風色明媚

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諏訪大社への序章

2009年04月11日 | 夢想の古代史
(「夢想 私の名前」からの続き)

他に合理的な解釈があるのなら教えて欲しいと思うような漢字。

その一つが  である。

偏の”舟”は単独でも”ふね”と読む独立した漢字なのだから、人や物を乗せて水上を運ぶ乗り物という意味の漢字は”舟”だけでもよかったはずである。
それなのに、なぜ”八”と”口”を組み合わせた文字を作ったのだろうか。
八つの口がある舟?
八つの乗船口がある舟という解釈では何を示しているのか判らず説得力がない。
ヤツメウナギという生き物はいるが、八つの口がある舟など意味不明としか言いようがない。

ここに「船」という漢字の成り立ちについて一つの解釈がある。
マービン・トケイヤーという人物の著書に記載されている説である。
彼はユダヤ教のラビ(教師)である。
”人口”という言葉が人の数を示すことから、”口”は数だと解釈できる。
すると”八”と”口”は8人と解釈できることになる。
つまり、「船」という文字は8人が乗った舟ということを現していると解釈できるのだ。
8人が乗った舟とは何のことか?
旧約聖書を読んだことのある人なら、何か思い当たることはないだろうか?
旧約聖書には8人の乗った舟のことがはっきりと記載されている。
聖書を読んだことがない人でも誰でも知っているほど逸話である。

神はある時、40日40夜に及ぶ滝のような大雨を降らせ地上をことごとく水没させた。
神の言葉を信じる敬虔な預言者とその家族8人、そして一つがいずつの動物たちだけは巨大な舟に乗って生き延びることができた。
ノアの大洪水である。
8人が乗った舟とはノアの箱舟のことだと解釈できるのである。
もし「船」という文字の成立に聖書を知る者が関わっていなかったのなら、なぜ”舟”と”八”と”口”を組み合わせなければならなかったのか。
他に合理的な解釈があるのなら是非とも教えて欲しいものである。


中国には多数のユダヤ人が存在していた。
シルクロードの交易で商人として大きな役割を果たしてきたのがユダヤ人である。
永い間多数のユダヤ人がシルクロードを往来していた。
ユダヤ人なら旧約聖書を知らぬ者はありえない。
それは必ずしも商人ばかりではなかっただろう。
一部の漢字の成立にはユダヤ人、あるいは少なくとも旧約聖書を知る者が関わっていたのではないか…。
これはごく自然な疑問なのではないかと私は思う。

そして、中国に多数存在していたユダヤ人が海を越えて日本に来たかもしれない…という説は果たして荒唐無稽な夢物語なのだろうか。
それは今のところ証明はされていない。
しかし、証明されていないからユダヤ人は来なかったという結論にはならない。

「夢想 私の名前」に書いたように、私の名前と聖書の記述との関連性など何もない。
しかし、古代日本人と聖書を熟知する人々である古代ユダヤ人との関連性は、昔からずっと議論されてきた。
世間一般の学者は無視しているが、それを日ユ同祖論という。
日ユ同祖論とは、古代日本に古代ユダヤ人が渡ってきたという説である。
日本には幾多の伝統文化が継承されているが、中には日本人自身にも意味が判らない不可解なものも多い。
それらの中にはユダヤの習慣・言語で解釈すると意味の通ってくるものが少なくないらしい。


私の故郷に程近い長野県諏訪市にある諏訪大社は日ユ同祖論を語る上で最重要ポイントの一つとされている。
奇祭「御柱祭」で有名な諏訪大社である。
私はイタリアの教会などをよく描くためにキリスト教を避けては通れない。
キリスト教から、その母体となったユダヤ教を調べていく内に日ユ同祖論と出会った。
その日ユ同祖論における最重要ポイントが諏訪大社と知って、3年ほど前から度々諏訪大社に出向いている。

子細に見ていくと諏訪大社は実に面白く、また不可解な神社である。

諏訪大社の中心である上社(かみしゃ)本宮(ほんみや)の拝殿は、なぜご神体である守屋山に向いていないのか?
上社本宮と上社前宮(まえみや)の御柱の配置は同じなのか?それとも意図的に変えたのか?
上社本宮の正面入口である東参道は元々メインの参道ではなかった?
御柱祭の陰に隠れたもう一つの奇祭「御頭祭(おんとうさい)」の舞台となっている前宮は陸の孤島だった?
古代の諏訪に侵入した出雲族と諏訪の原住民「守矢氏」の戦いは本当にあったのか?
諏訪大社の祭神である出雲出身のタケミナカタの影が異常に薄いのはなぜか?
諏訪大社の№2の神職であり筆頭神官だった「守矢家」の家紋は何を意味しているのか?
「守矢氏」が信仰した山は、なぜわざわざ違う漢字を当てて「守屋山」と名づけられたのか?

調べるにつれて数々の疑問点が浮かび上がってくるのである。

いずれの神社にもそれぞれの辿ってきた歴史があるのだが、時代を遡るにつれて真相が次第に霧に包まれていくのである。
特に創建当時の事情などは、神話という形で語られるだけのものがほとんどだ。
これは何も諏訪大社に限ったことではない。
それでも諏訪大社に注目したのは、私の故郷に近いということも理由の一つだが
やはり昔から指摘され続けてきた「御頭祭」と旧約聖書の「イサク奉献」が酷似している点にある。

諏訪大社を調べる上で最初から日ユ同祖論を念頭に置くのは、あるいは道を誤る要因かもしれない。
しかし、こういうきっかけがなかったら諏訪大社に何度も出向くことはなかった。
これからも疑問が湧くたびに諏訪大社に足を運ぶことになるだろう。

最近ようやく度重なる取材を経て諏訪大社について私なりの解釈が少しずつできてきたので、これから折に触れて紹介していこうと思う。

-------------- Ichiro Futatsugi.■


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