真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

『ホフマニアーナ』――アンドレイ・タルコフスキーが残した「幻視の鏡」

2016-03-09 | 映画の本
   

「あなたも経験あるでしょう――少なくとも夢の中では――どんなことも起こり得るし、何を望んでも、すべてはきっと実現するはずだという確信を感じる経験が。その感覚が本当かどうか確かめようと決心すれば、それは本当に実現するのよ」
「夢の中でならね」
「夢だって現実と同じぐらい現実ではないかしら」
(本書からの抜粋)

 タルコフスキー監督が19世紀初頭ドイツの幻想作家E.T,A,ホフマンをモデルにした映画の構想を立てたのは、1974年。75年に脚本の執筆を開始し、難航の末に書き上げたが、ソ連の国家映画委員会によって阻まれてしまう。しかし、83年にドイツから映画化の依頼を受けると、亡命を決意していたタルコフスキーは、86年からの撮影開始を予定していたが、病に倒れ、遂に「幻の企画」となった。

 『ホフマニーナ』(エクリ)はその脚本の翻訳である。主人公はホフマンその人で、彼の小説をベースにした設定や人生に関わる実在人物が多く登場してくる。が、同時にここでホフマンはタルコフスキーの分身である。ホフマンが生み出す奇怪なイメージにタルコフスキーが自らのそれを重ね見ているというより、まさしく分身であって、眼前にいま一人の自分を見つめながら、さらにその姿を見つめている、また別の自分がいる、という感じなのだ。タルコフスキーはその作中で、水や鏡にこだわり、その「反映」に人間の意識――夢、白昼夢、記憶、幻想――流し込み、ある種の無重力状態を生み出してきたが、「分身」は「反映」のバリエーションであり、『ホフマニアーナ』での場合、鏡の頻出が「生と死」、「現実と幻想」、そして「ホフマンとタルコフスキー」を照らし合い、境界を溶かし、融合させて、それ自体でひとつの「意識体」を形成している。

 そんな本書は、いわゆる「脚本」というより「小説体の脚本」であり、映像化を前提にした文学の趣を持つ。それゆえ固有名詞などに捉えづらい部分もあるが、丁寧な註と解説が付記されているから困らない。ならば、ホフマンの著作や史実に足を取られることなく、タルコフスキーが撮ったろう「現実と同じくらい現実」的な「夢の映画」を幻視することこそファンの「たしなみ方」というものだろう。
 二度と叶わぬ新作を読む者の脳裏に浮かび上がらせる「幻視の鏡」たる『ホフマニアーナ』は、翻訳の前田和泉、挿画の山下陽子、デザインの須山悠里の手になる仕事であり、その佇まいの幻想美もまた、特筆に価する。

(「キネマ旬報」2016年1月下旬号より/渡部幻)

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ミシェル・マリの『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』~~時代を紐解き、目から鱗を落とす語りの力

2014-12-09 | 映画の本
   

 ヌーヴェル・ヴァーグ――その内実を理解するより先に口にしてきたし、されてもきた言葉である。それはすでに50年以上も前の歴史であり、しかも世代と強く関わるため、後追い世代が、その「全体像」を把握することが困難なのは、時の薬になめされて細部が整理されてしまうからである。

 個人的にそれは「両親世代」に属する「文化現象」としてある。たとえば、母親は『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール/1960年日本公開)を17歳の頃に「映画館」で観て、「こんな映画を待っていたんだ」と感じたという。ここには世代ならではの感慨と興奮があるが、劇場内の様相はそれとまた異なるものだった。閑散として中年男ばかりなのが奇妙だったが、突然、映画の上映前に「本物のストリップ・ショウ」が始まったのである。母親と友人は、行き先を間違えたのだと思い、そのまま固まって動けなくなったが、「ショウ」が終わると無事に「映画」が始まったのであった。勿論、日本でのお話であり、いまなら到底考えがたい環境であり状況ではあるが、映画もまた人と同じく環境の生き物なのであり、ことに街と結びついていた時代の映画は、そうした環境とともに脈打ち、その鼓動で観る者をも揺さぶり、ときに「時代の象徴」になることもあった。
 ヌーヴェル・ヴァーグという映画運動体もまた、個々の作品や作家に対してという以上に、ひとつの時代を指した言葉であり、象徴なのである。仮にDVDなどのソフト環境の整備が、すでに映画を「時の枷」から解き放っているとしても、映画=映像というものがそもそも備える記録的な資質が変わることはない。

 そこで本書『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』(矢橋透訳/水声社)の登場である。著者ミシェル・マリは1945年生まれ。やはり思春期にその洗礼を受けた世代に間違いない。ミシェルは約半世紀の「全体像」を捉え返す試みとしての本書の性格を、次のように位置づけている。「経済的技術的背景の分析を優先し、テーマ的文体的要素にはより限定された場しか与えなかった」「ここではむしろ、ひとつの運動の長所と弱点を含みこんだ全体的総括が提示されようとしている」のだと。当然、項目は多岐にわたり、個々の作家、海外への影響、現代への継承なども視野に収められる。

 詳しい人には知った内容かも知れないが、ミシェルは「経済的技術的」な「語りの力」で読む者の目から鱗を落としてくれる。とかく「テーマ的文体的」に偏りがちな「ヌーヴェル・ヴァーグ」観を心地よく裏切る、その感触は、多くの理論書や評論本の類いよりもむしろ「ヌーヴェル・ヴァーグ映画」そのものに近い。あの『勝手にしやがれ』や『大人は判ってくれない』のようにリアルで、軽やかなスピード感があり、簡潔かつ具体的で、コクがあり、情熱もたっぷり。水玉模様の装丁、280ページほどのコンパクトな本だが、その中身は驚くほど濃いのである。

(「キネマ旬報」2014年5月下旬号/渡部幻)

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