神社の世紀

 神社空間のブログ

飛鳥の神がみ:飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(2/2)

2011年01月09日 20時26分59秒 | 飛鳥の神がみ

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(1/2)のつづき

 多くの式内社と同じく、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかかわかみにますうすたきひめのみこと・じんじゃ)も中世期に祭祀が断絶し、その所在が失われた。

 『類聚三代格』に納める貞観 十年(868)の太政官符には、封戸(税収を祭礼や社殿の維持管理の費用に充てるために、神社に寄進された神戸)のない神社の修理費用は、その祖神を祀った神社で封戸のあるものから出す旨の規定があり、例として、「たとへば、飛鳥神の裔、天太玉・臼瀧・賀屋鳴比女神四社、これらの類これなり。」とある。ここにある「臼瀧」は式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社のことなので、当社はすでに平安前期の頃、社殿の修理費用もままならない状態にあったことがわかる。

 いっぽう、現在の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は、明治より以前は「宇佐八幡神社」と呼ばれていた。現在でも当社の社殿内は、中央に祀られる主神の宇須多伎比売命の両側にそれぞれ神功皇后(左)と応神天皇(右)が配祀してあるそうだが、この明治以前の宇佐八幡神社で祀られていたものだろう。

 『高市郡神社誌』によれば、当社には天文二十二年(1553)の湯窯が社蔵されており、そこに「宇佐八幡宮」の銘があったというから、この神社が八幡宮として信仰を受けていた時期は遅くとも中世後期に遡ることになる。では、それ以前の現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社がはたして式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社であったかどうかだが、実はこれは不明というほかない。というのも当社をこの式内社に比定したのは、『大和志』『神社覈録』『特選神名牒』等だが、『日本の神々』の大矢良哲氏も述べているように、何か確実な根拠があってそうされた訳ではないからだ。ただ、飛鳥川の上流域に鎮座し、山を拝する原始的な信仰形態を残しつつ、いかにも古社らしい風致をたたえ、足許を流れる稲淵川の岩盤には社名の由来とおぼしき滝もみられる等の漠然とした状況証拠から言い出されたことで、他に有力な論社もないなかでこれまでとくだんの異議が出されなかったにすぎない。 

  今、言った当社ふきんにある滝について説明しておく。前述のとおり、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は貞観十六年(874)の太政官符には、「臼瀧」と表記されているが、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の石段の登り口から道路を渡り、下を流れる飛鳥川をのぞき込むと、岩盤が臼のような形に抉られてできた滝がある。この場所は「ハチマンダブ」と呼ばれるが、社名になっている祭神の「宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)=臼滝ヒメ」はこの滝を神格化したものではないかと言われる。

ハチマンダブ

同上

同上

臼っぽいです

 かつてかんばつがあると稲淵の集落では、このハチマンダブで火振りという雨乞い神事を行った。また、当社では戦前まで、大和に例の多い雨乞い神事のナモデ踊りも行われていたという。

 こうした雨乞い神事の存在は、皇極帝が祈雨儀式を行った「南淵の河上」とはこの場所のことではなかったか、という疑いを強めさせる。じっさい、『高市郡古跡略考』には「宇佐宮(★飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社のこと)ノ下なる川中ニ少しき淵あり。底ニ駒の足跡あり。皇極請雨の所にや」とハチマンダブのことがみえている。すでに紹介したとおり女帝が祈雨のために行幸したのは式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社とされるため、もし彼女が行幸した場所がハチマンダブであったとすれば、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社がこの式内社であったことは間違いなくなる。またその場合、ハチマンダブは「臼滝ヒメ」の神体ということになろう。

 しかしある時からふと疑問に思いはじめたのだが、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は山を神体として祀る祭祀形態の神社なのに、そのいっぽうでこの滝も神体であったとなると、当社には神体が2つあったことなる。そんなことがありえるだろうか?  そもそも各地の神社の中でも、一つの神社のなかに川辺の祭祀と神体山へのそれが同居しているような事例じたいをあまり聞かない気がする。

 また、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社がある場所は、宮都が次々に営まれた飛鳥地方の中心部からみれば確かに「飛鳥川上」であるものの、その離れ具合はやや半端な感じがする。単なる個人的な主観にすぎないと言われればそれまでだが、皇極女帝が祈雨した場所は当社よりもっと上流の、大字で言えば栢森や畑辺りにあったほうがしっくりくる。ちなみに、当社の鎮座地の大字「稲淵(いなふち)」は皇極天皇が祈雨したのは「南淵の河上」の、「南淵(みなふち)」が音転したもので、確かに当社は稲淵でも上流側のほうに鎮座している。しかし、「南淵の河上」といったらここよりさらに上流を指していても不自然ではない、  ── 上述の疑問も併せ、いつの頃からか私はそんなことを考えるようになった。 

 最近、『飛鳥の祭りと伝承』で次のような記述に出会った。

「飛鳥川上流域には多くの滝や淵が見られる。畑の集落の南を流れる畑谷川とその支流には、有名な男淵と女淵がある。男淵は小字トチガフチにある。上畑の集落から東南の方向で、細谷川の本流ではなく、冬野からの支流が細谷川に合流する少し手前にある。そこには九メートルほどの滝がかかっている。女淵はそこから約一・五キロメートル下流の小字ウスタケ(栢森では小字メブチ)にあって、約五、六メートルの滝がかかっている。この女淵付近が畑と栢森の境の地になっている。ウスタケとは「臼瀧」の意で、稲淵の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社のウスタキと同じだろう。おそらく臼瀧という地名は、滝や淵があって窪地になっている所をいうのであろう。(『飛鳥の祭りと伝承』桜井満・並木安衛編所収の「飛鳥川上流の民俗」瀬尾満、桜楓社p91~92)」

 この筆者は大事な論点を見落としている。さっきも述べたように、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社が同名の式内社であったという確実な根拠はない。あくまでもいくつかの状況証拠から漠然とそう言い出されたに過ぎない。

 いっぽう、女淵のふきんに現在、神社はないが、「ウスタケ」という字が残っている以上、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社はかつてその付近に鎮座していたと考えるべきだろう。つまりこの式内社は、女淵(=臼滝)を神体として祀る祭祀の神社だったが、後世になり廃絶したのだ(平安初期にしてすでに社殿の修理費用もままならないほど衰微していたことはすでに見た通り。)。

 女淵は栢森の集落から入谷へ行く道を上り、途中で細谷川を遡るほうに分岐してから少し入ったところにある。現在では道標や川辺に下りる階段などが整備されていて訪れやすい。現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社から見るとさらに上流域に当たり、直線距離だと東南東に1kmほど離れている。この場所はちょうど畑と栢森の入谷の三大字の境界ふきんに当たるらしく、それで畑から見れば字「ウスタケ」で、栢森から見れば字「メブチ」となるようだ。

 女淵は周囲を岸壁に囲われ薄暗く、私が訪れたときは水が濁っていたこともあって、覗き込んでも底が見えなかった。案内の看板には、かつて6mほどの青竹を突っ込んだが底に届かなかったという伝承が紹介されている。平面形はだいたい円いので滝壺が臼に似ている。本物の「臼滝」はハチマンダブのほうではなくこちらのほうであり、女淵こそ式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の神体だったのだ。

女淵
Mapion

同上 

臼っぽいです 

 ハチマンダブと同じく、この女淵も近世まで雨乞いの霊験が著しい場所とされ、ひでりがあると、下畑と上畑の集落はそれぞれ女淵と男淵で雨乞いの神事を行い、栢森の集落も女淵には雨乞いをしたという。下の看板にもある通り、皇極女帝が祈雨神事を行ったのが女淵だったという説もあるようだ。  



看板

 伝承も豊富で、女淵とその上流にある男渕にはそれぞれ女と男の龍神が棲んでおり、その底は竜宮につながっているといわれていた。また、『大和の伝説』には、「畑の某が男淵にいるウナギを龍神の使いとは知らず、毒を流して多く取り、腹を割いて料理し、岡村に売りに出たまではよいが、その祟りで、その父がウナギ料理の出刃包丁で割腹し、血染めになって死んでいた。これから、男淵に手をつける者は、誰もいなくなった。」という怪談じみた話が載っている。男淵と女淵はかつて強烈なタブーで守られていたことが分かるだろう。

 いずれにしても、女淵に「ウスタケ」という字名が残っている以上、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の所在はまずこの場所に求められなければならないように思われる