風色明媚

     ふうしょくめいび : 「二木一郎 日本画 ウェブサイトギャラリー」付属ブログ

州羽の海 3 湖畔の社

2010年10月23日 | 夢想の古代史


「州羽の海」は、自作の小説からの抜粋という形式で長野県諏訪市にある諏訪大社について書いています。

主人公である英嶋善也と相澤深那美の二人が、諏訪大社上社本宮の北参道から境内に入り、これから正面入口に向かうところです。
→予告編
→第1回 出雲から来た神
→第2回 境内へ


「何ですか?英嶋さん。さっきからキョロキョロ見回して」
「ここは…山沿いだね」
「そうですけど」
「山沿いの狭い範囲に無理して境内をまとめたような印象がないかい?」
「確かに山沿いにまとまっていますよね」
「なぜこんな狭い範囲に社殿を密集させたんだろうな」
「ここはすぐ山が迫っていて敷地が狭いですから、仕方なかったんじゃないですか?」
「だけど、今通ってきた北参道のあたりは広々としていたじゃないか」
「…」
「北参道は本宮の境内じゃないんだろう?」
「ええ…境内じゃありません」
「どうして北参道まで境内にしなかったんだろうね」
「…北参道は太平洋戦争中に新設されたんだそうです。それまではなかったんです」
「そうなのか…。でも、戦時中に新設できたくらいだから、最初から造ればよかったのにね」
「…」
「北参道の周辺はほとんど平らだったし、背後の山は見事だし、理想的な表参道になっただろう」
「…」
「北参道は大鳥居に向かって真っ直ぐ伸びていて、しかも結構な長さがあった。200メートルはあったんじゃないか?」
「…ありましたね」



本宮境内に比較して、北参道はこのくらいの長さがあります。
大鳥居から先の境内は、山の麓にあるため緩い傾斜地になっていますが
北参道とその周辺は、ほとんど真っ平らと言っていいほどの平地です。



「今では土産物屋などの民家が建ち並んでいるから境内を広げようとしたって無理だけど、創建当時は何もなかったんじゃないの?」
「民家は…ありませんでした」
「だろう?だったら、境内をもっと広く余裕を持って造れたはずだ」
「…」
「こんな山沿いに詰め込んだように造る必要なんかないじゃないか。穂高神社は安曇野のド真ん中にドーンとあるよ」
「…」
「拝殿と本殿は山際でいいと思うよ。だけど、他の社殿は北参道の後半に散らして、前半は参道だけにする。そんな感じでどう?」
「…」
「そうすれば、諏訪大社の社格や歴史に相応しい堂々とした境内が…」
「無理なんです」
「え?」
「無理だったんです。制約があったんですよ」
「そうかい?民家はなかったんだろう?」
「民家はないんですが、かつては障害物があったんです。どうにも避けようのないものが」
「あの平らな土地に?」
「湖ですよ」
「え?北参道には湖があったの?」
「諏訪湖です」
「諏訪湖?だって、ここから5キロも離れているんだよ」
「今はそうなんですが…古代の諏訪湖は広かったんです」
「広かった?」
「今よりずうっと」
「ほんとか?」
「そんな嘘言ってどうするんですか」
「君の考え?」
「まさか。私の考えたことじゃありませんよ。少し調べたら判ったんです」
「昔からあの大きさじゃないの?」
「諏訪湖は徐々に狭くなってきたんです」
「狭くなってきた…」
「古代、今の岡谷・諏訪の市街はほとんど湖でした。茅野市街まで広がっていたようです」
「茅野市街まで…。本当かい?」
「間違いないようです」
「それじゃあ、今の諏訪の平地はほとんど諏訪湖だったってことだよ」
「そうです」
「はぁ…信じられないな」
「ですよね」


左図が現代、右図が諏訪大社創建当時の諏訪湖の大きさを推定したものです。
正確とは言えませんが、だいたいこのような感じだったと思われます。


「諏訪湖が広かったって、どうして判ったの?」
「平地に遺跡がないんですよ」
「遺跡?」
「縄文時代や弥生時代の遺跡の分布を見ると、ほとんど全部が山沿いにあるんです。それも、標高800メートルくらいの等高線に沿うようにズラリと並んでいるんです」
「…」
「諏訪の地形が昔から今と同じだったのなら、これだけの平地があるんですからね。縄文人や弥生人は当然平地に住んだでしょう」
「そりゃ、そうだ…」
「なのに山沿いに住んでいたんです」
「…」
「平地に住みたくなかった。あるいは、住みたくても住めなかった。どちらかでしょ?」
「…」
「住みたくなかった可能性もありますが、理由の説明がつかないんです」
「…」
「住みたくても住めなかったのだったら、それはなぜか」
「湖だったから…。あるいは水が引いたばかりの湿地帯だったのかも」
「それで古代諏訪湖の輪郭が浮かび上がってきたんですよ」
「…」
「もちろん地質学的な裏付けも、ちゃんとあるんです」
「…」
「古代の諏訪湖は今よりずっと湖面が高かったんです。それはすでに定説だと言っていいですね」
「湖面が高かったのなら、当然今よりずっと広くなる…」
「釜口水門ってありますよね?」
「ああ、諏訪湖の唯一の水の出口だ。諏訪湖の北西の端にある。天竜川の始まるところだ」
「あの少し先あたりが決壊して湖面が下がっていったようなんです」
「へえ…昔の諏訪湖はこの辺まであったのか。それは…驚きだな」
「でしょう?今の状況からは想像もできませんよね」
「すると…諏訪大社は諏訪湖の畔に造られたってこと?」
「そういうことですね。上社も下社も湖畔の社だったんですね」
「湖畔の社か…。現在の地形だけから判断するのは誤りってことか」
「ええ。古代の諏訪を探る上で最初の落とし穴でしょうね」
「前提条件だな」
「そうです。それを忘れては的外れになってしまうかもしれませんね」
「じゃあ…このあたりは湖畔からいきなり山ってことだ」
「そうなんですよ」
「平地なんてほとんどない」
「ないですね。わずかな緩斜面だけですね」
「余裕がなかったんだな。広い境内を造りたくてもできなかったのか」
「そうなんです」
「現在の諏訪湖の湖面の標高は?」
「約760mです」
「今より40m高かったのか…」
「諏訪湖の水量は増減を繰り返していたらしいですから、当時の人たちは万が一に備えて湖畔より少し上に住んでいたとして、だいたい780mくらいが湖面の標高だったんじゃないでしょうか」
「じゃあ、20mくらい上か。それでも…」
「巨大な湖だったんですね、古代の諏訪湖は」

現代と古代とでは地形が違うことがある…。
これは日本ではよくある話で、海岸沿いばかりの話ではないのです。

二人は後に諏訪大社創建当時の状況について様々な推測に辿り着くことになります。
もし、古代の諏訪湖が広かったという事実を見落としていたら、それらの推測は出てこなかったはずです。
でも、それはまだしばらく先の話になります。

さて、次回は第4回 「片隅にある神楽殿」 という話です。

-------------- Ichiro Futatsugi.■

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2 コメント

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Unknown (shinkai)
2010-10-26 01:45:17
こんばんは! かっての諏訪湖がそんなに大きかったとか、それに恥ずかしながら、現在の諏訪湖が海抜760mもの高さにある事も、全然知りませんでした。 面白いです、次が楽しみです!

と、ひょっとしてこの説明に使われている図ですが、二木さんがPCで描かれた物ですか?!
どうもそんな感じですが。。 凄いですねぇ、このテクニック。

次が楽しみ、と申しましたが、図を描かれるのにお時間が結構要るのではないですか?
お仕事に触りがない程度に、更新お待ちしていま~す!
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Unknown (二木一郎)
2010-10-26 16:17:21
shinkaiさん、こんにちは。

私は絵の構想を練る場合にもPCを使って画像処理をすることが多く
一日中PCはつけっぱなしにしています。
画像ソフトで写真を加工したり図を作ったりすることは、仕事の合間のいい息抜きにもなります。

5~9月はブログを休んでしまいましたので、今月は確かに飛ばし過ぎたかもしれません。
この先は、まだ考えがまとまっていない部分も多く、これからはこんなに速いペースでの更新はできそうもありません。
「州羽の海」は、今後はボチボチやって行きます。
他にも書きたい記事がありますので。
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