神社の世紀

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飛鳥の神がみ:飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(1/2)

2011年01月06日 03時00分00秒 | 飛鳥の神がみ

 寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)は二度、即位している。最初は皇極天皇として、二度目は斉明天皇として。もともとは舒明天皇の皇后であったが、夫の没後、その後を襲って皇極天皇として即位したのが最初の即位。大化改新の勃発により孝徳天皇に譲位したが、孝徳帝の没後、重祚して斉明天皇となったのが二度目のそれである。

 『日本書紀』の記事によれば斉明女帝は大規模な土木工事を好み、香具山の西から運河(渠)を掘らせて工事に必要な石材を石上山から運んだという。石上山の正確な所在はわかっていないが、石上神宮の付近であったと推定されている。かなり長い運河だ。過酷な労役を恨んだ当時の人民は、この運河を「狂心の渠」とそしった。相有馬皇子の変などあって迎えた晩年は唐・新羅に攻められた百済のため、自ら軍勢を率いて救援に向かったが、その途中、遠征先の北九州で急死。在位中は内外に強烈な存在感を示し、神功皇后伝説のモデルになったとも言われる。

 これに対し、皇極帝は斉明天皇と同一人物とは思えないほど『日本書紀』から伝わってくる個性は弱い。当時、政治の実権は蘇我氏が完全に握っていたので、その陰に隠れてしまったせいだろうが、その中において皇極天皇元年に行われた祈雨儀式の記事だけが印象的である。

 それによると、この年の6~7月に全国的なかんばつがあり、民間の雨乞いや仏教による請雨法も効果がなかった。ところが八月一日に天皇が「南淵の河上」に行幸して、跪いて四方を拝してから、天を仰いで祈雨すると、雷が鳴って大雨が降り出し、それが5日続いたので天下が潤い、当時の百姓は万歳を唱え、皇極を「至徳まします天皇」と讃えたという

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(遠景)

 皇極帝が祈雨した場所は、大和国高市郡の式内社、「飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかかわかみにますうすたきひめのみこと・じんじゃ)」とされる。現在、奈良県高市郡明日香村稲淵に同名の神社が鎮座しており、とうがい式内社に比定されている。この現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は飛鳥川の上流に当たる稲淵川に面した山の斜面に鎮座し、下の道路から社殿まで行き着くには、長い石段をまっすぐに上らなければならない。石段の終わりからはさらにS字型の参道が続いており、スイッチバックするように一度、回り込んでから境内に導かれる。直線状の長い石段と、蛇行する参道によって、2つの異質な空間が組み合わされる構成の面白みは特筆に値する。境内に入ると稲淵川から立ち上るせせらぎと野鳥の声しか耳に入らない。この澄みきった静けさと清浄な気分は一度、訪れると忘れられなくなる。

鄙びた社頭の風景

社頭からは長い石段が続く
ちなみにこの社頭には鳥居がなく、ちょっと不思議

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社
(あすかかわかみにますうすたきひめのみこと・じんじゃ)

祭神:宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)
所:奈良県高市郡明日香村稲渕698
Mapion

 当社の社殿は一見、三間社流造りの本殿に見えるが、『式内社調査報告』等によると実は「遙拝造り」の拝殿だという。現在では鏡が神体として納められているらしいが、本来はこの建物を通して背後の山の尾根を神体として祀る原始的な信仰形態の神社であるという。

  もっとも、そう言われても、正面から見る限りこの拝殿は本殿にしか見えない



飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社々殿
本殿のように見えるが拝殿である
社地のスペースと比較するといささかサイズが大きすぎると感じたが、
後でもともと吉野神宮にあったものが遷されたことを知って納得した
 

 が、社殿の裏に回ると普通の本殿と様子が違うことに気が付く。社殿背後の山は木製の瑞垣で結界してあり、中央部に明神鳥居があるのだが、社殿の背後からは橋のような物がこの鳥居の前まで渡してある

拝殿背後の様子

同上

 この鳥居には普通のそれと違って扉がある。脇鳥居がついていないことを除けば、有名な大神神社の三ツ鳥居に似ている。大神神社も拝殿だけで本殿が無く、神体として背後の三輪山を祀っている神社であることは言うをまたないだろう。明らかに神体として山を祀る信仰形態なのである

 なお、『式内社調査報告』にはこの神体山について「後山は前方に石柵を控え、中央に石造の門がある。」とあった。もしかするとこの木製の瑞垣や鳥居は近年できたもので、それまでは様子が違ったのかもしれない。

 いっぽう、社殿を振り返ると背後に扉があり、ここで初めてこの社殿が本殿ではなく、拝殿であったことが分かる。「遙拝造り」とはこのことを指したものらしい。

 ちなみに京都の上賀茂神社の本殿にもかつては裏面に扉が設けてあり、これは背後にある神山という神体山を拝するためで、祭礼の時は遙拝のためにこの扉を開いたという。つまりこの建物はもともとは本殿ではなく、遙拝殿だったのだ。ただし、上賀茂神社と神山は2kmほど離れているが、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の場合、神体山は拝殿の直背後にある。はたして、このような場合にも「遙拝造り」という言葉が当てはまるかどうかはちょっと引っかかるのだが

社殿背後の扉

神山の樹木

 それはともかく、参考として同じような神体山信仰の例として奈良県桜井市竜谷にある三輪神社の画像も紹介しておく。三輪神社は初瀬渓谷の南側にある支谷の最奥部に鎮座し、大物主櫛甕玉命を祀る。拝殿だけで本殿がなく、背後の山を神体として祀っているのは飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社と同じだ

桜井市竜谷の三輪神社

祭神:大物主櫛甕玉命
所:奈良県桜井市瀧谷471
Mapion

 神体山の前面には木製の瑞垣があり、中央に飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社と同じように鳥居がある。その奥は禁足地となっており、そこに生える樹木は神霊の籠もるヒモロギとされ、枯れ枝や木の葉を拾うことも許されないと言う。原始の相をたたえた杜の迫力では、当社のほうが上かもしれない

三輪神社背後の神山

同上

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(2/2)につづく