ニコラス・ローグという天才監督がいた。その、キャリアを重ねるごとに鈍ってゆく切れ味を見ていくと、「天才」というのはいつまでも「天才」であるわけじゃないのだと知る。
全盛期の作品はいま観ても衝撃的であり、まさしく天才の仕事である。このすごさはスチールなどいくら眺めても分かりはしない。ローグは撮影する。そしてそのフィルムを編集すると、そのとき、映画に魔法がかかるのである。冴えに冴えたローグの頭脳は人間の深層をえぐり、フィルムのなかに切り取る。鋭利な剃刀のごときフラッシュバックをたたみかけ、その「イメージ」を観る者の脳裏に焼きつけたのである。彼のメスの刃は鋭く、その手際は鮮やかで、切り口の痛みがすぐに訪れることはないが、奥底の記憶に刻まれて、やがてじくじくと痛みだすのである。
記憶は選べない。良い記憶、悪い記憶の選別を許さない。それはふいに襲ってくる。記憶とは生き地獄なのである。人は記憶によって人格を形成する。記憶は経験であり、「生きる」という行為は、その囚われの身となることを意味している。人は「忘れたくない」と「忘れたい」の狭間を揺れ動きながら生きていく。この事実が地獄なのである。ローグは、そんな人間の地獄を描き続けた。彼がなぜこのような「地獄」にこだわり、自身のアートのなかに表現しようとしたのか知らない。しかしローグの頭脳から生まれたのは、苦く厳しく衝撃的であると同時に甘美かつ恍惚的な作品群であった。80年代以降のローグその切っ先を鈍らせていき、その理由もまた分からないが、残された傑作は、時を越えていまもフラッシュバックを繰り返し、中毒患者はあとを絶たない。
『赤い影』は、ヒッチコックの『レベッカ』『鳥』の原作者ダフネ・デュ・モーリアの小説の映像化である。主演はドナルド・サザーランドとジュリー・クリスティ。二人が失った娘の記憶に囚われながら演じるセックスシーンの優しさと官能性もまた、映画史の「記憶」である。内に孤独を抱えた夫婦が、久しぶりの性的な高揚を覚え、求め合い、愛の交歓に昇華されていくさまの美しさ。『赤い影』は真の恐ろしいスリラーだが、同時に、哀しい愛のドラマなのである。
上は『美しき冒険旅行』
下は『地球に落ちてきた男』
↓『赤い影』
↓『ジェラシー』
↓『マリリンとアインシュタイン』