風色明媚

     ふうしょくめいび : 「二木一郎 日本画 ウェブサイトギャラリー」付属ブログ

コラム「風食明媚」第5話 折々のワイン 2 珠玉の一滴

2010年11月29日 | コラム「風食明媚」
コラム「風食明媚」は、かつてホームページに掲載していたものを加筆・修正したものです。
1980年代後半から1990年代前半にかけてのイタリア旅行での体験を元にした雑記集(全15話)です。

第4話 「マドンナ」に捧げた花
第3話 折々のワイン 1 駅弁のワイン
第2話 海外での話し方講座
第1話 トリュフの舞い散る皿


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トスカーナ州の州都フィレンツェを出て、古都サンジミニャーノやシエナのあるトスカーナの野へ向かう。
その中継地とでも言うべきポッジボンシという街から南へ5キロほど。
バスに揺られて目指す街の新市街に着いた。

イタリア・トスカーナ地方の大地を占める緑なす丘陵地帯。
ゆったりとした”うねり”のある地形が果てしなく続いている。
ブドウやオリーブなどの畑が綴れ織のように見え隠れしている。
その中に絶妙な配置を見せる広葉樹や糸杉の間には、石造りの素朴な家々が寄り添う小さな村が点在する。
トスカーナの野は、エデンの園の名残ではないかと錯覚するほど美しい。

そんなトスカーナの一隅、コッレ・ディ・ヴァル・デルザという街にやってきた。
小さくて特徴のない街のようだから、おそらく日本のガイドブックには載っていないだろう。

フィレンツェから乗った中距離バスは、旧市街までは入らない。
バス停のある新市街から近道の急坂を登って辿り着いた旧市街。
その旧市街の狭いチェントロの近くに建つホテル・アルノルフォ。
その地下に、目的の”リストランテ・アルノルフォ”があった。

玄関から続く狭い階段を降りていくと、白く塗られた漆喰壁の部屋が広がる。
積み石が剥き出しになっている壁の方が私は好きなのだが
これはこれで、なかなか清楚で明るい雰囲気だ。



そのしばらく前…。

「おい、良い店があったよ」

私の恩師が、車で移動中に偶然立ち寄ったリストランテのことを語り出した。
語り終えるまで、料理にもワインにも賞賛の言葉しか使わなかった。
聞きながら次第に湧き上がってくる羨ましさと妬ましさ。
私の気持ちはすぐに固まった。

「先生、その店どこにあるんですか?」
「シエナからサンジミニャーノに向かう途中だった」
「街の名前は?」
「確か、コッレ…とか言ったな」
「店の名前は?」
「う~ん…覚えてないな」
「街のどこに店があるんですか?」
「…」

恩師は、私から視線を外してつぶやいた。

「行けば誰でもすぐ分かるよ」

その言葉を信じて、街の場所だけを調べてやってきた。
泊まった新市街のホテルで「お勧めのレストランは?」と聞いてみた。

「アルノルフォ! リストランテ・アルノルフォ!」

間髪を入れずに答えが返ってきた。
呆気にとられるくらいの即答ぶりには、有無を言わせぬ説得力があった。
しかも、それ一軒しか答えなかった。
あまりの即答ぶりに私が立ち尽くしていると
受付の男性は私が聞き取れなかったと思ったらしく
紙片を取り出して店の名前を書いて渡してくれた。

目指す店は…そこ以外にはあり得ない。

紙片に書かれた”ARNOLFO”の文字を眺める私の耳に、そう直感が囁いた。


  
   1992年頃のリストランテ・アルノルフォのカード


素晴らしかった!
ブゥォーノ!(美味しい) オッティモ!(美味しい) スクゥイジート!(美味しい)
褒め言葉を全部使っても足りないくらいだった。

アルノルフォの料理は、当時の私にとっては何もかもが意外の連続。
私がそれまで経験してきたイタリア料理は、例えれば中華料理のような感覚。
味にはこだわるが、盛り付けはおおらか。
早い話が、洒落た高級店には行ったことがなかった、ということなのだが。

目の前に供されたものは、味も盛り付けも極めて繊細。
洗練の上に洗練を重ね、徹底的に磨き上げたもののように感じた。

細部までよく手入れが行き届いたトスカーナの丘陵風景がオーバーラップする。

何の文句もつけようのない美味しい料理だった。
この料理なら恩師の絶賛ぶりにも納得がいく。
わざわざ探して行くだけの価値は充分ある。
来てよかった…。
心の底からそう思った。

しかし…

しかし、目当ての料理も素晴らしかったのだが、予想外の驚くような出会いがそこには待っていた。

ソムリエが持ってきたワインボトルを見て愕然とした。
一瞬にして神経が凍りついた。
ブ…ブルネッロ…。
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノだった。
自ら指定するのは躊躇する、イタリアを代表する赤ワインであり、伝統のブランドワインだ。
オーダーしたわけではなく、お任せである。
だから値段は事前に確認していない。

見るからにお金のなさそうな若僧の東洋人であるのは、プロのソムリエなら見逃すはずはない…と思ったからだ。
おそらくこの店のカーヴにあるワインで最も手頃なものを出してくるだろう…と、当然のごとく予測していた。
手頃…とは言っても、ポリシーを持った店のようだから品質には自信を持っているはず。
キァンティ・クラシコかな、それともモンテプルチャーノあたりが出てくるかな…。
そんなことをつらつらと想像しながら、穏やかな気分で清楚な店内を眺めていたら
出てきたのは、泣く子も黙る天下のブルネッロ!

なぜ…

                                   Illustrated by my wife

失神しそうだった。

いろいろなことが走馬灯のように頭をよぎった。
清楚で明るい店内から、一気に暗黒の宇宙空間へと放り出された気がした。
命綱が切れて宇宙空間に漂う、置き去りにされた宇宙飛行士のような気分になった。

どうする?…俺。
もう一人の自分が、顔を引きつらせながら私に詰め寄った。
どうする…と言われても…。

出てきてしまったのだから、ここはもう腹を決めるしかない。
やめる、とは言い出しにくい。
度胸も語学力もない。
しかし、もし別のワインと交換できたとしても…
私の性格は私が一番よく知っている。
後々きっと後悔するだろう。
「あのブルネッロを飲んでみたかった…」
思い出すたびに、絶対後悔するに違いない。
自分からブルネッロを注文する、あるいはお任せでブルネッロが出てくる…
そのようなことは、今後二度と起こりえないだろう。
めったにない機会だし、まさか最高級品を持ってくるはずもない。
どのみちロマネ・コンティとは値段の桁が違うのだ。

そう自分を説得した。
そして決断…
いや、諦めたという方が正確だろうか。

諦める者は救われる。
ソムリエが慣れた手つきでコルクを抜き終わる頃には
私は暗黒の宇宙空間から明るい店内に戻っていた。


ラベルには、「LA CASA(ラ・カーサ)」と大書きしてある。
カーサ?…ハウスワイン?
イタリア語でハウスワインはヴィーノ・デッラ・カーサと言うのだが
高級ワインとして実力も伝統もあるブルネッロが?
ワインのラベルに「カーサ」と書いてあれば、真っ先にハウスワインを連想してしまう程度の語学力なのだ。

ジョボボボボ…。

濃い赤紫の液体が大き目のワイングラスに落下していく。
グラスの底で薄紫の泡が立った。
ドキドキしながらグラスの柄に手を伸ばした。
グラスの縁に口をつけた途端、充満していた香りが私の鼻を突き抜けた。
赤ワインの、アルコールを含んだ濃い香気に襲われて、一瞬だけ頭がクラッとするこの瞬間が私は好きだ。
ゆっくりとグラスの柄を上に持ち上げた。
赤紫の液体が、妙なる香りを引き連れて、徐々に私の口に近づいてきた。


一口飲んで驚嘆した!

旅の疲れから急速に覚醒していくのが分かった。

雑味の全くない、透明感だけを選りすぐって瓶詰めにしたようなものだった。
ソムリエのような表現ができない私には、こう言うしかない。

「恐ろしく美味しい!」

私の知っているイタリアワインとは…全然違った。
こんなものもあるのかと、ため息が出るばかりだった…。


トスカーナのワインは、イタリアで広く栽培されているサンジョヴェーゼ種というブドウを使うものが多い。
ブルネッロは、その突然変異種であるサンジョヴェーゼ・グロッソ(ブルネッロ種)を使って
1888年にトスカーナ州の古都シエーナの南東約30キロにあるモンタルチーノ村で誕生した。
誕生させたのは、現在でもブルネッロのトップブランドであるビオンディ・サンティ家。
今でもブルネッロを名乗るためには、ビオンディ・サンティ家が選んだ樹(の子孫)を使うことが法律で決められているという。

かつてヨーロッパのワイン造りに壊滅的な被害をもたらした病虫害フィロキセラ。
フィロキセラに弱いヨーロッパ原産のブドウの中でも、比較的強いのがサンジョヴェーゼ・グロッソの特徴でもあった。
ところが、病虫害に強いサンジョヴェーゼ・グロッソは濃厚で良質な果汁を持つ反面
それが仇となって、出来上がったワインは相当味がキツかったらしい。
そこで北イタリア・ピエモンテ州の銘酒バローロで使われていたオーク樽による熟成方法が採用された。
そうして、ブルネッロの輝かしい歴史が始まったようである。

そしてトスカーナでは、厳格な格付けの規格を守り伝統的な製法を継承する一方で
近年評価が一気に高まった「スーペル・トスカーナ」と呼ばれるワイン群のように
法律や格付けの規格に囚われない自由で上質なワイン造りを目指す意欲も旺盛である。

そういう前向きなトスカーナの答えの一つが、この一滴の中に込められているような気がした。

6万リラ(当時の通貨はリラ、約6000円)は、ブルネッロとしては高い方ではないと思うが
ハウスワインだとしたらあまりに破格だから、これはやはり商品名なのだろうか。

高かった…。(因みに、料理も6万リラのコース)
けれど飲んでよかった。
正直にそう思えた。
アルノルフォの料理が極めつけのトスカーナの風景だとしたら
「ラ・カーサ」は、そこに点在する糸杉の根元から湧き出る甘露だと例えたくなる。

旅先で出会うワインは、どれも一期一会である。
特定の銘柄を指名することなど、まず私はしない。
食事に添えるワインは、ほとんどハウスワインの類である。
今回もワインを探してこの街に来たのではなかった。

ブルネッロをはじめとするトスカーナ伝統のワインやスーペル・トスカーナに
どれほど優品が揃っているのか私には分からない。
トスカーナワイン通に言わせれば、「ラ・カーサ」はそれほどでもないよと言うかもしれない。
しかし、こういう予期せぬ出会いがなければ、果たしてここまで感動できたかどうか。
「出会いがしら」と言えるような衝撃的な出会いが、忘れ得ぬ感動と印象をもたらすのではないだろうか。

それにしても、このワイン…。

しばし沈黙。


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因みに

アルノルフォという名前は、この街出身の彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオから取ったものだという。
13世紀末、フィレンツェのドゥォーモ、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂を建設するにあたり
当時最も名を馳せていた彫刻家アルノルフォに設計が委ねられた。
彼のプランは現在のものより少し規模が小さかったが、基本形はほぼ同じだったらしい。
しかし8年後にアルノルフォは死去。
その後を受け継いだ彫刻家で建築家のフランチェスコ・タレンティが現在の大きさに拡張したのだそうだ。

この他、同じくフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂もアルノルフォの設計によるものと言われている。


もう一つ

この街はクリスタルで有名なのだそうだ。
後年、ワイングラスを一つ入手したのだが
その箱にはコッレ・ディ・ヴァル・デルザ製だと書いてあった。


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後日談

アルノルフォではシェフと少しだけ話ができました。
イタリア語の不自由な私の”勘ピュータ”が翻訳したところによると
シエナで料理学校の講師もしているとのことでした。
そして、一年後に日本のレストランに招待されて、一週間ほど滞在して料理を作る予定があるとか…。

池袋駅西口に近いイタリア料理店だったと記憶していますが
もちろん私は恩師や友人たちを誘って出かけました。
ドルチェが終わり、シェフが客席を回った時
握手をしながら「去年、トスカーナの店に行きましたよ」と言った(つもり)のですが
どうやら私のことは覚えていないようでした。
それでも再び日本で会うことができた奇縁に、楽しいひとときを過ごせたのでした。


…あれから20年。
1ヶ月ほど前、インターネットで初めてアルノルフォを検索してみました。
店名が、アルノルフォ・リストランテ Arnolfo Ristorante と変更されたようです。
トスカーナ州シエーナ県では唯一、ミシュランで☆☆を獲得したそうです。
そして、住所が少しだけ変わっていました。
元の店の近所に移転したようです。

シェフは、その後も何度か日本のレストランに招待されているようです。
アルノルフォを訪れる日本人も結構いるようです。
日本に縁が深いせいか、何とそのホームページには日本語版もありました!

アルノルフォ・リストランテ ホームページ

アルノルフォ・リストランテの場所(グーグルマップ)

そして、「ラ・カーサ」の正体も判りました。
モンタルチーノ北部の「テヌータ・カパルツォ(Tenuta Caparzo)」という醸造所の製品でした。
ブルネッロやロッソ・ディ・モンタルチーノなどの赤ワインのみならず、白ワインでも定評のある醸造所なのだそうです。


案の定…
その後私はブルネッロを一度も口にできていません。
今後二度と起こりえないだろう…という私の予測は、見事に的中したようです。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

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州羽の海 5 本宮の表玄関

2010年11月16日 | 夢想の古代史


「州羽の海」は、自作の小説からの抜粋という形式で長野県諏訪市にある諏訪大社について書いています。

主人公である英嶋善也と相澤深那美の二人が、諏訪大社上社本宮の北参道から境内に入り、正面玄関である東参道にやってきました。
→予告編
→第1回 出雲から来た神
→第2回 境内へ
→第3回 湖畔の社
→第4回 片隅にある神楽殿




立派な門の前に出た。
門の脇には二番目の御柱「二之柱」が立っている。
ここが上社本宮の正面入口、つまり表玄関ということらしい。

「ほう、ここが本宮の正面入口なのか。風格があるね」
「新しい北参道とは対照的ですね」
「正面玄関というだけあって立派な門があるねぇ」
「いわゆる神門(しんもん)ってやつですね。入口御門という名前だそうです」


本宮の表玄関にある入口御門です。
右側の黄土色の柱が二番目の御柱「二之柱」です。
高さは5丈(約15m)で、5丈5尺(約17m)の「一之柱」より低くなっています。
二人は、この写真の右手からやってきました。



境内案内図で位置を示すと、このように境内の左端(東端)になります。
境内案内図の左端に小さな橋のあるのが判るでしょうか?
そこには銅葺きの鳥居が建っています。



この写真は、その橋から鳥居越しに入口御門を望んだところです。
橋と鳥居は入口御門より一段高い位置にあります。



門の東側、境内の入口には大鳥居が立ち、境外には参道が延びている。
俺は鳥居の下に立って外の参道を向いた。
北参道周辺よりずっと歴史を感じる佇まいだ。

「こちらの参道は東参道というんです。これが本宮の表参道ですね」
「昔ながらの面影を残しているね」
「北参道よりは門前町という雰囲気がありますよね」

(一部省略)

俺たちは、また門の前に戻った。

「入口御門か。お寺だったら山門とか仁王門があって普通だけど、神社にも門があるんだね」
「どこの神社にも必ずあるわけじゃないですけどね」
「門の先には…廊下のようなものが続いているな」
「あの廊下のようなものは布橋(ぬのばし)と言うんだそうです。かつては最高位の神職である大祝(おおほおり)が渡る時だけ布を敷いたんだそうです」


大祝(おおほおり)とは、生き神と言われる諏訪大社最高位の神職(明治維新の神社改革で廃止)の名称です。
神の御霊を大祝に降ろす、つまり憑依させることによって生き神となるのです。
御霊を降ろすのは諏訪大社ナンバー2の神職だけが成しうる業なのですが、それについては、また後日。



入口御門の先に延びる布橋。
手前の紋入りの垂れ幕がかかっているのは入口御門で、その先が布橋です。
因みに、垂れ幕に描かれているのは上社の御神紋で
「諏訪梶(かじ)」と言って、桑科の植物である梶の木を象ったものです。
下社の御神紋は、同じ梶でも根が5本ある「明神梶」というもので、微妙に異なります。



「布橋…。橋という名前がついているのか」
「神社によっては『神橋(しんきょう)』と呼ばれる橋が設けられていることがありますから、これもそれに相当するんでしょうね」
「しんきょう…。ああ、日光東照宮の前にある有名な赤い橋も神橋と言ったな」
「そうです。神のいる領域と人間の領域との橋渡しということですね」
「橋…か」
「まあ、これはどう見ても廊下ですけどね」
「陸上の石垣の上に造られているから、一般的な意味での橋じゃないよね」
「神橋は現実の橋じゃないですから」
「神橋であり、布を敷いたから布橋と名づけられた。…でも、それだけだろうか?」
「かつて諏訪湖が間近に迫っていたことに因んだ名前なんでしょうか」
「これが本当に橋と言えるようになるためにはどうなればいい?」
「橋は川や池の上に架かっているものですから…」
「そう。下に水があればいい。橋というものは水上を渡る道だからね」
「下に水があれば名実ともに橋と言えますね」
「真下に水がなくても、水面に映るような状況だったら橋だと名づけたくなるよね」
「ということは、布橋のすぐ脇に水面が…」

諏訪大社は湖畔の社だった。
だが、創建当時の湖畔がどの位置だったのかは明確になっていない。

「布橋を支えている石垣の下が湖畔だったんじゃないか?布橋は…諏訪湖に面していたかもしれない」
「ああ…なるほど」
「当時は布橋がギリギリ湖畔だったんじゃないかな」
「そうだったかもしれませんね」
「ここから北参道の方向へは下り斜面になっているだろう?今歩いてきたところだ」
「明らかに斜面でした」
「布橋の足下の地面は元々緩い斜面で、そこに盛り土をして布橋を造ったんじゃないか?それを補強するために石垣を築いたように見える」
「入口御門は正面玄関ですから間違いなく陸上だったはずですね。その先は下り斜面ですから、布橋の少なくとも後半部が湖に面していた可能性はありますよね」
「可能性は…あると思うね」

しかし、深那美は俺の意見に頷きながらも、布橋と、境内を取り囲んでいる玉垣(塀)の方向をしきりに見比べていた。
何か気がかりがあるようだ。



布橋の後端部(「一之柱」のすぐ近く)を下段から見上げた様子です。
上段(布橋の建っている地面)と下段(石垣の下)の高低差は、この位置で3mくらいあります。

布橋は神橋と言われる社殿の一種と解釈していいとは思いますが
他所の神社の神橋に比べて異例に長いのです。
本宮が湖畔の社だったことから、布橋が単なる形式的な神橋に留まらないのではないかと感じた英嶋は
布橋は諏訪湖の湖畔に面していたのではないかと推測しているのです。
つまり、この石垣の下に諏訪湖の波が押し寄せていたのではないかと…。


しかし、諏訪大社について下調べをしてきた深那美には、布橋に関して何か気がかりなことがあるようです。

では、第6回 「布橋を渡る」 に続きます。

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秋色のひととき

2010年11月09日 | 日常雑記



月に1度長野県諏訪市で開講している日本画教室に出かけた折に
1年ぶりに蓼科高原にある「御射鹿池(みしゃがいけ)」に寄ってみました。

この池は、時々テレビコマーシャルにも登場します。
最近では今井美樹さん登場の車のCMに使われていましたが
2年ほど前、吉永小百合さんの登場した液晶テレビのCMの背景に使われた
東山魁夷の「緑響く」という作品のモデルがこの池です。




到着したのは、11月6日土曜日の午後3時過ぎ。
すでに西陽は水平方向にまで傾こうとしていました。

紅葉の最盛期は過ぎ、対岸の特徴的な浮島に生える白樺などの広葉樹はすっかり葉を落としていましたが
周囲の山々を埋め尽くす落葉松は、まだ秋の名残をとどめていました。




夕日を浴びて、色の褪せ始めた落葉松の葉が今年最後の輝きを見せます。



池の岸辺近くには、鴨の家族が。
西陽が当たっているので暖かそうに見えますが、気温は10℃ほど。



そして、諏訪市内で一泊した翌日は日本画教室。
ここでは毎回のように、生徒の皆さんが季節の風物を手に集まってきます。



生徒の一人が庭木から切り取ってきたという一枝。
これにはビックリ。
モミジがこういう斑模様に色づくのは珍しいのではないでしょうか。
少なくとも私は見たことがありません。
こういう種類なのでしょうか。
それとも、残暑が厳しかった影響でこうなったのでしょうか…。



そして、柿。
これは渋柿ですが、実は10cmほどの堂々たるもの。

そういえば、イタリア語で柿は日本語がそのまま取り入れられてCachiと書きます。
カキと読めますが、実際にはカーキと発音するようです。
イタリアではドロドロに熟し切ったものをスプーンですくって食べました(20年前の話ですが)
もちろん美味しいのですが、私は地面に落ちて潰れた状態をつい想像してしまうので、どうも…。

もうしばらくすると、柿の葉も綺麗な紅葉を見せてくれます。
柿も綺麗ですが、桜の葉の紅葉も良いものです。
諏訪の高島城のお堀端の桜も良い色に紅葉していました。

そして、間もなく厳しい冬がやってきます。
諏訪地方は寒天作りで有名なほど寒い土地なのです。
諏訪湖名物の「御神渡り」があまり見られなくなるほど冬の気温が上昇しているとは言え
それでも東京に比べれば、その寒さは半端じゃありませんから。

-------------- Ichiro Futatsugi.■

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