縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

ヴィヴィアン・リー、その光と影

2009-01-22 00:35:01 | 芸術をひとかけら
 本箱の中、あまり目立たないが、ヴィヴィアン・リーの写真が飾ってある。買ったのは、かれこれ25年近く前、国立の大学通りの露店である。売っていたのは怪しげなお兄さんだったが、つい買ってしまった。『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リーである。あのスカーレットの目がいきいきと輝いていた。映画のシーンが、思い出がよみがえる。
 それ以来、この写真はなぜか捨てられず、ずっと僕の手元にある。

 以前『哀愁』のことを書いたとき(2006/4/7)、いつかヴィヴィアン・リーのことを書きたいと僕は言った。が、なかなか書けなかった。思い入れの強いテーマほど、変なものは書けないと筆が重くなってしまうのである。
 ヘッセは200回記念で書いた。サリンジャーについてはまだ書けていない。そして誕生日を目前に控えた今日、その勢いで漸くヴィヴィアン・リーのことを書こうとしている。

 ヴィヴィアンは2度アカデミー主演女優賞を取っている。一つは勿論『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ、そしてもう一つは『欲望という名の電車』のブランチである。
 ヴィヴィアン・リーのファンであれば、皆それぞれスカーレットへの思いを持っていることだろう。「スカーレットとは・・・」と話し始めると止まらない人も多いに違いない。というわけで、今日は『欲望という名の電車』を軸に書くことにした。

 『欲望という名の電車』はテネシー・ウィリアムズ原作、エリア・カザン監督、1951年の作品である。ヴィヴィアンは38歳。相手役は若き日のマーロン・ブランド。あのゴッドファーザーも当時はまだ20代後半の若者であった。
 さて、物語は、没落した名家の娘ブランチが、夢を、幸せを追いながらも叶わず、自らの欲望にまかせ放蕩な生活を送り、ついには発狂する、というものである。
 これだけでブランチとスカーレットはまったく違うことがわかる。強い意志と生命力を持つスカーレットに対し、過去と現在、あるいは夢と現実の間の危ういバランスの中で生きるブランチ。ヴィヴィアンは、この両方の役をとても気に入っていたという。

 が、どちらにより共感していたかというと、それはブランチだと思う。
 ヴィヴィアンはスカーレットを完璧に演じられることを知っていた。自分以上にスカーレットにふさわしい人間などいないことが解っていた。スカーレット同様、自分勝手なまでの、恐るべき自信である。
 一方ブランチは、ヴィヴィアンにとって演じる対象であるとともに、自らの姿と重なって見えたのだと思う。実はヴィヴィアンは躁うつ病に苦しんでいた。躁状態のときの性に対する欲望、妄想を考えれば、ブランチの過去の行動も理解できたであろう。
 そして不安。ブランチの心の均衡はマーロン・ブランド演じるスタンレーにより崩されてしまった。これは他人事ではない、いつか自分も・・・・、心のどこかでそんな恐怖を感じていたのかもしれない。
 ヴィヴィアンはどんな気持ちでブランチを演じていたのだろう。

 1967年、彼女は53歳でこの世を去った。早すぎる死。

 あまりにスカーレットの印象が強烈なため、ヴィヴィアンも、華やかで、強い女性のように見えた。実際そういう面もあったのだろう。が、その裏には不安や哀しみに怯える、我々の知らないヴィヴィアンがいたのであった。
 そんな二面性がヴィヴィアンの演技に深みを与えていたのかもしれない。だからこそヴィヴィアンはスカーレットとブランチを見事に演じられたのかもしれない。我々にとっては喜ぶべきことであるが、そんな人生を生きた彼女は果たして幸せだったのであろうか。
 そして今、彼女は心安らかに眠れているだろうか。


シンガポールで考えたこと(2) ~ リー・クアンユーの功罪

2009-01-18 23:19:57 | 海外で今
 シンガポールで初めて地下鉄に乗ったとき、たまたまチケットのタッチが悪かったのか、改札機が閉まってしまった。やり直すと今度はすんなり行ったが、ふと上を見ると、モニターに僕の姿が。おそらく不正乗車をチッェクするためのモニターであろう。さすがシンガポールだな、と思った。
 シンガポールは規制が厳しい。違反すると即罰金である。例えば、ゴミのポイ捨ては勿論、喫煙場所以外での喫煙や公共の場所で唾を吐くことも罰金である。社会の秩序を保つためと言えばそれまでだが、同じ華人社会とはいえ、中国とはえらい違いである。更に言えば、シンガポールは汚職も少ない。これまた中国や多くの発展途上国とは大きな違いだ。いや、日本も見習うべきであろう。
 シンガポールの人のモラルが高いのか罰金あるいは刑罰が怖いのかはさておき、シンガポールが大変きれいな街であること、治安がよいこと等は、初代首相リー・クアンユーの功績といえる。

 ところで、首相を退任した後も上級相として内閣に留まり実権を握った、自らの息子を首相にした、と聞くと、皆さんはどこの国を思い浮かべるだろう。北朝鮮、ロシアのプーチンあるいはブッシュ親子といったところだろうか。実はこれはリー・クアンユーの話である。
 クアンユーは1959年にシンガポールが自治権を獲得した際に初代の首相となり、その後1990年まで首相を務めた。ゴー・チョクトンが次の首相となったが、クアンユーは上級相として内閣に留まり、しかも彼の長男リー・シェンロンを副首相にした。そして2004年8月にシェンロンが第3代の首相になったのである。更に、長男(即ち現首相)の妻はシンガポールの政府系投資会社テマセクの社長を務め、又、クアンユーの次男はシンガポール・テレコムのCEOとなっている。いやはや、すさまじい同族支配というか、さしずめ“リー王朝”といった様相である。
 おまけに、このテマセクというのがこれまた凄い会社である。シンガポール航空やDBS銀行といった大企業、国内の電力・ガス等のインフラ関連、更にはテレビ放送のメディアコープや新聞のシンガポール・プレスといったマスコミまでも支配する会社なのである。これではシンガポールで“リー王朝”に逆らっては生きていけないであろう。
 
 シンガポールはいわゆる“開発独裁”の成功例といえる。経済発展のためには政治的安定が必要であり、そのためには独裁も正当化される、というのが開発独裁の考え方である。シンガポールは人民行動党の一党独裁であり、クアンユーは言論統制や更には選挙干渉まで行い、野党の動きを封じ込めてきたのである。が、一方で独立後の不安定な状況の中からシンガポールをここまで成長させたのは、彼の手腕、指導力によるところが大きい。シンガポールは一人当たりGDPで日本をも追い越すまでに発展、成長したのである。
 クアンユーの評価は難しいが、シンガポールの人たちは、言論その他多少不自由な生活であっても経済的繁栄を謳歌する方が良いと考えているのではないだろうか。華僑にとっては国よりも血縁が重要、国がどうあろうと一族が繁栄すれば良い、といった話を聞くが、シンガポールは華人社会、おそらく皆それに近い考えなのだと思う。

 翻って日本の話。今の政治のていたらくを見るに、クアンユーのような人間が出てこないのかな、という気がしないでもない。独裁というと聞こえは悪いが、哲人政治や賢人政治といえば憧れる。が、しかし、ヒトラーみたいのが出てこないとも限らないし、であれば、理念や理想が感じられず、自らの選挙のことしか考えず、低次元の議論ばかりしている今の政治で満足した方がまだましかもしれない。
 ヒトラーは極めて民主的なワイマール憲法の下で登場したのであり、閉塞感のある社会の中で皆から大きな支持を集め、独裁体制を築いて行ったのである。そのことを忘れてはいけない。

シンガポールで考えたこと(1) ~ 「イメージ・オブ・シンガポール」にて

2009-01-17 15:20:48 | 海外で今
 セントーサ島に行った際、「イメージ・オブ・シンガポール」というアトラクションに入った。シンガポールの歴史、文化、民族の紹介をする施設である。二人ともシンガポールのことはよく知らないので、ちょっと勉強を、と思ったのである。
 シンガポールの場合、そもそも歴史といっても短いし、“シンガポール民族”なるものはいない。民族構成としては華人系が3/4と大部分を占め、あとはマレー系、インド系と続く。よって文化の紹介といっても、シンガポール固有の文化ではなく、各民族の文化である。シンガポールでは各民族や文化が完全に融合、同化はしておらず、今でも混在、併存した状態にある。その意味で、シンガポールは人種のるつぼ、メルティング・ポットというより、サラダ・ボウルと言われる。
 だからこそ、シンガポール国民としてのアイデンティティ確立のための一助として、シンガポールは各民族が協力して作り上げてきたことを訴える、こうした施設が作られたのであろう。

 が、この「イメージ・オブ・シンガポール」、日本人にはちょいと居心地が悪い。

 話はそれるが、シンガポールはイギリスから独立したのではなく、マレーシアから独立したのである。1959年にイギリスから自治権を獲得したシンガポールは、1963年マレーシア連邦に加入した。しかし、マレー人を優遇するマレーシア政府と対立し、1965年、マレーシアから分離、独立したのであった。当時よりシンガポールの政治・経済の実権は華人が握っている。そんなこんなで、おそらくマレー人は華人のことをよく思っていないだろう。

 こうした中、国を一つにするには共通の敵を作るのが良い。それが日本なのである。
 ここの展示によると、シンガポールの歴史上最大の試練は日本との戦い、だそうである。僕には、第二次世界大戦で日本軍がシンガポールやマレーシアでイギリス軍と戦ったとの認識はある。が、シンガポール軍と戦ったとの意識はなかった。もっとも直接の戦闘というよりは、日本占領下の統治の方が問題は大きかったようだ。当時、日本軍は中国と戦っており、日本軍にしてみればシンガポールの華人は敵の仲間、シンガポールの華人にしてみれば日本軍は仲間を殺す悪者、という構図だったのである。日本軍による華人の弾圧、華人のゲリラ的反抗、ともに激しかったようだ。

 シンガポールの試練・日本との戦い として、日本軍の中国での戦闘の映像が流されていた(注:シンガポールではなく、南京など中国での映像である。あの、ここはイメージ・オブ・”シンガポール”のはずでは??)。炸裂する爆弾、砲撃で破壊される建物、そして逃げ惑う人々。最悪なのは、大きな穴を掘って多数の死体を埋めるシーンに続き、日本兵が皆万歳をして喜ぶシーンが続くところ。さすがにこれは編集のし過ぎだろう。悪意すら感じてしまう。ここで日本語で話そうものなら、「おまえは日本人か」と言って、近くの人に殴られそうな雰囲気だった。

 が、皆さまご安心を。僕は誰にも殴られなかったし、シンガポール滞在中、取り立てて危険な目に合うことはなかった。シンガポールの対日感情は悪くはないし、ここは極めて安全な国だから。
 次回はシンガポールの政治について考えてみたい。

シンガポールの昼と夜??

2009-01-13 21:29:03 | もう一度行きたい
 先日に続きシンガポールの話。(注:昼と夜と言っても動物園の話です、悪しからず。)

 シンガポールの観光名所といえば、マーライオン、ラッフルズ・ホテル、それに動物園とナイト・サファリだろうか。又、最近はセントーサ島の開発も進んでおり、来年にはユニバーサル・スタジオや新しい水族館もオープンするとのことである。
 が、正直言って、あまり見るところがないな、というのが僕の率直な印象である。ショッピングとグルメの街といった感じ(まあ、それだけあれば十分という人が多いかもしれないが)。

 これは香港も同じであるが、ともに植民地として始まり、まだ歴史が浅く、独自の歴史・文化遺産等が少ないからである。シンガポールは、1819年にイギリス人ラッフルズが上陸するまで、漁師が僅かに暮らす寒村に過ぎなかった。その後貿易都市として、イギリスの東南アジアにおける一大拠点として発展を遂げたが、シンガポールが正式に独立したのは第二次世界大戦後、1965年のことである。まだ独立後50年も経っていない若い国なのである。

 僕のシンガポール観光で一番のお勧めは動物園。なんといっても立地が最高だ。シンガポールはほぼ赤道直下の熱帯。ホッキョクグマなど一部を除けば(心なしかホッキョクグマは痩せて見えた)、動物たちにとってここは天国だろう。餌はもらえるし、日本や欧米の動物園と違って寒さ知らずなのだから。
 おまけに動物園は熱帯雨林の森の中にある。近代的なビルが立ち並ぶシンガポールの都心からは想像できない、うっそうとした森である。動物園はこの熱帯雨林の森をうまく利用して作られており、一切檻はない。ここでは動物たちを自然な形で見ることができる。特筆すべきはオランウータンの展示。旭山動物園と同じオランウータンの渡りを、人工の塔ではなく木々の中で見ることができるのである。ほかにも ワオキツネザルが放し飼いにされていて目の前で見ることができたし、オオコウモリが羽を折り畳み傘のように畳んだり広げたりする姿もおもしろかった。

 ナイト・サファリは動物園の隣にある。日没から午前零時まで開園する、夜行性動物の生態を見学するための動物園である。40ヘクタールの敷地の中に、130種、約1,000頭の動物が飼われている。
 我々はまずナイトショーを見学し、次にトラムで園内を一周した。トラムではガイドさんが動物の特徴や動物が今いる場所を教えてくれる。園内は暗いので、初めての人がどこに動物がいるかを見つけるのは容易ではない。日本語のガイドさんもいるので、相当英語に自信のある方以外は日本語トラムに乗った方が良い。
 トラムは1周45分程度。動物園を結構歩いたし、夜も遅いし、トラムが終わったら帰ろうかと思ったが、妻が少しでいいから園内を歩きたいと言う。そう、園内はトラムで回るほか、歩いて回ることもできるのである。徒歩用のコースは三つあり、全部回ると1時間くらいの行程だ。
 少しだけと思って歩き始めたが、結局、全コースを歩いてしまった。ゆっくり動物を見ることができるし、熱帯雨林の森の中を歩くだけで心地よかった。森の中は思いのほか涼しい。熱帯雨林ゆえ、当然、真夏の日本より暑いに違いないと思っていたが、そんなことはない。夕方に降った雨のおかげか、随分歩いたのに、とてもさわやかだった。

 月明かり、水の流れる音、木々の香り、そして動物たちの気配を感じる。そう、五感を研ぎ澄ませろ。野生に戻れ・・・・。
(が、しかし、気分だけ太古の昔、野生に戻ったとしても、ゾウやライオンには逆立ちしても敵わないので、変なところに迷い込まないよう、くれぐれも注意しよう。)

“まぐろ茶漬け”絶滅の危機

2009-01-06 22:48:56 | おいしいもの食べ隊
 今日、ネットでお昼を食べる店を探していたら、偶然「銀座なかね休業中」との見出しが目に入った。改装でもしているのかなと思いサイトを開けてみたところ、「11月30日を以って銀座での32年間に幕」、「リニューアルオープンの予定でございましたが諸般の事情で再開店は無期延期」とあった。

 えっ、ということは閉店か ・・・・ 。

 「なかね」というのは以前「今日はまぐろ~♪」で紹介した“まぐろ茶漬け”の店である。最近は職場が遠くなったせいで行かれなくなってしまったが、そのうち是非行きたいとずっと思っていた。あの“まぐろ茶漬け”をもう食べることはできないと思うと残念でならない。
 「諸般の事情」が何かはわからないが、金銭的な問題か、ご主人の健康面の問題か、どちらかであろう。いずれにしろ僕にはどうすることもできない。「なかね」のように、個人で良心的な商売をしている店がなくなるのは本当に悲しい。寂しい限りだ。そのうち飲食店といえばチェーン店ばかりになってしまうのではないかと思うと、そら恐ろしくなってしまう。

 諸行無常ではないが、世の中変化しているのだなと実感した。飲食業界は元々新陳代謝の激しい業界であるが、特に不況の今は企業の接待や個人の外食が抑えられており、まさに“飲食・冬の時代”である。こんな時こそ、変わらずにずっと残っていて欲しいと思う店には、多少無理してでも通わないといけないのだと思った。

 この“おいしいもの食べ隊”を書き始めて3年近くになる。その間採り上げた店の消息というか、その後をわかる範囲で紹介したい。変わらない店もあれば、人気店となった店もあれば、逆に、残念ながら閉店した店もある。

 まずは手近なところから。築地場内の和食「かとう」とパスタの「トミーナ」は今も変わらない。「かとう」のおばあちゃんのダミ声も健在だ。築地の鰻「宮川本店」は、隣りの「宮川食鳥鶏卵」ともども、老舗の風格である。

 が、八丁堀のフレンチ「ヴィエイユ・モンターニュ」は閉店した。残念ではあるが予想通りといえば予想通りの結果といえる。フレンチには難しい立地だった。

 森下の居酒屋「山利喜」は現在改築中で11月に開店の予定。「山利喜」に限って無期延期はないだろう。現在は近くの新館ともりもり店(仮店舗)で営業している。

 一方、ミシュランで星を獲得した店もある。和食の「未能一」、てんぷらの「深町」と「よこ田」は2年続けて一つ星を獲得。そばの「ほそ川」も2009年版で一つ星の列に加わった。おそらく どの店も混んでいるだろう。そうそう「未能一」は昼の営業をやめた。もう我々庶民には手の出ない店になってしまった。悲しい。

 銀座のバー「FAL」の酒は相変わらず旨い。廣瀬さんは元気に自転車通勤。風邪を引かないと良いが。
 銀座といえばワインの「ラ・クロシェット・ドール」は閉店した。少し休み、落ち着いたら自宅(大磯?)で小さなレストランを始めると言っていたが、その後どうしたのだろう。

 最後は少し離れて高円寺。居酒屋「小兵衛」の料理は変わらない。いつ行っても旨い。この店で変わったものといえば、お嬢さんが大きくなったことだろう。子供の成長は早い。
 イタリアン「イル・バンコーネ」も変わらない。マスターの手際の良さは天下一品だ。

 こうした素敵な店がなくならないよう、僕は心ならずも(?)大いに食べて飲むしかない。お店がつぶれないよう売上に貢献せざるを得ないのである。これぞまさに「情けは人の為ならず」。(なんか少し違う気が・・・・。)

シンガポールでB級グルメ!

2009-01-05 19:14:01 | おいしいもの食べ隊
 年末年始、シンガポールに行って来た。ピーク料金で高く付くものの、共働きで互いの休みが合わない中、必要経費と割り切って行って来た。
 旅費が高い分、せめて食費だけでも切り詰めねばと、食事はB級グルメがほとんど。が、これが旨い。おまけに安い。今日はその中のお勧めの料理を紹介したい。

 まずはシンガポール・グルメの代表“チキンライス”。(因みに子供の頃食べたケチャップライスとは違う、念のため。)
 餃子を食べにチャイナタウンに行ったのだが、たまたま お目当ての店は休みだった。仕方がない、腹が減ってはなんとやらで、我々は近くのホーカーズ(日本のフードコートをもっと雑然とした感じの食堂街というか屋台街のイメージ)に入った。そこで見つけたのが“天天海南鶏飯”である。ちょうど昼どき、ホーカーズは賑わっていたが、その中でも一際長い行列の店、それも多くのジモティーの並んでいたのが“天天海南鶏飯”だったのである。観光客だけならいざ知らず、地元の人に大人気、これは旨いに違いない。この予想に狂いはなかった。
 チキンライスとは、茹でた鶏(チキン)と その出し汁で炊いたご飯(ライス)のセットである。この店では、基本は鶏に生姜のソース、あとはお好みでチリソースをつけるのみ。絶妙の茹で加減で軟らかい鶏肉。生姜とパクチーのハーモニーが堪らない。
 チキンライスはシンガポールのオリジナルではなく、元々は広東料理、それを海南島出身者が伝えたものらしい。あっさりした味でいくらでもお腹に入りそうであり、それが暑い国で受けたのではないだろうか。

 チキンライスのバリエーションといえるが、“三水姜茸鶏”もおいしかった。食べたのはラッフルズ・ホテルの向かいにある“三盅兩件(スープ・レストラン)”。薬膳スープに惹かれて入ったのだが、ついでにお店お勧めの“三水姜茸鶏”を頼んだのである。メニューに写真はなく、正直、何かよくわからずに頼んだ。
 で、何が出てきたかというと、茹でた鶏肉、きゅうり、おろし生姜とごま油のソースとレタス。つまり、鶏肉にソースをつけ、きゅうりと一緒にレタスで巻いて食べる料理なのである。我々は別途頼んだ白飯も一緒に巻いて食べた。これが旨い。チキンライスとはまた一味違う旨さである。店内を見ると、ほとんどの客がこの料理を食べている。これも隠れた地元で人気の一品なのだろう。
 そうそう、肝心の薬膳スープも、高麗ニンジン・きのこ・アワビなどの入ったスープを食べたが、最初は苦く感じたものの、慣れたらまずまずの味だった。

 スープといえば、“バクテー(肉骨茶)”はお勧めだ。“天天海南鶏飯”と同じホーカーズ(マックスウェル・フードセンター)にある店で食べた。申し訳ない、店名は忘れてしまったが、看板に肉骨茶とあり、確かこのホーカーズでは唯一の肉骨茶メインの店だったと思う。
 肉骨茶と名前はグロテスクだし、この店の肉骨茶のスープは真っ黒だった。それを見た途端、まずい今回は はずしたかなと思ったが、後の祭り。諦めて食べるしかない。が、どうしてどうして、これがいける。見た目とは違い脂っぽくも くどくもなく、どちらかというとあっさりめ。黒茶というか、漢方のハーブのスープで骨付きの豚肉を煮込んだものである。これも病みつきになりそうな味だった。

 シンガポールは共働きが多く、家で食事を作ることが少ないという。そのためホーカーズが生まれ、安くておいしいB級グルメの都になったのであろう。まだまだ奥が深く、一度行っただけではシンガポールの食文化は語れない。このB級グルメの続きは、もっと修行を重ねてから、つまりまたシンガポールに行き もっと食べてから書くことにしたい。(って、いつになることやら・・・・)