が「悪と弱気」に打ち勝つ可能性は低い。純粋が死に追われ、敗北の危機に瀕してこそホラーだ。これは「セックス」を通じて「死」と出会ってしまった現代アメリカの若者たちの通過儀礼でありサバイバルのドラマなのである。
 『イット・フォローズ』は「死」を「克服されるべきもの」でも「克服できないもの」でもなく「受け入れるべきもの」として描いているように思える。それは正論であり、非常に教育的だと思うが、映画は正論や理知でおもしろくなるわけでもない。『イット・フォローズ』でユニークなのはホラーにしては身体性に欠けている点である。観念的かつ知的に構成されている本作はまるで肝心要の「本能」をどこかへ置き忘れているかのようだ。黒沢清の『回路』に描かれた「死の蔓延」と「愛と友情」を思わせなくもないが、あちらのほうがスケールが大きかったし、死の観念にもより膨らみがあったように思える。が、視覚的には『イット・フォローズ』のほうがはるかに好みなのである。

   

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