真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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ネタバレなんて、どうってことない。オチを事前に知っても、一向に気にならない。

2016-03-15 | 雑感
 

 町山智浩さんがよく「映画のオチ」を言う言わないについて苦々しく語っている。いわゆる「ネタバレ」のことだが、町山さんは基本「話したからなんだ」のスタンスだと思う。僕自身、先にラストを聞いたからって、どうってことない。聞くのと観るのとでは異なるし、昔の映画雑誌なんて公開前に「シナリオ採録」が掲載されていたのだ。映画の元にはシナリオがあり、そこから実際の「映像作品」がつくられているわけで、シナリオや批評などの「文字」をいくら読んだところで、一向に「映画を観た」ことにならない、というより、なれないのだ。映画はあくまで「観る」ものであり、「読む」でも「聞く」でもないのだから――少なくとも個人的には――仮にミステリーであっても、なんらビクともしないし、気にもならない。
 僕が最初期に読んだ映画本に『エンドマークの向こうにロマンが見える』という高澤瑛一の本があり、名作とされる作品の「ラスト」が物語る感動をスチルつきで解説する本なのだが、これに強く「観る気」を煽られたものである。
 『カサブランカ』『第三の男』『シェーン』『七人の侍』『風と共に去りぬ』『ローマの休日』『望郷』『勝手にしやがれ』『太陽がいっぱい』などの古典のラストなんて基礎知識みたいなもので、すべて事前に知った上で「それは感動しそうだ」と感心したからこそ観たのだし、ラストへと至る過程をドキドキしながら楽しめばよかった。『俺たちに明日はない』『卒業』などのニューシネマなんて、「衝撃」もしくは「感動」の「ラストシーン」が謳い文句になっていたほどで、代表的な作品のほぼすべての「ラスト」を事前に知っていたし、スチルでも見ていたが、「実際の映画」を観ればやはりあらためて衝撃を受けるわけで、それが映画における「描写の力」というものだろう。
 たしかポーリン・ケイルが「ネタバレなんて気にしてるくらいなら映画なんて観るのやめたら」と語っていたと思うが、僕には理解できるし、真っ当な意見と思う。そもそも最近はラストを知ってしまうと困るほどの作品もないと感じているが、新鮮な目で観たいという人の言い分もまた――『マジカルガール』のような例もあるわけだし――よく判るわけで、ケイルほどに強弁しようとは思わないのだが。

 

 

『ホフマニアーナ』――アンドレイ・タルコフスキーが残した「幻視の鏡」

2016-03-09 | 映画の本
   

「あなたも経験あるでしょう――少なくとも夢の中では――どんなことも起こり得るし、何を望んでも、すべてはきっと実現するはずだという確信を感じる経験が。その感覚が本当かどうか確かめようと決心すれば、それは本当に実現するのよ」
「夢の中でならね」
「夢だって現実と同じぐらい現実ではないかしら」
(本書からの抜粋)

 タルコフスキー監督が19世紀初頭ドイツの幻想作家E.T,A,ホフマンをモデルにした映画の構想を立てたのは、1974年。75年に脚本の執筆を開始し、難航の末に書き上げたが、ソ連の国家映画委員会によって阻まれてしまう。しかし、83年にドイツから映画化の依頼を受けると、亡命を決意していたタルコフスキーは、86年からの撮影開始を予定していたが、病に倒れ、遂に「幻の企画」となった。

 『ホフマニーナ』(エクリ)はその脚本の翻訳である。主人公はホフマンその人で、彼の小説をベースにした設定や人生に関わる実在人物が多く登場してくる。が、同時にここでホフマンはタルコフスキーの分身である。ホフマンが生み出す奇怪なイメージにタルコフスキーが自らのそれを重ね見ているというより、まさしく分身であって、眼前にいま一人の自分を見つめながら、さらにその姿を見つめている、また別の自分がいる、という感じなのだ。タルコフスキーはその作中で、水や鏡にこだわり、その「反映」に人間の意識――夢、白昼夢、記憶、幻想――流し込み、ある種の無重力状態を生み出してきたが、「分身」は「反映」のバリエーションであり、『ホフマニアーナ』での場合、鏡の頻出が「生と死」、「現実と幻想」、そして「ホフマンとタルコフスキー」を照らし合い、境界を溶かし、融合させて、それ自体でひとつの「意識体」を形成している。

 そんな本書は、いわゆる「脚本」というより「小説体の脚本」であり、映像化を前提にした文学の趣を持つ。それゆえ固有名詞などに捉えづらい部分もあるが、丁寧な註と解説が付記されているから困らない。ならば、ホフマンの著作や史実に足を取られることなく、タルコフスキーが撮ったろう「現実と同じくらい現実」的な「夢の映画」を幻視することこそファンの「たしなみ方」というものだろう。
 二度と叶わぬ新作を読む者の脳裏に浮かび上がらせる「幻視の鏡」たる『ホフマニアーナ』は、翻訳の前田和泉、挿画の山下陽子、デザインの須山悠里の手になる仕事であり、その佇まいの幻想美もまた、特筆に価する。

(「キネマ旬報」2016年1月下旬号より/渡部幻)