真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

アルトマン『バード★シット」』のリバイバル上映 これを観ないとカルトは語れない!

2010-06-28 | ロバート・アルトマン


 ロバート・アルトマンの『バード★シット』とハル・アシュビーの『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』が新宿武蔵野館でリバイバル上映される。こんな日がいつかやって来ると信じてどれほど待ち望んだだろうか。

 『バード★シット』は異色作揃いの70年代アメリカ映画のなかでもひときわ異色なロバート・アルトマンの代表作である。知る人ぞ知るカルト・ムービーなのだ。主演はバット・コートとシェリー・デヴァル、アメリカを脱出して空を自由に飛び回ろうとする少年のブラック・コメディである。
 映画は冒頭から珍妙。変な鳥類学者(ルネ・オーベルジョノア)が登場し、生徒(観客)に向かって講義を始める。

 「鳥は空を飛び、人も空を飛ぶ。人は鳥に近く、鳥は人に近い。これがテーマだ。これから約一時間論じるつもりだが結論は出すまい。さもなくば興味は色あせ、残り少ない夢が、また一つ消えることになる。ドイツの詩人ゲーテの言葉を引こう。彼は空への憧れをこう表現した。“無限の空間に身を投げ出し奈落の上を漂いたい”。人間は最も進化した生き物だが、重力にとらわれて鳥のようには飛べない。空を飛びたいという欲求は昔から人間の中にあった。だが夢の実現は遠い。人間は本当に夢を理解しているのか。まず夢の正体をはっきりさせよう。空を飛ぶことが夢なのか。空を飛ぶことで自由を獲得することが夢なのか?

 ここでアルトマン映画の重要テーマたる「夢」について言及される。アルトマンの作品にはよく「夢」や「幻想」などが描かれる。それは大抵、人物が自らの中で飼いならしている妄執に過ぎないが、それを育ませる国家、政治もしくは文化の正体を見定め、笑殺しながら、他ならぬ彼自身の「夢や幻想」をも突き放して「異化」してしまう。『バード★シット』はオープニングでこれは「そういう」映画なのだと宣言しているわけだ。
 教授は講義を次のように締めくくる。

 「人間は深刻な環境破壊で鳥たちの生命を脅かし、鳥は糞尿によって人間を悩ませる。いずれ広大な保護施設を建設する必要があるだろう。人間と鳥の両方を守るためだ。それでも状況次第で、人間が鳥を受け入れるか排除するかは変わるだろう
 
 アルトマンはテキサス州ヒューストンにあるアストロドームの外観を映し出し、続いて、高台にのった星条旗色のドレスに身を包んだ中年女性が、黒人たちのバックバンドを前に「音程のずれた」国家を歌っている。ヒューストンは宇宙開発のメッカ、つまり人類の飛翔の夢の行き着いた場所である。主人公のブリュースター・マクロードはここのアストロドームの一室に隠れて「巨大な翼」をつくっているのだ。 

 


 僕が本作の存在を知ったのは小学5年生のころ。母に友人夫婦宅に連れられて旦那さんから教えられたのであった。映画と音楽が好きなデザイナーの旦那さんは遊びに行くといつも様々な映画のレーザーディスク(LD)やビデオ(ベータ)を見せてくれたが、この日はパンフレットのコレクションも見せてくれた。その中からひとつ取りだし指し示したのが『バード★シット』だったのだ。タイトルは古い映画雑誌で知っていたが詳しくは知らない。だが、一目見てそのビジュアルに惹かれた。パンフの表紙には丸めがねにラガーシャツの少年が羽をつけて飛んでいて、背景に女性の豊満なバストがあしらわれていた。僕の食い入るような様子に旦那さんは微笑み、こう話し出した。「“バード・シット”は“鳥の糞”という意味。鳥のように飛びたい少年が出てくる。それを邪魔する人が出てくるたびに全員殺されてしまう。するとその死体の上に鳥の糞が落っこちてくる。これがとにかく可笑しくてしょうがない」。ニコニコしながら台所にいる奥さんに向かって「なあ、そうだよな?」と声をかける。奥さんは「でも、アルトマンってちょっと怖いじゃない。頭がヘンみたい」。旦那さんは無視して僕に聞いた「これ欲しいかい?」。うなずくともったいをつけた表情で「う~ん、でもなあ、これは大切にしてるからなあ。そうだ、代わりにこれをあげるよ」と言って、なぜか、ロバート・アルドリッチの『ハッスル』をくれたのだった。

 


 それからずっと『バード★シット』が気になって仕方なかった。これを見ないと「映画ファンといえないのじゃないか?」――そう思いつめていたが、名画座にかからず、ビデオ発売もなかった。そして数年経ったある日、当時付き合っていた彼女から「あのパンフレット」をプレゼントされたのである。「作品解説」には次のように説明する。

 「これは、『マッシュ』のロバート・アルトマン監督が、もちまえの奇才ぶりを思う存分に発揮し、「最も独創的で、型破りで、しかも不思議な魅力を持ち、何よりも大いに楽しめる」と評されている作品である。ストーリーはむしろ簡単である。鳥のように自分の力で飛翔したい一心から、ヒューストンの屋内野球場の地下の一室に巣食って、翼を作り、腕の筋肉を鍛錬する一方、その目的の邪魔になる人物を次々に消してゆく話である。だが、この話の軸が回転するにつれ、人間や人間社会への諷刺、ユーモア、パロディ、皮肉、幻想的な狂気、無法、笑い、セックス、アクションなどが、まるで期間銃弾のようにバラバラバラバラはじき出される。ほんとに普通のコメディ1ダース分たっぷりの材料だ! 初めは、あまり考えすぎないように、しばらくの間は、映画に慣れるだけ、それからは自分の好きなように見るとよい。ある批評家がこう言っているが、今までに見たこともないような新しい、楽しい映画である。

   

 同様にプレゼントされた公開時のチラシには「海外での批評」が並ぶ。

 最高に創意に富み、破壊的で無法、不思議な魅力を持つ、スリリングなコメディ。――ニューズデイ
 想像力の勝利。1930年代の素晴らしい型破りのコメディ以来、最も自由で、荒々しく、こっけいな、現代社会の批判だ。――ニューズウィーク


 見たい。しかしどうすることもできない。『ザ・プレイヤー』で復活する以前のことで「アルトマン」は忘れられたも同然の存在だった。彼は80年の『ポパイ』でハリウッドから干されていて以降フランスのパリに渡り、細々と映画を作り続けていた。日本でも数本の作品が公開されているが、話題にならなかった。そもそも日本ではむかしからマイナーな監督だったからビデオ化のニーズがなかったのである(「実は」好きだったと「通たち」が騒ぎ出すのはあとのことだ)。


 1972年公開時の「映画批評」誌に評論家の由良君美氏が『バード★シット』論を寄稿している。
 ここで由良は一風変わった形式――「仮想対談形式」を採用して、本作の原題『Brewster McCloud』の意味について「仮想の生徒」に説明する。

A 原題はBrewster McCloudというのね、主人公の男の子の名前。邦題がBird★sht。
B そうだった。BrewsterというのはBrew-starの謎語だろうから、<星を醸成する者>ということかな。McCloudの<マック>というのは諷刺の常套でね……。
A あ、それでドライデンの「マック・フレクノー」なんかのことを、ひきあいにだしたのね?
B ハハ、見抜かれたか。そうなんだ。<マック>はね、<子供><息子><二世><二番煎じ><一代目に及ばざる者>の接頭語なんだ。人名によくあるが、諷刺のときにはこの意味で使って、棚おろしをやるわけさ。だから、<マック・クラウド>は<雲に及ばざる者>ということになる。とうとう鳥になれなかった男の子だから。





 僕が「ついに」見たのは90年代の中頃。アメリカでノートリミング版のLDが発売されたのだ。かつて渋谷に「ディスク&ギャラリー」という輸入レーザーディスク専門店があったのだが、そこで「発見」したときの興奮たるや忘れがたいものがある。
 家に帰ると着替える間も惜しんでデッキに挿入。それは噂に違わぬ超異色の映画だった。この作品と同じ1971年には寺山修司監督の『書を捨てよ町へ出よう』がある。これにも「人力飛行機で飛ぼうとする男」が登場し、『バード★シット』との共通に思いを馳せたが、しかし、寺山演出が「前衛演劇的」なのに比べ、アルトマンのそれは「B級映画的」でカラフルなおもちゃ箱をひっくり返したかのようなポップアートだった。LDの「画質」には不満が残ったが、欲を出してはいけない。見れただけで大した進歩なのである(「MGM/UA」のソフトはいつも画質が荒かったのだ)。
 ただ、これは劇場の大きなスクリーンで見たくなるような作品である。アメリカ国旗を想起させる原色の洪水、ロングショットを活かした構図と「外し」の美学、アルトマンのクレイジーな想像力が横溢する世界観を十分に堪能にすためには、家のテレビモニターではいかにも小さく、発色もいまひとつだったのである。


 2007年。ロバート・アルトマンが逝った。この年「ぴあフィルムフェスティヴァル」がアルトマンの「レトロスペクティブ」を開催。このとき、僕は遂に「本物」と出会ったのである。開催地は渋谷の東邦生命ビル内にある渋谷東急。ここの大きなスクリーンに展開するシネマスコープ、映像空間を乱れ飛ぶ原色、ぶつ切りのサウンドトラックとブラックユーモアが「アメリカの夢」を異化していくさまのエネルギーは圧巻である。アルトマンは「現代アメリカ」における「自由の失墜」を笑いのめし、そして嘆いていた。僕は我を忘れて食い入るように見ていたが、やがて伝説的なクライマックス――サーカス・エンディング――を迎えていく。すべてを失い孤独のなかで少年は翼を背負うとついに飛びたつ。だが、そこは屋根つきのアメリカ、あの「アストロドーム」の中でしかないのだ。
 冒頭の教授のあらぶる声が重なる。

 「人間のどん欲な心は欠陥のある体に追い立てられて洗練された機械を生み出すだろう。だが決して自由に飛ぶことはできまい。鳥は何百年もの長い年月をかけて空を飛ぶために自らの体を進化させてきたのだ!クワァー!

 やがて落下していくときの「叫び声」が耳を離れない。これはいわゆる同時代のニューシネマが描いた自由に対する明らかな当てこすりだったが、その「冷たさ」が「心地いい」のだ。アルトマン演出は冷酷かつ滑稽だが、同時に、ひどく切なくて心優しいのである。

 


 ブルースターに彼を「守護する者であるルイーズは問いかける。

ルイーズ 「考えたことない?
ブルースター 「何を?
ルイーズ 「女の子とかセックスよ
ブルースター「ホープと話したの? 彼女にも同じことを聞かれた

 ルイーズ(サリー・ケラーマン)は彼を子供のように風呂に入れてやる。彼女は鳥の化身であり、ブルースターの純粋を汚す「メス」としてのホープ(シェリー・デュヴァル)を警戒している。

ブルーター「なぜホープの話を?
ルイーズ 「あなたを巻き込んでる
ブルースター 「何に
ルイーズ 「セックス
ブルースター 「ホープが言ったの?
ルイーズ 「あの子は命令に従う。自由を知らない。可能性も考えない……セックスが一番近いの」
ブルースター 「飛ぶことに
ルイーズ 「そう飛ぶことにね
ブルースター 「飛べばいい
ルイーズ 「最初は飛びたがるわ。でも変わるのよ。どんどん地上に近づき、セックスで満足する。そして仲間を増やすのよ。誘惑されないで。あなたは仕事に集中するの
ブルースター 「君の助けが必要だ
ルイーズ 「私はつねにそばにいる。あなたが飛び立つまでね

 彼女は微笑み、そして子守唄を歌いはじめる。
 お眠り 赤ちゃん 木のてっぺんで
 風が吹けばゆりかごが揺れる
 枝が折れれば ゆりかごが落ちる
 赤ちゃんは地面にまっさかさま
 ゆりかごもろとも
 ……落ちる


(渡部幻)

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モデル・Natalia Vodianovaの“白いゴースト”

2010-06-25 | ファッション写真


「Vouge China」2010Mayに掲載。
写真家はPatrick Demarchelier、モデルはNatalia Vodianova。
ナタリアがいつもとは違う表情。なんとなく中国風で夢遊病的な風情で佇む。




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モデルASHLEY SMITHと写真家CHRISTOPHE RIHETのセクシーなフォトモンタージュ

2010-06-22 | ファッション写真



「TANK」誌2010/SUMMERより。
モデルはASHLEY SMITH。写真家はCHRISTPHE RIHET。

金髪の黄と白い肌の幻想写真。
女らしい脂肪と筋肉のバランスのが縁取るのは黒。
赤いドレスのスカートさばきと静止した「舞い」。
バストの豊満を際立たせるカルバン・クライン。
唇から覗くすいた歯。縦に影が入る腹筋に官能。

ASHLEY SMITHのストリップ演技をサイレントのスローモーションの如く捉える。。
CHRISTPHE RIHETはやや陳腐ともいえるモンタージュを駆使し、
情熱的でかつクールなフォト・ダンスステージに仕上げて、なかなか。



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ギイ・ブルダンのポップかつシュールな暴力と死のファッション・ワールド

2010-06-19 | ファッション写真




天才ギイ・ブルダンの写真は真のオリジナルだ。マグリットやブニュエル、それにゴダールと同様、革新的で挑発的なファッション写真家である。60~70年代に活躍した彼の写真は当時さぞや衝撃的だったろう。のちのヘルムート・ニュートンやスティーブン・マイゼル、マイルス・アルドリッジなど影響下にあるものは多いが、「いまの目」で見ても強烈で独特な世界観が拡がっている。ド派手で人工的な原色、超現実的な構図、ブラックなユーモア……クールな死臭漂うブルダン・ワールド。『ブルー・ベルベット』のリンチも影響を受けているかもしれない。いまの日本でどれくらい認知されているのか知らないが、これからもさまざまな分野のアーティストに霊感を与えると思う。




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ギイ・ブルダンの冴えまくる構図感覚。「フレーム」内「フレーム」に凍結された世界

2010-06-19 | ファッション写真




「構図」は作者にとって「世界」そのものである。揺れた構図、柔らかな構図、曖昧な構図、動きのある構図、構図からはみ出ている構図などさまざまだが、ギイ・ブルダンのは鋭い構図だ。人と色の配置に隙がなく、才気走って、剃刀のように冷めた官能的がある。





ブルダンが、「構図」のなかに「もう一つの構図」を侵入させ、シャッターを切った瞬間、
「世界」は「世界のパロディ」となり、「エロス」は「エロスのパロディ」となるのである。
写真とは元々は動いているはずの人物や風景を止めること、窒息させる営みである。ブルダンの写真は、まるで冷凍保存され、着色された人工物である。SF映画のなかで時間が止まった瞬間のように、活き活きとしてユーモラスに凝固している。ブルダンのいじわるなエロスの眼差しが捉えた「孤独な女たち」には奇妙な活力に溢れ、不気味で、ひょうきんなのだが、何故だか、ほんのちょっと寂しさを感じさせるのだ。
(渡部幻)










 

コメント (1)
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ギイ・ブルダンのエロティシズムへのクールな距離感

2010-06-19 | ファッション写真









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天才写真家・ギイ・ブルダンの少女たち

2010-06-17 | ファッション写真




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コッポラ&ギャロの新作「TETRO」はいつ見れるんだろう

2010-06-12 | ロードショー









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「連続写真」は、かつて、そこに人が生きていたことを知らせてくれる

2010-06-06 | 写真


「連続写真」。たまたま見つけたもので、何の写真かは知らない。古い写真をあしらった、古い雑誌かレコード・ジャケットだろうか。写っている男女が、なんとなく照れくさそうに見えて、特に女性がはにかみんでみえて、そこがいい。

肉体表現の一連の動きの流れを分割してみせる連続写真は、実際のところ“生命の輪切り”または“はにかみの輪切り”である。「人体の不思議展」などにあるような“肉体の輪切り”と同じなのだ。そこに写っているそれぞれの“瞬間”は、シャッターが切られるごとに、生命が細切れにされた瞬間であるだろう。そこに写っているのは“もうこの世に存在しなくなった魂の入れ物”としての人の思い出でしかないのである。

写真は、仮にそれがどんなにイキイキと見えても、常に“死”を写し取っている。写っているのは、印画紙の上でペッタンコにされて、息の根を止められた魂の抜け殻としての肉体や風景な訳だ。
写真は、何かの現象を静止させることによって、すべての生き物がいつか死ぬことを思い出させてくれる“非情の装置”だ。
特に、「連続写真」はその目的が、動きの表現(研究)にあるからこそ、逆説的に“動いていない”ことを伝え、それぞれに分割された瞬間とその行間から“二度と戻らない何か”感じさせる。

動きを撮ることを目的とする連続写真は、カメラマンの写真を支配しようという意識と力が弱くなるせいで、写真は写真そのものとして生きはじめ、特に生き物に対して、その非情さと悪意をむき出しにするようだ。彼女や彼が生きていようが死んでいようが知ったことではない。写真はただ無表情に“死”を写しだしてゆく。

女性から伝わってくる“はにかみ”。この“はにかみ”は“彼女の魂”に由来し、肉体に反映されたものである。連続写真は、その“はにかみ=魂”が、もう二度と戻ることのない過去だということを伝え、郷愁を誘う。彼女に対して、なにか現実的な思い出があるわけでもないのに郷愁の情を誘われるのは、写真が持つ魔法の力というよりは、あまりの写真の非情さゆえに感傷的になるからである。僕は写真が生命を閉じ込めることのできる装置だとは、どうしても思えないのだった。

“はにかみ”を感じ、“人の魂”を感じとるのは、まだ生きている僕の感傷から生まれた空想に過ぎないだろう。写真の“非情”は、見るものから“感傷”を引きだす。

また、“写真=死”は、逆説的に“かつて、そこに人が生きていた”ことを知らせてくれる。
写真は非情にも、鑑賞者が感じるだろう“情”を、予測して待ち受けているような節が感じられる。
だが、もしかするとそこにこそ“写真の非情”に秘められた“情”があるのかもしれない。

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イエジー・スコリモフスキーの「ザ・シャウト/さまよえる幻響」は“異様すぎる”映画だった

2010-06-05 | 映画作家
 


 イエジー・スコリモフスキーの『ザ・シャウト/さまよえる幻響』(78)はまこと異常な感性を感じさせる映画だ。久方こういう面妖な作品を観ることで映画というものの底知れなさに感じ入った。ポーランド出身のスコリモフスキーがイギリスで撮った1978年の作品だが、カンヌ映画祭で審査員賞を獲得。これは一見、一聴の価値がある超異色作なのである。(タイトルをクリックすると予告編へ)

 ここにとある夫婦がいる。扮するのはジョン・ハートとスザンナ・ヨークだ。もうこれだけで異常さが保証されているようなものだが、一見まともを装い登場してくる。ハートは前衛的な音楽家で、虫をグラスの中に入れてマイクを突っ込みその羽音を聴いたり録音したりしている。普段は教会でオルガン弾きをしており、その帰り道に靴屋の女房と浮気するのが習慣になっている。妻のヨークは女の直感らしきもので夫の浮気に気づいているが、特にそれで気に病むような様子はない。
 ある教会からの帰り道にハートは謎の男と出会う。髪はモジャモジャで口髭を蓄え、逞しく脂ぎった男。おおよそハートとは間逆のロングコートを着た男を演じるはアラン・ベイツ。いよいよ怪しげな顔ぶれである。
 ベイツは夫婦の家に転がり込み自らの過去を語り始める。オーストラリアでアボリジニと過ごしてきたこと、そこで産まれた自分の赤子を殺したこと、魂の輪廻について……そして加えて、自分は人間を確実に殺せる「叫び」の持ち主だと言うのだ。ハートはあまりの突飛な話に疑問を持つが、「音」への強い関心から、その「叫び」を聴いてみたいと申し出る。が、聴いたら死ぬぞと釘を刺されてしまう。結局、人気のない砂浜に赴き、そこでハートは「叫び」を聴く。ハートは実は秘かに耳栓をしていたが、にも関わらず、あまりの凄まじさゆえに気絶してしまう。一方でベイツは人妻のヨークに「肉欲の魔術」をかけており、彼女はベイツとのセックスの虜となる。その結果、家のあるじはベイツになった。





 『シャウト』は実は回想形式で語られている。回想の主はアラン・ベイツで、彼の他人には計り知れない苦悩がドラマのベースになっている。しかしあまりにも計り知れな過ぎてよく分からないのである。ベイツの回想で進むのだから彼が主人公なのかと思いきや、冒頭と最後を締めくくる映像の主はヨークなのだ。回想から一転、物語が動き出せばハートの主観的な視点が中心になることもある。ということはつまり「もう一人の主役」がいるに違いないと想いながら観ていた。謎めきすぎて難解だが、しかしそれでも観る者は『シャウト』から目を離せない。
 スコモリフスキーは、この神秘的かつ幻想的で禍々しくもリアリスティックな人間関係を淡々と進めていく。これと近い雰囲気があるのは、ニコラス・ローグの『赤い影』(73)、ロマン・ポランスキーの『テナント』(76)、ロバート・アルトマンの『イメージズ』(72)あたりだろうが、スコリモフスキー演出はそれらよりもっと骨太である。ハロルド・ピンターの不条理劇を映画化したジョセフ・ロージーの『召使』(63)やウィリアム・フリードキンの『誕生パーティー』を連想させもするが、よりオカルト的な不可解さがある。いずれも現代では見られない「異常な映画」だと思うが、『ザ・シャウト』が飛び抜けて異常だとすれば、それはやはり、あの「叫び」の凄まじさゆえのことだ。とても文章では表現できないが、まさに「爆音」であり、驚異の音圧で空気が歪み、近場に居たすべての動物や人間が死んでしまうのだ。叫びをあげるベイツの口を見ているとそれはもはや「怪物」としか形容できない。





 70年代に活躍したイギリス俳優のなかでアラン・ベイツとオリバー・リードは濃すぎるセックスアピールの魔王ぶりで印象に強烈である。全身を構成するすべてが肉厚で性豪のごとき容貌のいやらしさが子供のころに恐ろしく、吐き気を催したほどだが、いまあらためて見てもやはり凄まじい個性だ。その監督版ともいえるケン・ラッセルの『恋する女たち』(69)で二人は共演。全裸レスリングを展開する場面の異様さはまさにトラウマ級だ。ムチムチと脂肪のついた筋肉を汗で光らせた男二人のくんづほぐれつに、子供の僕は目をそむける思いだったものである。同じラッセルの悪夢のような『肉体の悪魔』(71)でせむしの尼僧を欲情させる絶倫司祭役もリード。その異様なカリスマ性にもただならぬものを感じたが、『シャウト』でのベイツはこれに拮抗する怪演ぶりだといえる。なぜかまつげの長い目元の妖気と哀感でリードが数歩リードしていると考えてきたが、ベイツには「シャウト」という必殺芸があったのである。
 ジョン・ハートはいっけん対照的な草食系の病み上がり男という感じだが、いっけん気の弱そうな瞳に、ときおり宿る狂気にも特有の薄気味の悪さがある。ことに自作の音楽をベイツに非難されたあと披露するヒステリーぶりは絶品。アラン・パーカーの『ミッドナイト・エクスプレス』(78)とスティーブン・フリアーズの『殺し屋たちの挽歌』(84)に匹敵する名芝居である。
 スザンナ・ヨークは恐れるもののない女優である。ロバート・アルドリッチのやはり濃すぎるレズビアンドラマ『甘い抱擁』(68)や、シドニー・ポラックの『ひとりぼっちの青春』(69)での気が触れる瞬間の怖さと哀れ。アルトマンの『イメージズ』で演じた狂気の童話作家役でカンヌ国際映画祭の主演女優賞を獲得。自らの作り出したイメージとセックスしては次々と殺していく。『シャウト』もまたヨークの大胆不敵な女優魂が嬉しくなる作品だった。

 イエジー・スコリモフスキーこそ本作のもう一人の主役である。本作を支配する神の視点、つまり4人目の主人公は彼なのである。やはりイギリスで撮った『早春』(70)は衝撃のラストが伝説的な青春映画で、アメリカで撮った『ライトシップ』(85)も一風変わっていたが、去年、新作『アンナと過ごした4日間』(68)を引っさげて健在ぶりを披露。同じポーランド出身のロマン・ポランスキーをより地味に、より難解にした作風は独特のもので、『シャウト』でも異端ぶりを遺憾なく発揮している。



 

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死と暴力と詩「ソナチネ」。新作「アウトレイジ」が楽しみな北野武の名作。

2010-06-03 | 映画作家




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ナタリー・ポートマンが演じたストリッパー。「クローサー」は彼女の最高作。

2010-06-01 | 映画


 マイク・ニコルズの「クローサー」は“ニコルズ的”な作品だった。彼は、「卒業」「愛の狩人」「ウルフ」などで性の混乱をシニカルなブラックユーモアで描いてきたが、『イルカの日』『ワーキング・ガール』『ブルースが聞こえる』など大衆的な作品もあり、『バージニア・ウルフなんか怖くない』『キャッチ22』などアクの強い作品をつくることもある。こちらが本領なのだろうし、『クローサー』もまたこちらに属する作品である。好みは分かれるだろうが、僕は気に入ってる。理由はナタリー・ポートマンにある。ジュリア・ロバーツ、ジュード・ロウ、クライブ・オーウェンら実力派揃いの共演者のなかで、ニコルズは彼女から演技力以上の魅力を引き出した。個人的にこれまでポートマンになにか感じたことがなかったのだが、この作品の役柄は新境地であり、例外であった。どこか固い印象の強い彼女が、ここでは、美少女の憂いと陽性さの共存を実感を込めて体現し、非現実的かつ幻想的で清潔感のあるエロティシズムを披露している。

上はストリッパー役を演じる彼女の幻のヌード・シーン。
下は劇中でクライブ・オーウェンを挑発する謎めいたシーンから。





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