神社の世紀

 神社空間のブログ

東北復興支援ボランティア・ツアー

2012年09月23日 23時06分40秒 | その他

 先日、東北復興支援ボランティア・ツアーに参加してきた。もちろん私はこうしたボランティアに参加するのは始めて。行程は二泊三日で、初日の夜に新宿を発って東北自動車道を北上するバスの中で車中泊、翌日の朝に最初の作業現場がある南三陸町の志津川に着いた。


作業現場

 志津川は志津川湾に面した漁港であったが、3月11日の地震の直後は津波に襲われ、港ふきんはもちろん、内奥部にひろがる集落までが壊滅的な打撃を受けた。現在では大きなガレキの撤去は終わっているが、私たちは港ふきんにある家屋の布基礎しゅうへんで人力で運べるガレキの撤去・集積にあたった。

ひん曲がった鉄筋が津波の猛威を伝える

 天気予報によるとこの日の志津川の最高気温は34.7度。しかし強烈な照り返しの所為で、実際の作業現場は40度近くになったと思う。この暑さと慣れない肉体労働のおかげで、昼食でバスの中に戻った時は皆グッタリして口をきく元気のある者はほとんどいなかった。熱射病の症状がでた者も2~3人いたようだ。私は二日分のつもりで用意していた5リットル近い飲料水を、この日一日で完全に飲み尽くした。

中央奥に見えるのが南三陸町の旧・防災対策庁舎の鉄骨
津波に襲われる直前まで防災無線で避難を呼びかけていた遠藤未希氏をはじめ、
多くの南三陸町職員がここで殉職された
心からご冥福をお祈ります

 私たちが作業にあたった場所にかつて建っていたのは人家だったらしく、地面を掘っていると子どものおもちゃや五月人形の鎧兜、ラジオ体操の皆勤賞のバッジなどがときどき見つかる。これらの持ち主たちは無事だったのか。 

 午後4頃になって私たちが撤収する頃、潮が満ちてきて作業現場の大部分は水没してしまった。地震による地盤沈下の所為である。これらの土地はこのままでは使うあてがないだろう。地元の方々のこれからの生活再建がいかに多難であることか。

 その夜は松島にある温泉旅館に泊まって、三日目は七ヶ浜町にある畑で、地中から石やアスファルトの破片などを除去する作業にあたる。しかし畑とは言っても一度は津波で潮をかぶっているので、表面はカチカチに固まっている。それを三本鍬やツルハシを使って掘り起こし、中から石などを取りだしてゆくのである。幸いこの日は前日ほど気温が上がらなかったが、作業じたいはこちらの方がキツい。ツアー参加者も鍬など生まれて初めて手にするような人がほとんどで、慣れない作業に当惑している。ふだんは事務仕事しかしていない私も、手にできたマメがつぶれて難渋した


私たちが作業した畑

 この畑はかつて何を作っていたかは聞かなかったが、今後、耕作を再開しても当面の何作かは綿しか作れないらしい。綿には地中の塩分を抜く作用があるのでそうなるという。気の長い話だ。

出てきた石・アスファルト等を分別して袋詰めしたもの

 それにしても、七ヶ浜町でのボランティア作業が農地でのそれだったのは、宅地のほうの復興がかなり進んで一段落ついたためだと思う。何とか農地まで手が回るようになったということだろう。じっさい、地元の方々の表情も前日に出会った方々より心なしか明るい。また首都圏から近いせいか、ボランティアに参加する人たちの数もずっと多かった。 

 この七ヶ浜町は東北の神社巡りで私が最初に訪れた町の一つである。特にこの町に鎮座する花節神社は思い出深い神社だ。そういうこともあってこれにはややほっとした。しかし南三陸町のように宮城県でも北のほうにある町や、さらにその北にある岩手県の三陸沿岸の町々などはまだここほど復興が進んでいないのではないか。かつて私が参詣した沿岸部に鎮座するいくつかの神社の運命も気になる。いずれにせよ東北地方の復興はまだ端緒についたばかりだ

一緒にボランティアに参加した人たち、お疲れ様でした

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿