真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

ロバート・アルトマンの問題作『ポパイ』は決して「興行的」な「大失敗作」ではない。

2016-02-24 | ロバート・アルトマン


「でもスタジオはあの映画で金を失くしてはいないんでね。ただ期待したほどのヒットにはならなかったというだけのことで。いまや『ポパイ』は驚異の子守映画になっているよ」(川口敦子訳『ロバート・アルトマン/わが映画、わが人生』キネマ旬報より)

 ロバート・アルトマン自身語るように1980年の問題作『ポパイ』は巷で言われるほど客が入らなかった作品ではない。興行成績ではなくむしろ批評が悪かったのだ。「Mojo」によれば1980年のボックスオフィスで年間の12位($49,823,037)をマークしている。
 ちなみに同年の1位は『スターウォーズ帝国の逆襲』。『ポパイ』とシェリー・デュヴァルが主演したスタンリー・キューブリックの『シャイニング』14位だがから『ポパイ』のほうが上なのである。
 前年の1979年に『スーパーマン』がヒットして「アメコミの映画化」の走りの時代であり、それを受けての『ポパイ』映画化だった。ただこの作品は、撮影地に襲来したハリケーンによりセットが吹っ飛ばされ製作費がかさんだり、パラマウントの大物製作者ロバート・エヴァンズが麻薬スキャンダルを起こしたりでトラブル続きだった。会社としては『帝国の逆襲』並みに当たって欲しかったのだろうが、この数字でみるとおり善戦しているのである。



 ついでに「1980年間ボックスオフィス」から気になるタイトルを抜き出してみよう。4位にザッカー兄弟の『フライングハイ』、5位にクリント・イーストウッドの『ダーティファイター燃えよ鉄拳』、10位にジョン・ランディスの『ブルース・ブラザース』、11位にロバート・レッドフォードのアカデミー作品賞受賞作『普通の人々』、18位に『13日の金曜日』、21位にブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』、25位にデヴィッド・リンチの『エレファント・マン』、27位にマーティン・スコセッシの『レイジング・ブル』、31位にジョン・カーペンターの『ザ・フォッグ』、32位にアラン・パーカーの『フェーム』、33位にロマン・ポランスキーの『テス』、34位にケン・ラッセルの『アルタード・ステーツ』……と錚々たる作品群。このなかで低予算映画ゆえに「化けた」と言えそうなのは『フライングハイ』『13日の金曜日』『殺しのドレス』あたりだろうか。



 ちなみに25位の『エレフェント・マン』は日本では翌年に公開。なんと年間Ⅰ位の大ヒットだった。宣伝の巧妙により大化けに化けたわけだが、『ポパイ』のほうはと言えば、やはり81年の公開で年間興行チャートの40位以内にも入っていない(ゆえに何位なのかもわからない)。『シャイニング』が11位なのと比較して大コケであり、「失敗作」の烙印もこのあたりに理由がありそうだ。
 70年代後半から80年代初頭は超大作作家映画時代で、『ポパイ』のほか、コッポラの『地獄の黙示録』、そのコッポラとルーカスが出資した黒澤明の『影武者』、スピルバーグの『1941』、そして老舗ユナイテッド・アーティスツ社の屋台骨を揺るがした真の興行的大失敗作マイケル・チミノの『天国の門』などがあった。
 そんななか1982年に本国でヒットした超大作がウォーレン・ベイティの『レッズ』。この宣伝で日本に来日したベイティが、「日本は『エレファント・マン』がヒットするような国。僕の映画なんて当たらないだろう」と語っている新聞記事を読んだ記憶があるが、実際予言どおり日本ではまるで客が入らなかった。『レッズ』は1917年のロシア革命を記録したアメリカ人ジョン・リードを描いた作品で、いまもって日本ではマイナーな「ベイティ入魂の1作」である。日本では「社会派とコメディは当たらない」というジンクスがあるが、それは21世紀のいまも変わらない。近年だとスティーヴン・スピルバーグの力作『リンカーン』などはいい例だろう。
(渡部幻)

   


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『60年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)を、「はじめに」から。

2016-02-21 | アメリカ映画100シリーズ(芸術新聞社)
  

もし映画界を支配する人々が良質な作品への敬意を持っているとしても、並み以下の作品でも興行的に成功できるという事実が、その敬意を弱めている。しかしテレビが状況を一変させた。映画産業は経済的に大きな打撃を受けたが、一方で、真面目かつ大胆な映画づくりが、いままで以上に求められる状況が生まれた。ロールスロイスとヒョウ皮に代表される華やかさが、ハリウッドから失われても、それに代わって若い世代には願ってもない刺激的な環境が生まれつつある。――スタンリー・キューブリック(1957年、CBSラジオ)

 第二次大戦のアメリカでは映画の非日常世界に浸ることが習慣化して、1946年には週間動員数が9000万人以上に達したとされる。しかし、38年から続いた反トラスト法違反の訴訟で敗れ、54年までに5大メジャーは直営劇場を手放して収益が激減。さらにジョゼフ・マッカーシーの赤狩りが業界を萎縮させて、テレビの普及がこれに追い討ちをかけた。
 14インチから17インチの小さなブラウン管が映像を日常化して、人の知覚や習慣にまで影響を及ぼしていく。トロント大学の教授マーシャル・マクルーハンは、映画を「熱いメディア」、テレビを「冷たいメディア」と位置づけ、64年の著書『メディア論/人間拡張の諸相』に記した。

「地球は電気のために縮小して、もはや村以外のなにものでもなくなってしまった。電気のスピードがあらゆる社会的および政治的作用を一瞬にして統合してしまうために、人間の責任の自覚を極度に高めてしまった」「現代は不安の時代である。電気の内爆発のために、いかなる「視点」と無関係に関与と参与を強いられるからだ」「冷たいメディアは、話しことばにしろ、写本にしろ、テレビにしろ、それを聞く人や使う人が自分でやる余地を、熱いメディアよりはるかに多くを残している。メディアが高い精細度のものであれば、参加の度合いは低い。メディアが低い精細度のものであれば、参加の度合いは高い」

    

 53年、デルバート・マンのテレビドラマ『マーティ』がありふれた人々の生活を描いて反響を呼ぶ。若きシドニー・ルメットやジョン・フランケンハイマーらが手がけた生放送ドラマの「低い精細度」の映像は、電波に乗って家庭に届くことで「日常」と「ドラマ」を結びつけたのである。ハリウッドは、ビスタヴィジョン、シネマスコープ、シネラマ、70ミリ、3Dなどの新機軸で対抗。贅を尽くした非日常の映像で、映画の「高い精細度」化に拍車をかけた。しかし大衆の劇場離れは止まらず、結果、“娯楽の王”の座から転がり落ちる。

人間は二つのタイプにわけられるんだ。部屋に入るなりテレビをつける者と、部屋に入るなり消す者だ。――ジョン・フランケンハイマー監督『影なき狙撃者』(62)より

 しかしこうした状況は“映画”を最大公約数的な“娯楽”から解放させた。ハリウッドとは一線を画するインディペンデント映画、アンダーグラウンド映画、ドキュメンタリー映画が勃興してくる。アートシアターではヨーロッパの新しい波が紹介され、大学の映画学科にベビーブーム世代の若者が集まり、私的かつ自由で、現実的かつ超現実的な映画表現の可能性が模索された。アンダーグラウンドの重鎮ジョナス・メカスは「ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」を発足。そのマニフェストのなかで宣言した。

「芸術と人生の嘘っぱちにはもう飽き飽きした。他の諸国の若い仲間たちと同じように、新しい映画を創造するばかりでなく、われわれは新しい人間を目指すのだ。芸術作品と同じくらい、われわれは新しい人生の創造に賭ける。ピカピカできれいに磨き上げられているが中身の方は嘘っぱちだらけといったニセモノの映画はもうまっぴらだ。たとえ荒削りでもいい。素顔の生きた映画の方がはるかにマシだ。観客にバラ色の夢を与える映画でなくてもいい。われわれの欲しいのは血の色をした映画なのだ」

     

 「血の色をした映画」――60年代の映像を映画に限らなければ、テレビ、特にニュース映像が伝えた「バラ色の夢」でない「血の色をした」現実がある。それは、人々の意識を変え、現実観、死生観にまで影響を及ぼし、文化や政治を動かす一因ともなった。
 60年。マサチューセッツ州選出のジョン・F・ケネディ上院議員が大統領候補指名を目指したとき、タイム社のロバート・ドリューはリチャード・リーコック、アルバート・メイスルズらとともに、彼を追う画期的なドキュメンタリー『プライマリー(予備選挙)』(60)を撮影。これがテレビで反響を得ると、続いてケネディは、リチャード・ニクソンと史上初のテレビ討論に挑んだ。そして接戦の末に43歳の“スター大統領”となり、61年の就任演説で呼びかけた。

「同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。最後に、アメリカ市民の皆さんも世界市民の皆さんも、どうぞ我々が皆さんに求めるのと同じ水準の熱意と犠牲を我々に求めてください」

     

62年、覚えてる? 62年、君はどこにいた?――ジョージ・ルーカス監督『アメリカン・グラフィティ』(73)予告編より

 62年、キューバ危機が勃発。世界は核戦争の手前まで行くが、回避される。しかし一般的な感覚では、まだ温和であり安全な時代だったかもしれない。そして63年。白昼のダラスでケネディの頭が吹き飛ばされ、民衆はテレビを通じて葬儀に参加した。婦人服製造業者エイブラハム・ザプルーダーが8ミリカメラでとらえた暗殺の瞬間は、「ザプルーダー・フィルム」と呼ばれ、のちに最もよく知られる「60年代の映像」となり、暗殺犯とされるリー・ハーヴェイ・オズワルド殺害の中継映像が、これに続くことになる。
 ケネディを引き継ぎリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任。64年の再選の際に衝撃的なモノクロCMを打つ。花びらを数える金髪の少女にカウントダウンの声が重なる。スリー、ツー、ワン、ゼロ……少女が顔を上げるとキノコ雲が空を覆い、ジョンソンの声が語りかけてくる。

「私たちは愛し合わなければ死ぬしかありません。11月3日はジョンソンに投票を。棄権の代償は高くつきます」

     

 遠くベトナムのジャングルでは、平凡なアメリカ人青年が国家的殺戮に加担し、殺し、殺され、狂気にまみれていた。ベトナム戦争はテレビ初の戦争報道となり、63年のベトナム人僧侶ティック・クアン・ドックによる在南ベトナム・アメリカ大使館での抗議の焼身自殺や、65年、CBSのモーリー。セーファーによる南ベトナムの村に派遣された海兵隊員がライターで120棟の家を焼き払う姿、68年、南ベトナム解放戦線ゲリラのアメリカ大使館襲撃とその戦闘を中継。同年、NBCはベトナム共和国警察庁長官グエン・ゴク・ロアンの解放戦線兵士グエン・ヴァン・レムに対する路上処刑などを放送し、世論を騒然とさせた。国民の、世界の、真の敵は誰か? 67年、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンの風雲児モハメッド・アリはベトナム徴兵を拒否し、言い放った。

「ベトコンは俺を「ニガー」と呼ばない。彼らには何の恨みも憎しみもない。殺す理由もない」

     

 アメリカの矛盾が吹きだして国民は分裂。人々は“参加”と“不参加”の間で選択を迫られる。カウンターカルチャーが沸き起こり、フォークソング、ロック、雑誌、デモ、シット・イン、ティーチ・インに参加し、徴兵カードを焼き払うことで“暴力社会”への不参加を表明することは、国家の敵となることを意味した。68年、非暴力主義を唱えた公民権運動家のマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺され、続いてロバート・ケネディも凶弾に倒れた。
 69年、愛と平和のウッドストック・フェスティバルとアポロ11号の月面着陸で、「60年代」は頂点を迎える。ロックの轟音鳴り響く広野に集う40万人のヒッピーと、音のない世界に着陸した宇宙飛行士のニール・アームストロングとエドウィン・オルドリン。この啓示的とも言えるスペクタクルは、人々にひととき現実を忘れさせたが、ベトナムに従軍した無名兵士はこう記していた。

「アメリカという国は、ベトナムの泥沼を這いずり回って暮らす数十万のわれわれ全員よりも、月面にいる、たった2人の男のことを、ずっと心配していたのだ」

     

 歯に衣着せぬ毒舌で体制と対立したスタンダップ・コメディアン、レニー・ブルースは言った。

「真実ってえのはさ、あるがままのもんであってな、あるべき姿なんかじゃないんだよ。あるべき姿なんてえのは、ただの薄汚れた嘘っぱちだね」

 60年代アメリカ映画もまた「あるべき姿」ではない「あるがまま」の姿をとらえはじめる。ハリウッドと非ハリウッド、往年の巨匠と業界のアウトサイダー、モノクロとカラー、スタンダードとシネマスコープ、商業映画と非商業映画が対立し、入り乱れ、交錯するなか、長年業界に君臨してきたタイクーンたちも老いて引退するか、この世を去るときを迎える。メジャー各社は次々にコングロマリット傘下へ。業界に風穴が開くと、テレビ、カウンターカルチャーの洗礼を受けた世代が台頭。彼らの突破する精神が、伝統と革新、映画と現実の境を溶解させて“ルネッサンス”に突入し、67年の『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン)や『卒業』(マイク・ニコルズ)、68年の『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック)、69年の『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー)『真夜中のカーボーイ』(ジョン・シュレシンジャー)『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー)などの異色作が世に問われた――

     

 ――しかし、現在の目で見れば、俳優だったジョン・カサヴェテスが「映画作家」として導入したゲリラ撮影と感情的混沌の世界こそが「新しい映画」の幕開けを告げていたと思える。若きマーティン・スコセッシは、初めて彼の映画を観たときの思いを、次のように語っていた。

「1959年、ジョン・カサヴェテスが『アメリカの影』で16ミリキャメラをすでに用いていた。だからもう言い逃れはできなかった。カサヴェテスにできたのなら、自分たちにだってできるはずだ!」

(渡部幻)
     

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『70年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)を、「はじめに」から。

2016-02-02 | アメリカ映画100シリーズ(芸術新聞社)


 『70年代アメリカ映画100』の「はじめに」(執筆・渡部幻)より。


 60年代のアメリカ社会は「抗議」と「造反」と「革命」に燃えあがった。
 ベトナム戦争、軍の隊列、機動隊、選挙、公民権運動、学園紛争……。1969年にウッドストックに集まる40万のヒッピー、70年5月のニューヨークにおけるブルーカラーと反戦学生たちの衝突――これらの記録映像に通低している視覚的なイメージは、祭りとも見紛わせる人の群れ、つまり「群集」のド迫力である。平和的、暴力的、もしくは中立的なそれであっても、群集は共通して社会への帰属意識に目覚め、ときに巨大な群れになることで、前例のない「祭り(政)の季節」を生きた。

 
俺たちは負けたんだ――デニス・ホッパー監督『イージー・ライダー』(69)より

 1967年、アーサー・ペンが『俺たちに明日はない』で大恐慌期に実在したギャングカップルと彼らを蜂の巣にした体制による87発の銃弾を描いて「ニューシネマ時代」が到来。そして69年、デニス・ホッパーの『イージー・ライダー』で無害なバイカー2人が射殺された瞬間、その頂点を極めたとするなら――「ニューシネマ時代」を「ハリウッド帝国」を揺るがした映画版「祭りの季節」と呼ぶとして――続く70年代が幕を開けた時点で、その熱波は、すでに「終わっていた」、もしくは「終わりつつあった」ということになるだろうか。
 確かに、同時期に現れた傑作群――マイク・ニコルズの『卒業』(67)、スチュアート・ローゼンバーグの『暴力脱獄』(67)、ジョン・ブアマンの『殺しの分け前/ポイントブランク』(67)、フランク・ペリーの『泳ぐひと』(68)、ジョン・シュレシンジャーの『真夜中のカーボーイ』(69)など――は、改革に燃える熱狂というよりも、むしろどこか醒めた自己批評精神にこそ、その優れた特性を示し得ていた。
『イージー・ライダー』と同年にハスケル・ウェクスラーは『アメリカを斬る』を発表。68年のシカゴ民主党大会で起こった群集のデモに対する体制側の弾圧を、テレビ報道メディアの問題と絡めて炙りだした。その予告編では女性のナレーションが次のように語りかけてくる。
 「“純粋さ”とは感情。“自由”とは感覚。感情を失うってどんな感覚? 誰もが感情をなくしたら、国中が暴力で満ち溢れるはずよ。我々の良識を問う現代ドラマ。純粋な時代は過ぎ去り、認識の時代が到来――」

 

 70年代初頭――祭りのあとの索漠とした雰囲気のなかで、人々は離散し、個々の世界へと舞い戻りはじめていた。そんな「70年代」の世相は「60年代」に比べるとあまり革新的な時代ではなかったかも知れない。
 だが、アメリカ映画はここから「ルネッサンス期」を迎えるのだ。新しい映画作家たちが次々に産声をあげた。彼らは、人と時代と環境の関係を観察し、掘り下げ、洞察した。観る者の心をかき乱す猥雑な表現を生みだし、旧来の型を打ち破って、かつてないエネルギッシュな一時代を築き上げていった。

 しかし、いつの時代の映画や監督にも、それが生まれてきた背景があり、決してそこから逃れることはできない。映画がイメージを扱う芸術表現である以上、それは必然であり、一種の宿命として作品に反映される。
 では、ニューシネマを代表した反骨の監督たちの人格や個性の形成に影響を及ぼした「背景」には一体どんな「時代」があったのだろうか。
 アーサー・ペン、ジョージ・ロイ・ヒルは1923年生まれ。ロバート・アルトマン、サム・ペキンパーは25年。ノーマン・ジュイシン、ロジャー・コーマンは26年。スタンリー・キューブリックは28年。ハル・アシュビーは29年。クリント・イーストウッド、ジョン・フランケンハイマーは30年。マイク・ニコルズが31年、シドニー・歩ラックが34年の生まれ……彼らは20年代から30年代の生まれだったと分かる。



 1920年代は「ローリング・トゥエンティーズ(狂乱の20年代)」と呼ばれ、都市化と大衆消費が加速して繁栄に沸いた時代である。しかし一転、29年の株価大暴落によって30年代は未曾有の大恐慌に突入。40~50年代は、第二次世界大戦を通過(従軍経験を持つ監督は多い)して、戦後景気に沸き、パクス・アメリカーナの完成、米ソ冷戦、核戦争の恐怖、赤狩り、そして朝鮮戦争へと辿る過程にあった。文化的に見るならそこには、20年代のロスト・ジェネレーション、ギャングエイジ、ハーレムルネッサンス、フラッパー、ラジオ文化、そして黄金期ハリウッドの西部劇やギャング映画があり、さらにのちにはビートジェネレーションや続くロックジェネレーションの台頭があり、こうしたサブカルチャーが恐慌と戦争の時代を生きる者たちの鬱積や怒りを受け止めてきた。彼ら監督たちもまたこうした時代に青春を過ごし、その感慨と屈折が、「70年代アメリカ映画」の背景を彩る大きな要素となり、作品に反映して、次なる世代=ベビーブーマーの感性とも結びついていくのだ。

 
「人生は祭りだ」――フェデリコ・フェリーニ監督『81/2』(63)より

 イタリアの巨匠フェリーニは映画と人生を結びつけて「祭りの場」へと昇華させたが、「アメリカのフェリーニ」と形成されたロバート・アルトマンは、75年の『ナッシュビル』で「アメリカ建築200年」の「祝祭」に宛てた革新的な「映画の祭典」を生みだした。
 当時50歳の彼は、政治に汚されたカントリー&ウエスタン音楽祭における、とある女性歌手の暗殺をとらえ、その直後に、風に重く揺らぐスターズ・アンド・ストライプスの上に広がる曇り空を見上げていた。
 共和党のリチャード・ニクソンの大統領再選に対する、アルトマンの憤怒から生まれたというこの異型の作品について、そのニクソンに敗れた民主党のジョージ・マクガバンがうまく要約している。
 「意気があがったとは、とても言えないね。あの映画は悲劇と喜劇の両方だ。79年代のわれわれの生活の良いドラマと辛辣な状況をうまく描いているよ。この国の魂をえぐりだして、しかも何も答えもないままで終わっている」(「ローリング・ストーン」誌1976月5月号)

   

 二年後の77年。やはり「空を見上げる者」として登場したのがベビーブーム世代の若き天才スティーヴン・スピルバーグである。
 彼は『未知との遭遇』で、夜空を覆う雲のなかから現れてくる数機のUFOと巨大なマザーシップの降臨を見上げてみせた。ステンドグラスを思わせる色彩と光の洪水、それを見上げ、息を呑む群集の恍惚とした表情――。最初は「驚異」、次に「信心」、そして天上的な「至福」へと至るそれは、人智を超えた存在に対する、一種、宗教的とも言えるような「祭典」としての映画だった。
 これは70ミリの巨大スクリーンで、しかも満員の劇場で他者と共有することによって、初めて体感することのできる映像体験であり、また、そのようにつくられてもいる。
 満天の星空に『ピノキオ』(40)のテーマ曲「星に願いを」を聴かせる、この作品の持つ「オプティミズム」を理解するためには、例えば、あの『ナッシュビル』の「曇り空」に象徴されたいたような「ペシミズム」と、擦れっ枯らしになる以前の無防備な感受性を前提とし、理解することが、多少なりとも必要かもしれない。対照的な2本の映画は、ともに時代の落とし子であり、もはや当時と同様の驚嘆を、現在にもたらすことはありえないだろう。

 
「we are not alone 我々は一人ではない」――スティーヴン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』の広告コピーより

 映画と宗教は似て、それを売るものとっては宣伝であり商品の一つに過ぎないかもしれない。しかし、ビデオが普及するはるか以前の観衆にとっては、映画はいまだ手に取れる「物」としての商品ではありえなかった。あくまでも映画鑑賞は闇のなかで光を仰ぎ観る「祭り」であり、人はそこで得た感慨を、みずからの記憶に焼きつけて残すほかのすべを持たなかったのである。
 その意味では、スピルバーグと同世代に当たる『タクシードライバー』(76)のマーティン・スコセッシが、「教会と映画館」を結びつけて語る言葉も、それほど突飛な物言いではない。つまり大げさに言えば、劇場で映画を観るということは、大衆が一つ屋根の下に集まり、もうひとつの人生と向かい合う「祭りの場」として、単に商品として消費されるだけに終わらない「何か」としての役割をも果たし得ていたのだ。

 そんなスピルバーグ世代が志向し、かつ成功させていくのは映画ならではの祝祭性、つもり「エンターテインメント」の復権である。
 ベトナム戦争が終結、ニクソンは失脚し、さして盛り上がらない建国200年祭も過ぎたあとで、人々は見上げることのできる「祭りの場」としての「エンターテインメント」を欲した。
 先輩格にあたるフランシス・フォード・コッポラが『ゴッドファーザー』(72)で描いたイタリア系マフィアの結婚式や、『地獄の黙示録』(79)でジャングルを焼き払うナパームの華麗なスペクタクル(祝祭)には、「ポリティクス」と「エンターテインメント」の融合があったが、そのコッポラと同じイタリア系アメリカ人俳優から、『ロッキー』(76、ジョン・G・アヴィルドセン監督)のシルヴェスター・スタローンと『サタデー・ナイト・フィーバー』(77、ジョン・バダム監督)のジョン・トラヴォルタが登場。彼らをスターへと祭り上げた。ヘビー級タイトルマッチとディスコ・コンテストもまた、ささやかながら「祭りの場」としての映画興行を盛りあげていた。

 

 もう一つ、70年代後半で思い出されるのは、喫茶店やゲームセンターの窓もない暗く狭い室内に整然と設置されたテーブルゲームと、レモン入りコカ・コーラのグラスとストローである。「スペースインベーダー」のモニター画面に展開する小さな宇宙と電子音の世界に、黙々と興じている風景は、なぜかそのまま80年代に隆盛した初期ビデオレンタル店の狭くて淫靡な雰囲気と重なっており、そこには、自分独りだけのための「侘しき祭り」の贅沢と官能があった。
 80~90年代は、この「極私性」から以前とは別種の活況が生みだされていくこととなるが、さらに時を経た現在、より記号化が進み、細分化され、ときに格安商品として店頭に並べられた中古ビデオやDVDという名の「時の記憶」のなかから、新たな「祭りの熱狂」を引きだせるかどうかは、個々の官能力に関わってくるのかも知れない。
 
   

(渡部幻)
 

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『80年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)を、「はじめに」から。

2016-02-01 | アメリカ映画100シリーズ(芸術新聞社)
   

 『80年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)の「はじめに」より。


 『80年代アメリカ映画100』は、タイトルのとおり「80年代のアメリカ映画には、どんな映画があったろう」という本である。
 この前の時代、つまり「70年代」のアメリカ映画は革新の季節として記憶されている。前半を象徴したアメリカン・ニューシネマは、勝利よりも敗北、夢よりも悪夢、体制よりも大衆に、積極的な肩入れをすることによって、いわゆる「ハリウッド」を迎え撃ち、カウンターカルチャーとしての「映画」を燃え上がらせたが、それは自らをも焼き尽くすほどの業火だった。
 一九七九年、当時を代表する若き映画作家フランシス・フォード・コッポラが総決算的な超大作『地獄の黙示録』を発表。この作品に登場するキルゴア大佐は、ベトナムのジャングルにナパーム弾を撃ち込み、敵の殲滅に成功すると、次のような言葉を吐く。
 「ナパームのガソリンの焼ける匂いは、勝利を実感させる」
 この言葉には恍惚があった。それは、本作の制作にすべてを投げ打つコッポラの恍惚であり、狂気でもあったろう。
 やがてカウンターカルチャーは、その濃艶のなかに昇天して、終焉を告げる。
 では、80年代はどうだったろう。フラワー・ムーブメントはもちろん、パンク・ムーブメントすらもすでに終わって、残されたのは、ささやかな「レベル(反抗)カルチャー」だけ、とも囁かれた。



 人は「80年代のアメリカ映画」と言われたときに、どんな作品を思いだすだろうか。
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『E.T.』『トップガン』『ターミネーター』『ビバリーヒルズ・コップ』あたりだろうか? これらは80年代の大ヒット作。テレビでも繰り返し放送された。
 しかしそれだけではない。

 メインカルチャーとサブカルチャーが分裂と融合を繰り返しながら多彩なシーンをつくりだしていたのが80年代である。いまあらためて振り返ると、小粒ながら個性的な作品が、数多くあったことに気づく。ひとつひとつは小さく、短命であったが、結果、バラエティに富んだシーンを形成していた。
 そのため、何をいつどこで、何歳のときに観たかのかによって、80年代の印象はガラリと変わる。万華鏡のごとくカラフルで、赤や青はより原色に近く、白はより白く、黒はより黒かった。

 ロナルド・レーガン大統領とレーガノミクスの時代。
 その背景としての冷戦。そして核戦争、さらにエイズの恐怖。もしくは、パーソナル型パソコンの登場、CD、ビデオデッキとビデオレンタルの普及によるライフスタイルの変化。人の意識は、社会的であるより、より個人的に、より快楽的な方向に傾いてったかもしれない。

 “Good bye 70s...Hello 80s”

 70年代から80年代初頭にかけてのポルノ映画産業を題材とする93年のアメリカ映画『ブギーナイツ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)に登場する言葉。
 この作品では70年代の終わりに仲間うちの一人が自殺。80年代が不穏さとともに始まる。隆盛を誇った産業はビデオカメラの登場によって内部から崩壊。志が失われ、そのことに傷つきながら、軽薄に染まってゆく。

 

 80年代初頭、映画界は曲がり角にあった。
 アルフレッド・ヒッチコック、スティーヴ・マックィーン、ウィリアム・ホールデン、イングリット・バーグマン、ヘンリー・フォンダ、グレース・ケリーら往年の大スターが次々にこの世を去り、テレビは追悼番組であふれた。スターとは手の届かぬもの、同じ地平に生きていると思えぬ、遥か遠い彼方の存在を差していう。彼らこそ真のスターであり、フィルムだけが捉えることのできる影だった。
 光り輝く「黄金のハリウッド」が、いままさに去ろうとしていたのである。

 ほぼ同じ頃かつてなら想像もできなかった世界観を持つ映画作家たちが現れてくる。
 リドリー・スコット、ジェームズ・キャメロン、デヴィッド・リンチ、デヴィッド・クローネンバーグ――彼らのヴィジョンが「80年代アメリカ映画」の最も革新的な側面を担い、ジム・ジャームッシュ、スパイク・リー、ジョン・セイルズらニューヨーク・インディーズが、ハリウッドとは一線を画する極私的な主題と映像を武器に登場して注目を集めていく。

 70年代までに隆盛を極めたロックの世界も曲がり角に立ち、音楽がただ音楽であれば良った時代が、終焉の時を向かえようとしていた。社会の不良分子であり、ゆえにカウンターカルチャーの先頭に立ち、若者の意識を先導したミュージシャンたちも、産業化し、肥大化した業界のなかで溺れていく。
 80年、元ザ・ビートルズのジョン・レノンがニューヨークの街角でマーク・チャップマンに殺されたまさに同じ年にMTVが開局、「映像付きの音楽」がお茶の間に流れ込む。
 「映像に音楽が付いている」のではなく「音楽に映像が付いている」。この転倒のなかから新たな感受性と価値観をもつ新世代の映像アーティストたちが現れてくる。彼らを起用することでマイケル・ジャクソンやマドンナが一時代を築き、テレビとロックの融合は「バンド・エイド」として結実。ロンドンのウェンブリー・スタジアムとフィラデルフィアのJFKスタジアムで開催された「アフリカ難民救済」の一大チャリティ・コンサートは、計12時間に及び、世界84カ国で同時衛星中継された。

 
 
 しかし、80年代で最も画期的だったのは、ビデオデッキとソフトレンタルの急速な普及かもしれない。ビデオは、一家に一台、一人に一台の友となって、人と機械の境界を溶かし、より身近にしたのだ。

 昔々、映画は劇場で観るほかに選択肢を持たなかった。たったいま、闇の銀幕を飾る映画も、来週になれば、また違う作品に入れ替わり、終幕の明かりが点れば消えてしまう。
 映画は、打ち上げ花火であり、つねに滅びゆく運命にあると思えた。基本そういう認識があるからこそ、人々は劇場に出かけた。
 映画は、後戻りすることのできない一回性の体験だった。変化し続ける川の流れ、車窓から眺める風景のようなもの。その儚さが切実だった。ドラマティックであり、ロマンティックで、ときにエロティックですらあった。

 ビデオの出現はそれを変える。
 二度と再会できないと信じてきた、あの作品をもう一度観ることができる。自宅で、しかも自ら選んで、早送りや巻き戻しまでも可能だ。
 夢のマシン――大袈裟に言えばビデオは歴史や時間、記憶に対する人の意識をも変えたのだ。
 レンタルビデオ店の宇宙空間にはあらゆる時代が並存している。
 ビデオテープはさながら手の平サイズのタイムマシーンになり、80年代から50年代へ遡り、次は20年代に飛ぶことも可能だ。時の流れなど無視して、興味の趣くがままにランダムに飛んでゆけばいい。たったいま感動した作品が「あなたの最新作=現在」になるのだ。
 それはビデオによる意識変革だった。人々の意識に潜む官能を刺激し、拡大しながら、同時に、人をより個人的な存在に変えた。
 やがて「映画」はかつての栄光を失っていく。ましてカウンターカルチャーでなく、せめてサブカルチャーですらなくなってゆく。
 フィルムは反映する。映画は、人の世の似姿なのだ。

 
 
 人と同じように映画にも色気が、官能が必要なはずだろう。華やかな官能、疲労感の官能、淫靡な官能……映画鑑賞はひとつの色事だ。色事には生があり死がある。肉感的かつ触覚的で生々しく、人を幻に惑わせる官能の火照りに、その身上がある。
 あの80年代にもそれはあったか? そして現在にもまだあるだろうか?

 PB あなたにとって80年代の夢は何ですか?
 ジョン・レノン 「自分の夢は自分でつくるのさ。ビートルズがそれだし、ヨーコもそれだよ。ぼくがいま言っていることがそれさ。自分自身の夢を作り出せ、さ。ペルーを救いたければ、ペルーを救うのさ。何をやるのも可能さ。でも、リーダーたち――つまりパーキング・メーターにやらせようとしても不可能だよ。ジミー・カーターやロナルド・レーガンやジョン・レノンやオノ・ヨーコやボブ・ディランがやって来て、君の代わりにやってくれるとは思わないことさ。自分でやらなきゃ駄目なんだ。遠い遠い昔から、偉大な男女が言ってきたことだよ。いま神聖なものと呼ばれ、内容ではなく、その表紙があがめたてまつられているいろいろな本の中で、偉人たちは道を指し示したり、道標やちょっとした指示を残したりできる。でも、そうした指示は誰もが見るようにそこにあるんだし、過去にも常にそこにあったし、未来でもそこにあるはずだよ。太陽の下では、新しいものなんか何もないんだよ。すべての道はローマに通ずさ。でも、君には他人にその道を提供することはできないんだ。ぼくには君の目を醒ますことはできない。君になら、君の目を醒ますことができるんだ。ぼくには君の傷を治せない。君になら君の傷を治せるんだ。」(『ジョン・レノン/PLAYBOYインタビュー』(集英社))


※原文を加筆修正。(渡部幻)

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