★「神社とは何か(2)」のつづき
こうした神社観は従来のものとかなり違うので、もしもこれが広く受け容れられれば、神社のイメージを大きく変えるだろう。しかし率直な疑問として、例えば大和の大神神社は三輪山を神体としているので本殿がないが、当社は現在、宗教法人登録されているのはもちろん、神社庁からは別表神社にも指定されている。これほどの神社が「神社」ではないのだろうか。
井上はこうしたことについて次のように述べている。
「これまで見てきたように、常設神殿の創出や祭神の改編と固定化、あるいは官社としての位置づけなど、律令制の成立にともなって成立した「神社」は、それ以前とは大きく異なるものであった。しかし、人びとの神々との具体的なかかわりかた、あるいはその信仰内容という点からすると、そこに明らかな連続性も認められる。祭神を祭るための常設神殿が設けられ、常時そこに神が鎮座するとされるにもかかわらず、依然として神は目に見えないものとされ、祭礼の度ごとに神楽や奏楽などによって神を招き降ろすための儀礼が必要とされたことなどは、そのもっともわかりやすい一例といえよう。
そうしたこともあって、律令政府の思惑やたびたびの命令にもかかわらず、官社としての神社の実態、とりわけ常設神殿の造営が容易に進まなかったことを指摘しておかなくてはならない。藤原氏の氏神として、あるいは春日造りの神殿形式などで知られる大和の春日大社の神殿が八世紀後半の神護景雲二年(七六八)になってようやく創建された(「神社」として整備された)というのも、その一例である。」
・前掲書p43~44
「その結果として常設神殿が存在しないなど、本来の神社としての条件を備えていない、いわば非「神社」ともいうべき施設が多数を占めた。そのため「神社」という概念そのものがきわめて曖昧なものとなってしまった。これは、律令政府の掲げる理念や目標・建て前と社会の実態とのズレという、より本質的な問題とも密接に関わるところで、律令政府がその当初からきわめて深刻な問題を抱えて出発したことを示すものとして注目される。
律令政府としてはこれを放置することができず、律令制を維持・運営していくための新たな対応策を講じなければならなかった。八世紀末から九世紀以後における古代神社制度の転換は、そうした律令制の対応を示すものであったといえる。
古代神社のありかたが大きく変化した最初は、平城京から長岡京を経て平安京への遷都がおこなわれていた直後の延暦十七年(七九八)のことである。
それまでの官社を、官幣社と国幣社とに分け、地方の神社を神祇官ではなく各国の国司の管轄下に置くこととした。また、これにともなって、祈年祭の班幣も国幣社に関しては国司からおこなわせることとした。これは、桓武朝期における律令制再建築の一環をなすもので、地方の実情をよく知る国司を動員することによって律令政府のめざす神社整備の政策を推進しようとしたものであった。
この政策はそれなりの誠功を収め、これ以後官社(官国幣社)の整備はおおいに進み、常設神殿をもつ神社が一般的となっていった。」
・前掲書p45~46
とあるのだが、だとすれば康保四年(967)に施行された律令の施行細則に当たる『延喜式』の神名帳に登載された神社にはすべて社殿がなければおかしい。しかし、式内社の中には大神神社をはじめ、現在でも本殿の代わりに山や岩石を神体として祀るものが少なからずあるのである(『延喜式』が制定された頃は、現在よりさらに多かったろう)。
【本殿がなく、自然物を神体として祀る式内社の例】
若狭国遠敷郡の弥和神社
神社の施設はこの簡素な拝所だけ
神体は背後にある野木山
野木山
陸奥国桃生郡の石神社
常陸国那賀郡の石船神社
社殿は拝殿だけで本殿はなく、瑞垣で囲われた大石が祀られている
瑞垣の中の大石
加賀国江沼郡の宮村いそ(「山」へんに「石」)部神社
本殿はなく、瑞垣で六角形に囲まれた神地が拝されている
神地の中には樹木が生え、その根元には神霊が寄り付いた石があるという
対馬上県郡の天神多久頭魂神社
本殿はなく、天道山と呼ばれる神体山を廃する遙拝施設があるだけ
遙拝施設
神体山の天道山
二基の石塔は対馬の天道信仰に特有のもの
もしも常設神殿の造営によって、それまでの自然物を祀っていた神社との間に断絶を生じさせ、新たに「神社」を成立させることが律令政府の方針であったとすれば、何故こうした神社が『延喜式』神名帳に載っているのだろうか。むしろ積極的にそこから排除されてもおかしくないのではないか。しかも、それら本殿のない式内社の中には大神神社をはじめ、諏訪大社(上社本宮)、金鑚神社など、明神大社に列する等、極めて神階の高いものがあるのだ(ちなみに、大神神社は中世期においても二十二社に加列している。)。
「神社とは何か(4)」につづく