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風色明媚

     ふうしょくめいび : 「二木一郎 日本画 ウェブサイトギャラリー」付属ブログ

コラム「風食明媚」第5話 折々のワイン 2 珠玉の一滴

2010年11月29日 | コラム「風食明媚」
コラム「風食明媚」は、かつてホームページに掲載していたものを加筆・修正したものです。
1980年代後半から1990年代前半にかけてのイタリア旅行での体験を元にした雑記集(全15話)です。

第4話 「マドンナ」に捧げた花
第3話 折々のワイン 1 駅弁のワイン
第2話 海外での話し方講座
第1話 トリュフの舞い散る皿


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トスカーナ州の州都フィレンツェを出て、古都サンジミニャーノやシエナのあるトスカーナの野へ向かう。
その中継地とでも言うべきポッジボンシという街から南へ5キロほど。
バスに揺られて目指す街の新市街に着いた。

イタリア・トスカーナ地方の大地を占める緑なす丘陵地帯。
ゆったりとした”うねり”のある地形が果てしなく続いている。
ブドウやオリーブなどの畑が綴れ織のように見え隠れしている。
その中に絶妙な配置を見せる広葉樹や糸杉の間には、石造りの素朴な家々が寄り添う小さな村が点在する。
トスカーナの野は、エデンの園の名残ではないかと錯覚するほど美しい。

そんなトスカーナの一隅、コッレ・ディ・ヴァル・デルザという街にやってきた。
小さくて特徴のない街のようだから、おそらく日本のガイドブックには載っていないだろう。

フィレンツェから乗った中距離バスは、旧市街までは入らない。
バス停のある新市街から近道の急坂を登って辿り着いた旧市街。
その旧市街の狭いチェントロの近くに建つホテル・アルノルフォ。
その地下に、目的の”リストランテ・アルノルフォ”があった。

玄関から続く狭い階段を降りていくと、白く塗られた漆喰壁の部屋が広がる。
積み石が剥き出しになっている壁の方が私は好きなのだが
これはこれで、なかなか清楚で明るい雰囲気だ。



そのしばらく前…。

「おい、良い店があったよ」

私の恩師が、車で移動中に偶然立ち寄ったリストランテのことを語り出した。
語り終えるまで、料理にもワインにも賞賛の言葉しか使わなかった。
聞きながら次第に湧き上がってくる羨ましさと妬ましさ。
私の気持ちはすぐに固まった。

「先生、その店どこにあるんですか?」
「シエナからサンジミニャーノに向かう途中だった」
「街の名前は?」
「確か、コッレ…とか言ったな」
「店の名前は?」
「う~ん…覚えてないな」
「街のどこに店があるんですか?」
「…」

恩師は、私から視線を外してつぶやいた。

「行けば誰でもすぐ分かるよ」

その言葉を信じて、街の場所だけを調べてやってきた。
泊まった新市街のホテルで「お勧めのレストランは?」と聞いてみた。

「アルノルフォ! リストランテ・アルノルフォ!」

間髪を入れずに答えが返ってきた。
呆気にとられるくらいの即答ぶりには、有無を言わせぬ説得力があった。
しかも、それ一軒しか答えなかった。
あまりの即答ぶりに私が立ち尽くしていると
受付の男性は私が聞き取れなかったと思ったらしく
紙片を取り出して店の名前を書いて渡してくれた。

目指す店は…そこ以外にはあり得ない。

紙片に書かれた”ARNOLFO”の文字を眺める私の耳に、そう直感が囁いた。


  
   1992年頃のリストランテ・アルノルフォのカード


素晴らしかった!
ブゥォーノ!(美味しい) オッティモ!(美味しい) スクゥイジート!(美味しい)
褒め言葉を全部使っても足りないくらいだった。

アルノルフォの料理は、当時の私にとっては何もかもが意外の連続。
私がそれまで経験してきたイタリア料理は、例えれば中華料理のような感覚。
味にはこだわるが、盛り付けはおおらか。
早い話が、洒落た高級店には行ったことがなかった、ということなのだが。

目の前に供されたものは、味も盛り付けも極めて繊細。
洗練の上に洗練を重ね、徹底的に磨き上げたもののように感じた。

細部までよく手入れが行き届いたトスカーナの丘陵風景がオーバーラップする。

何の文句もつけようのない美味しい料理だった。
この料理なら恩師の絶賛ぶりにも納得がいく。
わざわざ探して行くだけの価値は充分ある。
来てよかった…。
心の底からそう思った。

しかし…

しかし、目当ての料理も素晴らしかったのだが、予想外の驚くような出会いがそこには待っていた。

ソムリエが持ってきたワインボトルを見て愕然とした。
一瞬にして神経が凍りついた。
ブ…ブルネッロ…。
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノだった。
自ら指定するのは躊躇する、イタリアを代表する赤ワインであり、伝統のブランドワインだ。
オーダーしたわけではなく、お任せである。
だから値段は事前に確認していない。

見るからにお金のなさそうな若僧の東洋人であるのは、プロのソムリエなら見逃すはずはない…と思ったからだ。
おそらくこの店のカーヴにあるワインで最も手頃なものを出してくるだろう…と、当然のごとく予測していた。
手頃…とは言っても、ポリシーを持った店のようだから品質には自信を持っているはず。
キァンティ・クラシコかな、それともモンテプルチャーノあたりが出てくるかな…。
そんなことをつらつらと想像しながら、穏やかな気分で清楚な店内を眺めていたら
出てきたのは、泣く子も黙る天下のブルネッロ!

なぜ…

                                   Illustrated by my wife

失神しそうだった。

いろいろなことが走馬灯のように頭をよぎった。
清楚で明るい店内から、一気に暗黒の宇宙空間へと放り出された気がした。
命綱が切れて宇宙空間に漂う、置き去りにされた宇宙飛行士のような気分になった。

どうする?…俺。
もう一人の自分が、顔を引きつらせながら私に詰め寄った。
どうする…と言われても…。

出てきてしまったのだから、ここはもう腹を決めるしかない。
やめる、とは言い出しにくい。
度胸も語学力もない。
しかし、もし別のワインと交換できたとしても…
私の性格は私が一番よく知っている。
後々きっと後悔するだろう。
「あのブルネッロを飲んでみたかった…」
思い出すたびに、絶対後悔するに違いない。
自分からブルネッロを注文する、あるいはお任せでブルネッロが出てくる…
そのようなことは、今後二度と起こりえないだろう。
めったにない機会だし、まさか最高級品を持ってくるはずもない。
どのみちロマネ・コンティとは値段の桁が違うのだ。

そう自分を説得した。
そして決断…
いや、諦めたという方が正確だろうか。

諦める者は救われる。
ソムリエが慣れた手つきでコルクを抜き終わる頃には
私は暗黒の宇宙空間から明るい店内に戻っていた。


ラベルには、「LA CASA(ラ・カーサ)」と大書きしてある。
カーサ?…ハウスワイン?
イタリア語でハウスワインはヴィーノ・デッラ・カーサと言うのだが
高級ワインとして実力も伝統もあるブルネッロが?
ワインのラベルに「カーサ」と書いてあれば、真っ先にハウスワインを連想してしまう程度の語学力なのだ。

ジョボボボボ…。

濃い赤紫の液体が大き目のワイングラスに落下していく。
グラスの底で薄紫の泡が立った。
ドキドキしながらグラスの柄に手を伸ばした。
グラスの縁に口をつけた途端、充満していた香りが私の鼻を突き抜けた。
赤ワインの、アルコールを含んだ濃い香気に襲われて、一瞬だけ頭がクラッとするこの瞬間が私は好きだ。
ゆっくりとグラスの柄を上に持ち上げた。
赤紫の液体が、妙なる香りを引き連れて、徐々に私の口に近づいてきた。


一口飲んで驚嘆した!

旅の疲れから急速に覚醒していくのが分かった。

雑味の全くない、透明感だけを選りすぐって瓶詰めにしたようなものだった。
ソムリエのような表現ができない私には、こう言うしかない。

「恐ろしく美味しい!」

私の知っているイタリアワインとは…全然違った。
こんなものもあるのかと、ため息が出るばかりだった…。


トスカーナのワインは、イタリアで広く栽培されているサンジョヴェーゼ種というブドウを使うものが多い。
ブルネッロは、その突然変異種であるサンジョヴェーゼ・グロッソ(ブルネッロ種)を使って
1888年にトスカーナ州の古都シエーナの南東約30キロにあるモンタルチーノ村で誕生した。
誕生させたのは、現在でもブルネッロのトップブランドであるビオンディ・サンティ家。
今でもブルネッロを名乗るためには、ビオンディ・サンティ家が選んだ樹(の子孫)を使うことが法律で決められているという。

かつてヨーロッパのワイン造りに壊滅的な被害をもたらした病虫害フィロキセラ。
フィロキセラに弱いヨーロッパ原産のブドウの中でも、比較的強いのがサンジョヴェーゼ・グロッソの特徴でもあった。
ところが、病虫害に強いサンジョヴェーゼ・グロッソは濃厚で良質な果汁を持つ反面
それが仇となって、出来上がったワインは相当味がキツかったらしい。
そこで北イタリア・ピエモンテ州の銘酒バローロで使われていたオーク樽による熟成方法が採用された。
そうして、ブルネッロの輝かしい歴史が始まったようである。

そしてトスカーナでは、厳格な格付けの規格を守り伝統的な製法を継承する一方で
近年評価が一気に高まった「スーペル・トスカーナ」と呼ばれるワイン群のように
法律や格付けの規格に囚われない自由で上質なワイン造りを目指す意欲も旺盛である。

そういう前向きなトスカーナの答えの一つが、この一滴の中に込められているような気がした。

6万リラ(当時の通貨はリラ、約6000円)は、ブルネッロとしては高い方ではないと思うが
ハウスワインだとしたらあまりに破格だから、これはやはり商品名なのだろうか。

高かった…。(因みに、料理も6万リラのコース)
けれど飲んでよかった。
正直にそう思えた。
アルノルフォの料理が極めつけのトスカーナの風景だとしたら
「ラ・カーサ」は、そこに点在する糸杉の根元から湧き出る甘露だと例えたくなる。

旅先で出会うワインは、どれも一期一会である。
特定の銘柄を指名することなど、まず私はしない。
食事に添えるワインは、ほとんどハウスワインの類である。
今回もワインを探してこの街に来たのではなかった。

ブルネッロをはじめとするトスカーナ伝統のワインやスーペル・トスカーナに
どれほど優品が揃っているのか私には分からない。
トスカーナワイン通に言わせれば、「ラ・カーサ」はそれほどでもないよと言うかもしれない。
しかし、こういう予期せぬ出会いがなければ、果たしてここまで感動できたかどうか。
「出会いがしら」と言えるような衝撃的な出会いが、忘れ得ぬ感動と印象をもたらすのではないだろうか。

それにしても、このワイン…。

しばし沈黙。


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因みに

アルノルフォという名前は、この街出身の彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオから取ったものだという。
13世紀末、フィレンツェのドゥォーモ、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂を建設するにあたり
当時最も名を馳せていた彫刻家アルノルフォに設計が委ねられた。
彼のプランは現在のものより少し規模が小さかったが、基本形はほぼ同じだったらしい。
しかし8年後にアルノルフォは死去。
その後を受け継いだ彫刻家で建築家のフランチェスコ・タレンティが現在の大きさに拡張したのだそうだ。

この他、同じくフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂もアルノルフォの設計によるものと言われている。


もう一つ

この街はクリスタルで有名なのだそうだ。
後年、ワイングラスを一つ入手したのだが
その箱にはコッレ・ディ・ヴァル・デルザ製だと書いてあった。


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後日談

アルノルフォではシェフと少しだけ話ができました。
イタリア語の不自由な私の”勘ピュータ”が翻訳したところによると
シエナで料理学校の講師もしているとのことでした。
そして、一年後に日本のレストランに招待されて、一週間ほど滞在して料理を作る予定があるとか…。

池袋駅西口に近いイタリア料理店だったと記憶していますが
もちろん私は恩師や友人たちを誘って出かけました。
ドルチェが終わり、シェフが客席を回った時
握手をしながら「去年、トスカーナの店に行きましたよ」と言った(つもり)のですが
どうやら私のことは覚えていないようでした。
それでも再び日本で会うことができた奇縁に、楽しいひとときを過ごせたのでした。


…あれから20年。
1ヶ月ほど前、インターネットで初めてアルノルフォを検索してみました。
店名が、アルノルフォ・リストランテ Arnolfo Ristorante と変更されたようです。
トスカーナ州シエーナ県では唯一、ミシュランで☆☆を獲得したそうです。
そして、住所が少しだけ変わっていました。
元の店の近所に移転したようです。

シェフは、その後も何度か日本のレストランに招待されているようです。
アルノルフォを訪れる日本人も結構いるようです。
日本に縁が深いせいか、何とそのホームページには日本語版もありました!

アルノルフォ・リストランテ ホームページ

アルノルフォ・リストランテの場所(グーグルマップ)

そして、「ラ・カーサ」の正体も判りました。
モンタルチーノ北部の「テヌータ・カパルツォ(Tenuta Caparzo)」という醸造所の製品でした。
ブルネッロやロッソ・ディ・モンタルチーノなどの赤ワインのみならず、白ワインでも定評のある醸造所なのだそうです。


案の定…
その後私はブルネッロを一度も口にできていません。
今後二度と起こりえないだろう…という私の予測は、見事に的中したようです。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

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コラム「風食明媚」第4話 「マドンナ」に捧げた花

2010年10月14日 | コラム「風食明媚」
コラム「風食明媚」は、かつてホームページに掲載していたものを加筆・修正したものです。
1980年代後半から1990年代前半にかけてのイタリア旅行での体験を元にした雑記集(全15話)です。
第3話 折々のワイン 1 駅弁のワイン
第2話 海外での話し方講座
第1話 トリュフの舞い散る皿

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霧の乱舞するトスカーナ州シエナ近郊のとある教会。
人里から隔絶し置き去りにされたような古い聖堂。

ロシア人作家ゴルチャコフが通訳を伴ってやってくる。
この教会に安置されている絵を観るためだった。
しかし、彼自身が望んで訪れたにもかかわらず、彼は教会には入らず
同行した通訳の女性エウジェニアだけが堂内に入った。

柱が林立するロマネスク様式の暗く重厚な礼拝堂内部。
淡々と過ぎ行く時間だけが唯一の話し相手であるかのように、その絵はひっそりと佇んでいた。
アーチ型の画面。
中央に聖母マリア。
両脇には天幕を引く二人の天使。
マリアは困惑したような表情を浮かべ、やや膨らんだお腹に右手をそっと当てている。

アンドレイ・タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の冒頭。
通訳の女性エウジェニアが無言で見つめる絵は…

ピエロ・デッラ・フランチェスカの「マドンナ・デル・パルト(懐妊の聖母)」


しかし、シエナ近郊のとある教会に「マドンナ」がいるのは、映画の中だけのこと。
実際の「マドンナ」は、ここから120キロほど離れた、同じトスカーナ州の片田舎に暮らして…いた。
そこは映画のように、人里から隔絶し置き去りにされたような場所ではない。
柱が林立する暗く重厚な堂内でもない。
村の鎮守の館とでも言いたいくらいの、可愛らしい礼拝堂なのだ。


トスカーナ州アレッツォから東へ向かい、サンセポルクロに至る少し手前。
トスカーナ州の、ウンブリア州との境界ぎりぎりにモンテルキという村がある。
この村の外れに、墓地を守る小さな白い礼拝堂が建っている。

さして広くもない村はずれの街道から、さらに細い糸杉の並木道を入る。
その突き当たりの墓地の入口に、その礼拝堂がある。
何も知らずに通りがかった旅行者なら、中に入ってみようとはおそらく思わないだろう。
見た目はそんな質素で地味な礼拝堂なのだ。



モンテルキ村墓地礼拝堂 カッペッラ・デル・チミテーロ 。
ここが「マドンナ」が誕生してから600年ほど暮らしていた”旧居”である。

ここは元々サンタ・マリーア・デッラ・モメンターナという名の教会だった。
ロマネスク様式のこの教会の創建時期は不明だが、1230年にはすでに建てられていたという。
入口は南に面しているが(写真の中央の四角い扉)、この部分は元々袖廊(翼廊)で
当初は西側に細長い身廊が延びていた。
つまり、写真の左側に身廊があって、その端に入口があったことになる。
18世紀後半に墓地の造成が行われた際に大改造を受け、
身廊の3分の2が取り壊された結果、現在の姿になったらしい。

モンテルキはピエロ・デッラ・フランチェスカの母親の故郷。
ピエロ自身の生誕地はサンセポルクロである。
この作品は、母の面影を写し込んだと言われるピエロの珠玉の一作。
私の恩師がこれを模写した縁から、ピエロの作品のなかでは最も親しみを感じている作品だ。
実際、この絵の前には何度か立っている。

先ほどから、”暮らして…いた”とか”旧居”とか過去形で書いてきた。
「マドンナ」は15年ほど前に修復を施され、現在は別の施設に転居してしまったからだ。
修復後の状態は写真で知ってはいるが、実物はいまだ目にする機会がないままになっている。
とは言え、私はこの作品が本来あるべき場所で見ることができた幸運な一人なのである。



ある時、サンセポルクロからバスに乗り、村の郊外で降り、数キロの道を歩いて礼拝堂に向かったことがあった。
収穫が終わり、ただの野原と化した畑が一面に広がっている。
それ以外は、特に何もない。
このあたりはトスカーナとしてはあまり特徴のない景観だ。
フィレンツェ以南に広がる、糸杉とブドウ畑が織り成す夢のような丘陵地帯とはだいぶ異なる。
ごく平凡な田舎のたたずまいだ。

道すがらマメ科の花を見つけた。
えんどう豆のそれに似た花だった。
花の最盛期はとうに過ぎていて、他に咲いているものは見当たらなかった。
お花摘みの趣味はないのだが、なぜか何気なく一輪摘み取った。

小さな集落を抜けて礼拝堂の前に来た。
何度見ても相変わらず人目を引かない建物だ。
壁はすべて漆喰が塗られ、私の好きな石組みは見えない。
内部も外観と同様に白い漆喰で塗り込まれ、白い空間が静かに佇んでいる。

その狭い堂内の質素な祭壇の壁には、高さ2メートルほどのアーチ型のその絵だけがポツリとある。
大聖堂の祭壇画のような壮麗さは微塵もない。
聖母マリアと二人の天使だけが、再来した私を今日も静かに見おろしているだけだ。


祭壇の脇に管理人と思しき初老の女性がいた。
普段は…少なくとも私が今まで訪れた時、そういう人はいなかったような気もする。
いたのかもしれないが、その時に限って真っ先に気づいたのである。

次の瞬間、私は意外な行動に出た。
思わず私は、その女性に歩み寄った。
そして、さきほど摘み取った花を差し出した。

「これをマドンナに供えてください」

正しいイタリア語ではなかったはずだが、通じたらしく、その女性は頷いて花を受け取ってくれた。

自分の予想外の行動に、自分自身が呆気にとられた。
そのようなことをする意思など、その瞬間まで全くなかったのだが…。
なぜか「マドンナ」に花を手向けたい気になったのだ。

私はクリスチャンでも何でもない。
「マドンナ」は馴染みがあって愛着のある作品ではあるが、特別好きというわけでもない。
普段しないようなことをしてみようと意識したわけでもなかった。
訪れた数々の教会でも、街角の礼拝所でも、何かを供えたことは後にも先にもこれ1回きりだ。
いったい何が私をこういう行動に駆り立てたのだろうか。


私が花を手向けて間もなく「マドンナ」の修復が始まったという。
修復前の「マドンナ」の姿は、それが見納めとなった。
元の姿のまま、居るべき場所では二度と見ることができないことを、何かが知らせようとしたのだろうか
縁あって顔見知りになった人が急に入院して居なくなることを告げる「虫の知らせ」のようにも思えてくる。
しばしのご無沙汰の挨拶代わりに、何かが私に花を手向けさせたのかもしれない。

しかし、しばしのご無沙汰のつもりが…そのまま20年が経過してしまった。
入院中のお見舞いも、退院後のお祝いも、何もできないまま時だけが過ぎた。

風の便りに…
「マドンナ」は現在「マドンナ・デル・パルト美術館」に暮らしていると聞いた。

今度「マドンナ」に再会する時が来たら
再生し復活したお祝いの花を、再び摘んで行かねばならないだろう。


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追記

私には、ある朧げな記憶があります。
モンテルキにある、廃校だった建物で開かれた「マドンナ」に関する展覧会を見た記憶が…。
もちろん修復前のことです。
もしかしたら、修復に先立って「マドンナ」の来歴や事前調査の結果などを展示していたのかもしれません。
それが、「マドンナ」に花を手向ける前だったのか後だったのかは覚えていません。
なにぶん20年前のことでもあり、もはや記憶が定かではありません。

はっきり覚えているのは…
その建物は、私の恩師がモンテルキで個展を開いた際
日本から到着した作品の荷解きをした場所なのです。
私は作品が間もなく到着するとの連絡を受け
待機していたアレッツォから急ぎタクシーでモンテルキに駆けつけ
覚えている限りのイタリア語の単語を駆使して、村役場で荷解きの場所を聞いたものでした。

その建物は、素っ気ないくらいに四角四面の小さなもので
村の中心部から急坂を降り、緩やかな傾斜に変わってすぐのあたりで、花壇らしき前庭がありました。


モンテルキ村墓地礼拝堂の前より(1989年)

この写真は、墓地礼拝堂から村の中心部を眺めたところです。
写真の右側に見える丘が中心部です。
恩師の作品の荷解きをした廃校は丘の向こう側にあります。
そして、「マドンナ」の美術館も廃校を改装したものだと聞いています。

モンテルキのような小さな村に、廃校がいくつもあるとは思えません。
もしかしたら…。

-------------- Ichiro Futatsugi.■

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コラム「風食明媚」第3話  折々のワイン 1 駅弁のワイン

2007年11月07日 | コラム「風食明媚」
コラム「風食明媚」は、かつてホームページに掲載していたものを加筆・修正したものです。
1980年代後半から1990年代前半にかけてのイタリア旅行での体験を元にした雑記集(全15話)です。
第2話 海外での話し方講座
第1話 トリュフの舞い散る皿

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首都ローマのスタツィオーネ・テェントラーレ(中央駅)はテルミニ駅だ。
イタリアの大都市の中央駅は大抵そうだと思うが、駅がいわゆる幹線上にはない。
幹線から引き込み線に枝分かれし、その先の行き止まりに駅がある。
ミラノ・チェントラーレ
フィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ
ヴェネチア・サンタルチア…
それらは皆そうだ。
ローマを通過する幹線上にはローマ・ティブルティーナという駅があり
テルミニ駅は、やはり引き込み線のように枝分かれした先にある。
つまり、ここで完全に行き止まりになっているのだ。

「始発駅」「終着駅」には特別の雰囲気がある。
東京駅や上野駅などもそういう駅ではあるが、すべての線路がそこで終わっているわけではない。
私のように地方から上京した者には、「始発駅」「終着駅」という感慨は強くあるのだが
完全にそこで行き止まりではないから、そういう想いも100%抱くことはできない。
テルミニ駅では「始発駅」「終着駅」という言葉が俄然リアリティを帯びてくる。


ここで列車を待っていたある日、昼食を買っておこうとホームをブラブラしていた。
屋台のような移動式売店を覗いたら、見覚えのある文字が目に止まった。
古代メソポタミアの楔形文字のような形だったが、それは明らかに漢字だった。

その文字は「駅弁」と読めた。
エキベン?

テルミニの「駅弁」を最初に見かけたのは1990年頃だったと思う。
「駅弁」と表示されたコーナーには、質素な紙袋がいくつか置いてあるだけだった。
食べ物と飲み物を適当に見繕って紙袋に詰めてあるらしい。
日本人旅行者が多いからなのか、漢字の珍しさに惹かれて書いてみただけなのかは分からない。
どこから「駅弁」という日本語を仕入れてきたのかと思いながら、包みを開けてみた。



イタリアを旅していて頭を悩ますことの一つが昼食である。
お腹は空いているが軽く済ませたい…こういう場合は選択肢が極端に狭くなる。
日本人は私も含めてそうしたい人が多いだろう。
蕎麦やうどんだけでいい…だからパスタ一皿だけでいい…と。
しかし、これが難題である。
一般のリストランテやトラットリアは最低限のコース料理を前提としている。
不可能ではないらしいのだが、パスタ一皿だけとは注文し難い。
少なくとも私はそう言い張る心臓は持っていない。
だから結局はバールでパン類を調達するしかない。



 ウンブリア州スペッロ近郊


紙袋を開けて、思わず口元がほころんだ。
中身はほぼ予想の通りだったからだ。
焼いたチキン、パン、サラダ…などと、お手軽な食べ物がセットされている。
バールのメニューと大差ないが、列車の中だから贅沢は言えない。

最後に袋の奥からテトラパックが一つ出てきた。
牛乳?…と条件反射のように思うのは私だけだろうか。

そういえば最近テトラパックを見かけなくなった。
紙パック入りの牛乳は、大きいものも小さいものも四角いものばかりになった。
私の世代の学校給食の牛乳は、最初はアルミのお椀に注がれた脱脂粉乳だった。
「豚の餌」と揶揄されていたものだった。
元々は家畜飼料用として輸入されていたものだから、本当の話なのだ。
それが、瓶入り、テトラパック入りと変わっていった。
テトラパックは、だいぶ永いこと続いたように記憶する。

イタリアにもあるんだな…と
私は無意識の内に、パックの文字の中に”Latte(牛乳)”という単語を探していた。

しかし、どこにも見当たらなかった。
その代わり”Vino Rosso”と控えめに書いてあった。

ヴィーノ・ロッソ(赤ワイン)!
そうだった…。

この時私は、うかつにも今自分がどこにいるのかを忘れていた。
軽食とは言え、食事をしながら牛乳を飲むようなお国柄ではなかった。

なるほど!
妙に納得し、ちょっぴり感動した。
ワイン大国イタリアにはテトラパック入りのワインまであるのだ。
テトラパック=牛乳という日本人的発想に苦笑いをしながら一口すすってみた。

悪くない!

またもや驚かされた。
予想を遥かに超える美味しさだったからだ。

テトラパック入りのワインに誰が期待するだろうか。
このワインはおそらくタダ同然の値段のはずだ。
たかが駅弁に添えられたテトラパック入りのワインである。
名も知られることのないワインなのだろう。
ワインは生活とは切り離せないものだから、イタリア人はワインに神経を使う。
とは言え、駅弁のワインにまでは気を使えない…。
イタリア人とてそう考えるに違いない。
そんな発想しかできない私は、いかにも貧しく浅はかだった。

たかが駅弁のワイン…。
されどワインはワイン!
痩せても枯れてもワインと名乗る以上、多少味は落ちても、絶対に本物のワインでなくてはならぬ!
テトラパックの中からイタリア人の叫びが聞こえてくるようだった。

ボトル詰めでこれより不味いものは日本にはたくさんある。
イタリアのワイン文化の底力が身にしみた経験だった。
文化は底辺からの支えがあって初めて成り立つことを改めて思い知らされた。


あの「駅弁」今もあるのだろうか。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

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コラム「風食明媚」第2話  海外での話し方講座

2007年11月07日 | コラム「風食明媚」
コラム「風食明媚」は、かつてホームページに掲載していたものを加筆・修正したものです。
1980年代後半から1990年代前半にかけてのイタリア旅行での体験を元にした雑記集(全15話)です。
第1話 トリュフの舞い散る皿

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コミュニケーションの基本は言葉である。
だが国内ならばともかく、海外ではそう簡単にはいかない。
言葉なんかできなくても何とかなるよ、と人は言うけれど。

最初の旅では、イタリア語の勉強を全くしなかった。
「ボン・ジョルノ」と「グラッツィエ」、本当にこれ位しか知らなかった。
数も数えることができない。
英語も全く自信のない典型的な日本人旅行者だ。

想像以上に不便さを感じ、2度目からは多少の勉強をした。
もちろん一夜漬け程度で不自由なく話せるはずはない。
今自分が何をしたいか相手に伝えるための例文を覚える程度で精一杯だ。
それでも僅かでも言葉を知っていると、気持ちはだいぶ軽くなるものだ。

そして一度でも通じた感動を味わうと
イタリア語をマスターしたかのような、身の程知らずな錯覚を抱くのは
私という人間の調子の良さと、浅ましさなのだろう。



 アッシジ、サンタ・マリア・マジョーレ聖堂付近


田舎街で美術館へ行く道が分からなくなった。
たまたま地図を持っておらず、誰かに聞くしかない。

「この近くに○○美術館はありますか? どう行けばいいですか?」

こういうのは旅行用会話集には必ず載っている例文だ。
是非覚えておきたい会話のランキングでは最高ランクの一つだ。
私もこの手の例文を重点的に覚えた。
本に付属のカセットテープ(古い話で恐縮ですが)で発音も確認している。
発音が悪いとなかなか通じないというのは、英語で何度か経験していた。

まずは心の中で反復して、言うべきことをしっかり確認する。
念のため会話集を片手に握り締め、通りがかりの人に声をかけた。

予定していた言葉はすべて言えた。
発音にも充分注意した。
相手も頷きながら聞いている。
どうやら通じているようだと安心した。

だが、これがまずかった!

私の質問を聞き終わるや、相手は待っていたかのように喋り始めた。
イタリア人としては早口ではなかったが、答えが予想以上に長いのだ。
私が期待した答えは…。
「ここをまっすぐ行く。二つ目の角を左。バールがあったら右へ行く。そこから100mだ」といった調子だ。
その程度の答えなら何とか翻訳できる知識はあった。
しかし、それらしい言葉は出てきていない。

相手の話はまだ続いている。
道順を教えるのに、なぜそんなに長々と話さなければならないのか。
しかもイタリア語が理解できるかどうかも知れない外国人に対してだ。


イタリア人は親切で話好き。
そういうことは、ガイドブックにも書いてある。
もしかしたらこの人は、この街の由来から始まって
美術館の作品解説まで話して聞かせてくれているのだろうか。
もしそうだとしたら誠に申し訳ない限りだ。
もっと正直に言えば、嬉しいけれど迷惑でもある。
私のイタリア語会話は基本的に一方通行なのだ。
言いたいことをとにかく言って
相手の答えを勘と気合で翻訳するしか仕方がないレベルなのだ。

念仏を聞く馬のように…。
私は呆然と立ち尽くすばかりだった。
とにかくこのままでは埒があかない。
せっかくの好意を裏切るつもりはないが、とりあえず口を挟んだ。

「すみません。私はイタリア語はよく判らないのですが…」
これも使い勝手のある例文として覚えておいたものだ。
私はまた精一杯滑らかに伝えた。

相手は怪訝そうな顔を見せた。
それでもまた、ひとしきり話してからようやく終えた。
何とか道順は理解できた。
「ご親切に、ありがとうございました」
私は複雑な気持ちでお礼を述べた。


これは大きな教訓であった。
私は出来る限り流暢なイタリア語に近づこうとした。
そうしないと通じないと考えたからである。
努力が実って通じたのはいいが、相手は私がイタリア語を話せると勘違いしてしまったようだ。
だからあれだけいろいろ話してきたのだ。

これ以来、私はスラスラ言える言葉でも意図的にたどたどしく話すように心掛けた。
会話集を相手に見せながら話すのも正解だろう。
『こいつはイタリア語ができないな』
それを相手に理解させることがまず大切である。

イタリア語が満足に話せないことを相手に正確に伝えるのは大切なことだ。
だが、「私はイタリア語が話せません」と流暢なイタリア語で喋ったら相手はどう思うか。
『ちゃんと話してるじゃないか。何を言ってるんだ?』
誤解と混乱を生むだけだ。


旅行者の中には徹頭徹尾日本語だけで押し通す猛者もいるらしい。
私も是非そういう心臓が欲しいものである。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

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コラム「風食明媚」第1話  トリュフの舞い散る皿

2007年11月07日 | コラム「風食明媚」
はじめに・・・

このコラム「風食明媚」は、ブログ開設以前にホームページに掲載していたものです。
全15話あり、加筆・修正の上、順々に掲載していきます。

これはイタリア取材中に感じたり体験したことを
ただ単純に、思いつくままに書き記しただけのものです。
一夜漬けのイタリア語を命綱に旅をした
心細げな普通の旅行者の、他愛のない旅行雑記に過ぎません。

名所案内でも、旨いものガイドでもありません。
ましてや私の絵画観といったようなものは
何も書いてありませんし、書くつもりもありません。

ひょっとすると
私が作品を描くための原動力らしきものが
あるいは含まれて…いないでしょうね、たぶん。
単なる雑文ですから。

これらは、1980年代後半から90年代半ばにかけての話です。

※ブログタイトルの「風色明媚」と、この記事「風食明媚」は一字違いです。
打ち間違いではありませんので、念のため。


**************************************



真冬の夜。
アッシジの石畳からは意外にも人通りが途絶えてしまう。
通行人が一人もいない。
この世界的な観光地でもある小さな街の昼間は、巡礼者の絶えない聖地そのままの賑わいなのだが
夜のあまりの変貌ぶりに、裏切られたような困惑すら覚えるほどだ。
猫さえも横切らない。
薄暗い最少限の街灯と夜風だけが道連れだ。
イタリア中部の丘陵都市の本来の姿とはこういうものなのだ。

時折家並みが途切れると、眼下に佇む新市街サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリの街灯りが一望できる。
道の街灯は過ぎ去っても、遠くの街明かりだけはいつまでもついてきてくれる。
新市街の街明かりの方を振り向くたびに、首筋に冷たい外気が容赦なく侵入する。
誰一人すれ違う人がいない真冬の暗い石畳の道では、冷えた夜風が一層冷たく感じられる。

そんな夜、リストランテ・ブーカ・ディ・サンフランチェスコという店にいた。

次の皿はパスタ。
タリアテッレ・アル・タルトゥーフォだ。
タルトゥーフォとはトリュフのことである。
トリュフの入った、きし麺状のパスタである。
それが季節の特別料理としてメニューにあった。

給仕人の運んできた皿からは、微塵切りのトリュフのいい香りが漂っている。
私はゆっくりフォークに手を伸ばそうとした…
その時だった。
給仕人がおもむろに何かを取り出し、皿の上に手をかざして動かし始めたのである。

皿の中に丸い薄切りが散り始めた。

トリュフだった。



  アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂の回廊


反射的に私は緊張した。
その瞬間まで、この料理に入っているトリュフは
ソースに混ぜ込んだ微塵切りだけだと思い込んでいたのだ。
それまで2度ほど食べたものは皆そうだったからだ。
薄切りを散らす食べ方もあることは、知識としては知っていたけれど…。

金箔を振りかけられても驚きはしない。
しかし、この得体の知れない風体をしたキノコは別格だ。
トリュフの価格が頭をよぎって青くなった。

先ほどメニューで確かめた値段は、本当にこの料理のものだったのか。
うっかり見間違えたのかもしれない。
不安と恐怖が一気に襲ってきた。
12000リラ( 当時の通貨はリラ。約1200円 )と書いてあったはずなのだが…。
ちゃんと値段を確かめたと確信したからこそ、意気揚々とオーダーできたのだ。

「トリュフトリュフと騒いでも、この値段ならたいしたことないじゃないか」

さすがに産地だけあって、私でさえ気楽にオーダーできる。
特別料理と言う割には安いな…とは感じたが
特別イコール高価という図式が必ずしも成立するとは限らない。

トリュフが散り始めた刹那、先ほどまでの余裕は瞬間冷凍された。
自信喪失、全身萎縮…。
放心状態の一歩手前といったところだ。
しかし、すでにキャンセルできる段階ではない。
今私の財布の中には数万円分のリラが入っているから、よもや足りないことはないだろう。

舞い散りながら増えていくトリュフを眺めつつ、私は覚悟を決めた。
明日から節約すれば何とかなるだろう、と。
そんな月並みな覚悟をした…またその時だった。
給仕人がこちらを振り向き、何も言わずに探るような顔をして手を止めた。
私は怯えた目を給仕人に向けた。

"トリュフの量は、これで充分か?"と、その顔に書いてあった。
その場の空気や人の表情を読めない私が、奇跡的にそれを読み取ることができたのだ。
こういう状況では五感が鋭くなるものである。

私は泣きそうになるのを堪えながら、努めて冷静に答えた。
「バスタ、グラッツィエ(充分です)」


トリュフの香りが私の心を鎮めてくれた。
追加された薄切りは2枚や3枚ではない。
至福の一皿だった。
バターの風味が加わって、トリュフの特色に厚みが増したその味は何とも心地良かった。
私は束の間の官能の世界に酔いしれた。
やっぱりトリュフは素晴らしい!
無用な動揺は消え去り、私はゆっくりと堪能することができた。

レシートにはイタリア人独特の癖のある数字で、ちゃんと12000リラと書いてあった。



世界三大珍味という言葉は、つとに有名である。
フォアグラとキャビア、それにトリュフ。
これらは日常の私とは無縁な高級食材である。

この内、私はフォアグラが苦手である。
肉好き脂身好きなのに、なぜかフォアグラだけは味がきつくて完食できないのだ。
キャビアは好きである。
が、サメの卵にあまり執着がないのは山国育ちだからだろうか。

その点トリュフは大好きである。
いつも秋になるとトリュフの姿と香りが気になってくる。
しかし、日本ではオーダーする度胸はない。

イタリアのキノコといえば、ポルチーニが筆頭だろうか。
オボリという摩訶不思議なキノコもある。
『香りマツタケ、味シメジ』に倣うなら
香りトリュフ、味ポルチーニといったところだろう。

イタリアはトリュフ大国であり、アッシジのあるウンブリア州は代表的な産地の一つである。
もちろん品質によって価格には大きな格差がある。
貴重な白トリュフなどは、めったに口にできない。
今まで私が白トリュフを口にできたのは一回だけ、しかも自腹ではない。
普通の黒トリュフでも、上質のものはやっぱり高い。
しかし並みの黒トリュフだったら尻込みするほど高嶺の花ではないのだ。
この地域では比較的安価で食べさせてくれるのがうれしい限りだ。

私は初めて食べるまで、トリュフというものは内部まで黒い塊だと思い込んでいた。
フランス料理の写真に写っているのは、決まって黒い炭の欠片のような色ばかりだからだ。
確かに表面は黒っぽいが、中身は白トリュフかと勘違いするほど淡い色なのには驚いた。
ひょっとして、フランス産はイタリア産より色黒なのだろうか。

重ねて言うが、日本ではオーダーする度胸はない。
そしてイタリアでも、軽々しく「タルトゥーフォ・ビアンコ(白トリュフ)」とオーダーしてはいけない。

トリュフは白くなるが、顔色は本当に青くなるし、財布の中身は一瞬にして透明になってしまうからだ。


-------------- Ichiro Futatsugi.■


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