真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

老猫ニャアの永眠 19歳

2024-08-01 | 雑感
 
2024年闘病の7ヶ月。首が捻れる発作を起こしたのが始まりで、春までに目が見えなくなった。それ以外はいつも通りの生活をしていたが、7月の梅雨明け間近。猛暑の日に、口の中が腫れて食べれなくなり、やがて目、耳、鼻、口の機能を無くしていく。病院では、口が治れば食べるようになるだろう、内科的な病気ではないはずといわれた。医者から抗生物質を貰うが口を開けない。みるみるうちに顔が腫れて変形し、可哀相でならなかった。左側の歯茎からきのこのような出来物がはみ出してきた。こんなものがあっては食べれるわけがない。お腹はぺったんこで、皮が背骨に張り付きそうだ。これでは食べれないが、自分で水は飲みに行く。しかしほんの少ししか飲まない。そこで水に溶かしてスポイトで飲ませることにした。無理に飲ませるのはつらかったが衰弱してしまう。するとてきめんに効いて数日で出来物が取れた。さすがニャアの生命力だ!これで食べるようになるだろう。ぼくは希望を抱いた。
が、そうはならなかった。歩けなくなってしまった。流動食を与えたが、永眠した。7月24日の夕方であった。最後はとても苦しんだ。亡くなる直前に痙攣を起こした。ぼくは泣きながら、こわがるニャアの体を抱いた。胸に耳を寄せて最後の鼓動と吐息を聞いた。何度も生き延びてきたが、最後の衰弱はあっという間のことで、今でも信じられない。しかし魂の離れた肉体は穏やかだった。
ぼくは泣き腫らした。ニャアはぼくにとって命の恩人。猫の愛情と熱意に救われることなど思いもよらなかった。だからこそ君を守ってきたのに、救えなかった。過去の写真を見つめ続けた。おそらく19歳だった。ぼくとな18年以上も人生の一時期をともに過ごした。ニャアは野良出身だ。“拾った”のではない。ぼくは猫を飼うつもりはなかったし、当時の部屋では面倒をみてやれない。しかし、ニャアは何週間、何ヵ月にも渡る猛烈なアピールでぼくの気持ちを変えさせた。いじけたところのない明るい性格で、美しく、自らのパートナーとしてぼくを選んでくれた意思に、すっかり感動してしまったのだ。猫が飼い主を選ぶのだと聞いたことがある。本当だと思う。
 
ニャアは生きることが大好きだった。人好きであり、たいへんなおしゃべり。鳴くというより、ごにょごにょとしゃべるネコだった。寂しがりのぼくの側にいつも居てくれた。自分も心細いと全力で胸に張り付いて離れなかった。いつもぼくの動きに目を光らせていたのは、ぼくがニャアを気に止めているかをチェックするため。共同生活のパートナーだからである。18年の時間は決して短くはない。世の中も、ぼくの環境も大きく変わった。最後の最後まで変わらなかったのは、ぼくとニャアの絆だけだ。年老いて、体の限界まで一生懸命に頑張ってくれた。
ぼくの宝物で、自慢の“美人さん”だった。毎日そのことを伝えてきたが、今はもう側に居ないなんて。ニャアと生きるために維持してきたこの部屋も、いまは空っぽ。すべての生きものの運命だけど、何だか虚しくなる。
 
水曜日に亡くなったニャアの亡骸と一緒に4日間を過ごした。ロックアイスとアイスノンでほぼ眠らずに冷やし続け、抱き締めた。直ぐに死後硬直したニャアは目を開けて閉じることはなかった。苦痛の口は閉じてあげた。すると穏やかな表情になった。その穏やかさを生きた姿で見られなかったことが悲しくならない。
薔薇とひまわりで飾った。日曜日の火葬では立ち合い葬を選び、焼き場に手紙と思い出の写真、薔薇とひまわり、最後に食べられなかったビスケとレトルトを天国までのお弁当代わりに添えた。ニャアを持ち上げるときにひまわりの花びらが何枚も落ちた。それが最後のニャアからぼくへのさよならのメッセージ、最後のおしゃべりだと思えた。火がはいり、夏の青空と白い雲が熱の煙で揺れていた。おれは必死に怖くないからねと声に出して話しかけた。焼き終わり、扉が開くと白骨のニャアは小さかった。小さな頭はさらに小さくて。どこに感受性豊かなニャアの思考が詰まっていたのだろうと思った。係の人が病気をしていない立派な骨ですね、と言った。そして右のうしろ足の骨の変形を指摘した。びっくりした。1度も痛がっていなかったから。その女性いわく出会う前の若いときのものかも知れないですね、と。骨の中にはニャアのうんちもあった。うんちはニャアの最大の関心事で悩み事。でも食べれなくなって、長らくおしっこだけだったけど、流動食がほんの少しだけうんちになっていた。お骨上げをして、すべてを骨壺に容れた。そしてさっきまでニャアを容れていた空の箱に骨壺を載せて、ニャアの居ない空の部屋に戻り、文字通り泣き崩れた。
君のためのこの家に居ないなんて。白茶けた夢の中を彷徨っているみたい。とても現実とは思いたくはない。ニャアが命の恩人とは、おおげさに言っているのではない。衰弱して意識が遠くなっていくぼくをこの世界にとどめたのは、ニャアが寄り添ってくれたからだ。最期までずっとそうだった。だからこそニャアを助けたかったし、これまでは
何度も成功してきた。元気になるたびニャアの生命力に感動させられた。ぼくが“飼い主とペット”という言い方がどうも苦手なのは、結局のところ対等な命と命で、共に暮らせば最高の相棒として生きるから。互いの医者であり、父と娘でもあり、兄と妹、恋人のようでもあるという境界を越えた不思議な絆。熱を出したときも、尻尾に怪我したときも、赤ちゃんを産んだときも、体に石が出来てしまったときも、手当てして信頼を勝ち取ったのに、今度ばかりはニャアの期待にこたえられなかった。今後、君を思い出しては悔み、自らの胸を締め付けるだろう。
 
係のね方が伝えてくれた足の骨が気になり、昔の写真を見ていると思い出した。そうだ、右足の骨が飛び出していると思えて、何度も撫でていたことを。痛くも何ともなかったみたいだから、係の方が言う通り、古傷だったのだろうか。学芸大学のノラ時代は、“ケンカ屋ニャア”とあだ名したほど縄張り争いに明け暮れ、また勝利してきたことを知っている。一度しっぽを折られて、介抱したこともある。若いニャアはだらんと垂れたしっぽが一晩でピンとなり、またケンカを続け、周囲のノラたちを一掃してしまったものだ。
 
こうしたニャアとの出会いを忘れたことはない。君の存在はぼくに鮮烈な印象を与えた。最愛の宝物となり、別れの数日は最大の痛みだった。君が逝ってから一週間が経つけど、外を歩いていても涙を抑えられなくなる
。夏の汗よりも悲しみの涙の方がたくさん流れるくらいだ。ニャアに向けて独り言をつぶやいてしまう。どうかしてる。でも18年語りかけてきたんだから、仕方がない。いつも君が待つ家に戻ることが楽しみだった。ニャアとは本当によくしゃべり合った。毎日が楽しかった。ありがとうね。
 
今、ニャアの居ない部屋を眺め、隅々に君の記憶が染み付いているのを感じている。2つ用意したトイレがそうだし、ベッドルームを覗くと白いシーツの上には君の姿があった。ある日、ずっとよしこから乗るなと言いつけられていたベッドを、ぼくが指差して、今晩からあそこで寝ようね、と伝えると君は張り切ってまくらの隣で寝るようになった。あの日以来、十数年。今年の7月頭まで。隣の部屋から呼ぶと必ず起きて来てくれた。だから今は布団を見るといちばん悲しくなる。もうそこに居ないと思うと眠る気にもなれない。
ニャアはぼくの自慢でした。ニャアが居なくて張り合いがない。たったひと月前には居てくれたのにあっけなさすぎる。君の思い出は束の間の夢のようで、今ここにある現実は悪性の夢のようです。寂しくてなりません。
天国でも誇らしげで、明るく前向きで、おしゃべりなニャアで居てくれることを願っています。命の営みの大きな一時期を、一緒に過ごしてくれて本当に幸せでした。18年以上にも及ぶ日々のよろこびをありがとう。またいつかどこかで会えることを願っています。
 
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネタバレなんて、どうってことない。オチを事前に知っても、一向に気にならない。

2016-03-15 | 雑感
 

 町山智浩さんがよく「映画のオチ」を言う言わないについて苦々しく語っている。いわゆる「ネタバレ」のことだが、町山さんは基本「話したからなんだ」のスタンスだと思う。僕自身、先にラストを聞いたからって、どうってことない。聞くのと観るのとでは異なるし、昔の映画雑誌なんて公開前に「シナリオ採録」が掲載されていたのだ。映画の元にはシナリオがあり、そこから実際の「映像作品」がつくられているわけで、シナリオや批評などの「文字」をいくら読んだところで、一向に「映画を観た」ことにならない、というより、なれないのだ。映画はあくまで「観る」ものであり、「読む」でも「聞く」でもないのだから――少なくとも個人的には――仮にミステリーであっても、なんらビクともしないし、気にもならない。
 僕が最初期に読んだ映画本に『エンドマークの向こうにロマンが見える』という高澤瑛一の本があり、名作とされる作品の「ラスト」が物語る感動をスチルつきで解説する本なのだが、これに強く「観る気」を煽られたものである。
 『カサブランカ』『第三の男』『シェーン』『七人の侍』『風と共に去りぬ』『ローマの休日』『望郷』『勝手にしやがれ』『太陽がいっぱい』などの古典のラストなんて基礎知識みたいなもので、すべて事前に知った上で「それは感動しそうだ」と感心したからこそ観たのだし、ラストへと至る過程をドキドキしながら楽しめばよかった。『俺たちに明日はない』『卒業』などのニューシネマなんて、「衝撃」もしくは「感動」の「ラストシーン」が謳い文句になっていたほどで、代表的な作品のほぼすべての「ラスト」を事前に知っていたし、スチルでも見ていたが、「実際の映画」を観ればやはりあらためて衝撃を受けるわけで、それが映画における「描写の力」というものだろう。
 たしかポーリン・ケイルが「ネタバレなんて気にしてるくらいなら映画なんて観るのやめたら」と語っていたと思うが、僕には理解できるし、真っ当な意見と思う。そもそも最近はラストを知ってしまうと困るほどの作品もないと感じているが、新鮮な目で観たいという人の言い分もまた――『マジカルガール』のような例もあるわけだし――よく判るわけで、ケイルほどに強弁しようとは思わないのだが。

 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デヴィッド・ボウイと映画の演技~~ニコラス・ローグ、大島渚、そしてオーソン・ウェルズ。

2016-01-12 | 雑感
 

 再読していたヴィクター・ボクリスの『ビート・パンクス』に、70年代イギリス映画界の鬼才ニコラス・ローグ監督のインタビューが入っていて、彼がデヴィッド・ボウイについて語った言葉があったので引用する。ローグは、ロックスターのデヴィッド・ボウイに演技が出来るのだろうかと人に尋ねられて「思わず」次のように応えたという。

 「しかしあの男はちょっと奇妙な仕草をするだけで、4万人もの人間を魅了してきたんだ。どこの俳優が4万人もの人間を意のままにできると思ってるんだ。たとえデヴィッド自身がジョーン・サザーランドのようにはできないと言ったとしてもだよ。観衆は彼のパフォーマンスや彼の言葉を求めにやってくるんだ。ウォーレン・ベイティじゃあれだけの人は集まらんだろう。そもそもどういう意味で俳優って言葉を使ってるんだ?」

 ちなみに、ローグは、ボウイが主演した奇妙な映画『地球に落ちて来た男』を撮った才人。代表作『赤い影』や『マリリンとアインシュタイン』など記憶を主題に超絶的な技法を駆使したスタイルは、当時、『肉体の悪魔』『マーラー』『TOMMY/トミー』などのケン・ラッセル監督と並び称された。70年代のローグはミュージシャンの起用で知られ、『パフォーマンス』(ドナルド・キャメル共同監督)ではミック・ジャガー、『ジェラシー』ではアート・ガーファンクルを主演に迎え、ドキュメンタリー『Glastonbury Fayre』(ピーター・ニール共同監督)も手掛けており、ミュージシャンたちからの信用を集めていた。(ジョーン・サザーランドはオーストラリアのソプラノ歌手、ウォーレン・ベイティは『俺たちに明日はない』『ギャンブラー』『シャンプー』などの主演や製作者として当時もっとも人気の高かったハリウッド俳優の一人)

 

 ローグは1977年の時点で、アート・ガーファンクルとシシー・スペイセクの主演で『イリュージョンズ』という映画をつくろうとしていたようだが、この企画はなくなり、そしてガーファンクルとテレサ・ラッセルを共演させた傑作『ジェラシー』を完成させる。
 その『ジェラシー』のパンフレットに大島渚が寄稿している。大島は『戦場のメリークリスマス』の監督としてデヴィッド・ボウイを起用。ボウイの映画キャリアにおける「もう一本」の代表作になった。
 大島の文章は「『ジェラシー』との奇縁」と題してデヴィッド・ボウイとの出会いを回想したものだ。

 「昨年の十月の末、私はシティ・マラソンと大統領選でわきたつニューヨークにいた。デヴィッド・ボウイに会うためである。一九七八年の暮から準備をはじめた『戦場のメリークリスマス』は一向に前に進まないのだった。金がかかりすぎるということもあったが、主人公の英国軍将校があまりにも美しく描かれていることも難点のひとつだった。いったい、こういう役者がいるのかね? ふと、デヴィッド・ボウイに思い立った。聞いてみると、人を介したりせず直接交渉した方がいいだろうということだった。早速手紙を書くとシナリオを読みたいと言ってきた。シナリオを送るとすぐ、興奮している。すぐ会いたいと返事が来た。ニューヨークへ着くと、彼は出演している舞台の『エレファントマン』の切符まで用意して待っていてくれた。」「誰かいいライターを知らないかと聞いてみたが、彼は控え目な性格らしく、とり立てて名前をあげなかった。しかし、自分が主演した『地球に落ちて来た男』の監督ニコラス・ローグと、そのグループは信頼していると言った」

 ニコラス・ローグの『ジェラシー』を製作したのはジェレミー・トーマス。彼はのちに『戦場のメリークリスマス』の製作者として名を連ねるのだった(ほかに、ベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー』やデヴィッド・クローネンバーグの『裸のランチ』の製作も彼だ)。

 

 ところで、先のローグの言葉に、ある種の「スター=演技者」が「4万人もの人間を意のままに」することに関するがあったが、そこで思い出すのが、かのオーソン・ウェルズが、「映画の演技術なるものがあるのか」についてゲーリー・クーパーとローレンス・オリヴィエを引き合いにして語った言葉である。

 「映画俳優はいる。古典的なケースだが、(ゲーリー・)クーパーは映画俳優だった。セットを彼が歩いてゆくのを見たら、だれもが思う。「やれやれ、こりゃ撮り直しになるぞ」そこに彼がいるとはじっさい思えないんだ。それからラッシュを見る、するとスクリーンをはみ出さんばかりに彼がいる。」「個性だ。その秘密を解明する気はない。テクニック以上のなにかだ。テクニックに関しては、ローレンス・オリヴィエ以上の知識の持ち主はいない。もし、映画の演技術がキャメラのテクニックに帰着するのなら、ラリーは第一人者になったはずだ。ところが、映画での彼はすばらしくはあるが、それでも舞台を統括している時の、あのピリピリした存在感が消え、その影法師としか思えない。なぜ、キャメラは彼を縮小してしまうのか? そして、テクニックとは無縁と思われるゲーリー・クーパーを拡大するのか?」(ピーター・ボグダノヴィッチ『オーソン・ウェルズ その半生を語る』より)

 ウェルズの言葉に倣えば、僕としては、「ステージ」から降りて「映画」に出演してスクリーンに映った「俳優デヴィッド・ボウイ」も、「4万人もの人間を意のままに」するカリスマであるときよりも、ずっと「縮小」してしまっているように思える。つまり、ステージでのデヴィッド・ボウイ――こと全盛時代の――は、「映画」(グラマラスな魅力をかなり伝えたトニー・スコットの『ハンガー』や『ジギー・スターダスト』などのライブ映画ほかの映像全般を含む)などで見るより、もっともっと「凄かったはず」だと想像させるのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1972年「プレイボーイ」誌のお洒落なクリント・イーストウッド

2015-10-30 | 雑感
 

1972年の「PLAYBOY」誌に掲載されたクリント・イーストウッド。この写真は日本で発売された40周年アニバーサリー版で知ったのだが、お洒落なイーストウッドというコンセプトが新鮮で、いつもこの号が欲しいと思っていた。

ところで、米「PLAYBOY」がヌードの掲載をやめると聞き、調べると、すぐに朝日の記事が出てきた。「デビッド・ハルバースタム氏は著作で「セックスが隠れて求める暗いものではなく、楽しむものだという考えを広めた」」とあるが、そうだろうと思う。しかし、さらに時代は変わるのである。

2011年の「ニューズウィーク日本版」に「プレイボーイ・クラブの虚像と実像」という記事が掲載されている。筆者は、気鋭のコラムニストであり、『シルクウッド』『恋人たちの予感』などの脚本家であり、映画監督としても有名なノーラ・エフロン。彼女は次のように書いている。
「ヒュー・ヘフナーという人物がまだ消えていないことを、私はずっと不思議に思っている。(略)彼がつくったものはとっくに20世紀の中古品ショップに放り込まれた」
もっとも、エフロンが「中古品ショップに放り込まれた」と書いているのは、ヒューヘフナーが築きあげたプレイボーイ・クラブ、バニーガール、バンパーステッカー、Tシャツなどであり、ヘフナー帝国とその黄金時代である。朝日の記事がここで考えているのは「雑誌」がヌードを呼び水にし、いい意味でも悪い意味でも人の価値観を変えた「黄金時代」の終焉のほうである。

イーストウッドの「プレイボーイ」フォトはもちろんヌードではなく、むしろファッション写真なのだが、ヘフナーの考える「いい男といい女」の理想像が提唱されており、その先には「ヌード」があり、当然「セックス」が待っているというわけだ。確かにこの「理想イメージ」は過去=20世紀のもので、それなりの距離を感じさせるかも知れないが、だからこそ今あらためて眺めていると「おもしろい」のである。(渡部幻)

  

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間がつくる映画もまた環境の生き物なのである

2015-06-17 | 雑感
人がつくる映画もまた環境の生き物だから、現在の環境で旧作を観ると昔とは違った顔を見せる。むしろ前向きに捉えるべきだが、作品そのものが少なからず時代の環境(社会背景、劇場環境)を意識してつくられるものなのだから、そのことを擬似的にでも少し想像できるほう人のほうが味わいは増すと思える。

昔日の薄汚い映像に郷愁を感じるのはまさに郷愁以外の何物でもない。34年ほど前に名画座で見た『俺たちに明日はない』のフィルムは、雨がざんざん振りの傷だらけで、ものすごく嫌だった。そこで別の劇場に出かけたが、そこでのフィルムは見違えるほどきれいで、映像に対する感動と理解が深くなった。

香港映画やマカロニウエスタンを日本で観た人の初見は、ほとんどテレビである。大抵最悪の画像で、シネマスコープがばっつり半分にトリミングされていたが、まず一般的にテレビ視聴者は「トリミング」という概念自体を知らなかったと思う。つまり気にしてなかったし、当時はそれで十分楽しめたわけだ。テレビそのものの画質だって悪かったし、16インチくらいのブラウン管で満足している人が多かった。するとその条件でも楽しめる映画が中心になった。つまり濃い味の娯楽作品であり、香港映画やマカロニはそうした鑑賞環境の条件にかなってもいた。だが、いまの環境は変わったのである。そうした鑑賞環境の変化は、映画の内容に対する理解をも変える。イタリア西部劇の基本的理解は言うまでもなくアメリカ西部劇の亜流である。アメリカ西部劇の基本は開拓の物語であり、アメリカ人にとってそれは彼らのルーツに関係している。だから生活の描写に時間を割くことが多いのである。

アメリカ西部劇に表現された開拓期の生活感や言葉使いや振る舞いの実感はマカロニに望むべくもない。マカロニのおもしろさの基本は過激なデフォルメであり、戦後イタリアのリアリズム(主に衣装やメイクの汚しに現れている)との融合から生まれた様式だが、それがのちに本家に刺激を与える。
そのことを知る昔の映画ファンはだからこそマカロニに眉をひそめたわけだ。西部劇がアメリカ史(歪みや娯楽化の捏造も含め)の物語だなんて西部劇=テレビで見るマカロニであった子どもは気にもしない。画像の悪いテレビや汚れた名画座のジャンクな暴力風味に映画の格好よさを感じたのである。刺激過多の質の低い映像の氾濫は、安上がりな視聴率優先の放送体制から生じた現象のひとつに過ぎず、技術的側面に関して言えば是正されるのも必然なのだ。結果、画質が良くなり、そこから新たな価値が発見され、古いテレビでは似たり寄ったりに見えたマカロニの奇妙な深みに気づくこともある。

フランスのJ・P・メルヴィルは西部劇はアメリカの物語だからノワールのようにヨーロッパ人が撮るべきではないと語っていた。僕が反省したのは「大人」になってからで、単純に思えていた本家西部劇も本格的な作品ほどあまり放送してなかったと気づいた。それはビデオ時代がもたらした恩恵だ。アメリカの西部劇はその歴史的背景を抜きに見れない作品も多いから、そのことを「難しく」感じる人もいるだろう。多分、正統西部劇を見慣れない現代の観客にとっては、ペキンパーの有名な『ワイルドバンチ』にしたって、その内容や背景や意図まで理解することは困難なのではないだろうか。映画の内容をすべてを理解することは不可能だし、さらにスルスルとすんなり面白がれる作品なんてほとんど稀なる存在に違いない。映画は観客の面白がろうとする日頃の努力の上に成立する。俳優の誰がいいとか、画面が美しいとか、衣装や小道具に目を向けるのも、そのひとつの現われなのである。

内容とは別に劇場やパンフなどのグッズに関心や愛着を向けるのもそのひとつであり、時が進みソフトのデザインや画質・音質にまで注目するのも楽しむためのたゆみない努力のひとつに違いない。画質などかなり改善されたがゆえに、かえって汚れたビデオや名画座への郷愁が湧いてくるのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増殖を続けるのに処理の追いつかない悪夢状況

2014-06-16 | 雑感


 現在、映画、文学、音楽、美術、漫画、雑誌もろもろの歴史に触れる機会は、減ったのか増えたのか。
 時が進み、歴史になるたび、必見作品が山積みになって、収集のつかない時代である。もろもろのアーカイブ状況が整い、充実すればするほどに、もっともっと知らねばならぬ、という強迫観念だけいや増していくのである、
 人によってはパンクしてしまうだけだろう。
 ハードルは上がる一方であり、作品がそうしたニーズに答えれば答えるほど、専門性が上がり、大衆性は失われていく。
 もはや不治の病ごとくだ。
 
 一回の映画鑑賞または読書が人に与える経験密度はどうだろう。
 例えば一本の映画が、一回の鑑賞で、一人の観客に残すインパクトは、1950年代と2010年代では比較にならないほどに軽いものになっていると思える。80もしくは90年代と今を比較しても与えられる喜びも痛みははるかに弱まっているように思えるのだがどうだろう。
 両親世代の映画への思い入れはいまと比較にならないと感じたことがある。
 80年代に2000席近いキャパの有楽座と日比谷映画で40~50年代の名作を再上映したとき、老人を含む白髪の観客で超満員で立ち見まで出ていた。そして終了後に耳が割れんばかりの拍手が沸き起こった。当時で40年ほど前の映画を想い続けて駆けつけた年老いた人々の熱気で場内は暑かった。映画がそんな熱狂を引き起こすことはもう起こりえないだろう。映画をめぐる状況の形が変わったからだが、ではそれでも熱狂したい人の想いはどう処理すればいいというのか。


 
 処理も何もないのだが、一回性の熱狂が失われた代わりに、物好きは繰り返し観ることで補っているかもしれない。デヴィッド・プレスキンのクローネンバーグ・インタビュー(柳下毅一郎訳)が面白かった。
 90年代初頭の取材(『裸のランチ』のとき)。
 プレスキン「この1ヶ月というもの、わたしはあなたの作品をすべて、2回ずつ、家でビデオで見直していましたが、そして何度もスタート、ストップを繰りかえせるし、『スキャナーズ』の頭爆発シーンを繰りかえし再生できるのはとてもいいものでしたが、あれは本当に美しい」
 クローネンバーグ「ああ、そうだとも」
 プレスキン「まるでキューブリックの、『博士の異常な愛情』の最後での原爆シーンのようでした。ですがそれでもわたしは映画館に行って、暗闇に座って、イメージが大きく投射され満たされ、宅急便からの電話なんかに邪魔されないほうがいい。わたしは浅くではなく、深く集中したいからです。(略)映画の力のひとつは、観客が、文学とは違い、時間をコントロールできないことにあるんです。文学では、われわれは立ち止まり、飛ばし、ページを戻ることができますが、それに対し映画は〝なされる〟ものです。そのせいで受け身のイメージ消費者という疑いを抱く人もいますが……」
 クローネンバーグはこれに対し、
 「だがビデオでは、繰りかえすが、興味を持てない場所は飛ばして、おもしろい場所だけに集中できる。これは本の好きな文章やシーンだけ読みかえし、退屈な章は飛ばしてしまうのと似ている。集中を増すことになるのか減ずるのかは、実際、大いに議論できるだろう。(略)」「今では映画を持つこともできる。そして思うが、究極的いんは、あるいは一度の体験と替えられないかもしれないが、だが10年、20年のうちには、20年間映画に触れつづけることができたら、自分の引き出しにあって、いつでも取りだして観ることができるならあるいは究極的には、深く関与することができるかもしれない。そして映画監督のコントロールがいくらか、責任がいくらか剥ぎとられることは、映画を観る者が長い時間のあいだに得る関与によって埋めあわされるだろう」


 
 まさに実現しているし、インターネットが加速させたと言えるが、しかしそもそも、本と違ってソフトは、20年後も持つのか。
 ビデオ、LD、DVD、ブルーレイと変わるたびにマニアは買い換え、そのたび自分のその作品への愛情を確認したりするという、ほとんどマゾヒスティックで変態的な喜びの世界へと突入している。
 それで楽しい人はいい(自分も知らぬ間にその一員だった)として、そうでない人には単に鬱陶しいだけだろう。メディアが変わるたびに過去のソフトは質の悪いものとして淘汰される運命にある。デッキが無くなれば観ることもできない。
 また市場原理により前メディアで売れなかった商品は次世代に移行もしてもらえない。
 映画はむかし所有できない光と影の幻だった。そこに愛しさもあった。
 やがて映画は「持つ」こともできる時代に入った。
 だが、その時代も終わりつつあるかもしれない。20年間も持ち続けてもらう夢は、クローネンバーグが『ビデオドローム』をつくった1982年から2002年あたりまでの20年について実現したと言える。だが、その後の20年はどうなるかわかない。
 所有する時代が終わり、その特権的快楽がなくなり、いつでもだれでもどこでも取り出せるようになれば、逆にいちいち一生懸命になって観る人も減ってしまうに違いない。
 そしてそれはビデオが普及したころからずっと言われてきたことの末期症状に過ぎないようにも思える。
 映画はいよいよ考古学的な世界に突入し、新作も常に過去の歴史の参照をうながすようにつくられる。この20年すでにそうなってきた。
 かつて映画一本の一回性の重みは、一回性の人生の重みであり、生と死の比喩でもあったが、いま映画ファンは墓堀り人の役割を担いつつ、映画のゾンビ化の片棒を担ぐしかないのである。
 「映画」がこれからもなくなることはないだろうが、それはかつて見知った「映画」とは違う、別物であるに違いない。
 なんともはやである。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あたし、どこに、いるの?

2011-11-17 | 雑感


(渡部幻)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする